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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第三章『陰と陽』


「じゃ俺はこれで上がります。お疲れさまです、上将」
 クライフは少し躊躇いがちにそう言って中庭への扉を開けた。そこで立ち止まる。一番奥の執務机から「お疲れ。明日もよろしくな」と、彼等の上官の普段と変わらない声が返った。
 扉の外は陽もとっぷりと暮れ、回廊に面した窓の明かりと回廊の明かりとで、緑の芝と中央の噴水がぼんやりと浮かび上がっている。まだ月が昇るには早い時刻だ。
「――クライフ」
 クライフが扉を開けたままじっと動かないのを見て、ヴィルトールが促すように声をかけた。
「何か用があるのかい?」
「……いや、その」
「明日の舞台の点検してから帰るんだろう、祝祭部会の奴等が待ってるよ」
「あ、ああ。明日、上将が出られれば良かったんだけどなぁ、今日は午前と午後で票が半数も違ったからよ。午前の票数で三日間行きゃ、マジで優勝狙えたぜ」
「クライフ」
 今その話をするのはどうだろう、とやんわりとだが諌めたのはフレイザーだ。フレイザーが続けて注意する前にレオアリスが顔を上げた。
「悪い、俺も出られりゃいいんだけど、明日は殿下との面会があるからな。今回の任務で少し予定も変わったし」
 今回の任務、と口にした時のレオアリスの様子はいつもと変わらない。
「まあ、ロットバルトとグランスレイは出るんだ、他の奴らも頑張ってるし、優勝の可能性もまだ無い訳じゃないだろ?」
「で……ですよねー! 狙いますよ、当然! あ、そだロットバルト、明日さあお前入り口で客寄せやれよ、立ってにこにこしてりゃいいからよ。そしたら女で満席になって、絶対うちに投票してくれるぜーわはは」
「構いませんよ」
「うぇえ?!」
 この上なく冷めた言葉が返る事を予定していたクライフは目を剥いた。
「ただし、そうだな、貴方が客寄せして午前の部を満席にするという条件が前提ですが。ああ、女性客は八割いけばいいでしょう」
「てめえ、どうせできねぇと思って言ってやがんだろうなァ? ちっ、やったろうじゃねぇか」
 クライフは息まいて回廊へ出ると、振り返りざま腕を振り上げロットバルトへと指を突き付けた。「俺が満席にしたら、ぜってぇ客寄せやらせてやっからな! 覚えとけ!」
「一晩では忘れようが無いな」
「そういう意味じゃねぇっつの、ぶわぁーか!」
 クライフが足音荒く回廊を消えていき、対照的にかちゃりと静かに閉じた扉を見届けたヴィルトールが、わざとらしい溜息をついて首を振った。
「いやぁ熱くなれるのって羨ましいですねぇ、あの程度の事を、あの歳で」
「ほんと、クライフったらいつまでたっても子供ねー」
 そう茶化しつつ、ヴィルトールもフレイザーもクライフの気持ちは判る、というか共有している。条約再締結の場に付けなかった事でレオアリスが落胆しているのは明らかなのだが、表面上は何も普段と変わらず振る舞っている事に対して、どう言葉を掛けるべきかと躊躇っていた。
 フレイザーがヴィルトールと目を見交わした時レオアリスが彼女を呼び、フレイザーは少し慌てて振り返った。
「フレイザー、ユージュがここにいる間、頼んでもいいか?」
「ええ、そのつもりです。実はもう、明日祝祭を案内する話になっていますから」
 フレイザーがにっこりと笑うと、レオアリスも同じように屈託の無い笑みを返した。
「有り難う。ユージュが喜ぶといいな」
「そうですね、レガージュとはまた違った華やかさでしょうから、ユージュにもきっと楽しいと思います。それに、たまにはお洒落させてあげようかと思って。これから母の所に私の子供の頃のよそ行きを取りに行くんです。ユージュに合うといいんですけど」
 浮き浮きと弾んだ声はそれだけで楽しそうだ。ヴィルトールが可笑しそうに椅子に凭れかかる。
「フレイザー、何だかんだ自分が楽しんでないかい」
「楽しいわよー、女にとってお洒落して買い物は。今色々と安くなってるし。貴方だって奥様とでかけるでしょ、楽しくない?」
「買うんならねぇ……。ああそうだ、副将もたまにはどうですか、この際フレイザー達と一緒に祝祭に行ったら。明日の午後は代役立てますよ。演習を抜けるのはアレですけど、祝祭の出し物なら問題ないでしょう」
