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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』


 東の地平から白熱する太陽が立ち昇る。
 白い光が重く垂れ込めていた夜を切り裂き、西へ、西へと抗いようのない退却を迫る。
 夜明けだ。
 アレウス王国にまず差し込むのは東辺、峻険ミストラ山脈の峰を掠める光。大地に広がる麦畑や森、街道を照らし出し、蛇行する川を銀色に輝かせ、軍都サランバードの城郭を染める。
 正規東方軍第七大隊大将レベッカ・シスファンは、寝室の窓辺に立ち、ミストラ山脈の尾根から昇り来る太陽を眺めた。
「不可侵条約の再締結――いよいよ今日か」
 珍しく、昨夜は寝付けなかった。風が鐘楼や塔屋を巡って騒ぐ、その音のせいか。
 王が西海へ赴く朝を控えていたからか。
 西海の首都イスへ――暗く重い膨大な海水の中を巡り続ける、寄る辺なき流浪の都へ。
 先の大戦以前、西海と国使を交わし国交を保っていた時代から、五百年を優に越える歳月を経て。
 そのそこはかとない不安は、シスファンに朝、目にする光景を想像させた。
 窓の向こうに、灰色の嵐が立ち込めているのではないかと――明けてみれば何の事はない、普段と変わらない朝の光だ。
「感傷的だな、似合わん。何故だ――?」
 自らの思考を探っても、明確な答えはない。
 だがここ最近の国内の動きに、シスファンの懸念を裏打ちするものは幾つもあった。
 それらが今日まで、動き出さなかったからか――くすぶり続けたまま。
 王はその剣士を帯同しない。それは西海の要望を容れたものだが、それでも王その人の下した判断だ。この条約再締結はあくまで儀礼だと、自分達のように西海に対する懸念を持つ者に対して、王はそう示して見せたのだとも思えた。
 それだけの事だ、と――
 夜明けの光が水平に、シスファンの瞳を射す。
 シスファンは手をかざして二つの瞳を細め、朝日に溶けるミストラ山脈の尾根を睨むように見つめてから、窓辺を離れた。





 夜明けの光が暗く深い、広大な森の表面を、その端から瞬く間に染めていく。
 だが積み重なるような枝葉の層は薄い陽光を通さず、森の懐はなお、夜を保った。
 この黒森ヴィジャの足元には、未だ根雪が残る。カイルはその固く凍った雪を踏みしめながら、樹々の間を縫うようにゆっくりと歩いていた。
 森の上に朝の気配がある。
 しめやかな、明確な生命の息吹きが黒森を撫ぜる。
 カイルは枝葉の隙間に飾られた白い光を眺め、足を少し早めた。手にした籠には、歩きながら集めた薬草や香木の枝が積まれている。
 もうすぐそこだ。黒森の中に、ひっそりと沈む空間と過去。
 その場所にカイルが足を踏み入れたと同時に、黒森のどこよりも早く朝日が射し込み、空間に満ちていた薄い闇は幕を引くように取り払われた。
 黒森の夜に慣れた眼に輝く陽光が眩しく、カイルはしばらく瞼を閉じた。そうすると瞼の裏に、光の残像が浮かぶ。
 もうずっと――カイルが追い続けている懐かしい残像だ。
 そこはかつて、レオアリスの父母や一族が暮らした村だった。十八年前に焼け落ち、草や雪にうずもれるままになってきた。冬の始まりに、レオアリスが過去と向き合い、バインドと剣を交えたのもこの場所だ。
 ぽっかりと開けたそこは、既に雪も溶け、枯れた草地の上に崩れた石造りの家の名残を見せている。カイルは崩れた家の一番手前まで歩き、足を止めて籠を足元に置くと、艶やかな黒い羽毛に覆われた鳥に似た頭を巡らせた。
 風が抜け、早朝の光に満ちている、見慣れた光景。感じるのは悲しみより、今は懐かしさと親愛が強い。
 レオアリスがそう、カイルを変えたのだ。
 あれ以来、カイルは何が目的でもなく、時折こうしてここを訪れていた。誰も訪れる者のないこの場所で、ただしばらくの間、想いを巡らせる。
 大抵は、王都にいる彼等の養い子が、どう過ごしているか――
 毎年四月の上旬には、王から下賜される書物を持って帰って来ていたが、今年はカイが声を運んできただけだった。残念ではあり、他の村人達はひどく淋しがりもしたが、事情もあったのだから仕方がない。
 そして、そういうものなのだ。
 いずれそうして、新しい場所に根ざして生きていく。
 あの子供が一時でも自分達の傍にいた事を、幸福だと思った。
(もう子供ではないか――)
 そう感じる事は、この朝日のように心地よい。
 森のどこかで鳥が早朝の歌を歌う。黒森に平穏な一日を迎えるように。
 カイルはしばらくじっとその声に耳を傾け、それから村に戻る為に、足元に置いていた籠を取り上げた。





