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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』


 玉座から延びる深緑の絨毯の両側に、早朝から登城した諸侯がそれぞれ分かれて並んでいる。彼等が交わす言葉の微かな響きが折り重なり、謁見の間はやや騒めいていた。
 王城の外で待ち侘びる住民達の空気が、外壁を隔てたこの五階までも伝わって来ているようにも思える。昨日までの祝祭の延長のような、これから始まるものが祝賀の一環であるかのような、そんな感覚が粛然とした面持ちで居並ぶ諸侯の間にも、確かにあった。
 グランスレイとロットバルトはその中でごく僅か、別種の思考の中にいる側だった。ロットバルトは謁見の間の空気をその蒼い瞳にやり過ごし、深緑の絨毯が延びる先にあるきざはしへ向けた。
 段上の玉座はまだ空席だ。王が座す玉座と、その傍らに並ぶ王太子の椅子。装飾も大きさも全く同じものが二つ、並列に置かれている。
 ただそれだけの事ではあるが、その椅子の並びこそがまさに、国王代理を王太子が務めるのだと、明確に表しているものだった。
 ロットバルトはその二脚の玉座に引き寄せられるように、視線を止めた。
「――」
 二つの玉座。
 それが意識に落ちる。
(国王代理の権能が国王と同列である事を、諸侯に示す――この場に必要な形式だ)
「ロットバルト、どうかしたか」
 傍らのグランスレイが、玉座を見つめているロットバルトへ、何か問題があるのかと問い掛ける。
「――いえ」
 ロットバルトは首を振った。「そろそろですね。上将も」
「ああ。あと四半刻もせず、王と殿下がお入りになるだろう」
 グランスレイも玉座を見つめて頷き、それから改めて謁見の間を見渡した。
「――上将がここにおられない事にも、大分慣れてきたな……それもまだ今年に入ってからの事なのだが」
 低い呟きに感慨深い響きが含まれている。
「そうですね――」
 ロットバルト達の一列前、近衛師団大将が立つべき位置は、今は誰もいない。第三大隊のセルファンが衛士として中央に控えているほか、トゥレスは王城警護を担う第二大隊の配備確認を済ませているところだろう。
 ロットバルトは目の前、通常レオアリスが立つ位置の空白へ目を向けた。
 今、謁見の間にいる者の中に、その空白を訝しむ視線は無い。
 レオアリスがファルシオンの守護を務める事は、諸侯の間で既に違和感無く受け入れられている。その要因としては、ファルシオンの救出や生誕祝賀での警護、そしてフィオリ・アル・レガージュでのマリ王国との対話の際の護衛、それらを経てきた事が大きい。
 レオアリスの一番の望みとは違うが、過去の経緯を思えば、これ以上は望み得ないほどの立ち位置が与えられ、認められていると言える。
(王が意図して、そう配されてきた結果か)
 今回はファルシオンが国王代理として、僅か二日の間とは言え、国政と諸侯を采配する。その為に王は、内政官房長官ベールやスランザールが変わらずファルシオンを支え、また王に対するアヴァロンと同様に、守護をレオアリスが務める配置とした。
 予め体制を示した事で、万が一、王の不在中に不測の事態が発生しても、この体制は議論を待たず動く。
(――予め体制を示した)
 顔を上げる。視線が引き寄せられるように、そこに戻った。
(玉座)
 壇上の玉座と同じ事だ。
 並列に置く事で示すもの。
(玉座と同様に、ファルシオン殿下を中心としたこの体制が示すもの)
 ロットバルトの口元が音も無くほんの僅か動き、その言葉を綴る。
 視線が、この後スランザールが立つ位置へ向いた。
(早計か――しかし)
 スランザールが憂えていたもの。
(王の想定)
 ロットバルトは半歩踏み出し掛けていた足を、意識して戻した。
 早計ではある。だが自らの中に浮かんだこの仮定を、検証する価値はある。
 いや、価値ではなく――
(――)
 靴音と共に、無人だった近衛師団大将の位置に、トゥレスが立つ。
(トゥレス大将――)
 トゥレスの視線がロットバルトを斜めに捉え、口の端を微かに上げた。




