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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第一章『萌芽』


 影を抱え、街の姿が刻々と変化していく。
 アスタロトは西方公ルシファーの館の一室で開かれた広い窓の前に立ち、ゆっくりと首を巡らせて、そこに広がる景色を眺めた。
 西陽に照らされて影を抱いた街並み。各層に建てられた時計塔が長い影を家々の屋根や通りに落とし、路地に横たわる影と交じり溶け合っている。
 深く沈んだ影とは反対に、夕陽に照らされた壁や屋根は赤く光を反射し、それが光の部分と影の部分とを、まるっきり違う二つの世界のように見せていた。
(争ってるみたいだ)
 そして滅んでいくのだ。
 沈みゆく太陽が放つ光を受ける、王都の西側にのみ広がる世界――
 毎日、そうして世界は争い、滅びを繰り返す。
 そうではないと判っていながら、アスタロトには、この光景こそが、ルシファーの行動を後押ししたように思えて仕方なかった。
 こんなくっきりとした明暗を毎日見ていたら。


 息が、苦しくなる――。


「――っ」
 息を吐き出す。
 無意識のまま、アスタロトは窓枠に手を置いて身体を支えた。ただ深紅の瞳はずっと逸らされる事無く、街に差す影と光に注がれていた。
(ファー)
 毎日目の前に広がるこの光景に、彼女は何を見ていたのだろう。
 アスタロトは長い睫毛の縁取る瞳を伏せた。
『私と来る――?』と――、そう言った時、何を思っていたのだろう。
(どこにいるの)
 会いたいと思う。
 姉のようにも思っていた、大好きな女性ひとだ。
(何を思ってるの)
 アスタロトよりもずっと大人で、ずっと、色んな事を知っていた。
 いつも悩んでいる時に話を聞いてくれて、色んな事を示してくれた。
(どうして――)
 彼女の言葉が間違っていた事は、無かったように思う。
 窓枠を指が掴む。
(どうして私に、来るかって聞いたの――?)
 行くべきだったんじゃないか――、そうする方がアスタロトの為なのだと、彼女には判っていたのではないか、と、そんな考えが過る。
 会って話を聞きたい。
 会って――
 アスタロトは首を振った。
「会って、じゃないんだ」
 そうではなく、捕らえなくてはいけない。
 こうしている今だってアスタロトは、ルシファーを、王を――国を裏切り離反した者として捜索して見つけ出し、捕らえようとしているのだ。
(――私)
 アスタロトは室内を振り返った。
 下から差し込む斜光がアスタロトの影を壁と天井に投げかけている。主のいない部屋は落ち着いた瀟洒な調度品すら色褪せ、がらんとして見えた。
 西方公の敷地や館にも捜索の手が入っていたが、手がかりとなるものは見つかっていない。
(手がかりなんて無いよ)
 無くていい。
(ファーは全然見つからない。きっと、見つけられない)
 もういなくなってから十日以上過ぎた。正規軍はその間ずっと各地で動いているけれど、どこかで見たという情報すら無い。
 満足な結果が出せない事で、タウゼン以下焦りが見える。 タウゼン以下は・・・・・・・、だ。
 アスタロトは自分の心の中を覗き込んだ。
(私は、それでいいと――思ってる……)
 見つからないままで。
 自分に罪悪感を覚えている。
 アスタロトの立場でそんなふうに思う事は、ひどい裏切りだ。
 王都の第一大隊は今日で捜索活動を打ち切った。それは状況を検討した上で、タウゼンや各方面将軍達の総意で決定した事だ。
 だが捜索を打ち切った――、その事そのものに安堵している自分が居て、それがアスタロトの心をちくちくと刺していた。
 ――苦しい。
 誰かに相談したい、せめて話を聞いてもらいたい、と思って、真っ先に思い浮かんだのはレオアリスの顔だった。
 心臓が鳴る。と同時に、ぎゅっと縮まった。
(こんなこと、話せる訳ない)
 どう思われるか、それを考えるだけで恐い。
 以前は何でも気兼ねなく話せる存在だったのに、今は変わってしまった。
 変えたのはアスタロト自身だ。

