九
「ヴィルトール中将!」
イリヤは寝台の傍に立ち、横たわるヴィルトールの顔を覗き込んだ。
「ル、ルシファー様に、お知らせして参ります」
早口にそう言い、ヒースウッドはもう一度ヴィルトールが目を覚ましている事を確認し、扉へ向かった。イリヤは咄嗟にヒースウッドを睨み、だが引き止めようとした手を、下ろした。
ヴィルトールと二人で話せる機会はおそらく今しかない。イリヤは声に力を込めた。
「ヴィルトール中将。……俺が、判りますか」
ヴィルトールは何度か重そうな瞬きを繰り返し、斜め上にあるイリヤの顔を見上げた。まだ意識がはっきりしていないようだ。
それでも、喉が動いた。
「――イリヤ」
イリヤはぐっと唇を引き結んだ。
イリヤ、と、そう呼ばれる事で自分を保つ事ができる。
ミオスティリヤではなく、ただ一個の人間として。
心の奥の深い所から、ゆっくりと意志が湧いてくる。
「イリヤ……君は無事か――なら、上将は、間に合ったのか」
咄嗟に奥歯を噛み締め、首を振った。あの時、ルシファーの手のひらの中で消えていった光が脳裏に甦る。押えた手の下でとめどなく流れていたヴィルトールの血の温度と重なり、身体が震えた。
「――違うんです。ルシファーは、貴方の持っていた術を壊してしまった。ここは、ボードヴィルのヒースウッド伯爵邸です」
ヴィルトールは眉をしかめた。
「そうか――」
「中将、俺はどうにかして、貴方を王都へお戻しします。必ず」
まだヴィルトールには状況を掴みきれないかもしれないが、ルシファーが来る前に、できる限り言葉にしなくては。
「だから貴方は、俺がこれから進む道を、閉ざして欲しい――できるだけ早く」
「ミオスティリヤ殿下。部下にそのような言葉使いは、他の者に示しがつかないわ」
ぎくりと、イリヤは身を固めた。
寝台の足元にルシファーが腰掛けている。
「――」
「きちんと節度を保った対応をして頂かなくては」
「彼は、俺の部下じゃない」
「では、いらない――?」
その言葉が何を意味するのかに気付き、イリヤはルシファーを睨み付けた。
ルシファーがどことなく、苛立っているように感じられる。何に対してか、それを考えながら、喉から声を押し出した。
「……ふざけるな」
「あら、だって貴方の部下でないのなら、貴方の側には置けないわ――その為にヴィルトールを助けたのだもの。ミオスティリヤ殿下、良く考えて。貴方が今、どれだけのものを背負っているのか」
ルシファーの言葉はヴィルトールに聞かせる為のものでもある。イリヤは苛立ち唇を噛み締めた。
「本当に、あんたは……」
ヴィルトールの手がイリヤの腕を抑える。
「ミオスティリヤ殿下」
「――」
ヴィルトールの灰色の瞳が、イリヤに向けられる。イリヤはそれをじっと見た。ヴィルトールは肘をついて支え、寝台の上に身体を起こした。
「ヴィルトール中将、まだ」
止めようとしたイリヤの手を、ヴィルトールはやんわりと断った。
「貴方の置かれている状況は、理解しています。貴方の望みとは違うかもしれませんが――私に今できる事があるとすれば、当然それは貴方の身の警護でしょう」
「中将」
「西方公」
「元、よ。ルシファーでいいわ」
ルシファーは口元に笑みを刻み、ヴィルトールと向き合った。寝台に手をつき上体を支えながら、ヴィルトールもルシファーに向かい合う。
「私がここですべき事は、今言った通り、近衛師団として王族をお護りする事――貴方の目的と合致するだろう」
「当面はね」
「では私は、ミオスティリヤ殿下の御意志に従う」
束の間ヴィルトールを見つめ、ルシファーはくすりと笑った。ヴィルトールがイリヤの意志にと言った意味を、ルシファーは理解しているはずだが、頷いた。
「私はそれで充分――まずはこの後、殿下は閲兵式に臨まれる。貴方の任務はその警護よ。近衛師団として、ミオスティリヤ殿下の正統性を補ってもらうわ」
無言で返るヴィルトールの視線を捉え、それからルシファーは扉へ顔を向けた。廊下を走る、やや慌てた足音が聞こえる。
「ヒースウッドと仲良くやって。生真面目過ぎるから」
扉が二度、叩かれて開き、ヒースウッドがその場に膝をついた。
「失礼致します、ミオスティリヤ殿下! ルシファー様、やはりもうこちらにおいででしたか」
