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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第四章『言祝ことほぎ』

十六

 ヒースウッド伯爵邸の玄関広間を早足で抜け、大階段を二つ飛ばしに登って賓客室の扉を開けた時、ヒースウッドは心に湧き上がった喜びをぐっと押さえ込んだ。
 窓辺に近い長椅子に、ルシファーが扉の方へ顔を向け腰掛けている。
 ただ白く美しい面に浮かぶ柔らかな微笑みが向けられた先を見て、ヒースウッドは足を止めた。
「――」
 ルシファーの向かいに座っていた男が、扉が開いた音に気付き半身を捻る。
「コーネリアス、良く戻った。しかしおとないも告げずにいきなり扉を開けるなど、客人に対して不躾だろう」
 困った奴だな、と身内を諫める口調でそう言った。
「し――失礼致しました、兄上」
 正規西方軍第七大隊中軍中将コーネリアス・ノートン・ヒースウッドの兄、フュリックス・ヘクトール・ヒースウッド伯爵は品のいい仕立ての服に包んだ長身を起こし、椅子から立ち上がった。
「ルシファー様、申し訳ございません。相も変わらず武骨な男で」
「構わないわ」
 兄ヒースウッド伯爵は、外見もいかつくいわおのようなヒースウッドと違い、すらりと細身で背も高く顔立ちも整っており、いかにも貴族然とした男だった。今年で丁度三十歳になるが、五歳離れたヒースウッドの方が幾分歳上に見えるだろう。
 性格も理知的で社交性があり公正で、若くして伯爵という高い地位に就きながら周囲を見下す様子もない。
 ヒースウッドはこの兄を幼い頃から尊敬していた。
 そしてまた、僅かながらの引け目も、彼の中にあった。
 学問や馬術や狩りの腕、話術など社交のすべ、思慮深さ、どれも常に兄が勝っていた。ヒースウッドが兄に勝っていると思えるのは、唯一剣くらいだろう。体格だけかもしれないとすら、本人は思っていた。
「ルシファー様、また晩餐の席でお話をさせていただくのを楽しみにしております。用立てが必要なものがあれば、何なりとお申し付けください」
「有り難う、伯爵。頼りにしているわ」
 ルシファーが微笑む。二人のやり取りを離れた場所で見つめながら、ヒースウッドは自分が来るまでの間、兄がルシファーとどのような会話をしていたのか、それが気になった。
 それにしてもルシファーの傍らに立つ兄の姿は、この美しい女性ひとになんとそぐう事か――
 二人は自分とは、全く別の場所にいるようだ。
「コーネリアス」
 名を呼ばれて我に返ると兄はもうヒースウッドの前にいた。
「何だ、ぼうっとして。ルシファー様に見とれていたのか」
 軽やかな笑いが続き、ヒースウッドはさっと顔を赤くした。
「あ、兄上、お戯れを」
「冗談だよ。我が弟は分を弁えている男だ」
 伯爵がにこやかに微笑む。ヒースウッドは一瞬感じたものを押し込めた。
「――と、当然です」
「さぁ、ルシファー様がお待ちかねだ、ボードヴィルの様子を説明して差し上げろ」
 ボードヴィルの調整はルシファーの命を受けてヒースウッドが行っているのだ。何故兄が指示するのかと
「承知しました」
 ヒースウッドが頭を下げると、伯爵は満足そうに頷いてからルシファーへお辞儀を向け、賓客室を出ていった。
 扉が閉まるとふと、ルシファーとこの華やかなしつらえの賓客室の中にあって、自分だけそぐわないという思いが強くなる。
「お待たせして申し訳ございません、ルシファー様」
 ヒースウッドはルシファーへ一礼して近くまで行くと、少し離れた場所に跪いた。
「いいのよ、大して待った訳でもないし、貴方には軍の任務があるのだから」
 ルシファーは穏やかに返し、それで、と首を傾げた。
「ボードヴィルは順調?」
