ファルシオンは右手をぎゅっと握り締めた。手のひらと指に固い感触が反り、それでほっと微かな息が零れる。
固い靴底と石造りの床は、硬質な音を閉ざされた壁に響かせ散らしていく。
王城の地下に降りて行く細い階段には、華美な装飾も無ければ周囲を明るく照らし出す燭蝋も無かった。ただぼんやりとした灯りが壁の腰高に掛けられ、その目的に合わせて申し訳程度に足元を浮かび上がらせている。
ファルシオンは長く暗い、時折廊下を渡ってまたその途中や端から続く階段を、供の一人もなく、灯り一つ手にせずに下っていた。
少し背も伸び、まだ幼い面の中の黄金の瞳もどことなくおとなびている。それは間違いなく、この半年経験してきたもののせいだろう。
半年前、ハンプトン達に手を引かれてここを訳も判らず駆け降りた時の事を、ファルシオンはまだ昨日の事のように覚えていた。
長い階段と入り組んだ通路。ハンプトンの顔は青ざめ強ばっていて、傍に付いているのは数人の侍従達だけ、母である王妃やエアリディアルがどこにいるのかも判らない。初めて入る迷路のようなこの地下は、暗い場所に永遠に閉じ込められる気がして、怖くて心細かった。
それでもあの時、母と姉がまだ居城に残っていた事すらファルシオンは知らなかったのだ。
もし知っていたら、当然ファルシオンは戻ろうとしただろうし、心配でいても立ってもいられなかっただろう。
幼い心に生じた震えを、右手の中の石の存在を確かめる事で抑える。
あの半年前の、たった数日が、まるで何ヵ月も何年も時を過ごしたように感じられた。
当然だ。
誰がそんなふうに、大きく変わってしまうと思っただろう。
昨日までそこにあったもの、全てが嘘だったかのように。
人の心も。
深く深く降りる。入り口はファルシオンの居城の一角にあるのに、おそらく王城の一階よりも深い場所だ。
遥か昔、最初に王都と王城が築かれたと同時に造られたが、これまで使われた事の無い場所だった。
時折惑わすように廊下が別れているのは、王城に複数ある入り口から繋がる通路と、また万が一の浸入者に対する防備の為だが、迷宮のようなこの地下も、ここを歩き慣れているファルシオンは今は迷う事がなかった。
延々と階段を降りて行った一番先は王都の街門の外に繋がっていて、全部で四つの出口があると聞いていたが、そこまで行った事はない。
行き止まりでは無い事も含め、ハンプトン達はファルシオンが一人で降りる事を心配するが、ファルシオンは危ないとは思わなかった。
ここは唯一、父王の張った結界が生きている場所だからだ。
目を閉じればより強くそれを感じる事ができた。
それに今から向かう先の事を考えれば、怖い事などない。
ただ、その事が逆に胸を強く締め付ける。
やがてファルシオンは居城の入り口から六階分ほど降りた階の、長い廊下の中央にある一つの扉の前で立ち止まった。深く降りて来てようやく辿り着いた事にほっと息を吐き、そしてしばらくの間、視線が上げられないまま足元に視線を落としていた。
右手の中の硬い感覚。
呼吸を整え、それから、ファルシオンは重い両開きの扉を見上げた。
周囲の白い花崗岩と同じ石の扉だ。少し表面の欠けてきた扉は、一枚に四角い彫りが横に二つずつ、縦に八つ刻まれている。
二枚の扉のそれぞれ上から二つ目と三つ目の四角い彫りの間、ファルシオンの頭よりまだ身体一つ分は上に、王の紋章があった。
この扉の奥の部屋は窓は一つもなく、出入りはこの扉からだけだ。
鍵は掛けられていない。
この半年の間ずっと鍵が掛けられてこなかったが、扉が内側から開かれる事は無かった。
こうして扉の前に立ち、或いは扉を開け、ファルシオンから問い掛ける事はあっても――答えは返らない。
「――」
ファルシオンは握り締めていた手を開いた。まだ小さな手のひらに納まっていたものが、手のひらの上で転がり微かな光を弾く。
銀の台座に嵌め込まれた、小鳥の卵ほどの大きさの青い石――
じっと見つめると、石の奥に交差する剣の模様が見える。
二振りの剣――、あの存在をそのまま、表しているようだ。
石は今はくすんで透明感を失っている。
ファルシオンはそっと息を吐いた。まだ五歳ほどの幼い少年には似付かわしくない、重く苦悩の響きがあった。
国は荒れている。
いつもいつも、謁見の間に上がってくる報せに心が苦しくなる。
ファルシオンが何かをしようとしても、毎日どこかで獣が街を襲い、西方で争いが起きた。
長い間王家を支えてきた四大公爵家も、西方公が離反してから対立し、ファルシオンには統べる事ができていない。
たった半年の間に、母やエアリディアルとも会う事ができなくなった。
「――私が……、父上みたいになれないから」
だから。
再び、青い石の飾りをぎゅっと握り締める。
小さな手で、強く。
強く。
手の中で青い石は沈黙している。
いつもそうだ。
だから。
「私の為に……、お前の剣は無いのか」
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