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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第3三章『陰と陽』


 バーチ・コリントは南方フェン・ロー地域南東街道沿いに位置する、ロカという人口三百人ほどの小さな街の領事館に、事務官としておよそ二十年勤務している。黒髪で中肉中背、妻と十六になる娘が一人いる四十半ばの男で、心配事は娘が今想いを寄せている相手が娘の結婚相手に相応しいかどうかという事と、最近少し下腹が出っ張てきた事くらいだ。
 いかにも豊かでのんびりした田舎の街で育った気のいい真面目な性格で、領事館勤務とはいえ大きな事件などには生まれてこの方関わった事などない。いつも農作物の出来や街の店の繁盛具合を見て回ったり、時に腰を痛めた爺様をおぶってセイモア医師の所へ連れて行ったりが主な仕事だった。これまで彼の一番の仕事というと、南外れの小川の古い石橋を五年前に掛け替えた事だが、工事そのものは街の大工達と南方軍がやってくれた。
 それが最近になって、コリントには彼の人生最大ではないかとも言える大切な役割を与えられていた。それも王都の、ヴェルナー侯爵家からだ。
 ヴェルナー侯爵はこの街の領主の、更に二つ上の立場にある、いわゆるこのフェン・ロー地方一帯を統括する大貴族で、王都でも内政官房副長官という非常に高い地位にあり、コリントからすれば顔の想像すらつかない立場の相手だった。領主のサンドニ子爵家からでも、その上のブラウドール伯爵家からでもなく、直接、ヴェルナー侯爵家からの依頼。そんな事はおそらくコリントのこの先の人生だけではなく、このロカの街の領事館にとっても、二度と有り得ないのではないかと思われた。
 そのヴェルナー侯爵家からコリントに与えられた任務とは、この街の近隣に住む事になったハインツという、まだ十代の若い夫婦の世話と、彼等の暮らし振りの報告、というもので、今年の始め、領事直々に呼ばれてその任務を拝命した。
 コリントを推薦したのは領事だ。選任の理由は真面目な仕事振りを買われての事らしく、コリントにとってこの任務への選任は名誉なものだった。その分の報酬も少しだが出るので、妻にも楽をさせてやる事ができたし、何より娘を嫁に出す時の為の蓄えに回す余裕ができた。
 夫妻の世話と言っても毎日の事ではなく、あれこれと彼が用意してやる必要もない。ただ、生活に困るようなら相談に乗り助言する事、月に一度、夫妻が生活振りを領事館へ報告に来るから、それをヴェルナー侯爵家へ上げる事、とその程度だった。
 二人はヴェルナー侯爵家の縁故なのだと、任命された当初に聞いた。余り表沙汰にはできない立場で、ただ慣れない生活に困窮させる訳にはいかないと、そう言ったのは非常に整った面立ちのいかにも高貴な雰囲気を纏った青年で、身分こそ明かさなかったがその物腰や言葉、そして領事の態度から、彼がヴェルナー侯爵にかなり近い立場なのだろうと想像できた。
 そうした人物が直々にコリントに会って指示するほど、これは重要な役割なのだとコリントにもずしりと重く理解でき、余計な事を尋ねるべきではないとも自ずと認識し、それから真面目に取り組んできた。ほんの少しばかり、実は夫妻のどちらかがヴェルナー侯爵の妾腹なのでは、と考えたりもしたが、領事の見込んだとおり生真面目なコリントがそれを口に出す事は無かった。
 それに、若い夫婦はどちらも貴族の縁故とは思えないような気さくな人柄で、コリントは任務でなくとも世話を焼く事に何の不満も感じなかった。任務に就いてもう四か月が経つが特に問題もなく、先日四度目の報告を上げたばかりだ。その報告の際、冬に子供が産まれるのだと、ハインツがとても喜んでいたのが印象に残っている。
 そんな事をつらつらと考え、春の朝の爽やかで気持ちの良い陽射しを浴びながら、コリントが出勤の為に領事館の玄関階段を数段登った辺りで、遠くから声を掛けられた。
「コリント事務官! いいところに」