「私がか」
「ヴィ、ヴィルトール! 副将はお忙しいんだから、そんな」
 フレイザーが顔を真っ赤にして打ち消すように手を振ったが、ヴィルトールはしれっとして続けた。ロットバルトはヴィルトールをちらりと見て、たった今出ていった人物を気にしてか扉の向こうへ視線を投げたが、それだけだ。
「こういう時でないと副将は理由を付けての息抜きすらしないんですから、部下の気を抜く為にも必要なんじゃないですか? 上将だって副将がたまの息抜きでもしてくれないと、気が張りっぱなしでしょう」
 レオアリスの事を持ち出されて、グランスレイは少し心が傾いたようだ。
「それは、そうだが」
 レオアリスが明るい声を向ける。
「いいんじゃないか? 俺は別に気も張ってないけど、グランスレイが息抜きできるんなら。それに通りなんてどこもかしこも死ぬほど人がいるから、お前が居た方が歩きやすいぜ、きっと」
「……そういう事なら」
 グランスレイが頷いたのを見て、さっとフレイザーの顔が輝く。上将すばらしい、とヴィルトールは机の下で親指を立てた。が
「そういや、グランスレイとロットバルトを祝祭に連れ出したかったんだよな。俺も行こうかな」
「いやいや上将、今回はロットバルトだけ連れて行ってください」
 大人なヴィルトールは邪魔です、とは言わず、だが間髪入れずにっこりと笑って口を挟んだ。
「夕方にでも。副将は午後の劇を抜けられても構いませんが、ロットバルトは出てもらわないと女性客が」
「ああ、そうか。じゃあ夕方に行くかな、ロットバルト連れて。……って――行くか?」
 面倒だとか興味はないとか、断られるのを半ば予期してどう説得しようかと考えていたのだが、ロットバルトはあっさり頷いた。
「そうですね」
「マジで?! 買い食いとかするぜ?」
「――まあ、買い食いはともかく」
「やった。でもそうすると、ユージュは俺が案内した方がいいかな」
 フレイザーとグランスレイがえっと慌てた顔を上げる。それは最早本末転倒、というか、ユージュがいないのでは二人きりになってしまう。ユージュがいるから、という言い訳――ユージュには悪いが――が効かないのは、困る。困るのだ。
 レオアリスはその辺りの機微やらヴィルトールの意図やら大人の事情やらなんやら、全く気付く様子がない。
「――上将、」 空気を読んでください、とは言わず、ロットバルトもヴィルトール同様、にこりと優美に微笑んだ。
「ユージュも着飾って歩くのを楽しみにしているでしょうから、明日はフレイザー中将に任せた方が喜ばれますよ」
「ああ、そうか、じゃあやっぱフレイザーに頼もう」
 フレイザーとグランスレイとヴィルトールがそれぞれふぅ、と密かな息を吐く。
 そうすると、しん、と微妙な空気が流れた。
「?」
 レオアリスが訝しそうに見回した時、こほん、とグランスレイが咳払いをし口を開いた。
「では……、フレイザー、明日は二刻に迎えに行く。ユージュと二人、用意をして待っていてもらえるか」
 フレイザーの顔がみるみる真っ赤になる。
「――は、はい!」
「意外と押さえるとこ押さえるなぁ、副将も」
 ヴィルトールはにやりと笑ってそっと呟いた。「いや、意外とじゃないか、真面目だからなぁ」
「あ、じゃ、じゃあ、ユージュが待っているので、私はこれで! お先に失礼します!」
 フレイザーはがたんと椅子を鳴らして立ち上がり、ぎくしゃくと敬礼するとくるりと向きを変え、扉へ向かった。
「お疲れ。――グランスレイ達も今日はいいぜ、取り敢えず。色々あったし、さっさと休もう」
「――」
 グランスレイは一度レオアリスをじっと見つめ、瞳の色を読み取ると、一礼した。
「では、私もこれで。何かあればお呼びください。館におりますので」
「なんにも無いって、じゃあな」
 たっぷり三呼吸分ほど敬礼を向けてから、グランスレイは書類を整えて机の未決裁箱に入れると執務室を出た。
「さてと、私も帰ります。綿菓子と飴細工と弾け豆と玉蜀黍と人参と玉葱と小麦粉とあとたわしと寸胴鍋をお土産を買ってきてくれって妻と娘に頼まれてるんですよ」
 でれでれと言ってヴィルトールも席を立った。
「よく覚えてるな……」
 ついでに日用品も入っている。
