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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第三章『陰と陽』


「これが、この国と西海の成り立ちを記したとされる最古の文献の内容じゃ」
 王立文書宮の一室、スランザールの執務室でレオアリスは王との謁見の呼び出しを待っていた。王へラクサ丘での一連の件に付いて報告する為だ。
 グランスレイが総将アヴァロンを通じて王へ謁見を申し入れた時、スランザールは謁見を待つ間文書宮へ来るようにと指示をした。何を意図しての事だったのか、レオアリスとグランスレイ、ロットバルト、そしてアルジマールの四人を前に、スランザールは古い歴史の記された書物を紐解いた。
 もう革の装丁もあちこち擦り切れ、背表紙の綴り糸が切れて項も外れかけ、手に取るのが憚られるような、いかにも修復が必要な代物だった。スランザールの手元のそれを眺めながら、レオアリスの頭の片隅に、この本は複写されていないのだろうか、とそんな考えが浮かぶ。見た限り、記されている文字には今ではほとんど使用されない古語が用いられている。貴重な書物ならば、副本を作って保存するのが基本だろうに。
 それはともかく、スランザールが示したのはアレウス王国と西海バルバドスとの歴史であり、明確な表現こそないものの、「二つの力」と表現されたものが王と海皇を示しているのだろう。
 スランザールの話に驚いた様子の無いアルジマールやロットバルトとは違い、二つの国の起源となったという歴史について、レオアリスは耳にするのは初めてだ。見ればグランスレイも同様に初耳のようだし、ロットバルト達の様子からもそれが定説かというと、またそうではないようだった。
「この文献は以前読みましたが、その時は寓話のような曖昧な感覚を受けました。貴方がこれを元に語るという事は、これは寓話などではなく基本的に歴史的事実と考えてよろしいのですか」
 ロットバルトの問いにスランザールはゆったりした衣装の袖に枯れた腕を引っ込め、じっと、小さな瞳を注いだ。束の間、呼吸と衣擦れの音が拾えた。
「――そう伝わるの。だが誰が確かめられようか。わしが陛下に仕え始めた当初にも、これは半ば古く忘れ去られかけた言い伝えじゃった」
 レオアリスはスランザールの皺深く知識の刻まれた面を見つめた。
 どこか少し違和感を覚えたのともう一つ、スランザールが知らない事というのがあるのかと、それは当然そうなのだろうが、意外な思いがある。
「真実か否か、ご存知なのは陛下と海皇のみかもしれん」
「まあ幾つかある国誕説の一つって事でしょ。けどこんな悪知恵を巡らせたんじゃ、国家の歴史としては主流には据えられないよね。陛下もお若い頃は結構」
 スランザールにじろりと睨まれ、アルジマールは子供のように舌を出して首を竦めた。明け透けなアルジマールの言葉にグランスレイは複雑な表情をしている。
「ただこの説、それを抜きにしても僕はちょっと疑問だな」
「疑問というのには同感ですね。その盟約書が現存している、若しくは実在したとは聞いた事が無い――スランザール、貴方はご覧になった事が?」
「確かに無いのぅ。まあわしが見た事が無いとて、存在しないとも言えん」
「そうですが、しかし盟約により西海がバルバドスを版図はんととしたとして、種としての環境への適応という点を考えるとかなり信憑性に欠けている」
「そうそう」
「ですから、その説は西海との争いが前提にある中で、歴史を抽象化したものと考えていましたが」
 レオアリスはロットバルトの言葉を聞きながら、スランザールの白い眉の下の瞳を探った。相変わらず掴み所が無い。
 そもそもスランザールは何故今この話をしたのだろう。
「西海の都市も、我々が住むここと構造的にはそう変わらんのだ。過去、条約再締結の儀式で訪れた都市は、という限定じゃが」
「では西海の住人も」
「我々とほとんど違わない者もおるが、ビュルゲルやヴェパールのような姿が多かろう。あの肌や水掻きなどは緩い環境適応の結果じゃろうな」