 白髪混じりの清潔な身なりの男が片手を上げながらこちらに歩いて来るのを見て、コリントは領事館の玄関の前の階段を降りて彼を待った。彼はこの街と近隣の村にとって唯一の医者だ。患者は引きも切らず、日中に彼を診療所の外で見かけるのは珍しい。
「セイモア医師、今日はどうかされましたか。私にご用で、領事館ここへ?」
「そうなんだ」セイモアは頷き、一度自分の診療所がある方向を振り返った。「朝くらいしか出てくる時間が無くてね」
「呼んでくれればすぐに伺いましたよ」
「いやいや」
 セイモアはにこやかに首を振って短い顎髭を撫でた。
「診療所は人が多くてね。――なあ、バーチ、ちょっと頼みたいんだが」
 セイモアが領事館の周りを見回すのを見て、コリントは医師を手招き領事館の扉を潜った。来客用の小さな部屋に招き入れる。
「どうかしましたか?」
「うん、君の世話しているあの夫妻だがね」
「彼等が?」
 街唯一の医師として、セイモアにはコリントが彼等の世話をしている事は伝えている。当然深くは話していないし、セイモアもそれ以上は聞かない。
「ラナエは一昨日診察日だったのだが、来なかったのだ。昨日も来ていない。だから気になってね」
「診察に来なかったのですか」
 妻のラナエは身重で、経過を診なければいけない大事な身体だ。
「街から遠いからな、体調が悪いと来るのも難しいが。逆にそうだとすると私が診に行ってやりたいのだが、生憎患者で一杯でね。悪いんだがバーチ、早い段階で見に行ってもらえまいか」
 心配そうなセイモア医師へ、コリントは任せてくれと頷いた。
「判りました。早速、午後にでも訪ねてみます」
「悪いな」
「いやぁ、私の役目ですから。馬なら一刻もせず着きますからね」
 それに夫妻の立場を考えれば、セイモア医師よりは事情を知っているコリントが尋ねる方が都合がいい。
 定期報告は上げたばかりだが、常に二人の事は頭に置いて、何か変化があれば何時でも報告するようにと指示を受けている。それにコリント自身も、街から離れた所に住む二人に何か問題があってはと少し心配になっていた。
「教えていただいて有難うございます」
 セイモアと別れ、通常の仕事をある程度こなしてから、十一刻にコリントは街を出た。



 暖かい陽射しの、気持ちの良い日だった。コリントを乗せた馬も気持ち良さそうに、軽やかな足取りで街道を進む。フェン・ロー地方は美しい春に満たされていた。
 街道の右側には緑の放牧地が広がっていて、左側は果樹園が続いている。この辺りの主要な農産物は豊かな土壌から育つ果物だった。南から渡る風は草や果実、甘い花々の香りを運んでくる。
 もっと南下するとアルケサス砂漠の影響で暑くなり過ぎるが、ここフェン・ロー地方は平野が広がり小川が幾筋も流れ、果実以外にも麦や野菜など、王国内でも有数の豊かな実り多い地域だった。
 東から南西へ、街道を横切るレイテ川を越え、そこからまたおよそ四半刻ほど、くねりながら街道の傍らを流れるレイテ川の水面を眺めながら馬を歩かせて、やがて現れる左側の小道をしばらく行くと、小さな林檎の果樹園に出る。本当に小さな、林檎の樹も五十本に満たないこぢんまりとした果樹園で、奥に小さな畑と小さな家があった。果樹園の北の端にはレイテ川から引き込まれた水路が流れ、その傍には粉引き小屋があり、今も水車がゆっくりと回っているはずだ。
 この全てをヴェルナー侯爵家がハインツ夫妻に用意した。
 小さいながら陽射しのふんだんに注ぐ果樹園の様子は、一幅の絵画か一つの完成された世界のようだと、コリントは来る度に憧れすら持って眺めていた。
 辛い過去のある――おそらく――もしかしたら何不自由無く王都で優雅な暮らしができていたかもしれない年若い夫婦が、ひっそりとだが平穏な新しい暮らしを築くのにふさわしい場所だ。これから生まれる新しい生命と共に。
 コリントは馬を降りると柵に馬の手綱を括り、低い木の門を押して園内に入った。園内には収穫時期の違う品種が十本ずつ程植えられている。今は柵に近いところの樹の枝に林檎の実がたわわに実って重く枝垂れ、もう収穫できるものも多かった。家へと続く煉瓦を敷いた小路から、林檎を収穫する籠が、林檎を半分ほど入れた状態で木立の間に置かれているのが見えた。作業の途中だろうか。ハインツが樹々の間にいないかと見回したが、姿は無かった。