「はい。先日の館の復元を境に、我々の働きかけもしやすくなりました。今は我が中軍の大半が大義を理解し、同志に加わっています」
「兄君ヒースウッド伯爵も働きかけをしてくださった結果、エメルの右軍や一帯の諸侯達の間にも少なからず賛同者がいると聞いたわ」
「は」
 兄の名を聞き、ヒースウッドは膝に置いた手をぐっと握った。ルシファーの瞳がその仕草を捉える。ふっと唇に笑みが過った。
「こうして王都から遠く離れていると、王都より領主の影響の方が大きかったりするもの。ヒースウッド伯爵の協力が得られたのはとても有難いと思ってる」
 ヒースウッドは黙って頭を下げた。ヒースウッドの上に落ちるルシファーの瞳の色が深まる。
「中軍の半数と、右軍の賛同者。理想的ね。明後日の動きは?」
「はい。左軍一隊と右軍の半個中隊は、条約再締結の儀式の一里の控えとしてボードヴィルを離れます。我々が動くのに充分な状況です」
 挙兵に手間取る事を避ける為、ワッツが預かる左軍を一里の控えに推したのだ。ボードヴィルに残るのは同志達が大半になる。
「ただ、王都から本日付けで新たにワッツという中将が左軍に着任しました。この時期故、我々の考えが洩れはしないかと気になるところですが」
「この時期だからこそ、問題は無いでしょう。気付いた時にはもう事態は混乱のただ中にあるわ。そうなれば逆に我々の考えに賛同し、合流する者も増える」
 ルシファーはさして気にせずにそう言ったが、ヒースウッドはワッツの行動に気になるところがあった。兵士達の話を聞きたいと言って、今日早くも数名を呼び出している。
 左軍の兵にはほんの一握り、最近中軍から配置換えになった数人にしか話を持ち掛けてはいない。何も伝わりはしないと思うが、今王都にヒースウッド達の動きを知られると面倒な事になる。
(我々が動けなくなる訳にはいかないのだ。あと二日――それまでは)
「想定どおり、事は動きそうよ。西海にいる私の間者・・が、昨夜伝えてきたわ」
 はっとしてヒースウッドは顔を上げた。
「では――いよいよ」
「西海は条約再締結の儀式で調印するつもりはなく、陛下の御身を捕らえる画策をしている」
 ヒースウッドは息を詰め、頬を張り詰めてルシファーの次の言葉を待った。
「万が一西海の画策が成功すれば、その混乱に乗じて王都では、西海と内通しファルシオン殿下を掲げようと動く者が出るでしょう」
「は。それに先んじて我々は、恐れながら王太子殿下をボードヴィルへお迎えしお護りすると同時に、殿下を陣頭に西海を打ち払い、陛下をお救いする――」
 そう口にしながらヒースウッドは胸の内が熱くなるのを感じた。
 いよいよだ。
 今年に入ってルシファーから今回の話を知らされ、何度も議論しながら最善の道を探してきた。
 ヒースウッドは王太子ファルシオンの為、王の為、国の為に剣を取り、身を尽くすのだ。
 そして、目の前に立つ美しい存在の為――
 ヒースウッドがそっと見上げる視線の先で、ふ、とルシファーは、何かを躊躇うようにヒースウッドへ瞳を向けた。
「ル、ルシファー様?」
 視線が合い思わず狼狽えたヒースウッドに対して、しばらくルシファーは口を閉ざしてただヒースウッドを見つめていた。
 ヒースウッドは頬に血が昇るのを感じ、視線を逸らしそうになるのを懸命に堪えた。
「ルシファー様、どうかされましたか」
 暁の瞳が何と美しいのかと、そう思った。
 澄んで輝く夜明けの空のようだ。
 この瞳がヒースウッドに注がれるのなら、どんな困難も成し、どんな事にも耐えられるだろうと、心を絞るような強い想いが湧き上がる。
「――ヒースウッド」
 ルシファーはそっと続けた。その響きに震えを覚える。
「コーネリアスと呼んでもいいかしら――二人だけの時は」
 驚いて瞬きを繰り返し、「も――もちろんです!」ヒースウッドは感激して身を伏せた。