 二つの玉座の正面には、今回王が衛士として帯同する五十名の内、近衛師団総将アヴァロンを除く四十九名が既に揃っていた。
 セルファンが率いる近衛師団第三大隊は精鋭二十名、同じく正規軍は西方将軍ヴァン・グレッグと西方軍第一大隊大将ゴードンが、第一大隊の兵二十名と共に膝をついている。
 そして、正規軍将軍アスタロトが、彼等の前に一人立つ。
 身を包むのは、普段ほとんど袖を通す事のない正式軍装だ。正規軍を示す濃紺の軍服の上から「炎帝公」アスタロトだけが纏う、深紅に染め上げた裾の長い上衣が覆い、中に覗く濃紺の生地を一筋の装飾線のように見せていた。
 儀礼用の銀の鎧が、深紅の長衣の下から両肩と胸に覗き、同じく儀礼用の繊細な装飾を施した細身の剣を、左の腰に提げている。長く艶やかな黒髪を高い位置で一つに結わえ、編んだ髪を背中へと落としていた。
 白い面を凛として持ち上げ、アスタロトは真っすぐに、これから主を迎える玉座を見つめ、立っていた。
 その姿を眺める諸侯から感嘆が洩れる。
「やはり炎帝公だ」と、誰かが呟く。「先代アスタロト公爵も、こうした折は近付きがたいほどの風格を纏ったが、それに劣るまい」
 そうした声や眼差しを感じても、アスタロトは正面を見つめたまま視線を動かさず、これから担う任務へ意識を研ぎ澄ませているようだった。
 タウゼンは自身が控える位置からは、ほぼ後ろ姿のみしか映らないアスタロトを、安堵と共に見つめた。
 執務室には少し遅れて現われたものの、最近アスタロトの上に見え隠れしていた不安定さは無く、今日の任務へ向けて精神を集中しているようだった。
 正規軍将軍として、炎帝公として――今のアスタロトはタウゼンがその心構えを説くまでも無い状態だ。
 今回の任務の重要性や自らの役割を、アスタロト自身が理解し、そして幾つかの事は、整理をしたのだろう。そうでなくとも、今後理解していくだろうと、タウゼンはそう考え、その事が伴う僅かな罪悪感とともにアスタロトの後ろ姿から、玉座へと視線を流した。




 王の居城から五階にある謁見の間へ向かう廊下を、レオアリスは初めて歩いた。正確に言えば居城内の構造の確認は少将に任ぜられた時点で行っているが、任務としては、初めてだ。
 廊下の床や壁面、天井には王城の公的な区域に比べ、装飾もほとんど無く至って簡素で、しかし美しく保たれている。窓もない石造りの為に、冷えた空気が肌を撫でる。
 アヴァロンが先に立ち、王とスランザール、そしてファルシオンが歩く、その後ろ姿を見ながら、レオアリスは自分の心拍が普段より少し早いのを感じていた。
 昨夜ファルシオンが覗かせた不安――
 自分に与えられた王の言葉。
 あれほど喜びを覚えながら、何故か――
 鼓動が鳴る。
 あの時、王が遠く感じられた。
 おそらく正体の見えない不安があるからだ。それを解消したい。
(でも俺はもう)
『私を西海へお連れ頂く事は、叶いませんか』
 王へそう尋ね――いや、分を過ぎて要望し――だがやはり容れられることは無かった。
 その要望が容れられると、自分でもどこまで信じていたかは疑わしい。それでも容れられなかった事への落胆は大きい。
 五階への階段を降り、謁見の間へ真っ直ぐに伸びる廊下へ、左右に岐れた右の角を曲がる。
 そこで、王は足を止めた。アヴァロンも壁際に寄り、王の前を開ける。
 ファルシオンが嬉しそうに声を上げた。
「姉上―― !」
 立ち止まった王の向こうに、エアリディアルが両膝をつき、頭を伏せている。
(王女殿下――?)
 エアリディアルがここに、供の一人も連れずにいる事に、レオアリスは驚きを覚えた。
 王は再び歩みを進め、伏せているエアリディアルの前へ立つと、彼女を見つめた。
「面を上げよ」
 エアリディアルはゆっくりと、上半身を上げた。藤色の瞳が、真っ直ぐに王を見つめ返す。
 ほんの束の間、時間がそこにだけ、長くとどまったように思えた。
「陛下、礼儀を弁えない行いであること、存じております。ですがほんの僅か、私にお時間を頂けませんか」
 王はエアリディアルの藤色の瞳に向けていた眼差しを、斜め後ろにいたスランザールへ移した。
「老公、先に参れ。ファルシオン、そなたも」
 スランザールは王の顔をじっと見つめ、頷いた。
「承知致しました、後ほど」
 王と、そしてエアリディアルとへ、スランザールは深々と頭を下げ、ファルシオンを促すと廊下の端へ寄り謁見の間へ歩いて行く。ファルシオンとレオアリスも王とエアリディアルの傍らを過ぎる。
 エアリディアルはファルシオンににこりと微笑み、それから藤色の瞳をレオアリスの上にほんの僅か残し、再び王の前に顔を伏せた。