「上将、今日はお疲れさまでした、この後はごゆっくり。明日は任せてください、クライフが責任持って頑張りますんで」
「心配してない。お疲れ」


 扉を出て少し回廊を歩いた所で、遅れて出てきたロットバルトに呼び止められ、ヴィルトールは首を傾げて振り返った。
「あれ、どうかしたかい?」
 帰り支度はまだしていないところを見ると、ただヴィルトールに用なのだろう。ヴィルトールへと向けられたロットバルトの面にあるのは少しばかり意外そうな表情だった。
「随分とお膳立てをしましたが、いいんですか」
 クライフの事は、と言外に尋ねているのだと判り、ヴィルトールは楽しそうに笑った。笑った理由とは別の事を口にする。
「動かさないとと思ってさ、そろそろね。奴もずるずる希望持つより、ここらですっぱり諦めた方がいいと思うだろう?」
「さあ。下手に周りが動くものでもないと思いますが」
「動くのはフレイザーだよ。今回の事なんて単なるきっかけでしかない」
 そう言ってヴィルトールは苦笑した。
「まぁ、どうせなるようにしかならないけどね。勇気のある誰かが望みを引き寄せるんだよ、最後は」
 ロットバルトがそれをどう捉えたかは聞かず、一歩近寄って肩をぽんと叩き、挨拶代わりにその手を振った。
「それよりロットバルト、上将をよろしく」
 それに対してロットバルトは珍しく、僅かだが視線を逸らした。ヴィルトールがおや、と眉を上げる。
「あれ、何か問題か?」
「よろしく、か――そう言われてもね。既に私が何か手を尽くせる段階は過ぎている。スランザールの言をすら、陛下は容れられはしなかった。さすがにできる事はありませんよ」
「あのな、そういう事じゃないって。相変わらず何でも合理性で考えるなぁ」
 ほんの束の間の沈黙があった。ロットバルトがその先の言葉を躊躇ったのだと判る。噴水が束の間水の量を増して噴き出し、夕闇の降りた中庭を水音が彩った。
「――私は半ば――いや、八割方、上将は今回の役割を外れると考えていましたからね」
 蒼い瞳がそこで、ヴィルトールを正面から捉えた。
「国家間の均衡を考えるなら、外すべきだと。だから事前に打てる手を、敢えて打たなかったのかもしれない。あの場でも、やりようはあったのかもしれないが」
「――」
 ヴィルトールはじっとロットバルトの眼を見ていたが、ふっと力を抜くように肩を竦めた。
「珍しいな、罪悪感ってやつか。お前が考えていた通りになって。でも別に間違った考えとは思わないけどね、私は……というかまあ、必要だよ。それに合理的、冷静に物事を見るのがお前のいい所だろう?」
「どうだか」
「そういうのは置いといて、――含めてか、上将を頼むって事だ。まあ、上将も判ってらっしゃるんだろうけどね、納得し難いだけで。だからああやって面には出さずに、我々に見せないようにしてる。でもここには出ちゃってるけどね」
 ヴィルトールは自分の瞳を指差した。夕方最後の小鳥が二羽、ねぐらに帰る前に噴水の水をついばみ、あまり寛ぎもせず暮れかかった空へ飛び立つ。薄紫の空へ放物線を描くように、士官棟の屋根の向こうに消えた。
「――私の考える表面上の合理よりも、上将の感覚の方が正しい方向を見ているかもしれない。……せめてスランザールの見ているものが判れば」
 ヴィルトールは灰色の瞳を細め、まだレオアリスのいる執務室の扉を見つめた。
「判ったらどうにかなったかなぁ。私達は近衛師団だからね。陛下のご下命次第で右にも左にも動くものだろ」
 扉から視線を外すと、ロットバルトの前を離れて中庭の出口へと歩き出しながら、ヴィルトールはいつも通り穏やかな笑みを向けた。
「じゃあ、上将をよろしく」
 もう一度、そう言った。



 ロットバルトが執務室に戻ると、一人残っていたレオアリスが書類から顔を上げた。壁際の時計を確かめる。
「終わりにする。お前も帰るだろ、もう」
「そうですね、今日は大して書類もない、上がりましょう」
「三日間訓練も何もないもんな。書類が無いのはいいけど、やっぱ物足りない気がする」
「西方公と戦って、物足りない、ですか」
「ああ――、そうかあれ、今日だったな……」
 今思い出したように、レオアリスは驚いた顔をした。
「そう考えるとちっとも楽じゃないか。逆に働き過ぎだ」
 呆れたように笑ってみせた。いつも通り。
 だが声や態度は普段と何も変わらなくても、瞳には翳りがある。