 自分の名を、ルシファーが呼んだのだ。鼓動が舞い上がり、耳元で音を立てる。
「コーネリアス。貴方は私に、忠誠を誓ってくれる?」
 静かな、半ば否と返る事を想定してさえいるような問いかけだった。
 何故、と思った。
 忠誠を捧げない訳がない。
「誓います」
 勢い込んで口にし、ヒースウッドは膝を僅かに詰めた。
「私は貴女に忠誠を誓います。この身命を以って――!」
 ルシファーはふわりと、見る者の心を引き付ける笑みを浮かべた。
「嬉しいわ――」
 はっとするような安堵を孕んだ声だった。ヒースウッドの胸に滑り込む。
 その響きだけで、例えようのない喜びがヒースウッドの胸に沸き起こる。
 この美しい存在の為に、何があっても、その願いを叶える為の支えとなりたいと、強く願った。
「私一人では多分、果たす事はできなかった。当然迷いもあったから」
 ルシファーの声はほんの少し、彼女が負っていた荷を預けられた事への安堵が感じられた。
 そうさせているのが自分だと――、その事がまた、ヒースウッドの中に喜びを沸き立たせる。
 憂いを帯びた表情、そして白い肌や髪から漂う芳しい薫りが、よりその感情を深い心酔へと導く。
「貴方には前もって知っていて欲しいと、そう思っていたの――いいえ、貴方の協力が無ければ成し得ない話だった。とても一人では抱えきれない話だもの」
 ルシファーが何を話そうとしているのか、ふとヒースウッドの胸の内に不安に近い疑念が過ったが、憂いを含んだ眼差しを向けられ、その疑念も薄れる。
「重大な事実だけれど、まだ私と、貴方だけで共有するに止めなくてはいけない。それを受け止める意志はある――?」
 ヒースウッドは昂ぶる心を抑え、はっきりと顔を縦に振った。
「ルシファー様のお志しであれば、どのような事であろうとも」
 ルシファーは夜を湛えた窓を背に、すっと長椅子から立ち上がった。左右に掲げられた燭蝋の灯りが身を縁取り、やや陰を帯びた面の中、二つの暁の瞳が、深い色を湛えた宝石のように見える。
「王太子殿下は既に、この館においでよ」
 ルシファーの姿に見入っていたヒースウッドは、思いも寄らない言葉に驚き、ついあんぐりと髭に囲まれた口を開けた。
「――ま、まさか。ファ、ファルシオン殿下は、明後日の条約再締結に際して、王都鎮守を陛下より任されておられると」
「ファルシオン殿下ではないわ」
「……は――?」
 今度こそ、ルシファーの言葉の意味が全く掴めないという戸惑いがヒースウッドの面を覆った。
「コーネリアス」
 ルシファーの唇から零れた自分の名に、ヒースウッドは緊張と、僅かな羞恥さえ覚えた。
「貴方もシーリィア様を知っているでしょう?」
 再び思いがけない名を聞いて、ヒースウッドは戸惑いを隠せなかった。
「シーリィア妃殿下、でございますか……。当然、ぞ、存じ上げております」
「そう……あの方のお名前は、この国の誰もが知っているわね。私はかつて何度かお会いした事があるけれど、聡明でお美しい方だった。あの方が王都を追われてから十八年が過ぎたけれど、今でも残念で悲しい想いが消えないままよ」
 ルシファーが何を言い出したのか、ヒースウッドには皆目見当が付かなかった。王太子がファルシオンでは無いと、そう言った事ばかりが気になる。
 だが、問いかけて良いものか。
 問いかけるのは、ルシファーに対して――
「貴方は何も知らない第二王妃が連座して処刑された事を、どう思っていた? ごく私的な意見を聞きたいわ」
 はっとして顔を上げ、問いかけの意味を考えて、ヒースウッドは額に冷や汗を滲ませ目をしばたたかせた。
 第二王妃シーリィアの悲劇は、王の意思の下にある。王家の批判に繋がり兼ねない言葉を口にする事は躊躇われた。
「その、私は当時、まだ十になるかならないかでございましたから――」
