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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第一章『萌芽』


 正規東方軍第七大隊――東方辺境軍大将レベッカ・シスファンは軍都サランバードの城郭の奥、執務室のいつもの椅子に脚を組むと、読み終えた報告書を執務机の上に滑らせた。机のすぐ前に立っていた副将イェンセンの手元に書類が戻る。
 西方公ルシファーの情報は全く出てきていない。もっとも東方の辺境で見つかるとも思っていない心の内が、シスファンの引き締まった面に如実に表れている。
 もし情報が出るとしたら――それはルシファーが敢えて、動いて見せた時だ。そうなっても用意された舞台でしかない。
「何を目的に動くのか――、まあ歓迎できるものじゃあないだろうな。全く西は次々と慌ただしい」
「東南北、三方閉ざされた国土でもありますからね、西ばっかと言っちゃ可哀想ってもんでしょう」
 副将イェンセンは、喉仏辺りまで伸びた顎髭をそろそろ切ろうかどうかと悩むように引っ張っりながら、のんびりと言った。歳は五十歳前後、容姿は一見してはうだつが上がらない。
「切れ。いっそ剃ったらどうだ。すっきりして男前になるぞ」
 無情な上官を恨めしそうに見る。
「貴女は最近目が肥えてるから何やったって無駄でしょうよ。大体こんな所、見るのはむさい野郎共ばっかでしょうもない」
「お前が言うなよ」
 シスファンの食えない笑みを眺め、ああ王都に帰りたい、とイェンセンは盛大に溜息を吐いた。
「まあ東に何かあるとしたらまずはミストラの尾根を越えての進攻でしょうが、越えて来たらそれこそ一大事です。ミストラを越えるなんざ、相当気合いが入ってるって事ですからな。全く、気力をくじく要衝があって何よりですね」
「東国は依然領土争いが収まらないからな。ミストラが無ければ当然、食指はこの国にも伸びていただろう。そうなったら今ごろお前は呑気に髭なんか引っ張っていられないさ」
「そんな有事、私なんか閑職に回ってますよ。平穏だからこそ貴女に会えたんですなぁ。有難い話で」
 ミストラ山脈の向こうでは、幾つもの国が領土を争い、消えては生まれを繰り返している。この大陸にはそうした国を含め大小四十前後の国があるが、国土が安定していると言えるのはここアレウス王国と、南方沿岸部のマリ王国やローデン王国、東方の強国トゥーラン皇国など十カ国程度でしかない。いずれも海に資源を求められる国々だ。
 大陸中央部は常に、肥沃な地を争い荒れていた。ただその中でも、最近はある国の台頭が著しいとの情報が入ってもいる。東部が落ち着く日もそう遠くは無いのかもしれなかった。
「平定したら欲が出ないとも限らんが」
 そう口にはしたものの、それを当面の懸念事項と考えている訳ではない。
 シスファンは壁際に貼られた国土の地図に目を向けた。
「しかし薄ら寒い感覚だ――」
 この国の外周部から全体を見れば、西方から中央へ、たった一粒の滴が起こした微かなさざ波でしかないものの、緩やかな、だが確かな波紋が見える。
 波紋はあちこちに跳ね返って新たな波紋を生み、初めの一つが消えた時には、全く別のものになって広がっていく。
 王都は条約再締結で、その波を消そうと考えている。
 もとの凪に戻すつもりだ。
(スランザールはそうだろう。あの御人は平穏を好む)
 平穏を第一に――決して悪い手段ではない。
 ただ一つ、シスファンの中には違和感があった。
(陛下はこれほど、慎重なお方であられたかな)
 穏やかな手法だけではこれほど長い間、広大な国土を治められはしない。
