六
瞳の奥に蒼い影が揺れる。揺れる。
静寂の中をゆうらりと。
それは瞼を閉ざすとただの闇になった。
ごくごく淡い、海面を抜けてようやっと差し込む月明かりは、あとほんの僅か身体に届かない距離――そして身体の下にどこまでも広がる真の闇の狭間で、あやすような波に身を委ねる。
指先から意識が溶けて、波と海水と自分の区別が付かなくなってくる。
思い出すのはあの竜の事ばかり。
それ以外はもう、記憶の奥の奥に溶け、澱すら残っていない。
お前の想いの代わりに、全てを吹き払ってやろう、と――
だからもう、忘れた。
だからそれは理由ではない。
囁きに似た海水の振動の中で、在りし日の風だけが耳元で唸る。
風を――、風竜を起こしたのが誰か、あの男は気付いていなかっただろうか。
何も。
だから変わらず、彼女を四大公の地位に置いて
泡が一つ、耳の傍で弾けた。
違う。
気付いていたと、それは確信ですらあった。
気付いていて、何も、言わなかったのだ。
いつも、同じ――
くすりとほんの微かな笑みが唇から零れる。
ルシファーは閉じていた瞳をうっすらと明け、海面から差し込む月明かりを見つめた後、ゆっくり、羽毛が空から落ちるように緩やかに、深い闇へと沈んでいった。
「あの女は好かぬ。我等に付くと口先ではそう言っているが、肚の中では何を考えているのか判らんぞ」
潜めた言葉は空気を震わせ、冷たい石の壁に響く。暗く湿った、洞窟のように思える広間に数人の影が揺れる。天井は高く、更に中央とその周囲に四つ、円錐状に上へと伸びている。外から見れば五つの尖塔で飾られた、灰色で広大な城の一角だった。差す光は無く、闇の中に灰色の壁や城壁は自ら淡く発光するようだ。
広間には、床に空いた大きな黒い円を囲むように十数名の影が蹲っている。初めに口を開いた影は幾つかの視線を受け、また言葉を継いだ。
「先だっては海皇様に対し、何と言ったと思う。この皇都イスが大陸に近付く事を、念願の逢瀬などと喩えおった」
低い笑い声が洩れる。
「不届き者め、笑うとは!」
「笑おうな。確かに長い歴史の中――イスと大陸の接近は初めての事。逢瀬とはよく喩えられたものよ、なぁ」
「貴様、死にたいか」
苛立ちと嘲笑が方々から立ち昇り空気に混じる。影がまたせせら笑った。
「海皇様は何の気にもされておらんわ。そのような事で苛立つなど、三の戟を名乗るにはまだまだ」
「三番目が偉そうにほざく」
「貴様よりわしの方が上よ。全てにおいてな。単に第二位を譲ってやったまでの事。貴様がぎゃんぎゃんと煩いからな」
「何だと! ならば確かめてみるか」
影が吠えるように立ち上がる。
「若造が! 調子に乗るなよ」
「いいぞ戦え!」
「喰らえ喰らえ!」
「退屈凌ぎだ」
周囲に蹲る影が一斉に囃し立てた。数名が慌てて止める。
「落ち着け、騒ぐのはまだ早い」
「あの女など放っておけ」
「放っておけだと、甘い事を! あの女は『引き裂かれた半身』だとほざいたのだぞ」
粘つく泡が弾けるように呟く。重い空気が揺れ動いた。
「何?」
「先の戯れ言だけでは飽き足らず、事もあろうに『引き裂かれた半身と再び巡り合う気持ちは如何か』と」
ぷつり、ぷつりと怒りの呟きが静かに弾ける。
「何と無礼な」
「けしからん。何故海皇様はあの女を置いておくのだ」
呆れたように、また違う場所で声が上がった。
「けしからんのは貴様等よ、口を慎め。亡き皇太子までも侮辱する事と同じだぞ。皇太子妃となられたかもしれぬ御方だ」
「もはや皇太子はおられぬのだ。過去の事だ」
「お主やヴェパール達古い奴等のみだ、あの女を有り難がるのは」
同意を示し、空気が揺れる。
「大体、空気をまとわせんと海中におれぬ者が、我等がバルバドスを自由に行くなど認めがたい」
「そうだ。あの不愉快な膜を引き裂いてやりたいわ」
「ではそなたらはこのまま暗い海中にいたいのか。陸が欲しくはないのか」
そう言ったのは一段高い場所に座る影で、しわがれたその響きに広間の者達が途端にしん、と黙り込む。
「半身と。間違いではなかろう。陸を得るのは我等の連綿と続く願い」
『我は海で良い』
ふいに、広間を壁ごと揺らすような声がした。古い、遥かに年経た深い淵が口を利いたような響きだ。
広間中央の床にぽかりと空いた黒い池に、赤っぽい二つの光球が浮かぶ。巨大な何かがそこに身を沈めていた。
『我はこの海以外、欲するものはない』
「ナジャル――」
『貴様等が去れば喰らうものが無くなるが、海は静かになろう』
広間の者達は束の間、怯えに近い沈黙を宿した。
自らを奮い立たせるように、最初の影から声が返る。
「戯け。貴様とて海皇様の手足」
「海皇様により永らえる事を許されているのではないか」
『は――』
水面が激しく波打つ。広間の者は咄嗟に身を引いた。
『はははは! 貴様等の誰が、永らえる事を許されるまでに、海皇を脅かす事ができようか――!』
ぐぐうっと水面が持ち上がり、次いで巨大な水柱が噴き上がる。
銀色の鱗を持つ長大な蛇身が水面を打った。
『陸が欲しければ海皇がその身を我に喰らわせれば良い! さすればあの王も我が喰ろうてやろうに!』
水飛沫が降り注ぎ、怯えと殺気が入り交じる。
水柱が納まった時にはその底に、ナジャルの影は無かった。
|