 ルシファーは答えを待っている。この問いがヒースウッドの決意を試すもののように思えた。
 答えを間違えば、ルシファーはヒースウッドを見放すかもしれない。
 だが無難に切り抜ける言葉などは浮かばず、ヒースウッドは唾を飲んだ。
「……あまりにむごい結末であったと……陛下のお心やお苦しみも、私のような者が推察申し上げるのは不敬に当たると存じますが、しかし、第二王妃殿下と、お生まれになる予定であった王子のお命を、しょ、処断せざるを得なかった事は――」
 シーリィアが王に見初められ王妃へと迎えられた時、ヒースウッドは七歳になっていた。二人の話は幼いヒースウッドにとっても胸躍るものだった。
 その後、第一王子の暗殺の咎で、生まれる直前だった王子と共に罪を受け命を落とした事を、心から悲しいと思ったものだ。
 もしその時自分が王宮にいられたとしたら、そして充分大人であったなら、第一王子も、シーリィア王妃もその王子も、自分がお救けして、と――子供故の、思い返せば気恥ずかしい使命感と悲壮感に震えた。
 今は自分が成人して王宮にいたとしても、あの事件を防ぐ事などできはしなかったと自覚しているが。
 そうしたヒースウッドの想いを読み取ったように、ルシファーは彼の前に立ち、そっと言葉を落とした。
「シーリィア王妃の御子は、生きておいでよ」
「――」
 ぽかんとして、ヒースウッドは跪いたままルシファーを見上げた。
「ルシファー様……? な、何を……まさかそんな」
 突拍子もない言葉のはずが、ルシファーの表情は陰を帯び、憂いを含んで見える。
「陛下は、どうしてもお二人の命を奪う事をなされなかった――国の為、陛下にはそうなさる以外手段はなかったのだけれど」
 吐息のように声が流れる。他者に聞かれるのを恐れるように。
 ヒースウッド伯爵にさえ、聞かれてはいけないと、そう考えているように――その話を、ヒースウッドにはしようとしている。
「――」
 ヒースウッドはぐっと拳を握り締めた。
「陛下はアヴァロンに命じて密かに――お二人を、逃がされた」
 心臓が跳ねる。
(陛下が)
「陛下は国の方針を御自ら破り、例えお二人の存在そのものを消す事になったとしても、お二人を無情な死から守ろうとされた。表向きは処刑された事にして、陛下は全ての記録を作り上げられた――第二王妃の御子は、世間から隠されたまま、成長されたの」
 漸く、ヒースウッドにもルシファーの真意が見えてきた。
 そして、気付くと同時に、床についている左膝がぶるぶると震えるのが判った。
 ルシファーから信頼されているという昂揚感と、語られる事実の重さ、畏れ――
「ル、ルシファー様……」
 ルシファーですら、一人抱えるのが困難と考える事実。
 ルシファーの唇が動く。
 耳を塞ぎたいと畏れながら、ヒースウッドは食い入るように言葉を紡ぎ出すその形を見つめた。
「私達が戴くのは、第二王妃シーリィア様の忘れ形見――」
 ルシファーは一旦言葉を切り、それから静かに、明瞭に告げた。
「ミオスティリヤ殿下よ」
 ヒースウッドは床に両手をつき、両眼を見開いたまま、しばらくの間言葉を失った。
 最初に浮かんだのは、とても現実的な疑問だった。
 部下達はどうなるのだろう、とまずその疑問だ。
 どう思うか。彼等は自分達が戴くのは王太子ファルシオンだと考え、だからこそ一時的なりと、反旗を翻す事を厭わないと考えている。
 あくまでも一時的に、だ。
「ル、……ルシファー様、それは……そ、それでは」
 目眩がしてきた。室内の壁や調度品が揺れる。喉もひからびている。
「その、我々は」
「ごめんなさい――」
 ルシファーの言葉が、ぽつりと落ちる。
 ヒースウッドは身体の血が失せ指先まで冷えているのを感じながら、ふらふらと視線を持ち上げた。
「王太子とだけ言って、ミオスティリヤ殿下の事を告げていなかったのは、申し訳なかったわ。けれど最初からそう言って、理解を得られるかが不安だった」
