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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』


 大通りは早朝から、王城へ向かう人々で賑やかだった。王が西海へ発つ前に王城前庭で行う謁見式を一目見る為だ。五十年に一度の不可侵条約再締結の日を自分が迎えた事について、思い思いに言葉を交わしながら、まだ少し冷えた空気の中、緩やかな坂道を王城へと登っていく。
 今日の儀式にあたり、王が誰を帯同するのか事前に正式な発表があった訳ではなかったが、王城に勤める者や家族に兵士がいる者達から伝え聞き、王都の住民達も大体判っていた。通りを歩く人々のあちこちで交わされる話題には、王の剣士が条約再締結に同行しないのは残念だという話、ファルシオンの警護も同じくらい名誉だという話が多い。
 また別に、西海の皇都イスがどんな所なのかも尽きない興味でもある。
 西海の皇都がどんな所か、息はできるのか、言葉は通じるのか。
 この道を登る誰一人、それどころか王都の住民、国民の誰一人、イスを見た事が無いのだ。
「行ってみたいもんだ」
「物見遊山みたいに行き来ができたらねぇ」
「西海だろ、冗談じゃあない」
「そんな、今さら――戦争をしてたのは三百年も前の事よ」
「この王都アル・ディ・シウムより立派だと思う?」
「まさか」
「祝祭みたいな祭りはあるのかな」
「あってもうちの方が立派さ」
 王都の住民達にとって不可侵条約再締結の儀式も、昨夜までの祝祭の延長線上の事のように感じていた。
 五十年に一度、特別な祭だ。
 これまでの再締結も問題なく行われ、十数世代に渡って続いてきた平穏の前では、かつての西海との激しい大戦も、語られる事こそ無くならないものの、脅威というよりは繰り返してはならない教訓に近い。
「父さん、早く! いい場所が取れないわ」
 王都で手広く商売するデント商会の娘マリーアンジュは、人並みを掻き分けたい気持ちを抑えつつ、振り返って父親を急かした。
「全く、朝から、少し落ち着きなさい、マリーン。どうせもう、後ろの端の方しか空いてないんだから」
「小父さん達と朝まで飲んでるからよ、もう。本当は昨日から並びたかったんだからね。せっかくあの子の晴れ姿が見れるって言うのに」
 マリーンは娘のように頬を膨らませ、彼女の父デントは溜息を吐いた。夜明けまで商人仲間と飲んでいて、身体がだるい。
「昨日? 勘弁してくれ――。しかし、今回はなぁ。本当は陛下に付いて西海に行きたかったろうに」
「そんなの――、そうかもしれないけど! 陛下がお決めになったんだし、それにファルシオン様の守護よ、それだってすごい事よ!」
「判ってる、全く」
 デントは娘の勢いにやれやれとまた息を吐き、それでも人の流れに合わせ、重たい足を少し速めた。王が謁見を行う王城の前庭は広いが、やはりもう少し急がなければ、城門も潜れなかった時に娘の顔が正面から見られない。
 それにデントも、四年前に偶然出会ったあの少年の、成長していく姿を見る事に深い感慨があった。
 通りは賑やかで、期待に満ちている。振り仰いだ空は次第に明け、王城の尖塔の上に澄んで広がり始めていた。





 まだ王城の足元に朝靄が残る。
 早朝の城内はひんやりと冷えた空気が漂い、大理石の床に落とす足音さえも憚られる静けさに満ちていた。
 一階や前庭では、今日の準備の為に夜明けから慌ただしく動き始めていて、あと半刻もしない内に活気が王城全体に広がるだろう。その前の束の間の静謐な空気を感じたくて、アスタロトは一人、夜が明けてすぐ屋敷を出て登城してきた。
 まだ静かな廊下を、床の大理石の模様を追うようにそっと歩く。半円状の天板に幾つもの天井絵を連ねた長い廊下は、人気ひとけもなく、広い窓から差し込む朝の光に霞んでいる。
 光が窓の外いっぱいにある。とても気持ちがいい。
 アスタロトは瞳を細め、ゆっくりと肩で深呼吸した。
(今日、本当に西海に行くんだ――)
 他の様々な想いを除いても、西海の皇都イスに入る事は、ただそれだけで緊張をもたらした。
 この三百年間、誰一人訪れた事の無い場所だ。そして大戦が始まる以前、互いの国使を送り合っていた頃に、ルシファーは国使として西海の都を訪れていた。
 彼女が西海の皇太子と、出会った頃に。
 何をその瞳に映したのだろう。
 どんな想いを抱いたのだろう。
 アスタロトが今日見るその姿は、彼女がかつて見た景色と同じだろうか。
 尋ねるすべは無いけれど。
 そう思ってからアスタロトは一度、足を止めた。
 そうだろうか。
 尋ねる術は無い――?



