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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』

二十二

 砕けた天窓の飾り硝子は、光を千々に弾きながら真下の水盆へと落下し、浅い水盆の水を跳ね上げた。
 息を飲むほど美しく崩壊する世界――アスタロトは呼吸を忘れ、その光景を見つめていた。
 やがて水盆は、荒れた海のごとく波打っていた水面みなもを、ただ風に揺らすほどに静めた。束の間音も無く、声も無く、穏やかな陽射しの中を、埃がきらきらと輝きながら舞っている。白っぽく色褪せたその光景は、古い本の中に描かれた一場面のように見える。
 どこかで小さな欠片が床に落ち、ぱきんと割れた。
 アスタロトははっとして瞬きし、言葉を失って立ち尽くしていた玄関口から、水盆へとゆっくりした足取りで、近寄った。
「――」
 割れて硝子を失った丸天井から、遮る物のない透明な陽射しが、水盆の上に斜めに降り注いでいる。この玄関広間を囲む二階の回廊も、沈黙の中で白々とした陽光に浮かび上がっていた。
 こつりと靴底の硬い音を立て、アスタロトは水盆の縁に立ち、視線を落とした。水面に映る自分の姿がゆら、ゆらと揺れている。
 浅い水盆の底には砕けた色硝子が沈み、降り注ぐ陽光を弾いていた。
 吹き下ろした風が艶やかな黒髪を散らす。アスタロトは顎を持ち上げ、天井を見上げた。丸天井に残った硝子絵の骨組みと、それに仕切られた青く澄んだ空が見える。
 複雑に砕けた硝子の破片は、もう再び、あの美しい天窓の世界を描かないのだと、思った。
 たった二刻前まで美しく穏やかな世界を造り、その光の下に、王がいたのに。
 もう、二度と。
「――」
「……様」
「アスタロト様!」
 ぎくりと肩を揺らし、アスタロトが顔を上げると、傍らにセルファンと数人の衛士達がいた。彼等の蒼白な面がアスタロトを否が応にも現実に引き戻す。
 アスタロトは唇を一度強く引き結んだ。
(まだ)
 まだ何も終わった訳ではない。
「王都に、連絡を。伝令使は?」
「一体あります」
 そう返し、セルファンは背後にいた兵士に手早く指示をした。セルファンの上には押し隠してはいるが、方向が僅かなりと示された事への微かな安堵が見える。それを見れば改めて、今、ここで指示を出すのは自分しかいないのだと思った。
(王都に知らせて、イスへ行く方法を探す)
 今はもう、王都にしかこの状況を打開する手立ては無い。逆に言えば王都ならばこの状況を打開できるという期待があった。きっとまだ。
 ほどなく二人の間の床から、一頭の牡鹿が身を揺らし首をもたげた。
 アスタロトは薄っすらと光を帯びる伝令使の姿を見つめ、ほんの僅かな間、伝えるべき言葉を探した。一つ、息を吸う。
「――不可侵条約の再締結の儀は、西海の裏切りで決裂した。イスに於いて、我々は、伏せられていた西海軍と戦闘になり、」
 自分の言葉はこれを聞いた相手に、どう響くのだろうと、そんな事を思った。王都の、スランザールやベール――レオアリスに。
 鼓動が早まる。重い砂袋を打ち付けるように身体の奥で響いた。
「……陛下、は、我々をバージェスへと退避させた。御身は、アヴァロン閣下と共に、イスに」
 残ったと――、押し出していた言葉がそこで止まる。
 どう響くのか。
 ファルシオンに?
 喉の奥に塊がせり上がる。アスタロトは抑えられず早口になった。
「私は何としてでもイスへ戻る。至急アルジマールに対応を依頼したい。考えてる時間はない、アルジマールじゃなきゃ駄目だ、すぐに」
 伝令使はアスタロトの言葉を預かった証に、額に正規軍の紋章を白く浮かび上がらせ、大理石の床に沈んだ。
 深紅の双眸に先ほどとはまた別種の、自分の言葉がどれだけ相手に響くのかという不安が揺れる。
 今アスタロトが王都の状況を想像できないように、スランザール達はこのバージェスを……、イスを想像できるだろうか。
 アスタロトはセルファンを見た。
「セルファン、一里の控えにも報せを送って、……待機してる兵を、ここへ。もう一里の約定は関係ない」
 セルファンは異議を唱える事なく頷いた。
 アスタロトは肺に溜まっていた空気を吐き出した。これくらいしか今の自分に出来る事がない。
 両の手のひらを見つめ、そこに感情を押し込めるように握りしめる。
「ヴァン・グレッグと、負傷してる兵達を手当てしてやって」