 夜明けは南方の熱砂アルケサスを巡り、寂寞として広がる冷えた砂に再び灼熱の記憶を呼び起こしながら、南西の沿岸にある交易都市、フィオリ・アル・レガージュに辿り着く。
 曙光は南海を照らしさざ波を輝かせ、暗い海面を鮮やかな藍(あお)に変えていく。
 輝く海を横目に、フィオリ・アル・レガージュの街は、海と陸とを分ける高い岸壁に朝日を遮られ、まだひっそりとした陰の中にあった。
 ザインは吹き上がる風に髪や衣服を揺らすに任せ、薄い陰を帯びた白い街を見つめた。まるで街の心情を表すかのような色だ。
 ここ最近レガージュの街には、普段とは違う緊張感が漂っていた。
 おそらく国内のどこよりも、フィオリ・アル・レガージュこそが、この日を緊張と不安をもって迎えたのではないか。
 西海との不可侵条約再締結の、この日を。
 昨日マリ王国の交易船が母国へ向け出港し、それを最後に、今港にはレガージュ船団とレガージュの交易船しか停泊していない。アレウス王国が西海との条約再締結を控えている事から、どの国も今日という日を避けていた。
 不可侵条約が再び締結されれば戻る日常だ。
 だが、万が一 ――、不可侵条約の再締結が成されない事が万が一あれば、レガージュの平穏と繁栄は容赦なく打ち破られる。それを否応なく予感せざるを得ない出来事を、この街は僅か一月前に経験したばかりだ。
 ザインは右肘に手を当てた。肘から先はあの時に失われている。
 未だ戻らないそのつるぎ
 そうすぐには戻らないと判っている。それでもその事に感じる焦燥が剣士としての本質的なもの故か、他に原因があるのか、ザインは掴みかねていた。
 ここ数日、頭が冴えていて、剣の眠りは訪れない。
 瞳を転じ、西の海を睨む。
 穏やかに凪ぐ海面からは、その下の異界は想像は付かなかった。
「父さん!」
 背後から掛かった明るい声に、ザインは浮かべていた険しい表情を隠した。振り返り、頬に笑みを浮かべ、走り寄ってくるユージュを待つ。
「おはよう、父さん」
 ザインは子犬のように駆け寄ったユージュの肩に左手を置いた。ユージュの顔は父が今日も目覚めている事への、純粋な喜びに輝いている。
「早いな、ユージュ」
「だって父さんが起きてるんだもん、ボクが寝てたらもったいないよ」
 これまでユージュが日々のほとんどを眠り続け、今は剣を失ったザインが剣の眠りに就く事が多い。ユージュの心情は、ザインの心情でもある。共有できなかった時をこれから共有して行きたいと、互いに強く願っていた。
「でももしかしたら父さんの剣、もうすぐ戻るのかな。そしたら嬉しいね」
 屈託なく笑うユージュへ、ザインも笑みを返した。
「そうだといいな」
「そうだよ、きっと」
 その弾んだ声のまま、お腹空いた、朝ご飯にしよう、と言って、ユージュは少し先に建つ我が家へと歩いて行く。ザインはその姿を束の間見つめ、すぐ後から歩き出した。
(剣が戻れば――)
 早く戻ればいい。
 ユージュを守る為に。
 彼の妻、剣の主でもあったフィオリの描いた街、レガージュを護る為に――
 剣が必要だ。
 ザインの左手が無意識に右肘に触れる。
 剣が――。
 風がゆったりと、岸壁とザイン達の間を抜けた。