 ルシファーは悄然とうなだれ、混乱の思考の中でさえヒースウッドはその姿を美しいと思った。
「それでも、どうしても、西海が動く前に準備を整えておく必要があったのよ。でも、ミオスティリヤ殿下は決して」
「お、畏れながら――ミオスティリヤ、……で、殿下が」
 ヒースウッドは殿下という言葉をつっかえながら何とか口にし、それでも畏敬の念を浮かばせた。
「生きておいでなれば、それは、その」
 王が、二人を逃がした、と
(陛下が――アヴァロン閣下に命じて)
 王がそう命じたのが事実であれば――ヒースウッドはルシファーの言葉を疑っていなかったが――ヒースウッドはルシファーの言葉に、問題が無い部分を探していた。
 王は第二王妃とその王子を救った。
 紛れもない、王の血を引く王子だ。
「い、いや。――そ、それが陛下のお志しであれば、喜ばしい事と存じます。しかし、しかしその、これまで我々が動いて来たのは、この国の行く末を憂えての事です。た、確かにどなたを掲げるかによって我等の理念が変わるものではございませんが、兵達の想いは」
「私が貴方達に告げてきたのは、ミオスティリヤ殿下の、この国への想いそのものでもあるわ」
 ヒースウッドは口を閉ざし、ルシファーを見上げた。
 暁の瞳に、哀切の色が滲む。
「殿下は御身をお救いになった陛下の想いを理解されていて、決して王位を望んではおられない。ただ西海がこれから起こす事を知り、苦慮されている」
「――」
「陛下へお会いする機会はおろか、想いをお伝えする機会さえ無く、その存在すら消して生きてこなくてはならなかった身では、父王の――国の危機を知りながら何もできず、自分自身への苦悩を抱えておいでだった」
 窓の外は夜の闇が張りつき、それがこの部屋に、悲劇の王子の苦悩を封じ込めているように思える。
 自分が解かなくてはと感じた。
「ル――ルシファー様は」
 ヒースウッドは一度口を閉ざし、唇を湿らせた。
 王が自らの命を救った事を知り、王子は王と国に報いようとしている。
「ミオスティリヤ殿下にお会いになり、殿下をお助けしたいと、そうお考えになられた――のですね」
 ルシファーを見つめ、すぐに慌てたように瞳を逸らしながらも、続けた。
「で、殿下は、国を憂えておられる――」
 おおやけには存在すら認められない立場にありながら、それを恨む事もせずに。
(ご立派な方だ)
 ヒースウッドは胸の奧が熱くなるのを感じ、息をぐっと飲み込んだ。
 ミオスティリヤ王子に、ヒースウッド達が戴く存在として、何の瑕疵があるだろう。
 自らの意思とは一切関わりなく、世間から隠された、悲劇の王子――ヒースウッド達が支える事で、彼は父王と国への恩義に報いる事ができ、そして正式に
(そうだ)
 正式に王家の一員と認められ、復員する事ができる。
 ヒースウッド達の手で。
 ルシファーはヒースウッドが半ば混乱しながらも自身の考えを纏めていくのを、黙ったまま待っていた。
 ヒースウッド自身が納得してイリヤを戴く意志を持つ事を。
 そう時間はかからない。
(単純で勇敢な男)
 ルシファーは口元を微かに綻ばせた。
 初め浅い呼吸に揺れていたヒースウッドの肩はやがて落ち着きを取り戻し、ヒースウッドは片手を上げて額の汗を拭った。
「――し、しかし、ミオスティリヤ殿下はどこで、その情報を」
 浮かぶ笑みをルシファーはそっと隠した。もうヒースウッドは『秘せられた事実』を受け入れた。
「昨年末――ファルシオン殿下がかどわかされた事件があったわ、覚えている?」
「……南方軍が動いた――西海が関わっていたという」
「そう。あの時西海は、ミオスティリヤ殿下を利用しようと殿下に近付いたのよ。ファルシオン殿下が兄君を慕う想いを利用したの」