『誰がそんなふうにしたのかしら』

 柔らかい囁き声が耳をくすぐった。
「――誰、が……?」
『あなたをそんな枠に押し込めているのは誰――?』
 どこで聞いたのだろう。
 いつ聞いたのだったか、よく覚えていない。
 注がれていた暁の瞳。澄んでくらくどこまでも深い空に落ちていくような感覚――
『あなたの想いを、 は知っているわ』
「――」
『そんな枠に押し込めているのは、誰』
 もう今までどおりじゃない。
 自分の想いに気付いてしまったから――
 そしてそれが叶わないものだと
『 は知っているわ』
 ルシファーを追わなくてはいけない。
 アスタロトの責務だ。
 この国の、正規軍将軍としての――

『王は』

『知っているわ』

 眩暈がして、ぎゅっと瞳を閉じた。
『誰が』
 心の奥底からゆっくりと、何かの固まりがせり上がって来る。
「――誰……」
「アスタロト様」
「っ」
 アスタロトはびくりと肩を揺らし、声の方を振り返った。
 戸口に灯りを手にしたアーシアが立っている。アーシアは、驚いた様子でアスタロトを見つめていた。
 早鐘を打っている心臓を宥めるように、そっと、深く呼吸を繰り返す。
「……アーシア」
 ようやく、そう言えた。
「――そうですよ、僕です。貴方をここまでお連れして来たのに、お忘れになっちゃったんですか」
 アーシアはアスタロトの傍に寄り、手を伸ばして開いていた窓を閉じた。それを追うように窓の外を見つめ、アスタロトは外がもうすっかり暗くなっていた事に初めて気が付いた。
 その青い闇が、アスタロトの心を塞いでいたものを、逆に拭い去った。
 今、自分が何を考えていたのか――、一瞬刺すような不安がよぎったが、もうそれが何だったのかも思い出せないほどだ。
 ほっと息を吐く。アーシアは眉を寄せて首を傾げた。
「――どうかしましたか?」
「ううん、平気」
 平気、という言い方が少しアーシアの意識に引っ掛かったようだっが、窓の鍵も嵌めてしまうとアスタロトと向き直った。
「お腹が空いてらっしゃるでしょう。帰りませんか」
 いつもどおりの穏やかで優しい口振りに、アスタロトも改めて空腹を意識しお腹を撫でた。
「うん。お腹空いた。今日のご飯、何だっけ」
「お魚だって聞いてますよ。レガージュから届いたばかりの。ほら、先日アルジマール院長が転位陣を直されたでしょう。それを使うから今までみたいに凍らせる必要がなくて、しかも獲れたばかりのものが手に入るんですって。さすがレガージュの商人ですよね、さっそく活用しちゃうんだから」
「へぇぇ、獲れたてなんだ、楽しみ! やっぱ法術で凍らせると何か味違うよね」
 アスタロトはうきうきと声を弾ませた。
「よし、帰ろう。そのうちさぁ、レガージュに行きたいよね。魚も貝も食べまくり」
 いいなぁー、とうっとりした様子でそう言いながら、アスタロトは扉へと足を向けた。
 アーシアは僅かな間、今彼女がいた窓際に立ったまま、アスタロトのその姿を見つめた。
 アスタロトが窓の外を見つめていた時に、とても苦しそうだったのをアーシアは見てしまっていた。
 最近は気分が沈んでいる事の方が多い。
 今のようにいつもと変わらない笑顔を浮かべても、どこか無理をしているように見えた。
 ずっと、アスタロトが幼い頃から十四年もの間、傍に居たのだ。判らないはずがない。
 アーシアは右手に提げている角灯の冷たい輪を握り締めた。
 小さな灯りが照らし出すのは狭い範囲でしかなく、アスタロトの姿は簡単に、その光の輪から外れてしまう。
「――どうして、僕は何もできないんだろう」
 平気だ、と、笑って。
 アーシアを心配させないように。
 ふっと、心の奥で、声がした。

 どうして、自分ではないのだろう――

「アーシア? どうしたの?」
 扉の前でアスタロトが振り返る。
「忘れ物?」
「……いえ」
 アーシアは小走りにアスタロトの傍へ行くと、一緒に部屋を出た。
 アーシアの手にしていた灯りの輪が揺れながら廊下の奥に消え、誰もいなくなった部屋には暗い闇が横たわった。





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