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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第四章『言祝ことほぎ』

十七

 重量のある水がゆらりと揺れる。
 水底にわだかまる陰が身を一つ揺する。
 生み出された波は、光の無い海の中を進んだ。その波に触れる直前で、海の生き物達は慌てて身を翻す。
 波は速度を緩める事無く進み、深海を悠然と泳いでいた巨大な影の上を過ぎた。八本の脚を持つ大蛸だ。岩と見まがう皮膚、丸い頭は帆船の帆ほどもあり、吸盤を持つ脚を伸ばせば体長は十五間にも渡る。
 蟠っていた陰が闇の中で煌々と光る眼を開く。鱗で覆われた長い身体がぞろりと動き、次の瞬間、海の中を疾駆した。
 一直線に八本脚の巨体に迫る。途方もない長い体躯を持つ生物――大海蛇は、獲物の姿をその光る両眼に捉えた。
 気付いて脚をくねらせ退こうとした大蛸の躯に、竜巻のごとき勢いで長い胴体が巻き付く。
 吸盤毎に鋭い歯が生えた八本の脚がうねって暴れ、戒めを食い破ろうと大海蛇の胴に絡む。鱗を刺し通そうとする吸盤を意に介さず、長い胴は更に巻き付いて締め付ける。
 嵐のような攻防は、しかし長くは続かなかった。
『――おのれ、ナジャル……!』
 激しい怒り――すぐに悲鳴に変わる。
 まだ八本の脚が余力を残している間に、ナジャルの大顎は巨大な頭を噛み砕いた。
『海、皇……』
 長い脚からゆっくりと力が失せ、傷一つ無いナジャルの胴体から離れて垂れ下がり、波に揺れる。
 深海の中に静寂が戻った。
 遠巻きに、恐るべき捕食者の様子を伺うような静寂だ。
 そこにふわりと、そぐわない声が落ちた。
「止めて頂戴、海皇様の兵力を減らすのは」
 ナジャルの頭上へ、泡を纏いながら人影が降りてくる。薄い空気の膜に包まれ、その姿は淡く発光しているように見えた。
 水が震動した。
はかりごとは順調かね、虚象の姫君』
 顎から濃い血の匂いを漂わせながら、ナジャルはぞろりと並ぶ牙を剥くように嗤った。大蛸の身がナジャルの戒めから解かれ、深海の暗がりへ漂っていく。
「順調よ、とても。だから肝心な時に戦力が減るのは困るの」
『地上で役に立たぬ者など、喰ろうて何の問題がある』
「退屈しのぎはもうすぐできるでしょう。久方ぶりの饗宴になるわ、あなたも楽しんで」
 ナジャルはゆっくりと水を分け、更に暗い深淵へと沈み始めた。
『雑魚を幾ら喰ろうても満たされぬ。地上の王を喰らうなら楽しかろうな』
「海皇様がお許しになられたらね――」
 ルシファーの言葉はナジャルの鱗に覆われた背の上に落ちた。
 やがて黒い水がナジャルの銀の身体を隠すのを見届け、ルシファーは海中を歩き出した。
 ナジャルの気配が薄れるにつれ、息を潜めていた者達が、ひそ、ひそ、と周囲の暗い澱みで囁き始める。
 囁きにはルシファーへの不信感が色濃い。
 足を止め、囁きの主達を澱みの向こうから焙り出すように、ルシファーの瞳が周囲を一周する。
「私と話をしたいのなら、聞くわ」
 身に纏った暁の光が海中に溶けて広がり、途端に囁きはぴたりと静まった。
 再び歩きながらルシファーは口の端を引き上げた。
 明後日の出陣を前にして、下の者達がこうなのだから、上位の海魔達がルシファーへの不信を隠していないのだろう。
「まあ当然ね――」
 構わない。
 信頼など得られなくても問題は無く、必要も無い。西海の兵は海皇の意思のもとにただ動けばいいのだ。
 地上と、三百年を経た戦いに興じてくれれば。
「三百年――いいえ」
 遥か昔、約束された盟約の終焉に。
 この海は何よりそれを望んでいる。


 ルシファーの姿もその場から消えた後、遠巻きに囁いていた者達は、我先に大蛸の亡骸に群がった。
 そして各々の牙や触手で大蛸の身をむしり、貪り始めた。



 西海の住人達には、大別して二つの種がある。
 元来海洋に暮らす種と、地上から海に移り、適応してきた種と。
 三の戟筆頭ナジャルは前者にして、この海で最も古くから生き続けている。海皇がバルバドスを平定した時に軍門に下った、古き王。
 海皇、三の戟のヴェパール、ビュルゲルに代表される青白い肌を持つ人型種は、後者だ。
 遥か昔、海皇と共にバルバドスに下った彼らは、幾世代を経て自らを変化させ適応しながら、いまだ地上を諦め切れず、欲している。
 地上を忌み、地面に縛り付けられ這い回る者達を嘲笑い、鮮やかな色彩に強い羨望を抱き、戻りたがっている。
 彼等の皇都イスは定まる事無く海中を移動し続け、いつか――
 ルシファーは正面に横たわる膨大な水の向こうを透かし見て、一度歩みを止めた。
 暗い水を押し退け、巨大な影が、ゆっくりと近づいてくる。山が一つ、近づいて来るようだ。
 西海の首都、イス。
 ルシファーは唇に笑みを浮かべ、次第にあらわになるその美しい都の姿をじっと見つめた。