「わざわざ報せに行ってくれたの。有難う」
「とんでもございません、お役に立てず申し訳ありません」
「ヴィルトール中将とは話はできたわ。余り身体に障ってはいけないから長居はしないけれど、今日の閲兵式には同席してもらうつもり」
ちらりとヒースウッドは寝台に身を起こしているヴィルトールを見た。
「しかし、まだ、身体が」
「もし立ち上がるのが難しいなら、補助具を用意してあげて。ミオスティリヤ殿下をお支えする者が、今は一人でも多く必要なの」
「畏まりました」
「私はもう少ししたらボードヴィルへ戻るわ。ヒースウッド、十一刻半を過ぎたら、殿下をボードヴィルへお連れして。問題が起きたら、私の名を呼べばすぐに来る」
ヒースウッドが頭を低く垂れ、その前で、ルシファーはふわりと裾を揺らし、空気に溶けるように消えた。
ヒースウッドはルシファーの消えた空間を見つめた後、イリヤへ向き直った。
「殿下、先ほどは慌ただしく退出し、大変ご無礼いたしました。ヴィルトール中将が無事意識を戻した事、喜ばしく存じます。この間殿下のご心中いかばかりかと、僭越ながら」
「いいよ、いちいち」
イリヤは苛立ちを抑え、ヒースウッドの言葉を遮った。それから、やや視線を逸らす。
「別に無礼でも無い。貴方が心配してたのも判ってる」
「有り難き御言葉――!」
ヒースウッドは肩を震わせた。武骨な顔の中の、両目が赤みを帯びている。
「ヴィルトール中将にご挨拶をさせていただいても、よろしゅうございますか」
「――いいよ」
「恐れ入ります!」
深々と頭を下げ、ヒースウッドは膝をついたままの姿勢でヴィルトールへと身体を向けた。
「ヴィルトール中将、初めてお目にかかります。ボードヴィルを預かる正規西方軍第七大隊の、私は中軍中将、ヒースウッドと申します」
ヴィルトールを見据える眼差しには、敬意がある。王と王家の守護兵団たる近衛師団への敬意だ。
「この度は私ごときが、ミオスティリヤ殿下をお支えする大任を賜りましたが、何分若輩者の上、王都の礼儀なども知らず、殿下にご不便をおかけしてばかりおりました――。王家守護の近衛師団中将がおいでと思うと、心強い限りです」
早口なのは緊張しているからだと、その様子から判る。だから余計イリヤには、ヒースウッドが苛立たしく感じられた。
(どうしてもっと――)
ずっと、この男はそうだ。
それがあるべき姿だと思い込み、信じて疑わない。
「殿下がご安心なさったのが、お顔の色からも良く判ります」
「――」
ルシファーに対しても、自分に対しても、この男は盲目的だ。
「やはり、命を賭してまで御身を護られたヴィルトール中将の存在は、殿下にも」
「ちょっと待ってください、ヒースウッド中将」
半ばあっけに取られていたヴィルトールは、熱を帯びるヒースウッドの言葉を、ようやく遮った。
「私も目が覚めたばかりで、まだ余り状況を把握できていない。今殿下が置かれている状況について、貴方からもご説明いただけませんか」
「これは、失礼しました!」
ヒースウッドは一人熱くなっていた事に気付き、気恥ずかしそうに顔を伏せた。
「まずご報告をすべきところを、つい安堵が先に立ち――お恥ずかしい」
自分の欠点で、よく兄に指摘されるのだと恥じ入りながら、ヒースウッドはルシファーの真意と彼等の意志を説明した。
ヴィルトールはヒースウッドの説明に黙ったまま耳を傾けている。イリヤはヒースウッドを食い入るように見つめていて気が付かなかったが、ヴィルトールは時折、視線を動かしてイリヤの表情を確認した。
全て聞き終えると、ヴィルトールはヒースウッドの眼を見ながら、静かに口を開いた。
「――なるほど、事の経緯やあなた方の意図は良く判りました」
「そう仰っていただけ、やや心が軽くなったように思います」
ヒースウッドが安堵に面を染め、破顔する。その様子は、彼が心から、ヴィルトールの理解を喜んでいる様子が窺えた。
イリヤは再び、先ほどの感覚を覚えた。
ヒースウッドが信じているものは、ルシファーから示されただけのものだ。
それをただ信じて疑わない。
(そんなのは、考える事を放棄してるのと同じだ)
ルシファーを恐れて従っている者より質が悪い。