 全てを見通すと言われるその黄金の双眸で、王は今、何を見ているのだろう。
「大将?」
 イェンセンは黙り込んだシスファンの顔を、眉をくしゃりと寄せて見下ろした。
 シスファンの黒い瞳が上がる。
西が騒がしい・・・・・・
 執務机の背後に広がる窓に覗く、薄紫と茜色の空を瞳に映した。
「昔――、大戦が始まる前もこんな感じだったのかね」
「大将」
 イェンセンは張り詰めた頬に咎める色を昇らせた。
 シスファンは笑ったが、冗談だ、とは言わなかった。





 ハイドランジア湖沼群はアレウス王国北西地方の、低い山々に囲まれた盆地にあった。山から流れ込み、また湧き出す水が造り出す湿原や十数個の大小の池、二つの湖を抱える、最も広い所でおよそ三十里の直径を有する湖沼地帯だ。
 山裾にはブナを中心とした樹々が立ち並ぶが、湿原には葦のような丈の低い水草ばかりしか生えず、見渡す限り、遮るものもなく湿原と青い空が広がっていた。
 池や湖は波を立てる風もなく、空と雲、遠方の山並みをその水面に映している。
 ふいに平穏を破って幾つもの硬い足音が木の板を鳴らし、それまで響いていた蛙の声が止んだ。ぽちゃんと蛙が逃げ込んだ水面が束の間波紋で乱れる。その水面に人の顔が歪みながら映った。
「もうこの先は駄目だ、道が完全に水没してる」
 濃紺の軍服の上に革と鉄でできた軽装の鎧を身に付けた正規兵の一人が、自分の足元で水中に落ちた道を覗き込む。透明な水の中で板は朽ち、先は底に溜まった泥に埋もれている。
 顔を上げて辺りを見回してみても、湿原に打ち込まれた杭の名残が見えるだけで、ずっと先まで道らしきものは見当たらなかった。
「戻ろう。さすがにこの先は誰も立ち入らない」
「そうだな。気抜けするくらい平穏そのものだ」
 頷き合うと、正規東方軍第五大隊の兵士達は杭を打ち込んで板を渡した狭い道を戻り始めた。
 蛙の声が響き、水鳥が飛び立つ。所々覗く湿地でさえ雲を映し、池を通り過ぎる時は水底に、鱗を陽光に光らせて泳ぐ川魚の姿が見えた。
 風光明媚という言葉がまさに相応しい土地だ。
 ただ、この場所の奥地まで人が立ち入る事はほとんどなかった。今彼等が歩いている道も長い間手入れされていないままで、踏みしめる板は所々軋んで半ば湿地に沈み込んだ。
 周囲に広がる緑の草原は楽に歩けそうに見えて、足を踏み入れればすぐに水が染み出してくる。水をたっぷりと蓄えた草地の中には、底が無く落ちた者を飲み込む場所もあり、それが余り立ち入る者のない要因でもある。
 だが人々がこの美しい場所を避ける一番の理由は、この地が三百年前の大戦の記憶を、この地域に暮らす人々の心に刻み付けているからだった。
 大戦における激戦区として、このハイドランジア湖沼群は西南のフィオリ・アル・レガージュ、西端の水都バージェスと並び語られる。
 西海との長い戦乱の中で、豊富な水源を抱えるハイドランジア湖沼群は、西海側によって内陸部侵攻の拠点と目され、常に激しい攻防が絶えなかった。西海沿岸から約八百里も内陸に入り、王都へは千六百里――潜り込まれれば厄介な位置だ。
 一時期は西海の戦力の三分の一がこのハイドランジアにいたとも言われている。もし周囲を囲む山脈が無ければ内陸部への侵攻を容易くしていただろう。
 そして何より人々の心に刻まれているのは、大戦後期、この地に降り立った風竜にまつわる戦いだった。
 剣や弓矢を嘲笑う硬い鱗、鎧を紙のように引き裂く牙と爪、一振りで一小隊を薙ぎ倒す尾。歳を経た竜は法術を解し、四竜ともなれば高位の法術士の術さえ打ち破った。
 何より竜と相対する上で避けて通れないのは、彼等の吐く息だ。
