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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』

二十三

 砕けた・・・――



(……、う)
 ただ神経を焼くような痛みだけが明確だった。
 そしてそれすら上回り、全てを占めるのは、たった一つの感情だ。
 喪失。
 途方もない、自分の身体が指先だけを残してぽっかりと穴を開けたような。

(――違う)

 ひたすらそう繰り返す。

(違う……っ)

 違う、違う、違う


 違う


 ただその言葉を繰り返し、苦痛と絶望を追いやる。
 追いやる為の言葉だ。
(違う)

 絶望を――、真実を、遠くへ追いやる為の。



 見えないように。



 『絶望』

 そこにある。
 知っている。
 剣が

(違う!)

 失った。
 手を伸ばしても届かない、光。
 青く、暗い水底に沈む。

(違、う……)



 失ッタ――




 何故、オ前ハ、ココニ居ル






「ッぅ……、あ――ァア」
 抑え込もうとした感情が唐突に堰を切り、レオアリスの喉から振り絞るような叫びが迸った。
 絶望と怒りと嘆き、ありとあらゆる、否定。
 喉の奥から吐き出し、振り絞り、叩きつける。
 言葉にならない慟哭どうこくが謁見の間に短く、だが聞く者を打ちのめし、響いた。
 誰もが茫然と立ち竦んだ空間に、嗚咽を抑えるような呼吸が洩れた。蹲ったままの左手が頭を抱え込み、黒髪を掴む。
「違……うッ!」
 掠れた声を押し出し、子供のように身体を丸めた。
「嘘だ――嘘だ嘘だ、嘘だ……ッ!」
「上将!」
 我に帰り、クライフとロットバルトがレオアリスの傍らに膝つく。
 レオアリスは額を床に落とし、右手は鳩尾を押さえている。呼吸が荒く不規則に繰り返されるごとに背中が跳ねた。
 軍服の襟から、レオアリスが常に身に着けている青い石の飾りが床に溢れる。
 震える手が縋るように石を掴む。細い鎖は容易く千切れた。
「上」
 伸ばしたロットバルトの腕を、レオアリスの手が掴んだ。そのまま身を起こしかけ、身体を揺らして咳き込む。
 喉から溢れ出した血が、ロットバルトの軍服と深緑の絨毯の上に大量に散った。
 その鮮やかな赤。
「……レオアリス!」
 それまで凍り付き見つめていたファルシオンが玉座を飛び出す。
「上将! ――内臓に損傷があるのか」
 ロットバルトは自らの言葉が示すものの正体に、まだ明確ではないままに戦慄を覚え、唇を引き結んだ。レオアリスの肩に置いた手のひらの下で、強張った筋肉が、レオアリスが抱える激しい苦痛をありありと伝えて来る。
「上将っ」
 クライフもレオアリスの背中に手を当て、ただそれ以上何の術も見当たらず、狼狽えた声を漏らした。
「何だ……何なんだ、一体……ロットバルト、なあ」
「――」
「なあ、上将は、」
「判らないッ、今は!」
 クライフがはっとしてロットバルトを見る。すぐにクライフは、その面に浮かんでいた混乱を押し隠した。
「悪い……とにかく、そうだ、治癒を――誰か呼んで」
 ロットバルトは立ち上がったクライフの様子を見て取り、それと同じ混乱が恐らく自分の面にも在るのだろうと思いながら、再びレオアリスへ視線を落とした。
 原因が判らない。
 判るのはレオアリスが激しい苦しみと、混乱を抱え込んでいる事だけだ。
 そして絶望と、否定。