「――ハインツさん!」
 三角の切妻屋根の家に近付き、コリントは家の窓へ声をかけた。
「ハインツさん、いますか。領事館のコリントです」
 口を閉ざししばらく待ったが返事は無い。すぐ傍の林で小鳥が鳴いている。水路を流れる水のせせらぎ。
「――ハインツさん? いないんですか?」
 コリントはもう少し声を張り上げた。それでこの果樹園全体に響く。
 果樹園は、静かだ。
「いないのか。出かけているのかな」
 念のため再び声を掛けようとして、急にコリントは不安になった。
 ある事に気付いたからだ。
 いつもは聞こえていた、水車が動かす粉引き臼の音が、聞こえてこない。
 出かけているのなら動かしていなくてもおかしくはないし、そもそも今日は動かす予定が無いのかもしれない。
 けれど、何故だか無性にそれが気になった。
「ハインツさん」
 玄関の呼び鈴の紐を引く。扉の向こうでカランと鈴の音が響くのが聞こえたが、誰かが動く気配は無い。家全体を見渡せば窓は一階も二階も鎧戸が開かれ、室内の日除け布は引き上げられている。一階の二つ先の、果樹園を望む窓が片方開いていた。確か居間の窓だ。
 もう一度、今度はもっと強く呼び鈴を引っ張った。
「ハイン……」
 ふいに風が吹いて――、玄関の扉が、ゆっくりと、ほんの隙間程度開いた。
「――」
 風で開いたようだ。鍵がかかっていないとは、無用心だと思った。
 何だか――鼓動が早い。
 コリントは束の間じっと玄関の把手を見つめ、それから恐る恐る手をかけた。
 開く瞬間コリントの頭の中にあったのは、最近この辺りに野盗が出ただろうかという不安だ。領事館ではそんな話は聞いていないが、コリントの中に掻き立てられた奇妙な不安が、一瞬の内に最悪の情景を浮かび上がらせた。
 扉を開けたら、中はひどく荒らされ――、夫妻が、血塗れになって倒れている――
「――っ」
 半ば顔を背けながら、一息に開く。
 扉の先にある居間は、どこも荒れた様子なく整っていた。
 拍子抜けし、全身の力が一気に抜けるような感覚で、コリントは溜めていた息を吐いた。
「どこかに出掛けているだけか……」
 そう呟き、夕方改めて来るつもりでコリントが居間に背を向けかけた時、その向こうの台所が目に入った。台所との間には扉はなく、食卓と調理台の一部が見える。
 調理台の上に、切り掛けの野菜があった。
「――」
 コリントはじっと野菜の断面を見つめたまま、居間を横切り、台所へ入った。調理台のまな板の上で、人参が赤く丸い断面を見せている。包丁はその傍らに添えるように置かれていた。
 かまどに掛かった鍋に張られた水。洗って籠に盛られたじゃがいも。
 風が頬を撫で目を上げると、勝手口が開いていた。窓の日除け布が揺れる。勝手口の床は、吹き込んだ落ち葉が数枚、そのままになっていた。
 先ほど目にした、林檎を入れたままの籠が頭に浮かんだ。
「――」
 コリントは急いで踵を返した。「ハインツさん!」と呼ばわりながら階段を昇った。二階は部屋が二つあるだけだ。
「ハインツさん――、イリヤさん! いないんですか! ラナエさん!?」
 寝室と、もう一つはまだ家具もない空き部屋で、どちらにも二人はいなかった。コリントは居間に降り、束の間がらんとした部屋に立ち尽くした。
「――何か、あったのかもしれん」
 食事の準備の途中、収穫作業の途中で、それらを置いて家を空けなければいけなかった何か。
 イリヤが怪我をしたとか、ラナエの具合が悪くなったとか――。
 だがセイモア医師の所へは来ていない。来る途中、誰かとすれ違ったりもしなかった。
 何かは判らないが、漠然と、大きな問題が起きているのだと思った。
「領事にお知らせしなくては。それから、あの方に――」
 もしかしたら、何かあって近隣の村か農家に行っただけかもしれないから、そこも確認した方がいい。その可能性はとても薄いように思えたが。
 とにかくコリントは、急いで馬の手綱を柵からほどくと来た道を戻り始めた。



 青い空を薄い白い雲が流れていく。どこまでも続く大地の緑との調和が美しい。