 風竜が吐く凶暴なまでの風は正規軍の兵士達を切り裂き、吹き払い、混乱の中に叩き込んだ。
 後に大戦の剣士と呼ばれるジンが現れるまで、正規軍はほぼ一大隊を――当時の軍の編成は現在の倍、一大隊六千名だった――を失う被害を受けたのだ。
 大戦から三百年を経た今、柔らかな陽射しの下に眠るように横たわる湿原や湖には、見渡す限り、かつての傷痕を見つける事はできない。
 ただ、ハイドランジア最大の湖には今も、風竜の身体が沈んでいるという。
 踏み入ってそれを見た者はいない。
「こうして歩いてると、ここで大戦の激しい戦いがあったなんて想像できないよな」
 軋む渡し板を歩きながら、十名の正規兵達は少しのんびりした気持ちで言葉を交わした。
「風竜か――翼を広げれば十間近かったっていうじゃないか」
 兵士は振り返って広がる湿地と山並みを眺めた。おそらく今、風竜が彼等の前に降り立ったとしたら、この景色を全て覆い尽くすほどだろう。
「――三百年前の話で良かったぜ」
 自分の想像に兵士は身を震わせた。
「けどカトゥシュを縄張りにしてた風竜が、何でここに降りたんだろうな」
 この話になると大抵出る話題だが今まで答えが出た試しは無い。それを知っているのは、おそらく風竜だけなのだろう。
「やっぱり西海が操ったんじゃないのか?」
「そうかな。法術院のアルジマール院長だって、四竜を制御するのは無理だって話だぜ。だから四年前の黒竜の時も、法術士団を出して何とか封じようとしたんだろう」
「操れる訳ないさ。ほら、クーガー少将が黒竜の時カトゥシュに投入されてただろ、いつだったか飲んだ時に俺は話を聞いたんだ」
 第五軍にも四年前のカトゥシュ森林に投入されていた同僚が数人いる。彼等の口から語られた黒竜との戦いは、聞くだけでも身が震えた。
「あんなの、人の力じゃどうしようもないって、そう思ったらしいよ」
「そりゃそうだ。黒竜の一吹きで、小隊一つ溶けたっていうからな」
「良く帰ってこれたよな」
「炎帝公がいたからさ。今俺達がこうしてられるのも公のお陰だ」
「近衛師団の剣士もだろ。なんたって風竜を倒したジンの息子だぜ。そりゃ御前試合も制するし、師団の大将にもなるよなぁ」
「剣士か――。剣士にしろなんにしろ、あれ以来あそこまでのは出てきてないな」
「それは無理な注文だって」
 その後はひとしきり、最近の御前試合の話や次の候補者の予想などを交わしながら、正規兵達は木の細い道を抜け、山道を降って行った。
 風が一陣、彼等が今通って来た木の道を抜けて行く。
 清らかな湿原を渡り、池を抜け、山並みに囲まれた中央の、広い湖に達した。
 空を映す鏡のような水面を覗き込めば、澄んだ水が深い底まで光を落とす。
 奥底に白い固まりが揺らぐ。
 巨大な骨格が見えた。
 鋭い牙がずらりと並んだ顎、ぽっかりと空いた二つの眼窩、長い首と伏せられた広い翼。
 良く保存処理を施された骨格標本のように、巨大な竜の身体はまるでそれが生きている姿そのままに、湖の水底に蹲っていた。
 泡が一筋、水中を上がって行く。
 鏡のような水面に浮かんで弾け、一時湖面を揺らした。
「――久しぶり……。私を覚えているかしら」
 囁く言葉が、水面を微かに揺らした。





「月末には陛下をこのボードヴィルにお迎えする。それまでの間に西方公を捕らえ、この問題が片付いているのが理想だが」
 正規軍西方第七大隊大将ウィンスターは、軍都ボードヴィルに置かれた指令部の執務室で、集まった中将三人を見回した。最も年配の左軍中将シモンが難しい面持ちで顔を上げる。シモンは後もう十日後には、王都から赴任するワッツと入れ替わりで引退する事になっていた。