 『嘘だ』と。

 指先が冷える。
 レオアリスは『嘘だ』と言った。
 何を指して、そう言ったのか。
 青白い陽炎がレオアリスの身体をゆらりと包み、薄れる。
 あのミストラの。
 すぐにまた色を濃くして揺れる。
 揺れる。
 ミストラでレオアリスを止めたのは王だ。
 その王が不在の今、誰が
「レオアリス!」
 ファルシオンが階段を駆け降り、そのまま駆けて来る。
 まだ階の途中にいたトゥレスが顔を上げ、一瞬その頬に緊張を昇らせた。たった今ファルシオンが駆け抜けた場所、玉座へ上がる手前の床に、すうっと光が持ち上がったからだ。
「殿下……!」
 気付いたファルシオンが立ち止まり、身体を巡らせる。すぐ後ろだ。
 クライフが振り返り、腰に佩びていた剣の柄に手をかける。
「殿下、そこから」
「……ッ」
 蹲っていたレオアリスが足元の深緑の絨毯を掴み、身体を起こした。右手を持ち上げ、鳩尾に当てる。
「上将、今は……」
 制止しようとしてロットバルトは、鳩尾に当てられたレオアリスの手が一度びくりと揺れたのに気付き、その手を見つめた。
 剣を顕わそうとしたはずだ。
 だが、レオアリスの手はそれ以上動こうとしない。
「――」
 ファルシオンのすぐ隣で、床の上に現れた光は、輝く牡鹿となって首をもたげた。
 その額にくっきりと、正規軍の紋章が浮かび上がっているのを認め、誰からともなく安堵の息が漏れた。
「伝令使か」
 どこの部隊だと考える前に、伝令使から声が流れ出た。アスタロトの声だった。
『不可侵条約の再締結の儀は、西海の裏切りで決裂した』
 レオアリスの肩が跳ねる。
 ファルシオンは金色の瞳を見開いて向き直り、伝令使をその中に捉えた。
 静まり返った広間に流れるアスタロトの声の、これまで聞いた事のない重く沈んだ響きとそれが齎す内容に、誰もが息を呑む。
 スランザールはきざはしの途中に立ち尽くし、微かに呻いた。
「決裂……」
 緩慢な仕草で、白髪の頭を壇上の玉座へ振り向ける。
 伝令使の上には高い天窓から、幾筋かの白い陽光が落ちている。その静謐さを湛えた姿が、あたかも不可侵のものが齎す託宣にも思えた。
『イスに於いて、我々は、伏せられていた西海軍と戦闘になり』
 躊躇うように、僅かな間が空いた。
 アスタロトの葛藤が、その沈黙に滲んでいた。
 託宣から現実の苦境へと、意識が移る。
『陛下は、我々をバージェスへと退避させた。御身は、アヴァロン閣下と共に、イスに……残られた』
「……そんな」
 息苦しいほどの沈黙の後、漸く、ファルシオンがそう呟いた。
 幼い黄金の瞳を見開き、伝令使を見つめ――、蹲るレオアリスを、見た。そこに答えを求めるように。
 彼からの否定を。
 レオアリスは俯き、左手を床についたまま動かない。
「父上……」
 よろめいたファルシオンの身体を、クライフが両手で支える。
『私は何としてでもイスへ戻る。至急アルジマールに対応を依頼したい。考えてる時間はない』
 アルジマールでなければ駄目だ、と。
 すぐに動いて欲しいと、異議を差し挟む余地のない声がそう告げ、光る牡鹿は伝令を終えた事を示し首を垂れた。
 一呼吸の間か、それとももっと長く呼吸は途絶えていただろうか。
 恐ろしい沈黙を破り、初めに口を開いたのはスランザールだった。
「大公を……すぐにここに来ていただくように。何を置いてもじゃ。それから、アルジマールにも同様に伝えよ」
 低い声だったが、謁見の間の扉の脇に控えていた二人の近衛師団隊士は唾を飲んで頷き、青ざめた顔のまま廊下へと駆け出した。遠退いて行く足音が謁見の間に届く。
 スランザールはやや揺れる足取りで階を降り、立ち尽くしているファルシオンの側に近寄った。
 ファルシオンと、トゥレス、クライフ、ロットバルト、それぞれが言葉も無くスランザールを見つめた。
 スランザールの白い眉と皺の奥で窪んだ瞳には、視線を逸らしたいと思わせる光が浮かんでいる。
