二十一
踏み出す度、道に敷かれた玉石が靴の裏で転がり、互いに擦れ合い音を立てる。自分の立てる足音より、前を歩く王の足音の方が耳に響いた。
王城を中心に広がる庭園は、腰の辺りまでの低い埴栽が道を造り、時折開けた空間には噴水や四阿が置かれている。
白い半円の天蓋と優美な六本の柱で造られた四阿の中に立ち、王は振り返って正面に見える王城と、その反対に広がる王都の街の灯りを眺めた。
レオアリスが一旦、四阿への石段の前で立ち止まり膝をつくのを見て、傍へ上がるようにと招く。柱の傍に立ち、再び跪こうとしたレオアリスへ、王は「そのままで良い」と軽く手を上げた。
王はその半身をレオアリスへ向け立っている。王と立ったまま向かい合う事など初めてで、レオアリスは戸惑いを覚えつつ、王が口を開くのを待った。
しばらくは、王は思索するように双眸を庭園へ向け無言のままで、レオアリスも黙って立っていた。
無言の時間は空気がぴんと張り詰める感覚があったが、苦痛ではない。むしろこの場に――王の傍らに在る事は、胸の奥にたゆたうような深い喜びを覚えた。その喜びが心臓から送り出された血液に溶け、全身に行き渡る。
身の裡の剣が刻む、鼓動――
「これまでこうして話をする事は、余り無かったな」
王はふと思い出すようにそう言って、レオアリスへ黄金の瞳を向けた。
「改めて向かい合うと、初めてそなたが私の前に立った時の姿を思い出す。四年前――そなたはまだ十四歳と幼かった。今は十八になったか」
「はい。この四月に」
「早いものだ」
四年――決して平坦では無かったが、振り返ってみればあっという間に過ぎたように思える。
王都に上がり初めて王を目の前にして、それまでの漠然とした、けれど強い憧憬は、明確に形を持った喜びに変わった。
自分が剣士である事と王への憧憬は、レオアリスにとってほとんど同義だった。
王はレオアリスを見て、笑みを刷いた。
「そなたは私を慕ってくれている。良く周囲から、あたかも子が父を慕うようだと評するのを聞くが、その通りであろう」
どっと血が昇るのが判り、レオアリスは思わず狼狽えた。
「そのような、大それた事は――」
「良い。私も、そのようにそなたを見ている時がある。私がそなたを名付けた事もあろうが、どこかでそなたの事を、もう一人の子のようにも思えていた」
どくりと心音が響く。
父とはこんな存在だろうかと――密かな、自分の心の中だけの、勝手な投影だ。実の父の事を知ってからも、その想いが心に常にあった。
けれど、王が自ら、その絵を重ねてくれているとは思わなかった。
全身を巡る血が熱を放ち、指先まで温もりを持つように思える。
「私はかつて、そなたの父に会った事がある。先の大戦の折、戦況が最も激しい時期であったか」
「父に」
大戦の剣士と呼ばれた、絵姿でしか見た事が無い、レオアリスの父。
そなたに良く似ていた、と、王も言った。
「剣士には剣の主を得る者があると、そう聞いた。剣士にとっての剣とは、その者自身、根幹であろう」
黄金の瞳にレオアリスの姿を映す。その向こうに父が立っているようにも思えた。
「剣士にその剣を捧げられる――これほどに揺るぎない信頼はあるまい。いつか剣を得たいと、私も望んだ」
不思議な感覚だ。三百年も昔、王が自分の父と言葉を交わし、それが長い時を経て、今の自分に間接的に繋がっている。
いや、直接的にかもしれない。王の心に留まっていたその想いが、生まれたばかりのレオアリスを炎の中から救い、剣士としての覚醒を促した。
「こうしてそなたの剣を受ける事になろうとは、その時には思いもしなかったが。時の流れとは面白い」
そう、思う。
父が王と言葉を交わしていなければ、自分はおそらくここにはいなかったのだ。
この王の前には。
もう想像などできないが。
「久しくそなたの剣を見ていない。見せてもらえるか」
レオアリスは頷き、鳩尾に右手を当てた。
庭園の樹々や埴栽の間を渡る風が、時折花の薫りを運んでくる。
ロットバルトは遠間から、四阿で向かい合う王とレオアリスの姿を眺めた。この庭園にいる者はどこにいても、あの場所が判るように思う。そこだけ周囲との空気が違うからだ。
