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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第一章『萌芽』


 ルシファーが姿を消してから十三日を経過し、この日の夕方四刻をもって、正規軍は王都でのルシファー捜索の打ち切りを決めた。既に王都内は捜索し尽くしており、これ以上の捜査を行っても成果は見込めないと判断したからだ。
 命令は早朝、正規軍将軍アスタロトの名の下に、各方面の第一大隊へ通達された。
 太陽が西へ傾き斜めの長い光を王都の街に差しかけた頃、それまで通りのあちこちに出ていた正規軍の兵士達の姿は、直前までの半数以下にまで減った。平常時より少し多いのは引き続きの警戒と祝祭を迎える王都の治安維持に当たる為だが、ようやくこれで通常の任務に戻れる事もあり、兵士達の顔も自然明るくなっていた。
「――これでひと段落、とは言えねぇんだがな」
 西方軍第一大隊中将ワッツは和やかな様子で引き上げていく部下達を眺め、肩を竦めた。
 とは言えはなから見込みの無い捜索を打ち切った事自体に不満がある訳でもなく、見つかっていようがいまいが、命令だからワッツがどうこう言う問題ではない。どちらかと言えば、西方第七軍への赴任の前に落ち着いてくれて良かったと、それが正直なところだ。
 ワッツは視線を上げ、建物の合間から覗く王城の尖塔を眺めた。
 これで少しはアスタロトの気持ちも軽くなっただろうかと、そんな事をちらりと思った。
「――さてと、俺は赴任の準備か」
 太い首を回し通りを眺める。いつものように大通りは多くの人が行き交い、賑やかだ。ワッツの眼から見ても、先月の末と今と、ほとんど変わりが無いように見える。
「騒いだところで西方公の顔も知らねぇのが落ち、か。クライフの言うとおりだぜ」
「どうかしましたか」
 近くに居た部下の少将が呟きを聞き取り、ワッツへ顔を向けた。
「いや、独り言だ」
 住民達は西方公離反でも特に変る事のない日常生活にあってすっかり意識は薄れ、入れ替わるように六日後に始まる春の祝祭に向けての期待が高まっている。通りを見渡せば鮮やかな色の布や花で飾り付けを施した窓などもちらほらあるが、そこだけ気が早いという訳ではない。
 むしろ例年なら今の時期は通りが祝祭一色に染まり、あちこちの街から商隊や旅芸人達が集まり賑やかになっている頃だ。そのどれもまだ様子を窺っているような所があり、その点が最も、西方公の離反が住民達の生活に影響しているところと言えた。
「大して影響も無く、このまま終わりゃあいいなぁ」
「祝祭ですか」
「あのな。条約再締結だ、再締結。祝祭ですかって気ぃ抜きすぎだぜ、それじゃ」
「し、失礼しました。――その、祝祭の準備があまり進んでないもんですから、つい」
 まだ二十代前半の部下の顔を眺め、ワッツは笑った。
「そういやお前、出し物の役員だったな。それで気合入ってンのか」
「そうです。当然優勝狙ってますから」
 春の祝祭には正規軍や近衛師団も参加し、各大隊で何かしら出し物をやるのが決まりになっている。祝祭三日目からの四日間、軍部のある第一層を解放して行い、見物客達の人気投票でその年の優勝者が選ばれるのだ。
 優勝した隊は食堂を十日間無料で利用できるほか、その年一年間の灌漑工事や街や街道の修復作業で、受け持つ場所を選ぶ事ができた。これが案外あなどれない。
 だが何より一番の魅力は、お祭り気分を充分に味わえる事と、独特の一体感だろう。
「うちに投票する物好きが優勝できるほどいるとは思えねぇけどな――ま、頑張ろうぜ!」
 豪快に笑って部下の背を叩き、ワッツも士官棟のある第一層へ向かう緩い坂道を登り始めた。