「やっぱり空が美しいのはいいわね。解放感があって、海の天井よりずっといい。あれは塞がれているみたいだもの」
 遠くで雲雀がさえずり、大地に広がる緑の牧草とそれをむ家畜の群。
「海の中には無い景色――憧れる気持ちも判るわ。海の中は暗くて、どこまでも落ちて行くようで――」
 涼やかな笑みが風に乗る。
「喰い合う気持ちも判る」
 ゆっくりと巡らせた暁の瞳が、街道のずっと先に、街への道を急ぐ官吏の姿を映した。
 ルシファーは何もない空中に優雅に腰掛けて足を組み直し、唇を笑みに綻ばせた。
「来たわよ」
 ルシファーの真下の、芝の斜面に寝転んでいた男が眼を開ける。ゆっくり半身を起こし、街道を近づいてくる馬影を眺めた。
「あの男を斬るのか」
 男の表情を見てルシファーは悪戯っぽく首を傾けた。
「そうよ。気が進まない?」
「別にどちらでもないが、ただ利用されるのは面白くはないな。斬って俺に何の得がある?」
「利になるかどうかはあなた次第ね。あなたには今、覚悟を見せて欲しいだけ。強制はしないわ」
 けど、とルシファーは笑った。
「その結果私があげるのは切っ掛け――それだけでしかない。そこでどう動くかも、あなた次第よ」
 ルシファーの言葉に男は肩を竦めた。
「ふん、まあいいさ、どうせ手を組むつもりはないしな」
「そう? 残念」
「取り敢えず、物取りに見せ掛ければいいんだな」
「そう、だからあんまり切れ味いいのは困るわ。しばらく誤魔化したいの」
「しばらくか、どうだかな。街に帰らないのは今日バレる。領事館が明日死体を見つけ、南方軍が周辺捜査をして二日、ヴェルナーに伝われば、ただ死んだとは思わないな。即あの果樹園は調査される」
 男は立ち上がり、緩い斜面を靴底で滑るように軽やかに降りた。身を覆う冥い色の外套の裾が翻る。
「いいのよ、どうせ表立っては動けないのだから」
 ルシファーの言葉を冷笑と共に聞き、男はコリントがまさに馬で駆け抜けんとする、その手前に降り立った。気付いたコリントが慌てて手綱を絞る。馬はいななきながら前脚を高く上げ、蹄鉄が男の顔を掠めるようにしてぎりぎり手前で踏み止まった。
 青い顔をしたコリントが馬から飛び降りる。
「だ、大丈夫か! 危ないじゃないか、いきなり飛び出して……! 怪我は――!」
「これから自分が死ぬのに相手の心配か。なかなかいい男じゃないか。嫌いじゃないな、残念」
 コリントは持ち上げかけた腕を止め、困惑に眼をしばたたかせた。
「――はぁ? あんた何言って」
 男の手元から銀色の光が閃く。
 次の瞬間、コリントの胸から血が吹き上がった。胸が斜めに斬られている。男の手に短剣が握られている。
「――な、何を」
「逃げな」
 男は囁き、コリントの後ろを顎で示した。
「ひ……ひぃ……!」
 コリントは悲鳴を飲み込み、恐怖と混乱の内にくるりと背を向けた。無我夢中で逃げ出した背中へ、再び短剣が閃く。
 四度、短剣はコリントを掠めて皮膚を裂き、最後に心臓を刺した。
 絶命し、足元に崩れ落ちたコリントの傍にしゃがみ込むと、男はコリントの懐を探り財布を取り出した。
「全く、一度に斬らないようにするのも楽じゃない」
 財布をルシファーに投げ、短剣を鞘に収めると外套の下にしまう。
「馬もどこかに連れていけよ。物取りらしくな」
「判ってる。――悪い事をしたわ、ごめんなさい」
「俺にか?」
「その男によ」
 ルシファーは血の着いた革の財布を何度か手で弄び、ふっと息を吹きかけた。財布が掻き消える。
「何だ」
「そのうち、その男の家のどこかで見つかるわ」
 男は口元を歪めた。
「何考えてんのかね。――まあいいさ、終わりだろう。早いところ送ってくれ」
 自分の外套の前に跳ねた返り血を手袋で拭い、街道の端に投げ捨てる。ルシファーは中空に立ち上がり、両腕を広げた。
「助かったわ。――月末に」
 男とルシファーの姿が消えた後、倒れたコリントの身体から流れ出る血が、まだゆっくりと街道の石畳に広がっていた。






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