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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第三章『陰と陽』


 王城の五階に位置する謁見の間は、その扉の高さ二間、真正面に立つと、ほぼ真上へ顔を向けなければ全体を捉える事はできないほど高い。扉の前に立つ者の姿を映すほど艶やかに磨き上げられた漆黒の表面は、よく見れば微かな星が散る灰黒色が混ざっている。継ぎ目は無く、一つの岩から切り出されたものだ。王の紋章と繊細な蔓草の模様が浮き彫りにされていた。
 左右に一名ずつ控えていた近衛師団隊士がレオアリス達へ敬礼を向け、扉を押し開ける。その間に広がっていく世界を、レオアリスはじっと見つめた。
 扉に比して――それ以上に、無限に広がるような錯覚を受ける広大な空間を、主の纏う威厳が満たしている。この扉が開く瞬間、そこに王の放つ気配を感じる瞬間が、レオアリスは好きだ。身が引き締まり、深い敬意と誇りを感じる。
 扉はゆっくりと開ききり、二つの世界を繋いだ。
 玉座へと真っ直ぐに繋がる、足音を吸い取る深緑の絨毯へと踏み出す。
 立ち並ぶ十数本の円柱の間を伸びる深緑の絨毯の終着点、玉座へのきざはしの前に内政官房長官ベールが立っているのが見える。レオアリスは足をやや速めて歩み寄り、ベールの一間ほど手前で立ち止まるとそこに膝をついて深く頭を下げた。玉座に座る王の姿を一瞬瞳に捉え、改めて、先ほどスランザールから告げられた時に抱いた想いを強くする。
 この国と西海との歴史や、ルシファーと西海の皇太子との関係、それらがどう関わってくるとしても、レオアリスの存在理由は変わらない。
 アルジマールがレオアリスの横に並び、グランスレイとロットバルトが後ろに控える。
 スランザールがきざはしの下にいた大公ベールの隣に立つと、ベールはスランザールへ目礼を向けてから、低い声を発した。
「法術院長アルジマール、近衛師団第一大隊大将レオアリス、面を上げよ」
 レオアリス達が顔を上げるのを待たず、ベールは言葉を続けた。「事のあらましは既にアヴァロンから陛下へ奏上している。貴侯等はそれぞれの所見を申し上げよ」
 状況報告を省き所見――、個人の見解から入るのは珍しい。レオアリスはそれが、王やベールがこの件を重視している現れなのか、力点を別に置いているのか、どちらなのかを知りたくてベールの横顔を伺った。その面に読み取れる感情は無い。
(――判らないな。けど所見か……)
 ルシファーに対して感じた事を、どこまで口にするべきだろう。
 先にアルジマールが顔を起こす。アルジマールは常に目深に被ったままだった法衣のかずきを、背中に落とした。「ではまず、私の所見を申し上げます」
(えっ?!)
 レオアリスはつい一瞬状況を忘れ、これまで謎に包まれ一度たりとも目にした事の無かったアルジマールの素顔を見つめた。
(――)
 十代、それも前半にしか見えない。受ける幼さはある意味想像通りだろう。彼の自由な言動とは全く印象の異なる、繊細な顔立ちをしている。
 ただその両眼は、義眼だった。光を透かす美しい硝子の瞳だ。
 その奥に微かな法術の気配が揺らめくのを感じる。微かでありながら、どこまでも深い。
「ルシファーは、今回の復元を知ってました」
 アルジマールの言葉に、彼の素顔の衝撃も薄れる。レオアリスは瞳を見開き、アルジマールのそれを見つめた。
(知っていた――?)