 スランザールは王の前に改めて膝を付き、頭を垂れた。王の執務室には王その人と近衛師団総将アヴァロン、そしてスランザールがいるだけだった。
 執務机の向こうに見える空は、濃い茜色が差している。
「今回の西方公の離反は、私の想定が甘かったせいでもあります。最近になって急に、眠らせていたものを呼び起こした――それをただの感傷と見誤っておりました」
「感情とはそうしたものだ。自らでさえも、思うままに行かぬ事もある。忘れたと思っても奥底に潜み続け、不意に甦るのが想いというもの」
 王はまるで劇の台詞を語るような口調でそう言った。それはまるでスランザールとは別の場所で別の事を語っているようにすら感じられた。
 スランザールは王の瞳をじっと――、じっと見つめた。
 そこに潜むものが確かにあるかのように、長い沈黙だった。
「陛下――お尋ねする事をお許し願いたい」
 ゆっくりと、瞼を伏せて視線を外し、スランザールの意思は一瞬見えなくなった。
「今回の一連の件について、貴方は何を意図されておいでなのかの」
 それは今までと打って変わり、ほんの些細な問題に対して困ったものだと諭すような口調で、王は興味深そうな光を黄金の瞳に宿らせた。
 スランザールは面を上げ、王の傍らに立つアヴァロンへ顔を向けた。
「アヴァロンよ、くれぐれも気を付けよ。このお方が何を考えているのか、そなたはお側にあって良く良く見極めなくてはならん」
 口調には少なからず皮肉が感じられる。アヴァロンはただ黙ってスランザールへ頷き返した。王は何も言わず、口元に微かな笑みすら浮かべている。
 スランザールは王の双眸を、あたかも挑むように見つめた。
「条約再締結の場へは、レオアリスをご同道ください、陛下」
 アヴァロンの視線がちらりと王の上に落ちる。王の表情は少しも変化しない。
「西海の条件など呑む必要はございませんぞ。奴等は混乱そのものを楽しんでおります。その先にある最終的な目的は、条約の破棄でしょうな」
 レオアリスが聞いていたら、あれほど明言を避けていたスランザールが、と意外に思うほど、強い口調だった。
「それはこれまでの挑発的行為からも充分判りましょう。ルシファーが離反した今、最早西海を刺激する事を避けるよりも、冷静に、しかし厳然と牽制していく段階にあります」
 窓の向こうに見える夕暮れの空を、王は一度見つめた。その瞳を戻した時、スランザールに読み取れるものは、その上には無かった。
 ただそれは、いつも余り変わらない。
 王の心を覗ける者など、ほとんど無いだろう。
(いや――)
 スランザールは暮れていく空を目の端に映した。幾つもの色が混じり、浮かぶ雲が輝いて美しい。
 王の黄金。
 迫る闇の濃い紫。
 淡く輝く藤色。
(王女殿下は、お分かりかもしれん)
 エアリディアルに尋ねる事ができないか、と束の間スランザールは考えた。衣擦れの音に引かれ、王へと視線を戻す。
「海皇とは、同じ場所に立つ必要があるのだ。条約再締結という場にな。今回、最も重要なのはそこだ」
 それはスランザールへの直接的な回答にはなっていない。しかしそれを追及する事を躊躇わせる何かが、王の瞳の中にあった。
「イスは陽の光すら届かぬ暗い場所にある。今回を除けば、厚く膨大な水が海皇の前を閉ざし続けるだろう。そしてそなたの言うとおり――次の五十年後は無い」
「――」
 黄金の双眸が、暗い闇を見通すように細められ、光を宿らせる。
 重い空気の膜が身を包むように感じられた。
(何をご覧なのか――)
 周囲の見えない何かがぐぐ、と迫り、圧迫感を覚えてスランザールは白い髯に隠された口元を引き締めた。
 その言い知れない空気が、王が頬を笑みに緩めた事で、ふっと軽くなる。
「心配せずとも、私の懸念もそなたと同じだ、老公」
 王は敬意を込めて、スランザールをそう呼んだ。
「だからこそ、そなたには様々に頼まねばならぬ事がある」
 スランザールがより警戒心を高めたのを見て取り、王は短く声を立てて笑った。椅子の背に凭れていた身を起こし、スランザールを眺め、傍らのアヴァロンへ視線を向ける。
「さて――、もう良かろう。アヴァロン、そなたも今日はもう良い、退れ」
 スランザールは言い募ろうとしたものの、それ以上の言葉を見い出せず、そっと溜息を吐くと頭を下げた。
「また後日――陛下」
 諦めていないのだと言外に食い下がるスランザールの言葉に、王が笑みを刷く。
 スランザールは顔を上げると立ち上がり、廊下への扉へと向かった。
 スランザールが退出したのを見送り、アヴァロンは王へと身体を向き直ると、黙礼した。
 そのまましばらくじっと、王の横顔と対峙していたが、やがてすっと背筋を伸ばした時には、王の守護者である威厳がその引き締まった面の上にあった。
 銀糸で王家の紋章を縫い取った、近衛師団総将のみが纏う事を許される王布を緩く翻し、アヴァロンもまた王の前を辞した。





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