「大戦の記録だと、海魔と呼ばれるような海蛇や大蛸の姿もあったでしょ。僕は後方支援部隊だったから残念ながら会った事無かったけど。特に三の戟ナジャルは大海蛇の姿で語られるし」
 レオアリスは引き寄せられるようにアルジマールを見た。剣が騒めくのが判る。
(ナジャル――)
「ナジャルは太古の西海の王だと言われておる。海皇は元からの種族を平定し、ナジャルは海皇に下って三の戟の筆頭の地位を与えられた」
「なるほど――何となくその本、ちょっと信憑性が増して来た。一度真剣に研究したいな。貸してよスランザール」
 レオアリスは顔を上げ、ここに座ってから初めて口を開いた。
 気になる事がある。
 スランザールが敢えてこの古い伝説を持ち出した理由は、記載そのものの真偽などではなく、もっと別のところにあるように思えた。
「スランザール、その盟約の終わりというのは、いつを差しているんです」
 スランザールは古びた書物に視線を落とした。
「大戦の勃発と共に盟約は破棄されたとし、大戦後今の不可侵条約が新たに締結されたと考えられておる」
「じゃあもうここで示される事は、終わっているんですね? 過去の事だと」
 当然済んだ事だと、その言葉を引き出したかったが、スランザールは直接的な答えを返さなかった。
「終焉という言葉が気になるか」
 じっと向けられた瞳に対して、頷く。
「そうです。今の状況で――条約再締結を前にして、こう色々あるとどうしても気になります。スランザール、貴方は気にはならないんですか」
「――心配せんでも終焉などそうそう来ない。変化はあるじゃろうがの」
 欲しい答えではなかったが、スランザールは話を打ち切るように書物を閉じ、うっかりするとバラバラになりそうなそれを持ち上げて背後の書棚に納めた。それから書棚の前で振り返ると、レオアリスを、白い眉の奥のその深慮を湛えた瞳で見つめた。何かを渡そうとするようだ。
「だが何が起こるかは判らん。起こらぬとも言えぬ。そなたは条約再締結の儀が終わるまで、陛下の御身をお護りする事を第一に考えよ」
 レオアリスは頷いた。
 当然、そのつもりだ。どんな時であっても。
 自分自身の命に代えても、と、その言葉を決して軽い想いで口にするつもりはない。
 レオアリスにとってはそれは誓いですらなく、ここにいる意味そのものだ。
「必ず――」
 ふとまた、以前のエアリディアルの言葉が甦った。あの言葉が、スランザールの今の言葉と重なる。
(――)
 スランザールが言った王を護るという言葉は、条約再締結の儀式の場そのものを示唆しているのだろう。西海の要求である、剣士を帯同しないという条件へ、王はまだ答えを返していない。
 再び訪れる西海の使者に対して、その条件を含めたアレウス国側の体制を返答をする予定になっている。使者が訪れるのは条約再締結の儀式の五日前――もう三日後だ。
「――スランザール。もう一つだけ、教えてください」
 レオアリスは背筋を伸ばし、正面からスランザールを見つめた。
「貴方がこの歴史を我々に語って聞かせたのは、もっと具体的な問題があるからではないんですか」
 スランザールは束の間口を閉ざし、レオアリスと向かい合った。ロットバルト、アルジマール、グランスレイ、それぞれの視線と意識がスランザールへ集中する。
「――」
 やがてスランザールはゆっくりと一つ、息を吐いた。「わしも判断を迷っておる」
 問いかけておきながら、レオアリスにはスランザールの答えが意外なものに響き、息を飲んだ。
「西海の引き起こした最近の一連の事件に対し、陛下はほとんど動いておられぬ」
 その言葉もまた、スランザールの口からとは言え発する事すら憚られるものだ。白い眉の下の色の薄い瞳が、申し訳程度に光を取り入れる狭い窓へ向けられる。
「陛下には陛下のお考えがあろう。それは常にわしには測り知れん。だが、何かしらを見据えておいでなのは確かじゃ。それが何か」
「――」
 確かに最近のスランザールは、王に対して何か――
(危惧、だろうか……不安――?)
 それこそ、王の見つめる方向を逸らせようとするような、そうした発言が多いように感じられた。
 スランザールはレオアリス達の面に浮かんでいる表情を見渡し、真っ白な眉を動かし、自戒を含んだ溜息と共に笑った。
