十五
夕食時の兵員用食堂はどこも、訓練を終えて解放された兵士達の話し声や笑い声がそこかしこで上がり、賑やかだ。入り口の横に何種類もの料理が並べられ、各自皿に山盛りに盛り付けて空いている席に運んでいく。この時間帯は頼めば酒も出してくれた。
ワッツは王都とさほど変わり無い食堂の様子を眺め、奥にヒースウッドと右軍中将エメルの姿を見つけると、横四列に並んだ卓の間を歩き出した。
途中、午後の訓練で軽く手合わせした左軍少将クランがワッツを認め、立ち上がって敬礼を向ける。
「ワッツ中将、よろしければご一緒に食事をいかがですか。ぜひ皆に王都の話をお聞かせください」
「おう」
ワッツは右手を上げ、左軍の兵が五人ほど固まって座っている卓を眺めてから、ヒースウッド達の方を示した。
「じゃ、一声かけてから戻るわ」
「お待ちしてます」
クランに頷いて卓の横を抜けると、「ワッツ中将の話が聞けるって?」と興味津々の声が背中に聞こえた。
「王都か、賑やかなんだろうな」
「想像つかねぇなあ」
「俺達じゃ一生行く機会はないだろ、中将まで上がれると思えないし」
そんな言葉が耳を掠める。
(二千里近く離れてるからなぁここは)
特にこの第七区と軍が呼ぶ地域では、かなり手広くやっている商人などでなければ、一生に一度も王都との行き来などないのが殆どだ。軍にあっても、管区を越えて赴任地が変わるのは中将になってからの事だった。
(だから少し、独特の空気があるのかね)
彼等のように。
ワッツは奥の卓に座るヒースウッド達を見た。卓を囲んでいたヒースウッドとエメル、それから少将らしき数人は、近寄ってくるワッツに気付いてさっと緊張したように見えた。
「明後日の段取りはどうだ、エメル」
ヒースウッドは声を落とし、普段と変わらない表情を保ちながらそう問い掛けた。食堂の騒めきは程よく彼等の会話を紛れさせてくれる。
「今のところは順調だな。隊のおよそ半数は動くだろう。俺の右軍は半個中隊が左軍と共に一里の控えに出る、それでいくと更に割れるが、充分な数だと思う」
中軍少将ケーニッヒが卓に両肘をつき組んだ手で口元を覆い、その中で言葉を紡ぐ。
「後一日ですね――それまでは、極力慎重に事を進めなくては。いずれ理解されるはずですが、今の段階で明るみに出てもただの反乱にしか」
「おい、ワッツ中将だ」
エメルが素早く言って口を閉ざし、ヒースウッド達も一瞬身構えた。
一度会話が途絶えたものの、ヒースウッドはすぐ切り出した。ワッツにも聞こえるよう、比較的声を張る。
「私はこの後、館に顔を出すつもりだ。兄に呼ばれていてな」
「ああ、伯爵によろしくお伝えしてくれ。意中の方をいつご紹介いただけるのかもお聞きしてくれよ」
足音と僅かな振動と共にワッツが卓の横に立ち、板張りの床が一つ軋んだ。ヒースウッドには心臓が軋んだようにも感じられた。
「ワッツ中将、お疲れ様です」
ヒースウッドは自分よりも体格がいいワッツに改めて感嘆を覚えつつ、立ち上がった。
ワッツが感じた違和感も、彼等の卓の傍に立つまでの数歩の間に、食堂の騒めきに紛れたように消える。
「ワッツ中将、初日のご感想はいかがでしたか」
ワッツが口を開く前にヒースウッドが立ち上がって目礼し、右手で自分の傍らの椅子を示した。
「ボードヴィルはいい所ですな。兵達も練度が高い、来たばかりの俺の指示も難なくこなしてくれる。さすがは辺境部を守備する部隊です。西方は安泰だと改めて感じました」
ワッツは先ほどのクラン達の卓を示してヒースウッドの誘いを断りながら、そう告げた。
「黒竜討伐部隊の英雄にそう言っていただけるとは、光栄です。この第七軍の兵達は皆、国の為に勇を惜しまない者達ばかりですから」
ヒースウッドの真剣な瞳を眺め、ワッツは朝と同じ感覚を再び覚えて、浮かぶ笑みを押さえた。
よく言えば熱意があり忠誠心が厚い、悪く言えばそう――少々夢見がちのヒースウッドの言葉は、ワッツのように擦れた人間には面映ゆい。