 近衛師団隊士が出座を告げる。諸侯が緊張し居住まいを正す前で、まずスランザールが現われ、玉座を回り階を降りてきた。
 スランザールが玉座へと向き直ると、現われたファルシオンが傍らに置かれた玉座に着き、続いてレオアリスがその後方に控える。
 次に王の出座を待っていた諸侯は、なかなか王が現れない事に次第にさざめき、顔を見合わせた。
 ファルシオンはスランザールとレオアリスを見て、諸侯へ向き直った。
「陛下はほどなくおいでになる。しばし、このまま待て」
 ファルシオンの言葉と共に大公ベールが諸侯を律するように見渡し、広間は再びしんと静まり返った。
 レオアリスは意識だけ、今歩いてきた廊下のある扉の奥に向けた。
 エアリディアルの予定には無かった行動と、出立を控えた王が敢えてエアリディアルの要求に応えた事。そしてエアリディアルが王へ、この段階でどのような話をするのか、それが気に掛かる。
(スランザールは想像が付いているみたいだった)
 もしかしたら、この後、エアリディアルとの話を終えて王が謁見の間に出座した時には、方針が少し変わるのではないかと、そんな期待がレオアリスの中に浮かんだ。




 謁見の間へ繋がる廊下は、広間の密やかな騒めきさえ空気を揺らすほど静かだった。ファルシオンが席につき、その後の諸侯等の訝しむ気配が感じられる。
 エアリディアルはゆっくり顔を上げた。
「不躾な行いにも関わらず、御出立の直前にお時間を賜り、心より感謝申し上げます」
 藤色の瞳が澄んだ光を浮かべ、王と向かい合う。普段の陽だまりを思わせる柔らかさの代わりに、今は冬の早朝のように肌を引き締める、秘めた決意を含む光だった。
「先日、わたくしから陛下へお願い致しましたこと、改めてお考え直し頂きたく――憚りもせずもう一度お願いに参りました」
「そなたは私に、西海へ赴かぬようにと、そう告げたのだったな」
「はい。同じことを申し上げます」
 その時に王の答えは出てていたが、エアリディアルはもう一度だけ、自らが感じる不安に従う事にした。
「それが困難であるとは、重々承知しております。国同士の約定を違えることにもなりましょう。それでも敢えて、陛下にこの国にとどまる選択をしていただくことが、この国の王女として生を受けた、わたくしの責務と考えております。どうぞ――」
 一つ呼吸を交え、膝をついたまま凛と背筋を伸ばす。
 それが国として誇り得る手段であるとは、エアリディアルも考えていなかった。
 だがただ王女という身分しか持たない身として、おそらく自身に取れる手段の内、最も有効であろう一つだ。
「西海が収まらないと思し召しであれば、どうぞ、この身を以って対価となして頂けますよう」




 アスタロトはずっと、真っすぐに玉座へ顔を向けていた。
 ほんの少し目線を動かせば、ファルシオンの後方に立つレオアリスの姿が目に入る。
 動かせないでいるのは、怖いからだ。
 目が合って、その瞳の中に、呆れや迷惑そうな色を見つけてしまったら――それより何より、目が合いもしなかったら――?
 ただそれだけで打ちのめされそうだ。
 だから努めて、アスタロトは違う事を、自分の役割――万が一何があっても自分が王を護るのだと、レオアリスの代わりが果たせるのはアスタロトだけなのだという事を、一心に考えていた。


『王が』
『認めない』


(違う)
 関係ない。
 大切なのは、今は自分の役割を果たす事だけ――
 諸侯の騒めきが、潮が引くように消える。
 靴先が大理石の床を踏む微かな音が落ちる。
 アスタロトは息を飲み、きざはしの一段一段を辿るように視線を上げ、玉座を見上げた。