だからこの男には、何を訴えても無駄なのだろうと、そう思えた。
そして、それ以上に、ただ流されているだけの自分に苛立っていた――今までは。
「私は、殿下が兵達に謁見する際、お側に控えればいいのですね」
「ぜひ――お力添え頂きたい。本来は、」
ヴィルトールは視線をやや上に投げ、ゆっくりと、息を吐いた。それが身体への負担からだと思い当り、イリヤは不安を覚えた。
「ヴィルトール中将、もう休んだ方がいい」
ヴィルトールの顔色は良くはなく、そしてイリヤはもう少し、ヴィルトールと話す時間が欲しかった。
「そうでした、申し訳ない――」
ヒースウッドも気付いてヴィルトールへと非礼を詫び、イリヤへ向き直り、深々と頭を下げた。
立ち去りかけたヒースウッドを、ヴィルトールが呼び止める。
「ヒースウッド中将」
立ち止まり、その場で振り返ったヒースウッドを、ヴィルトールは真っ直ぐ見据えた。
「貴方は、今ミオスティリヤ殿下が置かれたお立場を、どう考えられますか」
ヒースウッドは無骨な面を引き締め、踵を鳴らすように姿勢を正した。
「困難なお立場で在られながら、国の為に御身を投じられる殿下のお心を、私ごときが推察申し上げるものではございませんが――、一身を賭して、お支えすべきと、微力ながらそう決意しております」
ヴィルトールの瞳が厳しくなった事に気付き、ヒースウッドは自分が何か間違えただろうかと、目をしばたたかせた。ヴィルトールが質問を続ける。
「何があっても、どのような状況でも、殿下の御身を守れると言えますか」
「ヴィルトール中将、俺は」
「当然です」
ヒースウッドは膝をついて右腕を胸に当て、最敬礼を見せた。「我々正規軍もまた、王家と国の為の兵なのですから」
しばらく、ヴィルトールは黙っていたが、ややあって区切るように息を吐いた。
「お引き止めして申し訳ない」
ヒースウッドはヴィルトールの顔を一度見つめ、再び頭を下げた。
ヒースウッドが部屋を出ていき、扉が閉まると同時に、ヴィルトールは上体をよろめかせ、寝台の上に手をついた。
「中将!」
肩を大きく上下させて痛みを抑えるように呼吸を繰り返し、額にそれまでに無かった汗が滲んでいる。
「もういいです、横に」
イリヤが添えようとした手を、ヴィルトールは丁寧に断った。再び、上体を起こす。
「中将」
「君には断りもなく、勝手に対応を決めてしまった。これで二度目だね」
「そんな事はいいんです! とにかく、身体を休めてください」
「ルシファーに従う訳ではないが、私には、王子としての言葉遣いを。近衛師団として貴方をお護りするのは、私個人の望みでもある。そう扱われるのは好まなさそうだから、他に人のいない場では、言葉を改めないが」
「他が変に思ったって構わない。いっそそう思ってくれた方が、ルシファーの思惑を壊せるかもしれない」
「――それは、恐らく君の大切な人に良くない」
「――」
ヴィルトールの言葉に努めて考えないようにしていたラナエの姿が浮かび、イリヤは内心に膨れ上がる感情を、奥歯を噛みしめ無理に押し込めた。
一番恐れる方向に進まないようにするには、選ばなくてはならないものがあると、そう思う。
いや、選ぶのではなく、断ち切らなくては――
「――中将、俺は」
「しかし中軍中将はどこも、似たように直進型なのかねぇ」
それまでとは違い、のんびりと、僅かに呆れも含んだ口調で、何の話かとイリヤはつられてヴィルトールを眺めた。
「中将?」
「うちの中軍中将がね、これまた直情で。君も一度ぐらい顔を見たことがあったかな」
ヴィルトールはそう言って笑い、ふとその視線を日除け布の掛かったままの窓に投げた。
彼の隊の同僚達がヴィルトールを探す為にどれほど心労を覚えているのか、イリヤはその視線の向こうに想像した。
レオアリスも、心配しているだろう。
イリヤの心を読んだようにヴィルトールはイリヤを見た。
「私は上将と連絡を取る機会を探すよ。おそらく上将はもう手を打っているだろう。伝令使もいるし、法術でも捜索の手はある」
言葉を切ったのは、この館で命を落としたデュカーや、彼の部下達を想ったからだろう。「――きっと何かしら方法は出てくる。王都がいつまでもここに気付かないはずは無い。機会はある。だからイリヤ、君は君の家族を取り戻す事を考えないとね」