 草原にそれだけ一つ、大海原に浮かぶ船のように館が建っている。
 物見の塔の周りを吹き抜ける風が硝子戸の無い窓を通り過ぎ、物悲しい楽の音を掻き鳴らす。風は主に西から、時折東や南に向きを変え、強くなり、また弱くなり、一里の控えに建つ館の周囲を巡っていた。
 物見の塔に立ちバージェス方向を見据えていた兵士等の上を、振動が駆け抜けたのはほんの僅か前の事だった。
 窓という窓が鳴り、館が一度揺れた。異常を感じた兵士等は、すぐ一人が大将ウィンスターへと報せに走った。残った兵士二人が物見窓からバージェスへ目を凝らしていた時だ。
 バージェスの街に幾つかある塔から、ゆらりと一筋、煙が立ち昇った。青い空へ向かう途中から、風に靡いていく。
「あれは」
「煙……狼煙だ」
 煙の色は赤い。重大な問題が発生した事を告げる色だ。
 二人は顔を見合わせ、お互いが幾つもの疑問を持っている事を確認した。
 バージェスは今不在のはずだ。五十名の衛士達は一人残らず王と共にイスへ入る予定だった。そしてまさにこの時に、イスに於いて不可侵条約再締結の儀が行われているはずではないか。
 そうでありながら狼煙か上がったという事は、不在のはずのバージェスに誰か――、兵士がいる事を意味している。
 何故いるのか、狼煙が示す重大な問題とは何なのか。
「条約再締結の儀はどうなったんだ」
 疑問を口にする側から続いてもう一筋、隣の塔から煙が立ち昇る。黒色の煙だった。その更に隣の塔で、もう一筋。
 再び赤い煙。
「――大変だ」
 今度こそ二人の兵は息を呑み身体を強張らせた。
 赤、黒、赤と並ぶの三本の狼煙――それは『重大な問題の発生と可及的速やかな援軍の要請』を意味する。
 兵士達がもう一度身を乗り出した時、背後から重い足音が聞こえ、床に開いた階段口からワッツが身体を持ち上げた。
「ワッツ中将! バージェスから狼煙が!」
 振動の原因を尋ねるつもりだったワッツは一度目を剥くように兵の顔を見て、大股に物見窓に寄った。二人の兵が身を避ける。
「――こいつは……」
 分厚い手のひらを物見窓の枠につき、ワッツはバージェスから立ち昇る狼煙を睨んだ。周辺をぐるりと見回し、踵を返す。
「変化があったらすぐに知らせろ」
 そう告げる間にもうワッツは重い足音を鳴らし階段を駆け下りて行く。兵士は互いに顔を見合わせ、緊張に頬を引き締めた。