 ヒースウッドはさっと眉を潜めた。ファルシオンが兄を慕う想い――まだ五歳でしかないファルシオンが、兄と聞いてどれほど愛しい想いを抱いただろう。
「――幼いファルシオン殿下を……何と卑劣な」
「王は近衛師団第一大隊大将レオアリスに命じて、ファルシオン殿下と、ミオスティリヤ殿下をお救いになった。当然ミオスティリヤ殿下の事は表沙汰にはならなかったけれどね」
「王の――」
 ヒースウッドは先日あの復元時に見たレオアリスの姿を思い出した。
『お前が兵の命を握っている、退かせろ』
 確かに王の信頼を得るに相応しい意志と力を持つと、そう感じた。
「――彼が、我々の意図を理解してくれれば、どれほどか」
 ルシファーは瞳に言い難い光を浮かべ、すぐに消した。
「事が起こればレオアリスも、王都も気付くわ。その為にもまずは、ミオスティリヤ殿下を戴く体制が必要。そして、いざ有事においては可能な限り素早く国内を平定して混乱を収め、陛下をお救いする」
 静まり返った室内で言葉は全てヒースウッド一人に向けられ、ヒースウッドはそれらを浴び呑み込んでいく。
「ミオスティリヤ殿下を戴く事で不満も、良からぬ事を考える者もきっと出るでしょう。けれど私達の目的はこの国の危機を救う事。必ず心に留めておいて、コーネリアス。貴方がそれを見失わなければ、必ず兵はついてくる。不確定要素である近衛師団を頼むべき状況ではないの。ミオスティリヤ殿下は、貴方がお支えし、貴方が剣となり盾となってお護りするのよ」
「は――!」
 言葉に打たれるように、ヒースウッドは床に額がつくまで深く頭を下げた。右膝の上で固められた拳に彼の強い決意が見える。
 ルシファーが愉悦を抑えた眼差しを向けるのに気付かず、ヒースウッドはルシファーを見上げた。
「殿下は、どちらに。ご挨拶を差し上げる事は可能でしょうか」
「――ついて来て」
 ルシファーはふわりと長い裾を揺らし、ヒースウッドの横を抜けて扉へ向かった。

 足音を吸い込む絨毯を敷き詰めた廊下を歩き、階段を上がる。
 三階の南翼棟に入り、ルシファーは一度立ち止まるとヒースウッドを振り返った。
「コーネリアス、もう一つ伝えておくわ。西海は今日再び、ミオスティリヤ殿下の御身を狙ったの」
「殿下を?! そんな事が――それで殿下にお怪我は」
「大丈夫よ、私はぎりぎり間に合った。けれど現場は血が流れて酷い状態だったわ。その時に、護衛の近衛師団将校が一人、瀕死の重症を負っている」
「近衛師団の――」
 近衛師団が護衛を――なるほど当然だろうとヒースウッドは内心で頷いた。
「近衛師団は西海の襲撃には気付いていないのですか」
「どこに西海の目があるか判らないから、私は西海の襲撃が成功したように見せて殿下をお連れしたの。間違って私が関わっていると取られたら、事態が混乱する恐れがあったから」
 ルシファーは再び歩き出し、背中越しに続けた。
「だから彼が助かってくれれば、必ず近衛師団との懸け橋になってくれると思うわ」
 ルシファーはヒースウッド伯爵邸で最上級の客を迎える為の部屋の前で立ち止まり、ヒースウッドを見上げた。
「殿下はこの部屋においでよ。今日の事でとても疲れて、ご不安になっておられる。もう一度言うわ、コーネリアス。貴方の役目は、殿下の守護と補佐――不利な事からお護りして差し上げて」



 最初の印象は、作り物のようだ、と、それだった。
 二つの瞳はヒースウッドに向けられているが、ヒースウッドを見ていないように思える。
 色違いの瞳は、右が王の血を示すような金、左の緑は、母シーリィアから受け継いだ色だろうか。――その相違がこの王子の悲劇を物語り、相応しいとさえ思えた。
 けれど、生気が感じられない――
 ヒースウッドは慌ててその考えを打ち消した。無礼な考えだ。
(心身共に疲労されておいでなのだぞ、殿下は)
