二十一
レオアリスは、鳩尾に右手を当て、自分の鼓動を聞くようにその場に立ち止まっていた。
「上将?」
足を止めた事を訝しんだクライフがレオアリスへ声を掛け、俯いたレオアリスの横顔を覗き込む。
「どうかしましたか」
クライフの問い掛けも視線も、レオアリスの意識には届いていなかった。
ただ、自分の内側から響く声に、耳を傾けていた。これまで一度として聞いた事のない声だ。
声――、叫び。
耳を、内面を、聾するように響く。
急激に膨れ上がる。
(何だ……)
それは自らの剣から発せられていた。
覚醒の時に感じた感覚と近いが、それとも違う。
ただ、判る。剣の叫びだ。
激しい、身を捩り引き裂くような、
怒り
その瞬間は、唐突に訪れた。
遠く、西海の沿岸に位置する水都バージェスで、館の丸屋根を飾る硝子窓が砕けたのと僅かに時を異にし、謁見の間に一度、神経に触れるような衝撃が走った。
硝子を嵌めた窓枠が一斉に音を立て、すぐにぴたりと鎮まる。
ファルシオンか上体を揺らし、玉座の上に倒れ込んだ。
「殿下!」
トゥレスは自らも感じた衝撃の不快感を振り切り、咄嗟に玉座の前に回り覗き込んだ。ファルシオンはたった今走った衝撃の為か、トゥレスには汲み取れない理由の為か、艶やかな深紅の天鵞絨に凭れたまま茫然と瞳を見開き、トゥレスの向こうを見つめている。
「トゥレス、殿下は」
スランザールがこめかみを抑え、皺深い顔の眉根を寄せて尋ねる。その声が張り詰めて聞こえ、トゥレスはスランザールを振り返り、注意深くその面を眺めた。
スランザールの表情は青ざめ硬い、ように思える。
トゥレスは先ほど感じた衝撃と、それによる不快感を思い出した。不快――、いや、どちらかと言えば、不安だろうか。身に纏う暖かい衣服を、唐突に剥がされたような。
何故そう思ったのか、トゥレスはファルシオンとスランザールの様子に答えがあるのだと半ば確信しつつ、口を開きかけた。
「殿下は」
「父上は、どこ」
トゥレスを遮り、ポツリと呟いたファルシオンの言葉は、がらんどうの闇に落ちるように虚ろに響いた。スランザールが急いで近寄り、玉座の前に膝をついてファルシオンと向かい合った。トゥレスがそのスランザールの姿を見下ろす。
「父上は」
「殿下――、御安心を。今の衝撃の原因はすぐに判ります。これにもルシファーが関わっているのかもしれませんが、しかし何も問題は無いでしょう」
語り聞かせるようなスランザールの言葉の途中から、ファルシオンはもどかしく首を振った。口に出したい想いを上手く言葉にできない苛立ちと、強い不安をその黄金の瞳に浮かべている。
ファルシオンが何をそれほど不安になっているのか――トゥレスには、スランザールもまた焦燥を抱え、ファルシオンに説きながら自らにも納得させているように見えた。
それが事実だ、と思う。
確かに、トゥレスにはまだ見えていないだけで、何事かの問題が確かに発生したのだ。トゥレスが意図せず、西へ視線を投げかけた時、切迫した声が上がった。
「上将―― !」
窓が一斉に鳴る。空気が、乾燥した木の枝が火の中で爆ぜるような音を立て、弾けた。
「……ッ」
レオアリスの全身を、その衝撃が突き抜ける。
衝撃がもたらした予期せぬ苦痛に瞳を見開き、レオアリスは両手で右の鳩尾を掴んだ。深緑の絨毯の上に膝が落ちる。
「上将!」
クライフの驚き上擦った声もロットバルトが駆け寄った事も気付かなかった。鳩尾を掴んだ指が軍服の留め金を引きちぎる。噛み締めた唇がぷつりと血を滲ませた。
身体の奥に鼓動が轟く。
鳩尾の奥から目が眩む程の苦痛が、全身を伝わり焦がし、脳裏に激しい光が弾けた。
「――ァ、」
折れる。
「ッ――」
声にならない苦鳴が喉から押し出される。
ただ、見開かれた瞳は、その苦痛すら通り過ぎ、一つの姿を探していた。
剣の主を
王を
身体の内で鈍く嫌な音が響いた。
自らの身体の裡を奔る激流が、脳裏に見えるはずのない明確な像を刻む。
右の剣が、砕ける像を。
「――」
僅かに開いた口からは空気が押し出されただけで、苦鳴は音を伴わなかった。
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