 ワッツは狭い階段を石壁に肩を擦りそうになりながら駆け下り、途中館の二階の廊下に出て、その間この四半刻にも満たない間に起きた事に考えを巡らせた。
 初めに気付いた異変は、ボードヴィルの方角の空を覆うように出現した虹色の膜だ。
 何事かと兵達が騒ぎ出した時に館を揺らした振動。同時に虹色の膜は消え、今度はバージェスから狼煙が上がった。
(援軍の要請だと? 一体)
 事態が大きく動き出した事を、ワッツも漠然と、しかし足元に波が満ちてくるように感じていた。
「ウィンスター大将!」
 駆け入った部屋で、ウィンスターは既に窓辺に寄り、バージェスの空を睨んでいた。そこにまだ狼煙が棚引いているのが見える。
 ウィンスターはワッツを振り返り、鋭い視線を向けた。久し振りに目にする眼差しだ。それを以前見た時の事を思い出し、ワッツの中に否応無しに緊張が高まる。
「館に二班二十名を残し、バージェスへ向かう。エメルに指示を出させている。準備は馬上でしろ。すぐに発つ」
「はっ」
 分厚い胸に右腕を当て、そのままワッツは歩み寄るウィンスターを待った。ウィンスターが廊下へ出ると追いかけ、大股に歩くウィンスターの横に並ぶ。
「王都へは一里の控え内に兵を入れる旨、伝令使を出した。返答を待つべきかもしれないが、その時間すら惜しい事態だと思える。ワッツ、貴様はどうだ」
 今いる廊下の窓から見える空は、今朝発ったボードヴィルの方角だ。青くただ晴れ渡っている。
「……万が一ですが、狼煙が西海の策略で、我々をわざと一里の控え内に招き入れようとしているとも考えられます。しかし、その前の振動と、ボードヴィルの空と――。まだ我々の預かり知らない、でかい問題が起きてるとも感じます」
 ワッツは一度区切り、続けた。「首の後ろがヒリヒリしやがる」
「同感だ」
 停滞は穴を更に深く掘る、とウィンスターは低く言った。
 一階の広間から玄関を出ると、目の前の前庭と門の向こうに、既にずらりと騎馬と兵士達が並んでいた。兵士達が一斉にウィンスターへと敬礼を向け、腕が儀礼用の胸当てを叩く音が館の周囲を圧する。正規西方軍第七大隊の左軍及び中軍、合わせて千四百名弱。
 階段の上に至った僅かな間に彼等を見渡し、そのまウィンスターは石段を降り用意されていた騎馬に跨った。
「先刻バージェスから狼煙が上がった。それは貴様等も目にした通りだ」
 高らかに言い渡しながら騎馬を並列の中に進める。ウィンスターの動きに合わせ、兵士達の騎馬が騎首の向きを変えて行く。
「幾つかの変化も同様に、何かが起こっているのだと、それは疑う余地も無い。我等は公の要請に従い、一里の境界を越え、バージェスへ向かう!」
 再び鎧を叩く音が応える。ワッツも先頭に引き出されていた彼の騎馬に跨った。手綱を掴むと騎馬が高くいななき、両の前脚を振り上げる。
 ワッツは手綱を操り騎馬を回頭させ、速歩を保つと先陣を切って館の門へと向かった。同じく騎馬に跨った左軍の兵士達が整然とワッツに続く。三騎ごとに騎馬を並べ、館の門を出ると号令を待つ事もなく、六騎が横並びになる編成へと形を変えて行く。ウィンスターが左軍のやや後方の位置に騎馬を置き、左軍の後からエメルの右軍が動き出した。千四百騎を超える騎馬の蹄が芝を踏み、街道の石畳を鳴らし、草原へと分け入る。
 ワッツは視界の端に、物見の塔から一筋、白い煙が立ち昇る様子を捉えた。バージェスへの返信だ。一里の控えが要請に応えた事が、バージェスに伝わっただろう。
(最短で四半刻、それで着く)
 先頭に騎馬を置くワッツは、草原のある一点で、傍目には判らないほどではあるが、息を止め、肺の奥へ貯めた。
 目の前にどこまでも広がる青い草の大地――、指標石の位置だけが示す、約定の一里の、見えない境界。
 ふぅっと息を吐き、ワッツは手綱を騎馬の首に当てた。
 騎馬が前進する。
 ただの一歩で、一里の境界内へ、踏み入った。






 ボードヴィル砦城の講堂にも、その衝撃は届いた。イリヤの前に膝をついていた兵士達の頭上で、窓硝子が一斉に振動し音を立てる。
 兵士達が驚きの声を上げ、頭上を振り仰いだ。
 ヴィルトールはその振動に、上手くは言い表せない、どこか落ち着かない感覚を受け、高い位置にある窓を見回した。
 もう何事もない。ただ強く風が吹いただけだったと、そう思える。
 同じように驚いて窓を見ているイリヤの様子を確かめ、顔を戻しかけた時、ヴィルトールはふと意識を引かれルシファーの上に視線を止めた。
 ヴィルトールのすぐ斜め後ろ、イリヤとの間に立っているルシファーは、美しい二つの瞳を見開き、窓を見ていた。
 ただそれだけだ。見ているのは窓の外、その向こうの空だろうか。ヴィルトールの目には何の変哲もない、青空が覗いているに過ぎない。
 それだけでしか無いはずが、ルシファーの面には明らかに張り詰めた感情が浮かび、それは先ほどの振動と同様に、落ち着かない違和感を覚えさせた。
 一言では言い難い、複雑な色だ。
 ルシファーはヴィルトールがじっと見つめている事にも気付いていないか、気にしてもいない。
(今の振動、ルシファーには原因が判っているのか)
 ルシファーが驚きを覚えるような原因という事か。
(だが、我々に有利な状況と思えないのは、何だ)
 ルシファーが何を知っているのか、白い面に浮かぶ感情を解きほぐすように見つめる。
 感じているのは苛立ちか、憤りか。微かに眉根に寄ったそれは、憤りよりも哀しみか。
 嘆きにも似た。
 ルシファーの唇が微かに動く。辛うじてヴィルトールの耳に届いた。
「最後まで……」
 空を見上げていた暁の瞳がゆっくりと落とされ、自分を見つめているヴィルトールに気付く。
 一瞬激しい混乱を覗かせ、逸らされた。






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renewal:2015.03.29
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