(王都じゃ逆に、あんまいねぇんだよな、こういう奴は)
これも土地柄かと独りごちる。
ヒースウッドはワッツの胸の内は知らず、丁寧に頭を下げた。
「ワッツ中将、私は失礼ながら、これで。兄に呼ばれておりまして。明日は八刻から、陛下の警護と一里の控えについての重要な軍議があります。またその席で」
ヒースウッドはそう言うとワッツに一礼し、エメル達には目で挨拶してやや急ぎ足でその場を離れた。ヒースウッドの後姿を目で見送り、そこから二言、三言挨拶に近い言葉を交わした後、ワッツも左軍の部下達が待つ卓へと再び足を向けた。
部下との食事を早めに切り上げ、ワッツは予め呼び出していた兵士達の話を聞く為に、執務室への廊下を歩いていた。
先ほど聞いた部下の言葉を、改めて頭の中で繰り返す。それはワッツにとっては想定の外にある意識だった。
ワッツが西方公の捜索の話をした後だ。積極的に質問をしていた一人の兵士が、おずおずと尋ねた。
『ワッツ中将、その』
『何だ?』
『王都では、西方公は、どう』
『どう? そりゃ』
口にしかけて、この西方の辺境地域では『西方公』の存在は王都で感じるより大きいのではないかと、そんな考えがふと頭に浮かび、ワッツは次の言葉を選んだ。
『――混乱したぜ。何せ突然の出来事だったからな。予期してた人間は誰もいなかっただろう。それで? 何を気にしてるんだ』
兵士達は遠慮がちながら、ある種の期待の籠もった眼差しをワッツに向けている。
『我々はその、西方公には何か、意図がお有りだったのではないかと』
ワッツは巌のような顔の中の鋭い眼で兵士の面を眺めた。
『西方公に会った事はあんのかい』
『いえ! 我々がお会いする機会のある方では』
『俺は去年、新年の閲兵式で見たぞ。えらい綺麗な方だった』
斜め前の卓にいた兵士が身を乗り出す。
『全員見てるだろ』
『近くに控えたんだよ、俺は』
『何言ってんだ、お前だけ特別じゃねぇよ』
『あん時は俺だっていたんだぜ。警護は各大隊からの三個小隊だったろ』
『まあ』ワッツは兵士達のちょっとした騒ぎを眺めていたが、熱を宥めるように言った。
『綺麗どころに逆上せ上がるのは結構だがな、西方公の動向がはっきりしねぇ内は、あんまり迂濶な事は言わない方がいいぜ』
今更ながら自分達の発言に気付き、兵士達はばつが悪そうに肩を竦めた。最初に口火を切った兵士が慌てて頭を下げる。
『申し訳ごさいません、中将。我々はその、西方公を正しいとか言うつもりはないんです。ただ最近その、そういう論調があるもので』
『論調?』
『噂というか、私も直接聞いた訳ではないんですが――』
再び隣にいた兵士も口を開く。
『こないだ復元の護衛に行った奴等なんて、――なぁ』
ワッツは太い眉を僅かに上げた。
『館の復元か? 確かヒースウッド中将の中軍が出たらしいな。西方公と遭遇したと聞いた』
『戦闘にまでなったのに、誰も取り立てた負傷がありませんでした』
『そりゃ法術院長と王の剣士がいたからじゃないのか。第七の護衛隊が戦う必要は無かったんだろう』
『そうなんですが――、しかし帰投した後奴等、何だか落ち着かない様子で――』
クランはふと思い出し、声を少し低くした。『そういやあの後辺りです、西方公には何か考えがあるんじゃないかって、そんな話が出始めたのは』
ワッツは大振りの口元を曲げ、太い腕を組んで考えを巡らせた。椅子を軋ませて身を乗り出す。
『――お前等はどう思う』
ワッツの問いに、兵達は顔を見合わせ、口籠もった。
『いえ……ただ』
『ただ? 気にすんな、思う所を言えよ、それでどうなる訳でもねぇ』
クランはしばらく下を向いていたが、恐る恐るワッツを見た。
『――ただ、西方公は、アスタロト様のご友人だったでしょう』
『そうだな』
兵達がまた目を見交わす。
『西方公の捜索、結構早く打ち切られましたし』
ワッツは王都で西方公捜索に当たっていた部下達の顔を思い出した。彼等も多寡の相違はあれ、似たような思いを抱いていた。