『私と、来る――?』



(ファーと)
 あの言葉はまだ生きているかもしれない。
 冷たい風に触れたかのように、アスタロトは肩を震わせた。
 自分は聞いてみたいのだろうか。ルシファーの想いを。
 きっと今の自分と、近かった――
 その事が身を震わせる。
 聞いたら、答えが出るのか。
 この想いに
「うぶ!」
 どん! と顔から何かにぶつかって、アスタロトはそれまでの思考も何も無く、咄嗟に顔を押えた。鼻の頭をしたたか打った。
「っぷ……いっ……たぁ――!」
「下ばっかり向いて歩いてるからだろ。大体女が顔からぶつかるか? しかもかなり無頓着だったな」
 まず靴先が目に入った。脚の脇に銀糸の刺繍の線が入った、見覚えのある近衛師団の軍服。
 でもそんな事よりもずっと――、聞き慣れた声が。
「――」
 息が止まり、鼓動が大きくなる。
 まだじんじんする鼻を押えたまま、アスタロトはそおっと顔を上げた。目の前にいる相手を見て、ぎゅっと胸の奥が縮む。
「――レオアリス」
「大丈夫か? 一応、何回か声掛けたんだぜ」
「あ、うん、平気、ごめん」
「まあ途中から、ぼーっと歩いてるからどうなるのかと思って黙って見てたんだけど」
 まさか顔からぶつかるとは思わなかった、とレオアリスは可笑しそうに笑った。
「相変わらずだな」
(――レオアリスだ)
 ここで会うとは思わなかった。
 自分に向けられている、いつもと変わらない笑み。
 嬉しい。
「その、えっと、ちょっと――考え事してて」
 顔がぶつかったのは、レオアリスの肩辺りだった。
 だから今すごく、近い位置に立っている。
 爪先を伸ばしたら、額が付くくらい――
(――わああ! な、何言って)
 アスタロトは狼狽え、慌てて大股に一歩後退った。心臓が破裂しそうで、レオアリスの瞳がほんの僅か、細められた事にアスタロトは気付かなかった。
「何をそんなに考えてたんだ?」
 口を開くまでに、アスタロトは一度鼓動を抑える必要があった。
「えっと――そ、そう、今日、西海に行くから、緊張してて」
 咄嗟に口にしてしまったが、西海にという言葉がレオアリスにどう響いたか、気になる。
 ちらりと見れば特にその言葉を気にした様子は無かった。そっと息を吐く。
「――」
 面と向かって会うのは、ルシファーの館の復元から戻ってきた日以来だろうか。あの日、西海への同行者も決まって――たった七日程度の事なのに、いろんな事があった。
 舞台の赤い衣装を血で染めたあの姿を思い出すと、今も怖い。
 でも、こうしてレオアリスが目の前にいる。そう思うとそれだけで心が軽くなり、そしてぎゅうっと絞られた。
 本当は、夕べ――アスタロトは庭園でレオアリスを見かけた。
 東屋で王と話をしていた。
 声を掛けられず、遠回りをして、庭園を出たのだ。
 それに一昨日、レオアリスがアスタロトの館を訪ねてきた時も、アスタロトは自分から連絡をしていない。
「ごめん――」
「え?」
「おととい。連絡しなくて……まだ南方第三大隊からは、報告は無いんだ」
「――そうか」
 レオアリスの面にほんの僅か、思い悩む色が過り、すぐに隠れる。
 その理由が何なのか、アスタロトには判らない。今までだって悩みを全部話していた訳ではないが、それでも何を悩んでいるのかすら判らない事は無かった気がする。
 そのきっかけを作ったのは、自分自身だとも思う。
「……ロットバルトも、気になってるだろうね。ロカの辺りはヴェルナー侯爵の領地の中でも、ロットバルトが預かってる所でしょ」
 アスタロトは周囲に人の気配が無い事を確かめ、声を落とした。「おとといの襲撃はその関係?」
 レオアリスの漆黒の瞳が、もう一つ陰る。
「――多分な」
「無事で良かったけど……せめてどっちか、手掛かりが掴めればいいんだけどね」
 アスタロトの言葉に対してレオアリスは、自分の中に答えを探したようだった。ロットバルトがレオアリスに、兄ヘルムフリートやトゥレスへの疑念を告げた事などアスタロトには知りようがない。
 だからレオアリスの今の沈黙を、アスタロトはただ寂しいと、そう思った。
「それについては、いずれ解決する」
「――うん」
 アスタロトはそっとため息をついた。何日ぶりかに会って、いつだってずっと会いたかったのに、会ってみれば結局正規軍のアスタロトという立場で話をしている。