「一体どこかから聞いたんでしょうね。当然、王都じゃあそれほど伏せていた話でもありませんでしたから、洩れ聞こえたかもしれませんが」
「とはいえ大声で触れ回っていた訳でもない。情報を把握していたのは」
 ベールが沈着な視線を向ける。答えたのはアヴァロンだ。
「正規軍第一大隊将官及びアルジマールの護衛の任を負う第七大隊全隊、近衛師団第一大隊は中将まで、情報は渡っておりました」
 アヴァロンの言葉を引き継ぎ、ベールがきざはしの上を見上げた。
「加えて我々内政官房の一部。地政院、財務院までは特に通知しておりません。しかし仮に通知していたとしても、この王城内では知り得ますまい」
 ベールは敢えて口にはしなかったが、ここ王城には王その人が巡らせた何よりも強固な防御陣がある。
「だとすれば内通者のいる可能性もあろうかと。それもさほど驚く事ではないと考えます」
 内通者、という言葉に嫌な感覚が胸の辺りで騒つく。
 王は遣り取りを見下ろしていた黄金の瞳を細めた。
「風を遮るのは至難であろう。さすがにこの国全てを閉じる訳にもいかん。だが吹き入る路は明らかにせよ」
 アヴァロンが了承の意に頭を下げる。
 知っていた、とレオアリスは改めて口の中で繰り返した。アルジマールが王の前でそう言うのなら、それなりの確信があるのだろう。ルシファーの能力がそれを可能にしたのだろうか。
 レオアリスが復元の事を話したのはワッツがそれを知らせに来た時と、アルジマールと話をした時、その二回しかない。王城中枢にある法術院は除外するとして、もし、近衛師団でのレオアリス達の会話をルシファーな聞く事ができたと仮定したら――問題は大きい。
 ただベールはそれ以上言及せず、切り替えるように瞳を転じた。
「レオアリス、貴侯が感じた事は――ルシファーと対峙したのだろう」
 促され、レオアリスはひとまずその考えを脇において、膝を着いたまま改めて姿勢を正した。
 今回のルシファーとの対峙は、王の下命を受けてのものではなく、レオアリス個人の判断だ。
「まずは、陛下のご下命のないままに剣を交えた事について、謝罪を申し上げます」
「良い。それは問題ではない」
 王の返答に対して、レオアリスではなくアルジマールが息を吐く。
「良かったです、私が突然引っ張り出したので、大将殿がお咎めを受けたらさすがに心苦しくて」
「アルジマール院長、貴侯も多少は社交性が出てきたようだな」
 ベールが低く笑い、さりげなく庇おうとした事を見抜かれたアルジマールは唇を尖らせた。
「だが、この後の十四侯の揃う場では、形式は取らせてもらう」
 レオアリスは面を伏せた。何らかの問責はあって仕方ない、というよりあって当然だろう。ただ謹慎が明けたばかりなのが辛い。
 王の瞳がレオアリスへと向けられる。
「ルシファーの風はどうだった」
 黄金の瞳を見上げる。あの激しい風は、王の存在に満ちたこの静寂な空間の中でどう吹くのだろうと、一瞬思った。
「――率直に申し上げれば、戦うのは非常に困難な相手です。風を変幻自在に操る能力は、大隊一つの戦闘力をも凌駕します。ただ退かせようとする場合や、或いは捕えようとする場合に、その目的を達成するのは至難だと感じました」
「貴侯の剣を以ってもか」
 ベールは感心したようにそう言った。「だが捕えようとした場合、と限定したな。では、生死は問わぬと言ったら」
 一度息を抑え、それからレオアリスは顔を持ち上げた。
 アスタロトがこの場にいなくて良かったと、そう思う。
「隊には一定距離を取らせた上で、二刀を用いれば、或いは」
 或いは――、どうだろう。
 次に対峙した時は、二刀を抜く暇すら与えられない事も考えられる。それが、ルシファーには可能だ。
「なるほど――、敵に回すとなると改めて厄介な能力だと言わざるを得んな。説得が可能ならそれが一番の安全策だが、面立って離反した以上もはやそれでは収まらん」
 ベールは再び王を見上げ、その意思を確認した上で、レオアリスを見た。
「次にルシファーと対峙した時は、斬れ」
「――」
 鼓動が一つ、身体の内に響いた。王の意思を求め――そこにほんの僅か、ルシファーを斬るという判断を回避する要素が無いかと――黄金の瞳を見上げる。
 それから、ゆっくり、細く息を吐いた。
 ベールは元から、王意思を汲んだ上でレオアリスへ指示を下している。そしてまた、ルシファーが完全に敵対したのであれば、レオアリスの迷いは自軍への損害となって返るだけだ。
「――ご下命の通りに」
「そう言えば大将殿、戻る直前、君は海面の下に何を感じた?」
 ふと思い出したようにアルジマールが問い掛ける。「何か居たよね。君は焦っていた」
 アルジマールの問い掛けが何を差しているのかは、すぐに思い至った。ベールとスランザール、アヴァロンがレオアリスの回答を待って視線を向ける。
「気配だけですが――これまでの三の戟と同じ、いえ、それ以上の力が動くのを感じました」
 あのまま落ちなくて良かったと、心底思う。
 直面していたルシファーとも、ビュルゲルやヴェパールとも違う、これまで感じた事の無い異質な気配だった。