 光る牡鹿は持ち帰る返答を待っているのか、風に揺れるようにゆっくりと左右に身体を揺らした。
「……老公」
 立ち上がろうとしたロットバルトはふいに腕を引かれ、視線を落とした。
 レオアリスが上半身を起す。それすら相当な苦痛を伴っているのが、腕に加わる指の力で判る。「……ッ」
「――ロット、バルト……俺、を」
 レオアリスの喉から、声の代わりに血が溢れた。肩が血だまりに落ちかかるのをロットバルトの腕が止める。
「動くのは無理です」
「レオアリス!」
 ファルシオンは青ざめ、レオアリスへ駆け寄った。
「レオアリス、大丈夫か?!」
 問いかけたファルシオンにさえ、その問いが無意味だと判る。床に散っている血は怖くなるほど多い。
 ファルシオンは手を伸ばしかけ、触れる前に、躊躇って指を握った。代わりに足元に落ちていた、青い石の飾りを拾い上げる。
 石はレオアリス自身の血に濡れ、くすんでいる。ファルシオンは手の中にそれを包んだ。
「ロットバルト、何で、レオアリスは」
 ロットバルトは向けられた黄金の瞳に対して、自らの持つ推測を口にする事を躊躇った。
「……原因は、まだ。ともかく、まずはアルジマール院長に来ていただいて、治癒を」
「僕はここだ」
 まるで今までもそこに居たように声が返り、彷徨った視線がすぐに一つに集まった。
 謁見の間に敷かれた深緑の絨毯の先に、アルジマールがいた。一度背後の空間が歪み、戻った。
 灰色の被に隠された顔を、アルジマールはぐるりと巡らせた。この広間のどこかにある問題を炙り出そうとするような鋭い眼差しで、厳しく口元を引き結び、それから蹲るレオアリスを見つめる。
 すぐにアルジマールは、レオアリスへと歩き出した。
「アルジマール、今そなたを呼びに行かせたところじゃ」
 スランザールが安堵に息を吐き、だが張り詰めた皺深い面は崩していない。
「ここでは、何があったんだ?」
「判らん。だがバージェスからの伝令使が」
 言いかけて、スランザールは口を閉じた。
 ここでは、と、アルジマールは言った。アルジマールは何に気付いて、ここへ来たのか。
「伝令使?」
 アルジマールは振り返りスランザールの向こうに、光る姿を揺らしている伝令使を認めた。「本当だ。バージェスは何を」
 ぐいと身体を引かれ、アルジマールはたたらを踏み、視線を戻した。レオアリスが蹲ったまま腕を伸ばし、アルジマールの法衣の袖を掴んでいる。
 俯いて表情は見えないが、荒い呼吸を繰り返す肩からは、抑えた苦痛が窺える。
「……君」
 レオアリスは唇を噛んで身を起こし――立ち上がった。上体がぐらりと揺れ、咳き込み、床に血が滴る。
「レオアリス、動いちゃだめだ」
 ファルシオンがアルジマールとの間に入り、小さな身体でレオアリスを支えるように抱きついたが、レオアリスはその事も意識に無いように見えた。
 アルジマールの肩を掴み、灰色の被きの下の瞳を見据える。
「俺を、イスへ、飛ばしてくれ」
 レオアリスの声は掠れ、一言発するごとに肩を揺らし、短く息を吸う。その呼吸音が張り詰めた広間に流れ、聞く者の鼓動を速めた。
 微かに瞳を虹色に揺らし、だがアルジマールは目深に被った被きの下で、口元を引き結んだ。
 答えようとしないアルジマールに対して、レオアリスの声が苛立ちを増し、弾けた。肩を掴まれたままのアルジマールの身体が揺れる。
「アルジ、マール! 出来るだろう……っ!」
 ファルシオンがびくりと身体を震わせ、しがみつく力を強めた。
「レオアリス……」
 普段のレオアリスとは、全く違う。
 正式軍装のあちこちに血が飛び散り、見上げた顔は血の気が失せ、立っているのが不思議なほどだ。
 ファルシオンの声は届いていない。ずっとだ。
 何よりも視線はどこか、ここではない場所を見据えていて、それが、ファルシオンには恐ろしく感じられた。