「わしも歳かの、色々と埒もない事を想像してはあれこれと考えるばかりで仕方の無い性分よ。本気にせぬ事じゃ。だが、西海が騒がしい以上、そなた等には心の隅に留め置いてもらいたい。そしてまた、我々とは違い、西海がこの説をどう捉えているか」
 一度言葉を切り、すぐに続ける。
「それを知る事が解決の糸口になるやも知れん」
「西海とも共有する伝書だという事ですか?」
 ロットバルトが尋ねる。
「わざわざ確かめた事は無いが、そうであろうな」
(――海)
 レガージュの時に見た海。天が揺らめき青く薄い光が差し――幻想的で果ての無い、だが閉ざされた世界だ。
 眼を転じれば狭い窓からも緑の樹の葉と青い空が見える。
 この地上から、あの完全な異世界へと降りたのだとしたら――
 ぱしりと頭を叩かれ、眼を上げるとスランザールが渋い顔をしていた。
「考え過ぎるなと言うたであろう。そなたの悪い癖じゃな」
「――」
「さて、陛下の御前に上がる前に本題の、その絵の人物について話さねばならんの」
 スランザールは室内に籠もった空気を意図的に変え、彼等の右側の書棚に立て掛けて置かれたあの絵へと、身体ごと向き直った。束の間、小さな瞳を更に細める。
「確かにその人物はアルジマールの言うとおり、海皇の第一子、西海の皇太子じゃ。じゃった、と言うのが正しいのぅ。彼は既に大戦初期に亡くなっておる」
「大戦の初期に?」
「大戦のきっかけになったのが、その皇太子の死だと史書では記されています」
 ロットバルトが補足する。
「じゃあ本当に、初期も初期なんだな」
 そう言ったのはルシファーが離反した理由に関わるものだと、ほとんどそう確信していた為で、大戦初期――四百年も過去の事だとなるとその確信が薄れるようだった。
「そもそも皇太子の死の原因となった争いもごく軽易な小競り合いに過ぎず、恐らく彼がそこに居合わせなければ大戦まで発展しなかったのではないかと言われています。もしくは、大戦の勃発は後数年は遅れていただろうと」
「……一つの要素で事態が大きく動く事があるのは、俺にも理解できる」
 ロットバルトが注意深くレオアリスの瞳を見つめたのは、レオアリスの言葉が十八年前の彼の一族の事を差しているからだ。
「でも大戦を早めたと考えるって事は、その時にも既に西海との関係が緊迫してたって事か」
 それに答えたのはスランザールだった。
「辛うじて均衡は保っていたが、西海との間では小競り合いが頻発しておった」
 スランザールは当時を思い出すように瞳を細めた。
「その当時、まだ双方の国交は正常に結ばれており、君主の行き来こそないものの、年に一度、この春の祝賀の時期に国使が互いの国を訪れる仕来りがあった」
 国使を送る時は互いの国の豊かさを示す為、華やかな行列が作られたものだ、とスランザールは懐かしむような口調で告げた。この中で大戦前の時代を知っているのはスランザールただ一人、国内全体を見渡しても、王と大公ベール、そしてルシファー、この四名しかいないだろう。
(国の起源をご存知なのは、陛下お一人か――)
「ルシファーと西海の皇太子とがどのような関係であったかは、わしも推察するしかない。じゃがルシファーは当時国使として何度か西海へ赴いておる。お互い歳も近く、交流が生じたとしても不思議ではなかったじゃろう」
「あのラクサ丘の屋敷で会ってたのかな」
 アルジマールの単純な疑問を聞きながら、レオアリスは再び絵の中の青年をじっと眺めた。
 絵の中の青年は確かに、ルシファーと見た目にも年齢が近いようだ。二十代後半ほどだろうか。
 この青年と並ぶルシファーの姿を、不思議と違和感無く想像できた。
 明るい陽射しの中の――、例えばあの、西海を遥かに見渡す、素朴な印象の館で。
(この人が亡くなった事が、今の離反に続いてるのか――?)
「あの青年の死は四百年経た今もなお、ルシファーの記憶にとどまっているのかもしれん」
 レオアリスの思いを読み取ったようにスランザールがそう言った。
 レオアリスはルシファーが口にした幾つかの言葉を思い出した。ザインが海中で、ヴェパールと対峙した時の事だ。
 ルシファーがザインへと投げた言葉。
 