「恐らく三の戟の筆頭、ナジャルではないかと考えます」
 文書宮でスランザールが告げた、ナジャルは太古の西海の王だ、という言葉――、あの気配にはその表現があまりに相応しい。
「うん、そんなところだよね。ほんとドーリの転位陣が間に合って良かった、あの時はだいぶ焦ったよ。しかしそうなるといよいよルシファーと西海との関わりは現実的かな。どこまで手を組んでるんだろう。ルシファーが復元の情報を得てたんなら、今回はあらかじめ、ナジャルはあの場に来る手筈だったのかな?」
「直前まで気配は感じられませんでした。どちらとも判断はしかねます」
「まあルシファーはあんまり他者と手を組むとか好きじゃなさそうだけどね。西海は別でしょうか」
 最後の言葉を王へ向け、アルジマールは玉座を見上げた。スランザールの抱えている絵を指差す。
「陛下、これも既にアヴァロン殿からお聞き及びかと思いますが、ルシファーの館にこの絵がありました。これは西海の皇太子の肖像画です」
 レオアリスは王の面を見つめたが、肖像画へ下ろした黄金の瞳には驚いた様子は無い。
「彼とルシファーの繋がりは、今回の離反に多少なりとも関わっていると考えます」
 アルジマールははっきりとそう告げた。ルシファーと西海の皇太子との繋がりは、レオアリス達にとっては今まで隠されていた事実だったが、王はアルジマールの硝子の義眼を見下ろすと、取り立てた感慨もなく彼の言葉を肯定した。
「その絵に描かれた主が今回の離反の理由だろうな。ルシファーと西海の皇子とは、互いに想い合う間柄にあった」
「陛下――」
 スランザールが眉を寄せる。レオアリスにはそれが、王の言葉を憂慮した為に見えた。
(まただ。最近良くスランザールはあんな感じを見せる)
 しかしその事とはまた別に、レオアリスは、ルシファーと西海の皇太子との関係が今初めて明かされる秘密ではない事も、王がそれを伏せる事無く語った事にも、驚きを覚えさせられた。
(もう伏せる理由が無いって事なのか)
 確かにルシファーの離反は明確だ。
 西海の皇太子との関係を伏せる意味があったのは、ルシファーが西方公としてこの国を構成する重要な要素だった為で、いたずらな混乱や疑惑を防ぐ為――だろう。離反した今となっては、伏せる意味は無くなったと言える。
(――)
 何だかすとんと腑に落ちない。消化不良のような感覚になる。
 王へ、問い掛けたい事が幾つもある。例えばルシファーの想いをどう捉えているのか。
 西海の動きについては。
 スランザールの示した古書に記された盟約は、本当に存在したのか。存在したとしたら、終わっているのか。
 だが、レオアリスの中でもまだそれらは、明瞭な質問という形にして口にできるまでに至っていなかった。
 何故そう問うのかと返された時に、レオアリスがそう問いたい根拠を示すとしたら、それら関する漠然とした不安――、という事になる。
 ふと、レオアリスは自分へと疑問を投げ掛けた。
(俺は、何を不安だと思ってるんだ?)
 レオアリスが自分の思考を掴み切る前に、後方の扉の内側に立っていた近衛師団隊士が、朗々と声を張り諸侯の参集を告げる。もう時間だ。
 ベールが通すようにと返すと、アルジマールは王へ深く一礼し、失礼します、と断ってから再び瞳が隠れるまでかずきを目深に被った。レオアリスも立ち上がり、王へと敬礼を向けて常の自分の立ち位置へ移る。
 心のどこかに、機会を逃した、という思いが過る。
 見上げたきざはしの上の玉座で、王の表情は普段と変わらず、そこに何かの思いを汲み取ることはできなかった。
(いつもと変わらない)
 いつもの事かもしれない。
 レオアリスは瞳を見開いた。 いつも・・・
 ふっとルシファーの面影が浮かぶ。
(……西方公……?)
「上将」
 ロットバルトはグランスレイと共にレオアリスの後ろに立ち、この謁見の間に入って初めて口を開いた。
「スランザールはまだ、全てを話してくれてはいませんね。それも当然ではあるでしょうが、納得するには違和感が強い――端的に言えば、この段階に至っても尚、という感があります」
 レオアリスとグランスレイの二人だけに届く程度の抑えた声でそう告げる。
「伏せる理由は何か――現状よりも、そこに最大の問題と捉えているように思えます」
「……伏せる理由――」
 その言葉を繰り返し、レオアリスは引き寄せられるように斜め後ろのロットバルトへ視線を向けた。
「理由か――」
 レオアリス達に全てを示さなかったとしても、ロットバルトの言った通り、それはスランザールの判断の範疇に過ぎない。
 ただ、スランザール自身は状況を憂慮し、レオアリス達に注意を促し、時に王の意向に対して反論の意思すら示しているのに、その明確な理由を口にしないのは、明らかに違和感がある。
 例えば両国の成り立ちに関する古書を示しておきながら、その根拠を問いかけると答えは曖昧で、そして王の西海に対する考えを掴めていないのだと、そう言った。
(――スランザールが……、本当に? 知らないのか?)