 レオアリスとの間が近衛師団と正規軍という関係でしか語れないのなら、いっそその分、もっと力になれたらいいのに、それもできない。
(中途半端だな、私)
 割り切る事ができたらと思う反面、割り切る事で自分から決定付けてしまう事が怖いのだ。
「アスタロト」
 鼓動を鳴らして顔を上げると、レオアリスの真剣な眼差しとぶつかった。複雑な想いを見抜かれるようだ。
「な、 何?」
 動揺が表に出ていたと、自分でも思う。レオアリスはアスタロトのその様子を見つめ、微かな息を落とした。
「いや」
 その短い声に落胆の響きを感じ、心臓が胸の中で上下に跳ねる。変な態度ばかり取ったから、きっと呆れたのだ。
「今日――」
「今日? だ、大丈夫! 護衛なら、任せて」
 さっとそう言うと、レオアリスはもう一度、今度ははっきりと息を吐いた。それこそ、相手の――アスタロトの思い違いを、正すのを諦めるような。
(え――)
 レオアリスは束の間の、汲み取れない沈黙の後、ほんの僅か口元に笑みを過らせた。
 それまでの空気を変えるように一歩足を引き、アスタロトと向かい合う。
「――今日と明日、頼む」
 短い言葉だ。でも、その想いが示す事は判る。
 王の守護を――、と。
 昨日、アスタロトはレオアリスが王と向き合っている所を見た。
 声を掛けられなかった。
 声を掛けたくなかったからでもある。
 レオアリスが纏う空気を、壊したくなかったから。
 そう――
 胸の奥に、想いがそっと湧き上がる。
(それでいいんだ)
 レオアリスが王の前に在る時に、アスタロトを思い出すとは思えない。
 それでも剣の主の前に在るあの姿は、アスタロトの胸の奥にも喜びを生んだ。
 そう在り続けて欲しいと、心の底から思う。
 西海に赴く王の傍らにいる事ができないのは、レオアリスにとってどれだけ悔しいだろう。
「うん。――任せて」
 もう一度、今度は真っ直ぐにそう言って顔を持ち上げ、にこりと笑った。
「お前の代わり、私がしてあげる」
 今回レオアリスが選ばれず自分が選ばれた事を後ろめたくすら思っていたが、レオアリスの代わりに、と、そう思えるのも多分、アスタロトだけだ。
「心配する必要ないよ。ちゃんと暴れたりしないで礼儀正しくするしね」
「してねぇよ」
 レオアリスは苦笑に口の端を上げ、それから真剣な顔をした。
「信頼してる」
 信頼。
 アスタロトの心が望む言葉は、もう一つあったけれど――、それでいいと思った。
 その言葉だってアスタロトにはとても大切だ。
「うん――じゃあ、後で。正式軍装するから見てね」
「似合うだろうな」
 夜会で着飾った時は言ってくれないのにな、と思ったら可笑しくなった。
「それじゃ」
 手を振って、レオアリスの横を抜ける。レオアリスはアスタロトを見送ってから、アスタロトが先ほど昇ってきた階段の方へ向かった。大理石の床を踏む靴音が、一度立ち止まる。
「――アスタロト」
 戻る靴音と同時に、レオアリスの手がアスタロトの手首を掴み、ぐいと引いた。
 振り返り――すごく近くで視線が合う。
 鼓動が、止まった。
「なに」
 レオアリスは自分の中にある僅かな迷いを押し込め、口を開いたように見えた。
「気を付けろよ」
 真剣な声の響きに鼓動がぶり返す。先ほど自分の心を見つめ直したと思ったのに、また変わりそうだ。
 時計の振り子みたいだと、頭のどこかで思う。ゆらゆら落ち着かなくて、振り子の勢いに目が回るような気がした。
「――西海? 判ってる、最近の動きは大胆過ぎたからね、正規軍うちでも警戒はしてる」
 そう言う間もずっと触れている手首が勢いよく脈打っていて、変に思われないかと、それが気になった。
「さすがに条約再締結の場で何かあるとは思わないけどな……ただ、万が一何かあっても、無茶だけはするな」
「大丈夫だって。それに何かあったら、まあ私だって正規軍将軍だし、意味なく炎帝公って呼ばれてる訳じゃないしね――別に暴れるつもりなんて無いけど」
「そうじゃない」
「――」
 アスタロトは息を詰めた。
 多分レオアリスが意図しているのは、ルシファーの事だ。
 いつの間にかレオアリスの手は離れていたが、アスタロトはずっと同じ姿勢のままレオアリスを見つめていた。
「――そうじゃないって?」
