十八
歓声は一時も鳴り止まず、まるで王都全体を渦のように包んで震わせているのではと思えた。
建物や街灯は色鮮やかな旗で飾り立てられている。通りや窓、露台、橙色の瓦屋根の上にまでひしめく人、人、人――誰もが身を乗り出し、坂道の下の曲がり角を一心に見つめている。
やがて馬蹄の音が、歓声に紛れて微かに、すぐに雷が轟くように響いた。歓声が一層大きくなる。
視線が集中する曲がり角から、黒馬が一頭飛び出した。
「旗は―― !」
「緑地に鳶だぞ!」
「先頭ヴァン・ルー !」
「西のヴァン・ルー地区だ!」
まるで建物が叫んでいるかのように歓声がうねる。
初めの黒馬が半身だけ先に立ち、続いてもつれるように次々と騎馬が角を飛び出す。
春の祝祭の最後を飾る『馬競べ』だ。王都二十四地区の代表騎手が馬を駆り、街門から王城まで全力で駆け抜ける。
現れた七騎の騎馬達は石畳を蹴散らし狭く短い通りをひと固まりに駆け抜け、あっという間に次の角に消えていく。やや遅れて十二騎、次に五騎の騎馬が、これも激しい歓声を受け競り合いながら駆け抜けた。
たったふた呼吸かみ呼吸かの間の出来事に、それでもひしめく観客達は瞳を輝かせ、興奮した様子で今年の順位を口々に、誰彼かまわず語らい始めた。
通りを埋め尽くす人並みに身動きも取れない状態では、結果を知りたくても騎馬の後を追いようもないが、この後優勝者伝令の騎馬が道を降りてくるまで、どの地区が優勝か、まだ自分達の地区にも逆転の可能性はあると、そんな事で飽きずに語り盛り上がるのだ。
これから街は夜中まで――、優勝した地区は朝まで、酒を回して騒ぎ続ける。
終わってしまう祭を惜しみ、また次の祝祭までの、実り多く豊かで平穏な一年を祈る。
また今年も変わらず平穏に、と――
明るい陽射しだけはどこも変わらずに降り注ぎ、近衛師団第一大隊士官棟の中庭は、噴水から流れ出す穏やかな水音に包まれていた。
今年の馬競べは王都の東の区域を会場にして行われていて、レオアリス達の第一大隊士官棟がある西地区までは、歓声も喧騒もさすがに届かない。
それでも去年は公休の者が街へ見物に繰り出し、勤務についていても会話は勝敗の行方ばかりで、一緒になって盛り上がっている所だ。レオアリスもアスタロトやアーシアと、北の地区が勝つか南の地区が勝つかで時折口論もしながら熱中していた。
その熱気は今はない。代わりにぴりぴりと緊迫した空気があった。
それは明日の西海への国王出立と王不在時の王太子警護に備え、近衛師団が有事に対する即応態勢を布いている為でもあり、大将レオアリスや副将グランスレイ等上層部の、言葉には出されない焦燥を隊士達が感じ取っているせいもあっただろう。
消息を断ったヴィルトール達の動向は、一夜が明け、馬競べが終わる午後三刻になっても判明しなかった。
アルジマールの探索も、指し示すものは無いままだ。
フレイザーはロットバルトと共に担当していた情報収集から一足先に戻り、執務室内の張り詰めた空気を感じ取って唇を引き結んだ。
執務机に座っていたレオアリスが瞳を上げ、フレイザーが首を振ったのを見て取り、若い面の焦燥を深める。
昨夜は眠ったのだろうか、とフレイザーは思った。同じく机の前に座っているクライフも――クライフはこれまで見せた事が無い張り詰めた表情をしていたが、フレイザーを見ていつものように笑った。
「お疲れ、寝てねぇんだろフレイザー、今の内に仮眠取っとけよ」
フレイザーも口元に笑みを刷く。いつも通り振る舞ってはいるものの、一番いても立ってもいられないのはクライフだろう。
「私は平気よ。ちゃんと寝たから。クライフこそ寝不足の顔してるわよ」
「ヴィルトールがいつ泣きを入れて来るかと思うと、そらもう寝てらんねぇわ」