 王は玉座の前に立つと、謁見の間に揃った諸侯達を見渡した。広い謁見の間が水を打ったように静まり返る。
 その静けさに、次第にさざ波に似た衣擦れの音が交じり始める。
 王が玉座に座らず、未だ立っているからだ。
 レオアリスは不安に駆られ、王の姿を見つめた。
(陛下――?)
「陛下、謁見の儀を進めてよろしいか」
 内政官房長官ベールが階の下から王を見上げる。その傍らのスランザールは、じっと王の立ち姿を見つめていた。そこに心の内を測ろうとする光がある。エアリディアルとの面談が、どこに落ち着いたのか。
 王はスランザールの期待を見て取り、口元に微かな笑みを刷いた。
 そして一歩――きざはしを降りた。
 どよ、と謁見の間が驚きに揺れる。
 これまで王がここを降りる姿を、居並ぶ諸侯の誰一人、見た事が無かった。スランザールでさえもだ。
「……陛下――」
 王はゆっくりと、広い階を踏み、一段を降りる。
 アヴァロンは動かず、レオアリスは王の姿を見つめたまま、呼吸すら奪われたように動けなかった。
 ファルシオンも戸惑い、黄金の瞳を見開いている。
「――こうして位置を変えれば、見える景色も変わる」
 王の声が深く落ちる。
 今や衣擦れの音すら失われ、謁見の間には王の言葉以外、物音ひとつ無い。
 王の歩に合わせ、身を包む長衣の裾が緩く揺れる。その動きがどこか、王一人違う空間にあるように思わせる。
「私は長い事、同じ景色のみを見続けていた。大戦の終結より三百年――いや、大戦以前より、数え切れぬ時を」
 謁見の間は王の纏う静謐に満ちている。
「永い時を経る。それは景色を単一化する。時折起こる変化は、風が揺らす花の影ほどでしかない――」
 こつりと、最後の一段を降り、王は自らの前に立つ諸侯と、降りてきた階の上を見渡した。
「なるほどこれが、そなたらの不安と期待か」
「――陛下」
 スランザールの掠れた声が、ようやくこの静寂の中に生命があると気付かせた。諸侯が呼吸を取り戻し、声にならない呻きに似た感情とともに、王を見つめる。
 一人レオアリスはまだ、呼吸を忘れたまま、ただ王の姿だけを瞳に映していた。
 何故――
 これほどに遠いのか。
 身の裡で、剣が脈動を刻む。
 その音が耳に響く。

 彼の剣のあるじは。

「陛下」
 スランザールの掠れた呼びかけを聞き、王はその面に笑みを昇らせた。笑い声が短く耳を捉える。
「調和などつまらぬぞ、老公。ただこの場へ降りただけの事――何を恐れる」
「貴方はお判りです」
 王は再び笑い、スランザールの前を通り過ぎた。深緑の絨毯の上を、正面に控えるアスタロトと衛士達へ近づく。黄金の瞳がアスタロトの真紅のそれと向き合う。
 アスタロトは膝をついた。
「此度の行程は僅か二日のみとは言え、未知の領域に踏み込む労は想像を超えよう」
 きざはしを降りてきたアヴァロンが、王の斜め後方に膝をつく。
「そなた等の不安、西海にある間は私が預かる。地上にあると同様に考え、任務に集中せよ」
 アスタロトは白い面を引き締めたまま、ゆっくり伏せた。それに倣い、正規軍兵士やセルファンを始めとする近衛師団隊士も深く頭を下げる。
 スランザールはエアリディアルの願いが容れられなかった事を悟り、皺顔を微かに苦渋に歪め、視線を落とした。
「さて――早朝から集まった民達もさぞ待ち侘びていよう。出立の時間も間もない。民達の前に場所を変えるとしよう。ファルシオン、そなたも参れ」
 王はそう言うと、まだ呆然とする諸侯らの前を通り、深緑の絨毯が真っ直ぐに伸びる先の扉へと歩き始めた。
 王の歩みと共に高く重厚な扉が、音もなく左右に開いてゆき、廊下に満ちていた朝の光を謁見の間に招き入れて満たした。






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