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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』

二十

 海皇の三叉戟が、あたかもそれ自体が意志を持つ生き物であるかの如く、その矛先を王へと定め、細く長い柄をゆっくりと倒していく。
 アヴァロンは戟の正面に立ちはだかり、黄金の剣の柄に手を掛け、戟の動きを見据えた。兵士達の血を吸い上げ赤黒く蠢く戟は、意に沿わず血を捧げた兵士達の怨嗟が形を成したようだ。
 先ほど放たれた槍とは比べものにならない力が、その全身に秘められている。
「アヴァロン。ここは良い、そなたも戻れ。地上でもそなたの果たす役割は山とある」
 王の言葉を、アヴァロンは背中で受けた。漆黒に暗紅色の糸で描き出された王の紋章――背に纏う王布で。
 明瞭に、誇りと共に告げる。
「いいえ。私は陛下の守護を仰せつかる者なれば――。この命すら束の間の盾にもなれぬとあれば、御子や王妃殿下に――国に何の顔向けができましょう」
 黄金の刀身がその尊厳の在処を示すように光を弾く。アヴァロンは海皇の三叉戟と、その向こうに霞む海皇の姿を捉えたまま、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「ましてや残してきた貴方の剣に、何の為の守護かとそしられます」
 王はただ、黄金の双眸を細めた。
「――そうであったな」
「どうぞ我が身を、貴方が全てを為すまでの盾となさいますよう」
 アヴァロンは、王の意志を、是としていた。
 初めからアヴァロンは、王の意志に殉ずるつもりでいた。スランザールやベールが、王の選択を憂いていたとしても。
 この地で初めて海皇とまみえ、対峙して、その想いはより強固になった。
 海皇の欲望は、今ここで断ち切らなければならない。それを可能にするのは王ただ一人だ。
 自分は王がそれを成す為の、盾だ。
 王の剣は、この後に起る避け得ない混迷を切り裂く為に、地上に残した。
(王布を手渡せない事だけが)
 アヴァロンは口元に笑みを刷いた。
 否。
 彼は新たな王布を纏うのだ。
 王は無言でアヴァロンの意志を容れ、一度瞳を閉じると、静かに引き開けた。右手を伸ばし、掌を上に開く。
 その中空に水滴ほどの小さな赤い球体がぽつりと生まれ、回転しながら、次第に大きさを増し始めた。ゆらりと揺れ表面を震わせるそれは、次第に大きくなるにつれ、血が球体になったものだと見て取れる。王自身の血だ。
「盟約の書は、海皇よ、我等二人が揃わねば現われぬ。――かつて我等は一度ずつ各々おのおのの血で誓約を刻み、盟約を交わした。そしてもう一度、そなた一人が終焉を書き加えた。そなたの意志は受け入れられたが、同時に盟約は未完成ともなった。本来盟約の書は、二つの国を分けた事で役割を終え、さほど時を経ず自ら消え行くはずだったが」
 血は拳ほどの球体となって揺れ、すうっと高く浮き上がる。赤い宝玉は二人が挟む卓の中央に至ると、内側から弾け、束の間の驟雨のごとく卓上に降り注いだ。
 滑らかな石の表面を染めた血が、意志を持つ生物とも見紛い卓の上に丸く複雑な紋章を描き出したかと思うと、紋章は緩やかに輝きを放ち始めた。
 イスの謁見の間が、緋色に輝く紋章を中心に、どくりと揺れた。
 心の臓から発する脈動のように。
 海皇が喉の奥で呻く。
 血の紋章の中央が盛り上がる。
 そこから立ち昇る光が、刻一刻と長方形の塊を形作っていく。
 それは本だった。
 薄い背表紙を備えた、一冊の書物。
 鼓動が、広間へ重い振動を伝える。
『盟約の書――』
 海皇の呟きが、卓を這う。
 盟約の書は緩慢に振動を放ちながら、その姿の半ば近くを紋章の上に現わし、揺らぎ移ろう光を纏った。
『寄越せ』
 前触れもなく海皇の三叉戟が撃ち出され、盟約の書の表紙へと突き立つ。
 謁見の間に三叉戟の巻き起こした風が渦巻き、風に触れた西海の兵士達を磨り潰した。
『――』
 忌々しさを滲ませ海皇は盟約の書を見た。戟の切っ先は、盟約の書の手前で、黄金の光の膜に捕われ止まっている。
『小賢しい真似をする』
「不完全故に未だ縛られ続ける。そなたも、私も」
 海皇の視線が荒れ狂う怒りを宿して王を睨み据え、次に謁見の間に残った兵士達へと向けられる。兵士達は身体を恐怖に震わせ、一斉に雄叫びを上げた。
 手にした剣や槍を振り上げ、王へと打ち掛かる。
 アヴァロンの黄金の剣が閃き、襲い掛かる西海の兵を悉く断った。
 残った西海兵達は黄金の刀身を前に一瞬怯み、だが次には恐怖に瞳を見開いたまま、再び襲い掛かった。次々と断たれ、それでも尚、あたかも止まる事を知らない獣の群れのように押し寄せる。
 兵達がアヴァロンの剣に容易く倒されていく様を見ていたレイモアは、不甲斐なさに怒りで頬を引き攣らせ、自らの戟を掴んだ。
 視界の端には海皇の姿と、盟約の書に撃ち出され続ける赤黒い三叉戟を捉えている。床から立ち昇る赤黒い霧が、止まる事なく三叉戟に吸い込まれていく。
 身体の奥から震えが這い上がった。
 倒れた兵達の血は、あのおぞましい三叉戟が吸い上げるのだ。
 全てが海皇への贄だ。
 レイモアが血を流せばその血が、身を断たれればその身が。
 海皇が贄を望めば、命が。
 今、この瞬間にも。
 振り切るように一声叫び、レイモアは戟を繰り出した。
 嵐のように突き出されるレイモアの戟を、アヴァロンは剣を振り上げ、弾いた。二撃、三撃と打ち返すごとに、黄金の刀身に刻まれた文字が光を放つ。
 レイモアは戟の柄をしならせ、斜め下から鉾を振り抜いた。アヴァロンの剣の鍔元を撃ち、跳ね上げる。腕が浮き開いた脇腹へと、素早く戟を引き、矢の如き速さで繰り出す。
 アヴァロンは左手で、自らの腹に刺さっていた海皇の槍を引き抜き、レイモアの足元を突いた。
 レイモアの矛先がアヴァロンの右脇腹を裂く。同時にアヴァロンの振るった海皇の槍がレイモアの右足の甲を貫き床に縫い止める。
 自分を貫いたものの正体に、一瞬レイモアは我を忘れて悲鳴を上げた。深く床を抉った槍を掴み、必死に引き抜く。
 再び打ち掛かる西海の兵へ、アヴァロンの剣が閃く。