「――」
イリヤは俯き、唇を噛みしめた。
「ラナエを」
できるのだろうか。ラナエはルシファーがイリヤを動かす為の最大の切り札だ。
ヴィルトールの命が助かり、閉ざされた暗い闇の中にほんの僅か、希望が見えてきた。
だからイリヤは、自分もまた選択をすべきだと、そう思ったが――
「できるのかな」
自分自身への呟きだったが、ヴィルトールにはイリヤが何を問いかけたのか、判ったように感じられた。
「ルシファーには君の存在が必要なのと同時に、君の言動も必要なんだ。君が閲兵式で意志を持って動かなければ、正規兵達も動かない。だからルシファーにとっても、君の家族は重要な存在だ。とてもね」
それに、と続けてから、ヴィルトールは何を思ったか、その先を口の中に閉まった。
イリヤはヴィルトールを見つめた。
つい先ほどまでとは全く違う、強い意志が自分の中に生まれている。
大きく息を吸い、吐いて、視線を上げる。
「貴方の力を俺に貸してください、ヴィルトール中将。そして必ず、貴方も、貴方を待つ人達のもとに、お帰しします」
「ルシファー様!」
探し求めていたルシファーの姿を居間の窓際に見つけ、ヒースウッド伯爵は速足で近寄った。ルシファーは窓の向こう、晴れた空を雲が西へと流れていく様を、じっと見つめているようだったが、ヒースウッド伯爵を振り返った。
「――どうかした?」
暁の瞳に暗い色がある。ヒースウッド伯爵は思わず足を止め、言葉を探した。
ルシファーの纏う空気がいつもと違う。
窓の外に何かあったのかと、ヒースウッド伯爵の立つ位置からは光を反射して向こうを透かし見ることの難しい窓を見た。
西の方角――西海がある方角――、一里の控えがある方角。
声をかけるのをためらっているヒースウッド伯爵へ、ルシファーは唇に笑みを浮かべて見せた。
「一里の指標石が鳴ったのよ」
そこにいるのだ、と――
「いる? 誰が」
ルシファーの口元の笑みが深まる。
「何か急ぎの用? 伯爵」
我に返り、ヒースウッド伯爵はルシファーに歩み寄った。普段の完璧な作法通りの振る舞いが、今は忘れられ、持っていた書状を差し出す。
「お、王都から、これが。今伝令使が運んで来たばかりです」
ルシファーは書状を手に取り、開いてそこにある文字を目で追った。
「貴方の召喚ね、伯爵。レガージュの転位陣を使ってと指定までしているからには、今すぐ王城へ上がる事を求めらているんでしょう」
「王都から召喚状が届くとは――最近誰かを屋敷に迎えていないかと書いてある。まさか、王都にもうすべてばれているのでは」
「どうかしら。王都が証拠を掴んでいるとは思えないけれど。ただ疑いを持っていて、貴方を召喚するというところかしらね。まあ断る訳には行かないわ。貴方にはすぐに王都へ行ってもらわないと駄目ね」
青い顔をしたまま、ヒースウッド伯爵は不安を抑えようと自分の肘を反対の手で掴んだ。
「し、しかしもし、ミオスティリヤ殿下の件がばれていたら、それを問われて何と答えれば……領内にも、王都へ行く理由の説明がつきません。いっそ曖昧に引き延ばして、事を起こしてしまった方が」
「召喚してくる段階よ。すぐに行くと返事をしなければ、王都は一層疑念を強めるでしょうね。その結果強硬に介入される方がずっと問題――。大丈夫、領内には殿下の件で内政官房長官ベールと、直接話ができそうだと言っておけばいいわ。理解を得られそうだとね。王都で殿下の事を聞かれた場合、何も知らないとだけ言えばいい。その方がずっと時間を稼げる」
ヒースウッド伯爵はルシファーの言葉に少しずつ落ち着きを取り戻し、何度か頷いた。
「伝令使に返答を持たせたら、すぐに王都へ行く準備をして。この件は貴方の機転が頼りよ、伯爵」
ルシファーは柔らかな笑みを刷いて、ヒースウッド伯爵の手を取ると、召喚状を再び彼の手に戻した。
手渡した召喚状の上から、ルシファーの右手がヒースウッド伯爵の手をそっと押さえる。暁の瞳が向かい合う瞳を覗き込んだ。
「大丈夫。貴方の身に何かあったら、私の名を呼べばいい。どこにでも、すぐに行くわ」
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