「それを念頭におき、部隊も八方に派遣して捜索を進めてはおりますが、お手元の報告書にもございます通り、恥ずかしながら現段階では気配すら掴めておりません」
「バージェスを始め、我が隊の管轄下は例外無く探させております。しかし」
 右軍エメルも同様に厳しい表情だ。「やはり西方公にその意図が無い限り、ただ探しても甲斐がないのでは」
 ウィンスターもそれを弱気と断じるほど無理解ではない。ルシファーが全ての痕跡を消そうと思えば、ウィンスターなどが探そうとしても難しい話だ。
(アルジマール院長か、せいぜいが法術院でも最高位の法術士か)
 だがその法術院からは今になっても何の指示もない。
「最も可能性のあるレガージュも確認済みですが、先日以来何も問題は生じていないとの事です」
「ふむ――おそらく各方面、我等と大差はないだろうな」
 そう唸り、ウィンスターは手元の報告書を数枚捲って、手を止めた。流し読みで拾った文字をもう一度見つめる。
「屋敷の消失? 何だこれは」
 シモンも書類を見た。ここ十日ばかりの調査結果を載せた六十項近い、分厚い報告書だ。
「三十五項、中段だ」
「消失――、ああ、これですね。――関係はないとは思いますが……レガージュ方面捜索隊から、西海沿岸の崖の上に、崩れた屋敷の跡地を発見したと上げてきたものです。とにかく怪しい動きや気になったものは何でもいいから上げろと指示していますので、玉石混淆ですな」
「崩れた屋敷? どういう事だ」
「お気になさるほどのものでは」
 シモンはそう言いかけたが、鋭く眼を細めたウィンスターの顔を見て、一度口を閉じた。
「……今は土台が残る程度のようですが、付近の住民は最近まで館が建っていたと証言しているとか」
 ウィンスターはじっと文面を睨んだ。六十項に渡る報告資料の、たった数行の、事実報告程度の言葉。
 それがウィンスターの意識に引っ掛かった。
「最近まであったというのがいつまでの事か――。いずれにせよ最近まで建っていたものが急に土台を残して崩れるなど、何かしら要因があるだろう。西海沿岸というのも気になる。詳しく調べて報告しろ」
「承知いたしました」
 シモンはすぐに頷いた。
 もう一人、中軍中将ヒースウッドが顔を上げる。三人の中将の中では一番若い、まだ二十代中間の血気溢れる青年将校だ。この辺境地区を所領するヒースウッド伯爵は彼の兄に当たる。
「ウィンスター大将殿、恐れながら今は、月末の条約再締結に集中すべきではないでしょうか」
 ヒースウッドはゆっくり確かめるように言った。
「結果が期待できないのならば、現状兵を分散させすぎではないかと」
「西方公捕縛は陛下の下命だ。公からの厳命でもある」
「ですが――、公ご自身は実際は、その、余りそれを望んでおられないのでは」
「ヒースウッド!」
「言葉が過ぎる、気を付けろ」
「すまん、しかし」
 ウィンスターは王都でのアスタロトとルシファーの親睦を思い、だが首を振った。
「いかに公と言えど、私情に流されて良い話ではない。またあの方はそのような方では無い」
「し、失礼しました」
「西方公の離反は国の重大事だ。見つかりませんでしたと簡単に口にすれば、対応の甘さをそしられよう」
 ウィンスターの言葉に三人の中将はそれぞれ面持ちを引き締めて頷いた。
 軍議が終わり、中将達はウィンスターに一礼すると、それぞれ自分の部隊に戻っていく。中将ヒースウッドはウィンスターの前に立った。
「ではウィンスター大将、私は引き続き、バージェス方面の捜索に当たります」
「頼む。バージェスは特に念入りに調べよ。西方公に拘らずな」
「は」