 盟約の書は周囲の騒乱など意に介さず、ただその姿を現し続けている。
 海皇の三叉戟が何度となく、盟約の書を覆う黄金の膜に突き立つ。
 衝撃が、重苦しい太鼓が放つ音のように轟き、その都度謁見の間が揺れた。


『――埒が明かぬわ』
 腹立ちまぎれに吐き捨て、海皇は右手を伸ばし、三叉戟の柄を掴んだ。
『吸え』
 戟の石突でどんと床を打つ。
 海皇の戟が力を求め、黒い波動の触手を伸ばす。触れた者は瞬きの間に枯れ木の如く萎び、光を揺らす床の上に次々と倒れた。
 謁見の間には声もなく、身を縛る氷のような空気の中に、盟約の書が放つ鼓動だけが規則正しく響いている。最早立っているのは僅か、ナジャルとレイモア、それから数十名の兵だけだ。
 赤黒い光が一層激しく、三叉戟の上に蠢く。黒い光がその全身を覆った。
 再び三叉戟が黄金の膜に突き立つ。ぐぐ、と膜を歪ませ、だが三叉戟は膜を破り切れずそこで止まった。
 海皇の双眸が、盟約の書を挟んだ正面に座る王へと向けられる。
『貴様……』
「まだ枷が解けぬようだが、海皇。その枷は解けぬまま、滅びを迎える」
『滅びるのは貴様一人だ。我は滅びぬ』
「そなたは心の臓の血を以って盟約の書に終焉おわりを記した。今、我が血を以ってその同意を記せば、盟約は完結する」
『私は盟約の書の呪縛から解かれ、地上を喰らう』
「いいや、我々はここで終焉を迎えるのだ。我等を捉え縛ってきた盟約と共にな」
『戯言だ――』
 三叉戟がくうを裂き、王へと放たれる。
 アヴァロンはレイモアの戟を躱し、王の正面に立った。両の足を踏み締める。
 三叉戟はアヴァロンの左胸を貫いた。
 アヴァロンが一度がくりと膝を落としかけ、それを押し止めてぐ、と立ち上がる。左手が三叉戟の柄を掴んだ。
 鼓動に合わせ、戟が抉る肉から血が押し出される。
 王の金色の瞳が、アヴァロンの背に覗く三叉戟の切っ先を見た。
「……一つ、お聞かせください、我が王」
 アヴァロンは背後の王を振り返る事無く、口を開いた。
 再び繰り出されたレイモアの戟を黄金の剣が受け止める。剣は戟先を砕き、レイモアの胸を切り裂いた。レイモアは顔を苦痛に歪め後退り、だがそののっぺりとした面に嘲笑と、――安堵を浮かべた。
 海皇の三叉戟が、アヴァロンの胸に、ごくゆっくりと、確実に、沈んでいく。流れ出る血がアヴァロンの半身を染めて行く。
「貴方が、全てのものに、いておられたのか」
 王は束の間アヴァロンの背を見つめ、口を開いた。
「確かに私は厭いていた。千年もの長き時間、我が身を捉える世界に」
 アヴァロンの身を削りながら、海皇の三叉戟が進む。
 戟の柄を握るアヴァロンの左手が、半身を染める血でぬるりと滑る。
 切っ先は僅かずつ、だが確実に王の額に迫り、しかし王は動かなかった。
「だが、新たな命が響かせる歌は、我が視界をも輝かせた」
 アヴァロンは渾身の力を込め、黄金の剣を振り下ろした。
 輝く刀身が、自身の身を貫く三叉戟の柄を断った。
 怨嗟の叫びにも似た振動が辺りを揺らす。
 三叉戟が一度身を揺すり、折れた柄の断面からどろりとした血が止め処なく流れ出した。
 同時に、黄金の刀身が砕ける。
 アヴァロンは刀身を失った柄を握る腕を、静かに降ろした。
「それをお聞きして、安心しました」
 長い呼吸を押し出し――止める。
 王はアヴァロンの背に瞳を向け、一度悼むようにそれを閉じた。
 黄金の双眸を持ち上げ、それまで座っていた椅子から立ち上がる。
 王は未だ立ちはだかるアヴァロンの横を抜けると、全身を現わした盟約書の前に立った。盟約の書を包んでいた黄金の膜が広がり、王と、アヴァロンと、海皇を包む。