王の放つ静謐な威厳と、その前に在る王の剣。
(王家の尊厳を弥増す――いずれ)
ロットバルトは一度、傍らのアヴァロンへ意識を向けた。
アヴァロンの後を継ぐのはやはり、レオアリスだろう。王の守護という点に置いて、他に比肩し得る存在は無い。
何よりもレオアリスの中には、強く揺るぎない、彼の存在意義にも等しい王への信頼と敬愛がある。
その一方で、複雑な関係にある主従だとも思う。
王にとっては自分に剣を向けた一族の生き残りであり、レオアリスにとって王は、一族を滅ぼした仇であり命を救われた恩人だ。
レオアリスはそれらを何一つ知らないままに、王を剣の主として選んだ。
(剣士としての性質故――だが一番大きな要因は、あの村の人々の育て方だったのかもしれないな)
幼い心に、恨みを植えなかった。
彼等と、そしてその思い出の向こうにいる剣士の一族が、そういう質だったのだろう。
自分の過去が判った時でさえも、レオアリスの中にあったのは自身への戸惑いで、恨みや憎しみではなかった。
王の上に父の姿を重ね、憧れ、敬愛し、その傍らに在りたいと願う。
ロットバルトがずっと見てきたレオアリスの姿だ。
(――父か)
ふとその言葉に父ヴェルナー侯爵の顔が浮かぶ。
レオアリスの抱く想いのような対象ではない。
ただ自分にはいるのだから、もう少し歩み寄ってもいいのかもしれないと、そう思った。兄のヘルムフリートともだ。
(さすがに今しがたの遣り合いは、誉められたものじゃあないしな)
理解を得る為に対話を図るのが、分別のある真っ当な手段だろう。
この先、近衛師団で自分に求められる役割は大きくなる。
ロットバルトは当初、この危うい盤面に立つ存在をいかに補佐し、足場を保って駒を進めるかを主眼に置いていた。バインドが見せた剣士の狂気による根本的な忌避と、年齢に比して高い地位にある事による妬みや、後ろ楯が弱いが故の軽視、思惑に対してだ。
立場を変え、王の剣士として存在を示した今は、その名にあやかろうとする動きに対して取捨選択をしながら、足場を固め段階を踏んでいく事が重要になっている。
どちらにしても、レオアリス自身の望みとは全く違うのだろう。
レオアリスの望みは王の傍らにあり、その剣を以って守護する事――それは一貫して変わらない。
彼の剣の主が王だったと、それだけの話だ。
そして、それが全て――。
主の前に顕現する事への剣の喜びが、鳩尾に当てた掌を通してはっきりと伝わってくる。
(俺もだ――)
この王の前に在る事ができて良かったと、心の底から思う。
レオアリスの全身を薄らと青白い光が包んだ。
ずぶりと手首まで沈み、引き出すにつれ零れた光が辺りを照らす。
大気が凛と張り詰める。
現われた一振りの剣、月光に浸したような冴えた刀身が、天空に浮かぶ月の光を受け、水面に映る影のように静かに輝く。
剣が放つ皮膚を裂きそうなほどの気配に、樹々の微かな葉擦れの音さえ息を潜める。
剣の柄を王へ、切っ先を自分へと向けて捧げ持ち、レオアリスは片膝をついた。
王が金色の双眸を細める。
「十八年前――生まれたばかりのそなたに名を付けた時、その刀身を曇らせる事無く、自ら光を纏う剣のようであれと願った。強く、清澄な光を纏う剣のようであれと」
剣が淡く光を増す。
「そなたはそのように成長した。もともと持つ性質を、そう感じ取っただけかもしれぬが」
王はレオアリスへ一歩歩み寄ると、右手を伸ばし、青白く輝く刀身に触れた。
王の指先から零れた金色の光が刀身を波紋のように広がる。それはレオアリスの腕を伝い、胸の奥に落ちた。
黄金の双眸がレオアリスに注がれる。
「そなたのような剣を得られた私は、幸運だ」
レオアリスは震えるほどの想いを抑え、ぐっと唇を引き結んだ。
どう、表せばいいのだろう――
王のその一言は、レオアリスの存在そのものを肯定した。
王が指先を戻すと、剣はレオアリスの手の中から溶けた。
王はその手を持ち上げ、レオアリスの頭を一度、くしゃりと撫でた。
「――」
思いがけない行為に驚いて、レオアリスは瞳を見開いて王を見上げた。王の笑みが瞳に映る。
「ふむ。大きくなった」