 そこを見ないで欲しい。それは、違う・・
 違うのだから――。
 首を振り、レオアリスの左手に触れる。黒い革の手袋にも血が付いていた。
 その手はするりと解けた。
「レオ……」
「今すぐ」
 有無を言わさない響きだった。
 だがアルジマールはじっとレオアリスの瞳を見つめ、再び首を振った。
「無理だ……。僕は、イスを知らない」
「貴方なら、出来るはずだ。場所を知らなくても、陛下を、辿れば」
「辿れない」
 アルジマールは無情にすら感じられるほど明瞭に、ただその事実を告げた。
 束の間の沈黙の後、クライフがぽかんと口を開ける。
 アルジマールが辿れないと言ったのは、王の気配の事だ。他の誰でもなく、この国の。
「何の事だ……辿れないって、院長、あんた何」
「嘘だ、出来る」
 全員がレオアリスを見た。
 レオアリスはアルジマールだけを見ている。他の事など一切入る余地が無いように思えた。
「出来るだろう――出来ない訳が無い!」
 青白い陽炎が揺れる。
「何でもいい! 何でもいいんだ、どんな方法でも! ただ送ればいいだけだ! 俺を、今すぐ、イスへ!」
「レオアリス、何を恐れておる――。まさか……、まさか、陛下の御身に、何か」
「違うッ!」
 声が鞭のように弾け、レオアリスはスランザールを睨んだ。激しい拒絶が全身に表れている。
 スランザールはレオアリスを束の間見つめた。
 次にアルジマールへと視線を移し、その瞳にあるものを読み取ると、膝を揺らし、一歩、後退った。
「違う――違う違う違うッ! そんなはずが無い! そんなはず無い! そんなはず無いんだ!」
 再び咳き込んだ喉から血が滴り、床を濡らす。それにも気付いていないのか、拭おうとさえしない。
「上」
「アルジマール、今すぐ俺を」
「レオアリス!」
 全身から発したようなファルシオンの叫びが、謁見の間を打った。
 レオアリスはびくりと肩を震わせた。
 ファルシオンの身体を、金色の光が揺らぎ覆う。
 ゆっくりと顔を下へ巡らせ、初めて――
 レオアリスはファルシオンを見た。
 ファルシオンの黄金の瞳が震えながら、じっとレオアリスに注がれている。
 漆黒の瞳に光が灯った。
「――殿、下」
 呟きが押し出される。
 それからレオアリスは、自分へ向けられたロットバルトや、クライフや、トゥレスの顔を見た。
 スランザールを。
 肩が荒い呼吸に合わせて揺れる。
「――」
 その行為が苦痛だというように、緩慢に、レオアリスは瞳をアルジマールへと戻した。
「アルジマール院長……お願いだ、俺を」
 もうその言葉には先ほどの弾く強さは無く、打ちひしがれた呟きに近かった。
 叶わないと知って尚、繰り返すだけの。
「ただ、イスに、送ってくれればいいんだ」
 アルジマールの肩を掴んでいた手が、緩み、力を失って降ろされる。
「――頼むよ……」
 アルジマールはレオアリスを見つめ、それが自分の罪であるかのように、視線を落とした。
「済まない、大将殿……」
 俯いたままのレオアリスへと、一歩身を寄せる。
「……君は、ひどい状態だ。その、剣――」
 アルジマールは双眸を細めてレオアリスを見つめ、喉まで上がりかけた言葉を呑み込み、唇をぐっと結んだ。「いや。……とにかく、治癒を」
「いらない」
「いるだろう。座って」
 レオアリスの肩が揺れる。
「どうだっていい、そんな事!」
「座りなさい」
 もう一度、アルジマールはレオアリスを見つめ、静かに言い渡した。
「そんな状態で何ができるんだ。何ができるつもりでいるんだ? こんな時に、近衛師団の大将が」
「――」
「君の役割は何だ」
 レオアリスはまだ反論を探して唇を引き結んでいたが、ややあって俯いたまま、膝を降ろした。
 片膝が床についた途端、上体をぐらりと揺らす。ロットバルトは手を伸ばし、倒れ込むレオアリスの身体を抱えた。