『離反が信じらんねぇか』
『いえ、その……』
ずばりと問われ、返す歯切れの悪さが彼等の心情を物語っている。ワッツはどう説くかと内心思案しながら、組んでいた腕をほどき、粗末な木の椅子を大きく軋ませた。
『ま、離反した所を直接目で見てねぇもんなぁ、それは俺もだ。俺は捜索に足引きずったからともかく、関わりのねぇ、特に西の区域じゃしかたねぇ部分はあるか』
兵士はほっとした顔で頷いた。
『ただいずれ西方公の意図が判る時が来る。遠い事じゃねぇ。そいつを注視しておけば、いざって時過たずに動ける。俺達に重要なのはそこだ』
(西方公への信頼――いや、信頼ってほど明確なモンでもないが、王都に比べてやっぱぬるいな)
西方公の館を復元すると耳にしたら、他意もなく熱心にそれを語り合いそうだ。
(もし第七軍から洩れたとしても、大元を探し出すのは難しいかもしれねぇ)
その真意も。
もう少しで執務室の前というところで、羽音が耳を打ち、ワッツは足を止め辺りを見回した。
「鳥?」
棟内に、と訝しんだワッツの前に黒い鳥が降り立つ。
「んん? こいつぁ」
見覚えがある。鳥は黒い嘴を開いた。
『ワッツ――』
「……レオアリスかぃ!」
ワッツは膝を打つようにしてそう言い、それから鳥へ腕を差し出した。
「執務室で聞こう、乗んな」
カイが腕に乗ると、ワッツは執務室の扉を開け、室内に入って後ろ手に扉を閉ざした。
「――」
ワッツが執務室に入るのを廊下の角から見送り、扉が閉じてからそっと歩き出した男がいる。右軍中将、エメルだ。
エメルはワッツの執務室の前に来ると足を止め、扉の向こうに耳を傾けた。
声が届く事はなく、エメルはしばらくして廊下を近付いてくる足音を聞き付け、その場を離れた。
二つ隣の右軍の大将執務室へエメルが入ったところで、角を曲がって兵士が一人現れる。兵士はワッツの執務室前に立つと、ワッツに呼ばれて来た旨を告げ、太い応えを待って室内に入った。
兵士が執務室に入った時には、ワッツはどこか険しい表情を浮かべていた。
エメルはワッツのもとに現れた伝令使が彼に何を告げたのか、気になって仕方がなかった。
あの黒い鳥が現れた時確かにワッツは、「レオアリス」と口にした。
近衛師団第一大隊大将――王の剣士の名を。
(あれは恐らく伝令使だ。あの男、やはり探りを入れに来たのか――)
だが口調はやけに親しげだった。職位を呼ぶ訳でも敬称を付ける訳でもなく、名を呼んでいた。
(そうだ、確かあの二人、黒竜討伐の時に出会ったと聞いたな。とすると個人的な交流も深いのかもしれん)
エメルの頭の中では自然、ルシファーとレオアリス――王都を、天秤に掛け始めていた。
(ヒースウッドはルシファー様に心酔しているから疑いもしないが、実際あの方の言う事がどこまで実現可能なのか――大体いまだ王太子殿下にも会わせて頂いていない)
ルシファーやヒースウッドの前ではおくびにも出さないが、エメルにはルシファーを無条件に信頼している訳ではない。
ただ――恐ろしい。
ルシファーはまばたき一つで、人を切り裂く事ができる。
そしてまたルシファーは、エメルに地位を与える事もできる。
その思いもまた、エメルは内心に秘めていた。
ヒースウッド伯爵がルシファーを支援している事もあり、これまではルシファーに着く事を納得して動いてきたが、ここに至り転機が訪れたように思えた。
そもそもレオアリスは王太子ファルシオンの守護を任う立場だ。
ルシファーよりもずっと、王太子に近いのではないか。
条約再締結の儀による混乱の中では、より彼の地位を確実にしてくれるのは――
「ふむ」
ルシファーが失敗した時に備えて、ワッツと繋ぎを取っておいても損はない。
エメルは腕を組み、一人頷いて壁越しにワッツの執務室の方向を眺めて繋ぎを付ける算段を始めた。
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