 そんなはずは無い。スランザールが先ほど文書宮で口にした言葉は、どれも違和感を抱えていて、唯一知っているが口にしていないだけ、と考える事が最もしっくりくる。
(――)
 確実に、王にしてもスランザールにしても、二人にとって問題は明確で、互いの意向も理解しているのだ。
 その上で、互いに一切核心には触れず、状況だけが進んでいっている、ように見える。
 だから、中心を知らず見ている者からすれば、どことなく座りの悪い違和感を感じるのかもしれない。
「上将?」
 ロットバルトだけではなくグランスレイもレオアリスを見つめている。
「上手く言えない、もっと落ち着いて考えないと」
 再び扉が開いた。衣擦れの音と共に十四侯として召集を受けた者達が静かに入室し、玉座のきざはしへと深緑の絨毯を静かに歩み寄る。
 驚いたのは、召集が十四侯だけだと思っていたが、後もう二人――近衛師団第二、第三大隊大将のトゥレスとセルファンが入室した事だ。
(俺達三人が揃う必要がある話が、この後あるのか)
 レオアリスはアヴァロンを見たが、その表情に変化はない。
 ただ、想像はついた。
 視線を戻すと、ちょうどレオアリス達の前を通り過ぎる途中のアスタロトと目が合った。その瞳にある光が、つい先ほど顔を合わせていた時よりも随分と明るくなっている事に、ほっと安堵を覚える。
 あの後フレイザーが送っていって、何か話したのかもしれない。
(フレイザーには話をするんだな)
 ふとそんな考えが胸を過ぎる。けれどレオアリスには関係無い話なのだ、とアスタロトははっきりそう言ったのだから、レオアリスに話さなくても別におかしくはない。
(まあ、いいけど、元気になりゃ)
 アスタロトには多分、話を聞いてくれる親しい存在が必要なのだろう。誰か、ではなくルシファーの果たしていた、姉のような役割を求めているのだろうとは思う。
 深緑の絨毯の左右に、入室した諸侯が並んでいく。
 正規軍は副将タウゼン、内政官房副長官ヴェルナー侯爵、地政院副長官のランゲ侯爵、そして空席の財務院長官代理を兼務するゴドフリー侯爵、十四侯の一角に数えられる司法院の正副長官が揃った。
 トゥレスはレオアリスの傍らに立つと、左手を上げて軽く肩を叩いた。セルファンは張り詰めた表情は動かさないまま、きざはしへと真っ直ぐ視線を向けている。
 ロットバルトはトゥレスとセルファン、二人の様子を見比べた後、居並ぶ諸侯達の様子を見渡した。
 視線こそ向けられていないものの、三人の近衛師団大将が並んでいる事について、参列者の意識が集中しているのが判る。
 彼等に関する何らかの決定が、この後あると、そう捉えている。
(十中八九、条約再締結の随行だろう。スランザールが後押しする気でいるなら、上将がその任を命じられる可能性は低くはない)
 当然、レオアリスはそれを望んでいる。
 後は王が、西海との調和をどこで取るか。
 剣士を交えれば、指定の護衛五十名の意味を為さなくなる、と、西海の拒否の理由はそこだ。
(表向きに過ぎる理由だな。戦力を問題にするのなら、炎帝公を除外せず剣士だけを除外しても無意味だ)
 実際、西海は三の戟を外すとは言っていない。
(言い掛かりに近い、とは言え上将はビュルゲルとヴェパール、双方に関わっている。西海の意向を丸呑みするのは今後の外交上避けたいところだが、条約再締結を今の最上位の課題と考えるなら、外すのが無難――)
 スランザールに視線を転じる。スランザールはその程度、とうに承知の上で尚、レオアリスの帯同を王へ進言するつもりでいるのだろう。
(何を見ているんだ、老公は)
 入室すべき者が全て揃うと、号令もなく、しかし乱れもなく、同時に整然と膝をつく。
 開始を待ちこうべを垂れる諸侯達の前で、ベールではなく、王の玉座後方に控えていたアヴァロンが、一歩前へ歩み出た。
「ファルシオン王太子殿下のおなりです」
 ざわ、と諸侯が驚きに揺れ、すぐに静まる。
 レオアリスも驚いて玉座を見上げたが、玉座の向こう、王の通路から現れたファルシオンの姿を見つけ、再び深く頭を下げた。
 王の傍らに置かれた椅子へと歩み寄る姿は、幼いながらも、王太子としての相応しい威厳を纏っている。この一ヶ月の間に一年も成長したようだと、そう思った。
 確実に、ファルシオンを成長させたのは、レガージュでマリ海軍と国使として対した事だ。王の思惑もファルシオンの王太子としての成長にあっただろう。
 ファルシオンは王の傍らに座り、緊張した面持ちで、階下に居並ぶ諸侯を見渡した。





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