「――帰る前に、これを」
 ロットバルトは自分の執務机に歩み寄り、確認の為に広げていた書類を纏めて整えてレオアリスへ差し出した。内容が想定できていたレオアリスは、躊躇いがちにそれを受け取った。
 明日の日程やファルシオンとの面会の為の資料だ。月末、ファルシオン守護の任務に当たる為の。
「明日の殿下との面会は内政官房長官も同席されます。普段とはだいぶ勝手が違うでしょう。大公から警護や補佐の役割について、内容、しきたりの確認があるはずです」
「――判ってる、いいよ、それは」
 口調は抑えていたものの、跳ねのける響きがあった。すぐばつが悪そうに顔を反らす。
「ちゃんとやる」
「――」
 レオアリスの反らした顔を見て、ロットバルトはくすりと笑った。
「何だよ」
「拗ねても仕方ない」
「す――、拗ねてねぇ! 何だそりゃ」
 どっと顔に血を昇らせて言い張り、だがすぐに溜息と共に肩を落とした。
「……はぁ。そんなにガキっぽい態度だったか?」
「まあガキっぽいと言うか、歳相応では」
 レオアリスはがっかりした顔のまま、椅子の背に掛けてあった外套を取り上げ、袖を通した。
 ただ、その様子さえ、敢えてそう見せているという色が強い。
 自分自身に、だ。
 あの謁見から戻ってずっと、レオアリスは自分を納得させる事に集中しているようだった。
「――今回の任務は、王の守護と同じ重さを有しています」
 レオアリスは傍らのロットバルトの顔を見上げた。それから視線を外す。
「殿下をお護りする任務はこの上無い栄誉だ。俺自身にとっても、喜びでもある」
 それはレオアリスの本心だろう。
 ただ、それ以上に望むものがある。
 王が西海への帯同にセルファンを指名した時――
 あの時、ロットバルトにも、剣の鼓動が聞こえた気がした。
 それほど、レオアリスの上には動揺が見えた。それはただその任務に就けなかったという失望ではなく、王の傍らにいる事ができない事への、不安のようなもの――
「――陛下がお決めになった事です。何の問題もありませんよ」
 口ではそう言いながら、実際にはロットバルトは自分の言葉に違和感を覚えていた。
(「王の守護と同じ」――か。同じ。何故そこまでする? 陛下が王都を空けられるのは、たった一日でしかない。確かに不在自体、今までにない事ではあるが)
 ファルシオンに全権を委任し、レオアリスにアヴァロンと同じ役割を与え、大公ベールに補佐させる――。王が示したのは、まるでひと月は王都を空けようという体制だ。
 だから余計、あの場にいた者達はほぼ、王が次期近衛師団総将を暗に示したのだと見ている。そして、正式に決定する前に、もう一人、第三大隊のセルファンを試す為に帯同するつもりなのだろうと。
 レオアリスかセルファンか、明日にはもう王城は噂で持ち切りになっているに違いない。
(――それをスランザールが避けようとするか? あれほど慎重に?)
 それだけでは納得が行かない。
(それと、三人の内二人)
 俎上に挙がっているのが二人だけでは、まさかトゥレスもあの流れ一つでは納得はいくまい。どちらかと言えば諸侯の予想は、レオアリスかトゥレスか、だった。
(――)
 懸念があるのだが、それが何か明確ではない――動き出した歯車が、見えない所にあった小さな歯車を、思いがけなく動かしてしまったかのような。
 目の前に見える仕掛けではなく、その先にある全く別の仕組みが、動き出す――
「ロットバルト、行こうぜ。飯食って帰るだろ?」
 レオアリスはもう扉の前で振り返り、ロットバルトを待っている。目が合って、そう言えば、と言った。
「明日は殿下にあの話をする時間がないかな」
「あの? ……ああ、ロカの街の件ですか――。確かに難しいでしょうね。大公はご存知ではありますが、明日は王宮警護官も同席する公式の場ですから」
「報告が来たばかりなのは殿下も判っておいでだろうけどな。いい知らせだし、早くお伝えしたかったが」
「仕方がありません。おそらくすぐに殿下から呼び出しがありますよ。明日は話をされる時間も無いでしょうから」
「ああ、そうだな」
 一度壁の近衛師団旗に眼を向け、ロットバルトは掛けていた外套を取り上げた。





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