 東の空から昇った太陽は、雲一つ無い空を白から青に染め、アレウス王国の西部にも夜明けをもたらす。
 低く連なるエセル山脈を越え、その裾野に広がるハイドランジア湖沼群を照らし、湖面を鏡のように輝かせる。そこにもう一つ、空があるように――湖底に沈んだ風竜の骸が、あたかも空に在るように。
 風が吹き抜けるように。
 やがて曙光は西の軍都ボードヴィルに差し掛かり、慌ただしく騒めく城塞都市を照らした。
 騎馬の蹄鉄の音が冷えた石畳を叩く。
「隊列を乱さず進め!」
 城門を目指し街を抜けていく隊列に、伝令の騎馬が隊列の後方へと速歩を保って抜けながら声を張り上げる。
 正規西方軍第七大隊の左軍全隊、及び右軍半個中隊合わせておよそ千五百名の兵は、大将ウィンスターの指揮下、一里の控えとして王を迎える為に、夜明けと共にボードヴィルを発った。
 王は西海、バルバドスとの国境にある水都バージェスから、西海の使者の案内のもと、正午前にイスへ入る。第七大隊はバージェスの手前、一里地点の街道筋にある館で王を迎え、王が五十名の警護と共に一里の内に進んだ後は、再び王が戻るまでそこを動かず控え続けるのだ。その任務を「一里の控え」と言う。
 任務に移動手段として用いるのは飛竜ではなく、不可侵条約締結以来、この五十年に一度の儀式の慣例とされている、儀装を施した騎馬だ。兵士達もまた正式軍装に身を包み、その面持ちは大役の緊張と誉れに張り詰めている。
 ワッツは自らも馬の背に揺られながら、整然と続く騎馬兵の列を見回した。ワッツの左軍が先導し、中央に大将ウィンスターが騎馬を置き、殿(しんがり)を中将エメルの右軍が務める。ボードヴィルの細い道を進む騎馬兵達を、夜明けにも関わらず多くの住民達が誇らしげに見送っている。堂々たる隊列だ。
(馬か。見目ァいいが、要は飛竜の機動力を封じる為の西海の思惑故だ。まあお互い様じゃあるんだがな)
 互いに一里には軍を踏み込ませず、王の帯同する衛士の五十名という制限も変わらない。帯同の衛士もみな、正式軍装を纏い、儀礼用の細身の剣を帯剣する。
 そうした体裁を整える事で、あくまで儀式であると内外に示すのだ。
(そういう意味じゃ、確かに西海の言うとおり、剣士は規定外だな)
 ボードヴィルの城門を抜け、サランセラムの丘陵から吹き下ろす強い風が隊列に雪崩かかる。騎馬が首を振り、ワッツはその首を叩いた。
(風が強ェ)
 風はどうしても、ルシファーを想起させられる。
 結局、ワッツが第七大隊に赴任する際、西方将軍ヴァン・グレッグから密命を受けたルシファーの館の復元に関する情報漏洩については、手掛かりは得られず、ルシファーへの出どころがこの第七大隊からか否か、それを判断するには至らなかった。
 そもそも箝口令が敷かれていた訳ではなく、初めは誰の館かも判っていなかった。
 そしてどこにでも、風は吹く。
(どこにでも、か――)
 ワッツは再び吹き付けた風に向かい、意志を示すように顎を持ち上げた。





 夜の帳は遠く西の地平へと後退し、西海との不可侵条約再締結当日を迎えた王都の上に、雲一つ無い晴れ渡った空が広がって行く。
 レオアリスは執務室の窓越しに明けていく空を眺め、焦燥を喉の奥に飲み込んだ。イリヤやヴィルトール達の情報は未だ出て来ない。夜明け前にレオアリスが士官棟へ来た時も、執務室の灯は消えていなかった。
 問題を積み残したままだ。もっと強引に動くべきだったのではないかと、そう思える。
 今日という日を迎える前に。
 グランスレイの姿が硝子窓に映る。
「上将、そろそろ王城へ」
 レオアリスは窓の外を眺めていた身体を戻した。
「ああ」
 王は七刻に王都を発つ。出立前に王城で、諸侯との謁見式と国民への姿見式が予定されていた。レオアリスはファルシオンの警護の為、居城へ上がりファルシオンを迎え、アヴァロンと共に玉座後方に控える事になっている。
 グランスレイ以下中将達はレオアリスの前に立った。ヴィルトールを除いて。
 普段はクライフの右に立つ、その空白が大きく重く感じられる。
「――今日と明日」
 レオアリスは部下達の顔を一人一人、見据えた。
「陛下が西海の皇都イスに赴かれる間、第一大隊は王太子殿下の警護を任う。各隊、一層の緊張感を持って任務に当たらせろ」
「は」
「俺は状況によっては、深夜も殿下のお側に控える事になる。もし至急の案件があれば、カイを呼べば応える」
 グランスレイ、ロットバルト、クライフ、フレイザーがそれぞれ、左腕を胸に当て、了承の意を返す。
 レオアリスは彼等を眺め、一度瞳を伏せた。
 ゆっくりと引き上げた時には、去来していた様々な想いは、意志の奥に隠されていた。
「行ってくる」





 曙光はアレウス王国の国土を全て染め上げ、最後に西の海を、水平線まで白く輝かせた。



 そして暗く重い水の底では、西海の皇都イスが、陽の差す事のない夜明けを迎える。






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