「もし……万が一何かあったと仮定して、西海はお前には不利な場所だ」
 レオアリスは自分が口にした事に、口にして改めて思い至ったように眉をしかめた。語気を強める。
「取り越し苦労だろうけどな。でも俺は」
 一度口を閉ざす。向けられた瞳には、思いがけない、苛立ちがあった。
 その色に見覚えがあった。最近、たまに見せる色。
 王に離反したルシファーに対して、レオアリスが浮かべた苛立ち――それだと。
「ファーが、何かするかもって、こと?」
「悪い。でも俺はルシファーをお前ほど信じてない。お前だってそこまで信じる理由があるのか? そうやって悩んでるのだって、ルシファーが原因なんだろう」
「――」
 自分がさっきまで考えていた事を見透かされたように思えて、アスタロトは思わず肩を震わせた。もし気付かれたらきっと、軽蔑される。
「ああ――、違う」
 レオアリスは瞳に浮かべた苛立ちを表わすように、前髪をくしゃりと交ぜた。「こんな事が言いたいんじゃないんだ」
「判ってるよ、私も自分の役目は、ちゃんと」
 そう返している途中で、ふいにすごく、悲しくなった。
 気付かれたら――?
 そんなのは、心配する必要もない事じゃないか。
(気付くわけない)
 レオアリスはアスタロトの気持ちになんて気付かない。
 何にアスタロトが悩んでいるかとか。
 どうしてルシファーがアスタロトの気持ちを解ってくれるのか、アスタロトがルシファーの想いを解るのか。
「言われなくても」
「そうじゃなくて、俺は」
 王城の尖塔から、六刻を報せる鐘の音が空気を揺らして落ちる。レオアリスはその音を気にして顔を上げた。もうファルシオンを迎えに上がる時間が迫っているのだろう、口調を早めた。
「とにかく、俺がルシファーとの事に口出しするのは、お前には腹が立つかもしれねぇけど」
「そんな事、ないよ。何で」
「だから俺を避けてるんだろ? 俺はお前の望みも無視して、ルシファーと戦ったからな。納得できないのは判る――」
「違うよ!」
 たまらず遮り、アスタロトは大きく首を振った。
 声はアスタロト自身にも思いがけず静かな廊下に響き、レオアリスは驚いた顔でまじまじとアスタロトを見つめている。
 唇を噛み、ぎゅっと両手を握り締める。
「そんな事思ってない――レオアリスは、何も、解ってない!」
「――」
「解らないんだ」
 想いが湧き出して、止まらない。
 解らないくせに。
「アスタロト」
「私がレオアリスの事を好きだなんて――考えた事もないでしょ」
 全ての音が消えた気がした。
 身体が震える。
 ――言ってしまった。
 溜めていた想いをこんなふうに曝け出して、心臓が破裂寸前だ。顔が上げられない。
「――」
 顔を見なくても、レオアリスが呆気に取られているのが判る。一体何を言いだしたのか、全く理解できていないだろう。
 自分でもバカみたいだと思う。けれど、膨れ上がる気持ちが止まらなかった。
「――好きなんだ」
 レオアリスが何か言うのが耐えられず、アスタロトはくるりと背中を向けて駆け出した。
 もしかしたらレオアリスは、アスタロトを呼び止めたかもしれない。けれどアスタロトは固く両手を握り締めて振り返らないまま、目についた階段へと廊下を曲がり、逃げるように駆け上がった。
 長い廊下をしばらく走り、それからふっと立ち止まり、その場にしゃがみ込む。
 追いかけてくる足音は聞こえない。
 不意に後悔が足元から這い上がり、怖くなった。
「――っ」
 言ってしまった。
 言うつもりなんて一切無かったのに、それもあんな、その場の勢いみたいに――
 全然、そんな話じゃなかったのに。
(信じられない――何やってんの)
 きっと呆れたはずだ。
 こんな時に何を馬鹿な事を言うのだと思っただろうか。
 それともレオアリスには、唐突過ぎて伝わってさえいないかもしれないと思い、いっそその方がいいと思った。
 そうじゃなくてただ、困ると、言われたら――
(――どうしよう)
 何で口にしてしまったのだろうと、そればかりが頭に浮かぶ。
 何であそこで会ってしまったのだろう。
 ただ一つはっきりしているのは、もう決して、今までのようには戻れないという事だった。






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