『……そこから離れよ』
 海皇は椅子の上で身を捩った。
『離れよ』
 王は右手を持ち上げ、自らの胸に深々と刺した。
 流れ出る血に右手を染め、盟約の書へと差し伸べる。
 盟約の書が、緩やかに開いていく。
『離れよ――離れよ! 離れよ!』
 海皇は身を捩り、猛り、吠えた。未だ盟約の鎖は海皇の身を辛うじて縛り、獰猛な叫びが謁見の間に反響する。
『誰かおらぬのか! 我が兵は!』
 誰も駆け寄る者は無い。レイモアは深手を負った胸を押さえ蹲ったまま、息を呑み状況をただ眺めている。床に倒れ伏す西海兵の達の声無き亡骸の上に、支配者の怒りが虚しく降り注いだ。
『レイモア!』
 レイモアはびくりと頭を竦めたが、立ち上がりもしなかった。
『……役立たずが』
「そなたが食らったのだ」
 憐れみすら帯びて、王は海皇を眺めた。
 海皇を護るべき兵は、海皇自身が喰らい尽くした。その意志もだ。
 狂おしい怒りに塗れた双眸が、謁見の間に一人悠然と立つナジャルの姿を捉えた。たった一つ、闇の底に揺らいだ可能性に、海皇が狂おしく身を捩る。
『ナジャル―― ! こやつを殺せ!』
 ナジャルが口の両端を吊り上げ、ぞろりと並んだ鋭い牙が嘲るように覗いた。
『我は喰らうのみ――残った方の血肉を』
 そして恭しく、右手を胸に当て、身体を折って顔を伏せた。
『ナジャルッ!』
『ご安心あれ、海皇。御身の血は我が肉に、地上は御身の望む通り』
『……おのれ……ッ』
 海皇が盟約の書へと手を伸ばす。
 その先で、王は自らの血で染めた指先を滑らせ、盟約の書に名を記した。
 盟約の書はゆらりと光を移ろわせた。白、黄金、朱金、青、柔らかに、穏やかに移ろう。
 海皇の身体が、がくりと揺れる。伸ばされていた手が、爪の先から急速に、萎び始めた。
 衣服の中で枯れ枝のように萎び、罅割れて行く。
 開かれた口が、紙が擦れ合うようなカサカサと乾いた音を立てた。
『我は……解放……され』
 海皇の足元に軽い音と共に何かが落ちる。
 粉々になったそれは、恐らく腕だ。
 盟約の書が纏う光は、優しく、幼子おさなごをあやす様に揺れていた。
『地上、に……戻……』
 盟約の書の背表紙が、ぼろりと崩れる。
 次の瞬間、まるで砂でできていたかのように、跡形もなく崩れ落ちた。




 アスタロトが再びバージェスの館に駆け込んだ時、今度は背後から身を断ち切るような衝撃が走るのを感じた。
 薄く鋭利な刃が撫でるような。
「――っ、何」
 振り返ろうとしたアスタロトと館の広間と、まだ広間にいた衛士達の上に、硝子の砕ける音が響く。アスタロトは咄嗟に音のした丸屋根を振り仰いだ。
「!」
 あの美しい、色硝子で描かれた世界――、青い海と緑の大陸、そして中心で輝く王都、その穏やかで美しい世界が、皹割れ、崩壊し――鮮やかな色彩を撒き散らしながら、破片となって降り注いだ。
 同時に館の窓硝子が一斉に砕ける。
 降りかかる硝子の破片から身を庇い、顔を覆った腕の隙間から、アスタロトはその光景を見た。
 砕けた天窓の飾り硝子は光を千々に弾きながら真下の水盆へと落下し、浅い水盆の水を跳ね上げる。
 どちらが硝子か、水か、判らない。
 息を飲むほど美しく崩壊する世界――アスタロトは呼吸を忘れ、その光景を見つめていた。






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renewal:2015.02.14
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