 海皇の居城は皇都の中央に高くそびえ、皇都全体を見渡している。
 居城を中心に国政を担う機関が集うが、政務機能は失われて久しく、棟内は静まり返っていた。
 西海は一応の版図はんとを持つものの、地上の国々の大多数を占める国家構成、仕組みとは完全に異なっていた。
 単純にして無慈悲、ナジャルの行為に顕れているように、強者が全てを統べる構図だ。
 そして西海の中で、海皇は絶対的統治者だった。



 海皇の玉座の下に膝をつき、ルシファーは恭しく頭を下げた。冷えきった謁見の間には、明日の西海軍の動きを想起させるような昂ぶりは欠片も無い。
 ルシファーが口上を述べる。
「西海を統べる強大にして英明なる海皇陛下に、言祝ことほぎを――」 きざはしの上の存在を見上げる。玉座に腰掛ける男の膝がルシファーの瞳に映る。
 言葉は、玉座の空間そのものが発したように思えた。
『言祝ぎ――』
 深い、聞く者に底知れない恐怖を抱かせる無慈悲な声に、微かに笑いが含まれていた。
『誰に向けての言祝ぎか――』
 ルシファーは伏せた面の、暁の瞳をそっと細めた。
「この度の、盟約の終焉に向けて――かつての混沌の復活に向けて。再び天の光が御身に注ぐ事を、わたくしは言祝ぐのでございます」
 空気が揺れる。
 笑ったのだと判ったが、海皇は何も言わなかった。ルシファーは面を伏せたまま続けた。
「わたくしは些少ながら、地上でいくつか種を蒔きました。その一つは二日後、御身の前で芽生え、美しい花弁をご覧にいれる事でごさいましょう」
『いよいよ――と言う訳か。熱心な事だ。それ程までにこの私に仕えようという想いは嬉しいが、さて――それでそなたの利はどこにある。そなたがこれまで口にしてきた我が身の地上への復権など、炎夏にそよぐ風程の建前もなかろう』
 尊大で冷酷な瞳が玉座の影から落とされる。
 ルシファーは謁見の間を見回した。今日は人払いをされていて、海皇とルシファー以外は誰もいない。
 海皇はルシファーが、この状況でしかこの問いに答えない事を見抜いている。この状況が整うのを待っていた事も。
 そして恐らく、ルシファーがどのような答えをしようと、意味など見出みいださない。
「わたくしの望みは、海皇陛下が叶えてくださると信じております」
『そなたの望み』
「アレウス王の首――」
 再び、空間は静かに、低く、揺らめいた。玉座の影が僅かに肩を揺する。
「貴方様にはご不要でございましょう」
『成る程――まあ悪くない理由よ。民共も納得しような』
「それは、わたくしにご下賜くださるお約束と、そう捉えてよろしゅうございますか」
『好きに取れ』
 海皇の言葉の意味をか、アレウス王の首を、か――
 ルシファーは身を低く頭を伏せた。
 謁見の間が揺れる。
 海皇の気配が揺らぎ、玉座から遠退いて行こうとしているのが判る。
『二日後――その開く花とやらがどれほどのものか、見せてもらおう』
 面を上げ、そしてルシファーもまた謁見の間から身を移した。
 次の瞬間には、月の光の注ぐ波の上にいた。
 月光が微かな影を、彼女の口のに落とし彩る。
「民は納得する――ふふ。民が納得しようとすまいと、どうでもいいのでしょうに」
 波間に落ちる一滴の雨ほども気にしていない。
 海皇は絶対的統治者――その手に統治するのは、命だ。
 西海に国家としての性質は薄く、単純に言えば強者に従う事で体系が造られているに過ぎない。
 ナジャルは古の海バルバドスの王だったが、それはより多くを喰らう、怖れ逃げ惑うべき存在の頂点だった為だ。
 ナジャルは他者を守らない。
 海皇も民など守らない。
 海皇の平定後も変わらず、この海の世界では、弱者は強者に怯えてきた。
 常に食い合い、他者を凌ごうと削り合う。
 安息とは遠い世界。


 それを変えようとしたのは――



 ルシファーは暗い海面を見渡し、溶けるように姿を消した。






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renewal:2013.9.22
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