 面に浮かびかかる驚きを抑え、ロットバルトはレオアリスを見下ろした。
 身体に力がほとんど感じられない。たった今まで立っていたのが嘘のようだ。
 アルジマールがレオアリスの傍らに膝を降ろす。アルジマールの右手が腹部に添えられ、レオアリスは咄嗟に身を引きかけたものの、堪えるように唇を噛みしめた。
 その様子を注意深く見つめ、アルジマールは余り意味が無い事を前提にした口調で告げた。
「意識を手放した方が早いし楽だ、大将殿、少しの間でも」
「……このままでいい」
 浅い呼吸の中から漸く押し出された言葉は、恐らく予想した通りのもので、アルジマールは短く息を吐いた。
「僕がやりにくい」
 有無を言わせず、アルジマールは手のひらでレオアリスの瞳を覆った。
「! 嫌だ! 俺は……ッ」
 アルジマールの手を押し退けようとして、咳き込み、喉から溢れ出た血が滴る。
「レオアリス!」
 ファルシオンはレオアリスに抱き付き、覆い被さった。投げ出されていた脚が足掻く。
 ファルシオンの小さな身体では、抑えられない。
「俺は、イスに……ッ」
「レオアリス、止めよ―― ! もう止めよ!」
 肺の底から振り絞るように、ファルシオンは叫んだ。
 ファルシオンの金色の瞳が光を帯び、全身を包んでいたその光がレオアリスの身体に伝わる。
「――」
 しがみついていた身体からふっと力が抜ける。
 ファルシオンは恐る恐る顔を上げた。
「レオアリス……?」
 声には不安が滲んでいたが、レオアリスがただ眠っただけだと判ると、ファルシオンは身体全体から力が抜け落ちたように、後ろにへたり込んだ。
 スランザールが傍らに膝をつき、小さな背中に手を当てた。
 誰も口を利く者は無く、謁見の間にはただアルジマールの詠唱だけが静かに流れて行く。
 アルジマールは治癒の術式を唱えながら、時折眉をしかめた。
 やがて術式の最後の一節を結ぶと、俯き顔を覆う被きの下で、ゆっくり息を吐いた。
「アルジマール院長」
 ロットバルトは厳しい瞳でアルジマールに問いかけた。
「内蔵をかなり損傷していた。相当の激痛があったはずだ。よく意識を保ってたね、全く」
 ファルシオンがさっと青ざめ、身を起こしてレオアリスの傍らに膝をつく。
「治るのか」
 その問いかけに対して、アルジマールの返答は僅かに間を置いた。
「――身体は大丈夫でしょう。もう治癒が機能してきています。しばらく高熱などの支障はあるかもしれませんが、彼は剣士ですし、そう心配はいらないと思います」
「そうか……」
 ほっと息を吐き、ファルシオンは横たわるレオアリスの手に触れた。
 瞼を閉じた面には苦痛こそ見えないが、血の気が失せて白い。唇を噛みしめ、そっと手を握る。
 ロットバルトは瞳を上げ、アルジマールの被きの下のそれを捉えた。アルジマールの言葉はある一つのものを中心とし、だがそこに触れていない。
 アルジマールの瞳が逸らされる事無く向けられる。
「――」
「バージェスへは、どう返答を? アスタロト公のご要望通りイスに飛ぶ事はできないにしても、対応は必要ではありませんか」
 そこに意識を戻したのは、伝令使の近くに立っていたトゥレスだった。スランザールが振り返り、トゥレスの背後の光る牡鹿を見つめる。
「そうじゃ……アルジマール、バージェスへなら飛べるのじゃろう。この先の対応を決める為にはまずバージェスと、そしてイスの情報が必要じゃ」
 アルジマールは改めて確認するようにレオアリスの腹部に手を当て、それから立ち上がった。
「バージェスにならね。でもそれだけでは問題は解決しない」
 アルジマールが扉へと延びる深緑の絨毯の先、謁見の間の扉へと視線を向ける。その視線に合わせたように扉が開き、廊下に満ちた光の中から内政官房長官ベールが冷えた室内に踏み入った。
 一旦足を止め、謁見の間の様子を確認するように双眸を細めたベールへと、僅かに頭を傾け、アルジマールは続けた。