一呼吸置いて、どっと全身の血が巡る。
言われたかった言葉だ。そしてまた、言われる事など想定もしていなかった言葉――
自分がまるで、四つか五つの幼い子供に戻ったような気がした。
「レオアリス」
王は上げていた手を下ろし、その名を呼んだ。
夜を渡る風が静かに肌を掠めていく。そこに深い安らぎを感じるのは、目の前に剣の主がいるからだ。
この王の為に、自分は自らの持つ最大の力を果たし、成し得ると、そう強く思う。
「剣とは敵を切り裂くのみに非ず、そなたら剣士がこれまで心を以って示してきたように、誰かを、何かを護るものでもあろう。そしてまた、そなたが自らそうしてきたように、未来を切り拓くものでもある」
言葉が一つ一つ、心に落ち、広がる。
「そなたは自ら切り拓き、ここに立った。この先迷う事もあろう。その時は、答えは常にそなた自身の中にあるのだと、思い出すと良い」
「――はい」
レオアリスは王の言葉を胸に秘めるように頷いた。
「そなたがこの先どのように成長していくのか、楽しみだ」
そう言うと、王はその身に纏う空気を僅かに変えた。
「レオアリス。明日からの私の不在においては、ファルシオンを良く支えてもらいたい。あれはまだ幼い。国の大事にあってはそなたを始め、周囲の支えが必要だ」
「この身命を以って、務めさせて頂きます」
王は頷き、四阿の石段を一歩降りた。ふと振り返る。
「そなたのその剣のもう一振りが、ファルシオンの為にあれば良いが――望み過ぎか」
レオアリスに、というよりは、自問のような響きだった。
「そのような事は、決して」
そう言いながらレオアリスは、先ほど王の前に示した剣は一刀のみだった事を改めて思い出した。意図した訳ではなく、ごく自然に。
もう一振りが同様の喜びを覚えていたのは確かだ。
王はそれ以上は言わず、四阿を降り、広場から延びる庭園の道へと歩いていく。
宵闇と夜風が、王との間を隔てていく。
玉石を踏む靴音。
ふいに湧き上がった強い想いに、レオアリスはつい口を開いた。
「陛下――」
王が足を止め、振り返る。
その姿が、遠く感じた。
『レオアリスは、父上のお側にいなくてはいけないと思う』
ファルシオンの言葉――幼い王子の不安。
レオアリスの中にある、懸念。
もう決まった事だと判っていても、問わずにはいられなかった。
「明日――、私を共に西海へお連れいただく事は、叶いませんか」
厳しい叱責を受けても当然の発言だ。それでも構わない、王の傍らに剣を置く事ができれば――
王はレオアリスを真っ直ぐ見つめた。
何故という問い掛けも、叱責も無かった。
「――それは変わらぬ。国と国との約定だ。だからこそ、そなたはファルシオンの傍にあって支えよ」
「――」
もっと強く願うべきだと、そう思いながらも、続く言葉は出なかった。
王を迎えるアヴァロンの視線が一度レオアリスへ流れ、そこに自分に任せよという意思を、見たように思う。
ロットバルトが四阿へ歩み寄ってからもずっと、レオアリスは元のまま立ち、王の姿を見送っていた。
「きれいな光だったな……」
ファルシオンは王城六階層に位置する自邸の庭園の欄から、ずっと下の、微かな灯りに浮かび上がる広い庭園をしばらく見下ろしていた。
姿は見えなかったが、レオアリスの剣の光だ。
ファルシオンが前に見た時よりもずっとずっと、強くて綺麗な光だった。
父王の前にいたのだろう、と何となく判った。
(やっぱり、父上の剣士なのだ)
自分はまだ、あの剣を受けるには、足りていないのだと思う。
まだこれから、この国の王太子として成長していかなければいけないのだ。
(成長したら私も、父上のようになれるかな)
「ファルシオン様、お身体が冷えてしまいます、そろそろお戻りくださいませ」
ハンプトンの声に、ファルシオンは振り返って頷いた。
「うん」
もう一度だけ、ファルシオンはもうあの光の消えた庭園を見下ろし、やはり明日、レオアリスが父王の傍らにいなくてはいけないのではないかと――その想いを押し込めながら、ハンプトンの手を握った。
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