『お前がもし、想いを抱え続けたのなら、私はお前を助けたのにね』
『もうお前は、抱え続けるのに疲れてしまった』
『私は忘れたわ。もう、顔も定かじゃない』
『お前は抱え続けるのを止めた。永遠が苦しいから――』

『永遠など無いのに』

 哀切さえ――、自嘲さえ含んだ言葉。
 全ての言葉はルシファー自身へ返っているようだ。
 忘れたと言い、永遠など無いと言い――そんな想いを元に、その人の死から四百年近く経った今になって離反するという事があるのだろうか。

『理由はあるわ。でもそれはもう、長い時の間に、私を止めるだけの力を持たなくなった』

(――)
 ただ、ルシファーはアルジマールの手にこの絵があるのを目にした時、初めて激しい感情を顕にした。ルシファーがどういう想いを抱いていたにしろ、彼女にとってこの絵の人物は特別な存在だったのだろう。
 この絵が彼女の手元ではなくここにあり、ただの歴史の証拠として語られる事――それがいくばくかの後ろめたさも感じさせた。
(――俺が言うべき事じゃない)
 単なる身勝手な感傷を彼女に向けても意味が無い。
 扉が二度ほど鳴らされる。室内に軽い緊張が流れた。恐らく、謁見の呼び出しだ。
 スランザールが入るように促すと、扉が開き、近衛師団の軍服を纏った壮年の男が頭を下げた。アヴァロンの秘書官を担う、中将オリノだ。
 オリノはレオアリス達の前で立ち止まり、長躯を折って敬礼を向けた。一旦息を吸い、それから明瞭な声でアヴァロンの指示を伝える。
「アルジマール院長、第一大隊大将、アヴァロン閣下よりご伝言です。現在ベール長官が陛下に謁見されておられますが、その場にお入りいただくようにと、陛下から閣下へご指示がございました」
「大公の謁見の場に?」
 レオアリスはグランスレイと顔を見合わせた。内政官房長官の謁見の場に入れというのは滅多にない事でもあり、この案件を王やベールが重く受けとめていると言われたようで、ぐっと身が引き締まった。
「また、陛下はその場で十四侯の召集を指示されました」
「十四侯を――すぐに?」
 十四侯は四大公と十の侯爵家、それに加え内政官房、財務院、地政院、正規軍、そして司法院の副長官までを差している。謂わば国の中枢機関である彼等が召集されるのは、やはり重要案件を論じ、決定する時だった。
「半刻後の召集であります」
 ロットバルトはレオアリスを見た。
「その半刻が我々に与えられたという事ですね。半刻の内に陛下へ経緯等をご説明申し上げ、諸侯の揃った場では陛下が可とされた事案のみが付されるのでしょう」
「――急ごう。移動を考えたら半刻も無い」
 レオアリスは腰掛けていた椅子から立ち上がると、間を置かず歩き出した。グランスレイとロットバルトが続き、スランザールやアルジマールも続いて部屋を後にする。青年の絵はスランザールが抱えた。
 視界の隅で捉えたその絵に、今は遥かに距離を隔てた西海の海が脳裏を過る。強い陽光を弾く青い海の輝きは鮮烈な印象を放つ。記憶に焼き付くほど。
(陛下は、何を仰るだろうか)
 西海の皇太子と、ルシファーの事を。王はその二人の交流を知っていただろうか。知っていたとしたら、どこまで。
 そう考えながらも、知らなかっただろうとは、レオアリスは思わなかった。全てを見通すとさえ言われる王には、知らなかったという言葉自体、似付かわしくない。
 それにルシファーは――、レガージュから帰還したファルシオンの報告の場でルシファーが見せたのは、苛立ちだった。
 レガージュの一件に関する西海の関わりを指摘して見せ、それによって自らの関わりをも曝け出そうとすらしていた。
 あの時スランザールは、乗るな、と言った。
 そして王は、ルシファーの議論をその場に必要が無いと退けた。
『陛下、貴方はいつも』
 ふっと、苛立ちを含んだルシファーの声が甦る。
 ルシファーはあの時、その先の言葉を飲み込んだ。
(――いつも)
 そして

『もう一度、選ぶ』

 その当日に、ルシファーは離反した。
 『いつも』、何と言おうとしたのだろう。
 いつも、とそう言った。
 では四百年前には・・・・・・、王は何を言ったのだろう。
 そのきっかけは。
(西海の皇太子――)
 歩く速度に応じて流れる大理石の床へと、ただ向けていた視線を上げる。
 もうすぐ前方に謁見の間の扉が見える。ルシファーの事からもう一つ、先ほど聞いた古い歴史に思考が向く。
 この国を建てる基礎となったという盟約書。本当に、その盟約書はあったのだろうか。
 盟約書が存在したとして、その『終わり』は既に過ぎたのか。
 今西海が騒がしくなっているのは、それとは全く関係が無い事と捉えて、本当にいいのか。
 王は今回どう判断するのだろう――、先ほどスランザールが言ったように、動かず・・・――
(――尋ねる事が可能なら、尋ねたい)
 レオアリスは謁見の間の、高い両開きの扉の前で足を止めた。





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