「バージェスからイスへ行くのも困難だ。イスの状況を探るのも。大将殿にできないって言ったのは、何の根拠も無い訳じゃない。僕はもう、試みた」
「試みた……?」
 アルジマールが試みて、叶わなかったと。
 それはここにいる誰もが――王都にいる誰もが、イスへ行くすべを持たないという事になる。
 そもそも事態に紛れていたが、法術院にいたアルジマールが何故まだ使者も届かない内に、法術を用いてまで謁見の間に現われたのか――
 アルジマールへと集中する視線には、その不安と疑問が滲んでいる。
「そうだ、試みた。ついさっき、何らかの衝撃波を受けたからだ。ここではどうだった?」
 スランザールが無言の内に同意を示すのを見て、アルジマールは一度、深く息を吐いた。
「大気に遠くから衝撃が走った。発信源は西だ。ボードヴィルよりも更に向こう――何かが大きく膨れ上がって、弾けたんだ。それを感じた直後に、僕の二重結界が破壊された」
 スランザールを始め、誰もが驚きに息を呑む間もアルジマールは言葉を続けた。
「僕の結界だけじゃない、他の結界や、この王城に施された防御陣も、あの衝撃でほとんど壊れたと思う」
「――まさか」
 スランザールが口にしかけた否定の言葉は、その一言で途切れた。
 アルジマールが何を言っているのか、トゥレスも、クライフもロットバルトさえも、理解していなかった。
 一人、歩み寄ったベールが、鋭く厳しい眼差しをアルジマールに据える。
「王城の防御陣は陛下が施されたものだ。それが壊れるという事があり得るか」
 ベールの声は低く沈んでいるが、乱れはない。
「あり得た。あり得ないと、僕は思っていたけど」
 ベールはやや顎を上げ、アルジマールの次の言葉を促した。
「はっきり言おう。今起きている事は間違いなく、この国を揺るがす事態だ」
 アルジマールの声音は普段の彼とは違い、口にした通りの混乱をも表していた。目深に被った被きの下の頬も硬い。
 静寂よりももっと身を縛る、無音が謁見の間を満たす。
 ふいに正規軍の伝令使がその光る身体を大きく揺らす。
 消えるのかと思ったその横に、もう一体、鷹の姿をした伝令使が現れた。
 伝令使は一里の控えから、ウィンスターがアスタロトの要請を受け隊を動かした事を告げるものだ。
 謁見の間の緊張が高まる。決断を迫られている。
 国としての。
 アレウス国として、条約破棄という事実を容れるか、否か――。
 アルジマールは息を吐き、自分の頭を覆っていた灰色の被きを背中に落とした。現れた少年の面差しの、二つの瞳が複雑な虹色の光を移ろわせる。その眼差しを横たわるレオアリスへ向けた。
「彼の――大将殿の剣は、一振り、失われている」
 返る声が無かったのは驚きよりも、漠然と思い浮かべ、恐れていた事実を目の前に明確に突き付けられた為だ。
 ただ、幼いファルシオンは、アルジマールの言葉に大きな瞳を見開き、それからレオアリスを見つめた。
 握っていた手が解け、再び触れようとしながら、その僅かな距離を動けなかった。
「剣……」
 レオアリスの剣が失われたと、アルジマールは言った。
 剣士の剣――主に捧げた剣が。
 その差す意味を。
「僕達は認めなくちゃいけない。その前提に立った対応が必要だ。正直に言えば、僕はどうしていいか判らない。本当なら、大将殿の願い通り、彼をイスへ送りたい。せめてバージェスへ」
 スランザールやベールがその考えを持っている事を理解した上で、アルジマールは彼等を慎重に見た。
「でもそれは避けるべきだ。それをしたらこの子は、壊れるよ」
 謁見の間の温度が一切失われたかのように、指先が冷える。それは恐らく、そこに居た誰もが感じた感覚だった。
 アルジマールは息を吸い、静かに吐き出した。
 その瞳を、ファルシオンへ向ける事はできなかった。
「陛下の御身に、何かがあった。重大な――重大な何かだ」