手間掛けさせやがって、と大仰に息を吐きクライフは椅子の背もたれに寄り掛かった。
「同感」と言ってまた笑みを造り、その瞬間心を過ったヴィルトールの妻子の顔を――彼等に何と告げればいいのかという思いを打ち消し、フレイザーはレオアリスの執務机の前に立った。
そんな心配はまだ早い。絶対に。
ただそれを補強する情報すら掴んで来られず、フレイザーは唇を噛んだ。
「――上将、申し訳ありません、ロットバルトと心当たりを当たりましたが、消息に繋がる情報は、まだ」
レオアリスは頷いた。
「有り難う。フレイザーも休んでくれ」
「はい、お言葉に甘えて、報告書を整理したら――。それから、ロットバルトはヴェルナー侯爵家長老会の筆頭であるルスウェント伯に会って、話を。後一刻程で戻るはずです」
ヴェルナー侯爵まで情報が上がっていなくても、長老会を構成する各侯の所領で何かしらの動きがあれば、情報を拾えるかもしれないと期待を掛けての事だ。
「――ヴェルナー侯爵家の長老会は、北方から北西部に所領を構える家が多かったな」
「はい」
レオアリスが確認した理由はフレイザーにも判る。イリヤ達が暮らしていた南方のロカは、ヴェルナー侯爵家の直領と言っていい。
ロットバルトも長老会への確認は、念の為という域を出ていないと言っていた。事の詳細を明かして情報を集める訳にも行かない。
今の状態では情報収集に動くにも、制限が大きかった。
「アヴァロン閣下からは、何か……」
新しい指示は無いのだろうと予測しての質問だったが、案の定レオアリスは首を横に振った。
「指示は変わっていない」
フレイザーも息を落とす。
アヴァロンの指示が変わらないという事は、王の指示が変わっていない事を示していた。
(どういう意味を持つの――)
「――」
レオアリスは顎の下に手を組み、じっと考えている。
感情を堪えるように半ば伏せられたその瞳の奥では、王の意思がどこにあるのか、おそらくそれを考えているのだろうとフレイザーは思った。
もっと踏み込んだ事を言えば、レオアリスは王の意思を測りかねている――
『これまで』
今朝がた、情報収集をする中で聞いたロットバルトの言葉がフレイザーの脳裏に過る。
『これまで陛下は事態を静観されながらも、必ず動くべき機に必要な手立てを講じられ、近衛師団を――上将を動かして来られた。それが今回は見えて来ない。この件では何も動く必要が無いと、そう考えておられるようにさえ見えます』
レオアリスの懸念に拍車を掛けているのはおそらくそこだろうと。
『貴方は、今、師団が動くべきだと考えているの?』
『我々が眼にしている状況だけ考えれば、今動かなければ機を逸する段階でしょう。“イリヤ・ハインツ”を利用する事により起こされる事態は――軽くはない』
『――』
ロットバルトの蒼い瞳は鋭く前方に向けられている。
東から昇る太陽が路地に濃い影を落としている。
刻々移るその境を見極めようとしているように、フレイザーには見えた。
それから、フレイザーが辛うじて聞き取れる程の、低い呟き。
『王が見据えている境界線が、我々とは違う――』
条約再締結に何をご覧なのか、と。
その言葉を聞いた時、フレイザーは自分の中に不安が湧き上がるのを感じた。そこはかとない、漠然とした――
祝祭は、王都は何事もなく、アヴァロンも王も動かない。
だから何も問題は無いのだと、そう言い切りたくて、頭の奥では言い切れないと理解してしまっている――
(――何があるの)
フレイザーは自分の執務机に戻り、誰か新しい情報を持って扉を開けないかと、中庭への扉の把手をしばらく見つめていた。
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