 西海に命を狙われたのだと、ルシファーはそう言った。現場は酷い有様だったと。
「ミオスティリヤ殿下――」
 ヒースウッドはイリヤの前に膝をつき、額が床につくまで、深々と頭を下げた。
「正規軍西方第七大隊中軍中将、コーネリアス・ノートン・ヒースウッドと申します。このボードヴィル一帯の地領を陛下から任じられております、ヒースウッド伯爵は兄に当たります」
 ヒースウッドは顔を伏せたまま続けた。
「この度は大変な艱苦かんくにあわれたと聞き及びました。殿下の崇高なご意志は私などがいたずらに推察致す所のものではございません。しかし及ばずながらこれからは、私が身命を掛けて殿下の御身をお護り致します」
 初めてイリヤの瞳が動いた。
 ヒースウッドを見て口を開きかけ――それからヒースウッドの斜め横に立つルシファーを捉えて、イリヤはまた唇を引き結んだ。
「ミオスティリヤ殿下、どうぞ――」
 ルシファーが恭しく膝を屈め、お辞儀を向ける。暁の瞳が燭蝋の光を弾いて揺れた。
「貴方の第一の配下にして守護を務めるこの男に、一言お言葉を」
「――」
 ヒースウッドは緊張の余り、額に汗を浮かべた。心臓が胸の中で跳ねている。
 だが、王子は一向に口を開く気配がなかった。
 いつ王子が言葉を発するのだろう、このままだと息が詰まって肺が破裂しそうだと、そう思った時、イリヤが身動いだ。
「私は――」
 ヒースウッドは飛び上がらんばかりに顔を上げた。はっとしてまた伏せる。顔を上げる許可を得ていないのだ。
「――あなた方の、国を想う心に、感謝している」
 静かに息を吐きながら、ゆっくりと告げられる王子の言葉を、ヒースウッドは感動と共に聞いていた。
 もしヒースウッドが顔を上げていたら、固く握り締められ震える拳と、蒼白な面に気付いただろう。
 ただヒースウッドは王家に対する畏敬に縛られ、許しもなく顔を上げる事などできない男だった。
「ヒースウッド、中将――、この私に、力を貸して、欲しい」
 感極まりヒースウッドは叩頭し、身を伏せた。
「身に余るお言葉でございます――! 必ずや、身命を賭して、ミオスティリヤ殿下のお志の一助となる所存です」




「何が、力を貸して欲しいだ――!」
 イリヤは目の前の壁を渾身の力で叩きつけた。壁は音すらせず、腕に返る痛みすらない。
「――ッ」
 額を壁に預け、イリヤは壁に付いた両拳を握り締めた。
 消えたい。
 心底消えたい。
 死さえ選べずに嘘を吐く――
 何故あの将校は、自分のこんな薄っぺらい嘘すら見抜けないのか。
「ちくしょう――」
「落ち着いて頂戴、ミオスティリヤ殿下。ヒースウッド達に聞かれたら、彼等の士気を下げてしまうわ」
 イリヤは唇を噛み、息を止めた。振り返らなくてもそこにいるルシファーの、白い面に浮かべた涼やかな笑みすら想像がつく。
「いい出来だったわ、殿下」
 溜めていた息をゆっくり――ゆっくりと吐き、渦巻く怒りや憎しみを散らした。
「――俺の嘘なんて、すぐばれる」
 笑う気配が背を向けたままの肩に伝わる。
「もし貴方が彼等の立場を否定したら、彼等は死を以って罰せられるでしょう。反逆者として――」
 イリヤはびくりと肩を揺らした。
「そうね、この第七軍のおよそ半数、千五百人近く――それだけの人間が命と未来を奪われる。彼等の家族も謗りを受けるでしょうね」
「――」
 部屋全体が悪意に染まるようだ。
「貴方が私の筋書き通りに動いてくれれば、彼等の未来は全く違ったものになるわ」
「口を閉じろ! お前の言葉は聞きたくない!」
 堪らず振り返り、イリヤはルシファーを睨み付けた。
 ルシファーはくすりと笑い、姿を消した。
 イリヤは壁に背中を預けたまま、力なくその場にしゃがみ込んだ。






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