「見えました! 一里の控えから狼煙です!」
 兵士が指差した空を振り仰ぎ、アスタロトもまた街の屋根の向こうに立ち昇る煙を捉え、頷いた。
 一里の控えは動いた。ウィンスター自らが来るだろうか。
(ワッツもいる)
 その事が漸く、アスタロトの胸の内にも僅かな安堵を滲ませてくれた。
 だが、ごく僅かでしかない。
 一つ息を吐いて膝を落とし、アスタロトは広場の石畳の上に横たわっているヴァン・グレッグの様子を覗き込んだ。眉を微かに寄せる。
 応急処置を済ませたものの、イスでレイモアから受けた肩の傷は、白い包帯の下からまだ血を滲ませ続けている。
 顔を巡らせれば、ヴァン・グレッグと同じように、合わせて十一名の衛士が重傷を負い横になっていた。軽傷で済んだ者まで含めれば、五十名の衛士達の内、無傷の者はいない。
 アスタロトは絶え間なく湧き上がる焦燥と忸怩たる想いに唇を噛み締め、しゃがんだままの低い位置から、広間の向こうに広がる青い海を睨んだ。
 衛士が一人、アスタロトの側に駆け寄り敬礼を向ける。
「公、館の内部を確認しました。窓硝子が割れた以外は損傷はありません」
「判った。館に運んであげて」
 動ける衛士達は館から取り外してきた日除け布で担架を作り、重傷者を乗せると手際よく館へと運んでいく。
 アスタロトは息を吐き、立ち上がった。
 王都からはまだ返答が無い。
(どうしたんだ、早く)
 やはりアスタロトの告げた内容が余りに信じられないのか――けれどスランザールやベールが想定外の伝令使を軽く見るとは思えない。
(レオアリスは、どう)
 胸の奥を掴まれるような痛みを覚え、アスタロトは歯を噛み締めた。
 それは今までの想いが生んでいた痛みとは、全く異なるものだ。
(――私が)
 罪の意識――万が一の事があった場合、レオアリスは自分を、許すだろうかと――
(しっかりしろ! 自分を憐れんでる時じゃない)
 まずは王都の返答を得る事が重要だ。
 何かに手間取っているのかと、今は想像する他は無かった。
(早く)
 何度目かそう願った時、足元が揺れた。
「何……」
 アスタロトは緩やかに顔を上げた。
 やけに耳についたのは岸壁を鳴らす波の音だ。
 先ほどまで気にならなかったその音が、不規則に街と海とを区切る岸壁を叩いていた。
 海だ。
 だから気になる。
 アスタロトはまだ横たわる衛士等の間を縫い、広間を海へと歩き出した。次第に足が速くなる。
「公?」
 セルファンの声が追い掛けてくる。「どうされました」
 アスタロトが広場の先端に駆け寄り、西海との門の横の手すりに手をつく間も、波が岸壁を叩く音は静まる事なく続いていた。
 手すりの向こうの海面を覗き込む。砕ける波が荒い。
「――何だ……」
 アスタロトはポツリと呟いた。しかしそもそも、この現象は普段と違うのだろうか。
 海を見たのは今日が初めてだ。違いなど判らないし、違いなど無いかもしれない。
 けれど何故、鼓動が早いのだろう。
「公、あれを」
 傍に立ったセルファンが青く輝く海を指差した。アスタロトがその示す先を辿り、眩しさに瞳を細めた。
 海は空の青よりも濃く、美しい。アスタロト達が今いる広場と水平線との、ちょうど中間あたりをセルファンは指していた。
 その空を。
 それまで薄い綿のような雲を棚引かせていた青空に、一点、灰色の染みが生まれている。
 染みは見る見る内に厚い灰色の雲となり、広がり始めた。ほとんど数呼吸するだけの間に、灰色の雲は空を覆うように膨れて行く。
 バージェスの上にまでなだれ込み、青い空の色は縁に僅かに覗くのみになった。兵士達の上げる驚愕の声が遠く響く。
 雲がぐぐ、と動く。
 次には灰色の塊は、中心に向かって渦を巻き始めた。
 言葉を失い茫然と見上げる中、あたかも濃紺の海原を覗き込むように渦を巻きながら、灰色の雲が海面へとその舌を伸ばしていく。
「何、あれ――」
 気づけば海面に近付く雲に呼応するかのように、海もまた、渦を巻いていた。
 轟く音が次第に大きくなる。
 強い風が頬を叩く。海水が細かい飛沫となってアスタロト達に降り注ぐ。
 アスタロトは全身の血が足元に下がっていくのを感じた。身体が冷え、眩暈を覚える。
 それでも、視線だけはそこから離せなかった。
 轟々と海水が立てる音。
 天に合わせて渦を巻く海面――そこから、何か、巨大なものが迫り上ってくる。
 途方もなく、巨大な。
 初めに瞳が捉えたのは、尖塔だった。
 渦の中心に、すうっと伸びる。
 それに続いて、次々と姿を現わす。
 屋根を飾る甍、白い塔屋の壁。
 幾つもの大屋根が構成する、優美な城。
「――そん、な……」
 アスタロトは後ろへとよろめき、肩で呼吸を繰り返した。
 つい先ほど見た形だ。
 あの昏い海の中で、青く揺らめく水を纏っていた。
 王都アル・ディ・シウムを写し取ったかのような、美しい街並み――。
 どっと鼓動が身体を打ちのめす。
「イス……!」
 西海の皇都が、渦巻く海水を押し分け、浮上していた。






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