 ヒースウッドも一礼し、ウィンスターの前を辞した。
 石積みの基礎がそのまま覗く簡素な造りの廊下から、螺旋状の階段を降りる。ヒースウッドは二階にある中軍士官室の前まで来たものの扉を開け、「昼飯に行ってくる」と一言かけると、先ほどの螺旋階段を一階へ降りた。指令部の建物を出て、建物が見下ろすように感じる狭い通りを足早に歩き出す。
 ボードヴィルの街は他の方面の軍都に比べるとより一層、砦という印象が強い。その通り、大戦時に西海の進攻を防ぐ目的で造られた為だ。
 西海沿岸よりおよそ十里、大河シメノスの流れを足元に臨む小高い丘の上に位置する。シメノスにはボードヴィルの砦からも操作できる二つの堰が設けられていた。西海の軍がシメノスを遡って攻め入ろうとした時を想定したものだ。
 もともと軍と街の機能がほぼ一体化していて、軍部から街へはすぐ、というより境目が感じられない。通りが狭いのは、攻め込まれた時に容易く敵の兵を通さず迎撃できるよう意図して設計されているからで、西方の街によくある造りでもあった。
 街を歩くのはもっぱら正規軍の兵士で、それ以外は兵士の家族や、彼等相手の商売を行う商人などが主だった。王都と違い、時に検挙の対象にもなる歓楽街が目と鼻の先にある。
 ヒースウッドは大通りというには狭い通りから、馬では通れないような更に狭い路地に入り、時折、努めてさり気なく後ろを確認しながら細い路地を何度も曲がった。路地は左右どちらも長く連なる三階建ての建物に囲まれ、通りには余り陽が当たらず、灰色の石壁は洞窟のそれのようだ。
 やがてヒースウッドは一つの扉の前で足を止めた。少し色の剥げた木の扉を三回、一定の拍子を付けて叩く。
 ほどなく扉が開いた。
 ヒースウッドはさっと辺りを見回してから扉を潜った。扉を開けた男が素早く路地に視線を配り、扉を閉めると鍵を掛けた。
 中は玄関から狭い廊下が伸び、左右に二枚ずつの室内扉と、正面奥に階段がある。
「如何ですか」と、扉を閉めた男がヒースウッドの後から尋ねる。頬から顎まで髭を蓄えた、三十歳程度の偉丈夫だ。軍服は着ていないが、軍人のような雰囲気があった。
「昨日と変わらんよ、情報は無い。あってもらったら困るが」
「それは朗報です。まずは今のまま月末を迎える事が我々には重要ですからね」
「その通りだ。それで――、もうおいでか」
「半刻前に――中将をお待ちです」
 二人はぎしぎしと軋む階段を昇り、二階の部屋へ入った。
 縦に細い窓が三本、入って正面の壁から薄い光を呼び込んでいる。室内にいるのはやはり固い雰囲気を纏った男が二人、そして、女が一人――
 ヒースウッドはまず女の前に跪き、恭しく一礼した。
「西方公――お待たせ致して申し訳ございません」
 西方公、ルシファーは窓の張り出した桟に腰掛けたまま、柔らかい笑みを浮かべた。
「待たせられたとは思わないわ。お前が今手にしてきた情報が重要なのだもの」
「は」
「進捗は? 私の情報のね」
「何もごさいません」
「残念だわ」ルシファーはくすりと笑った。
「まあ、草の根分けて探す無意味さは命令してる側が一番分かっているでしょうけどね。それでもやらなきなゃいけない立場は大変」
「しかし――あらゆる場所に隊を出している為に、少々動き辛くもありますが」
「いいのよ、このまま月末までずって私を追っていれば」
 ヒースウッドは跪き黙ったまま頷いた。先ほどモリスも言った通り、月末までは彼等の動きを悟られる訳には行かない。西方公の行方に目が向いているのは、彼等にとって都合が良かった。
「他には」
「特に――」
 と言い掛けて、ヒースウッドは先ほどウィンスターが妙に気に掛けていた件を思い出した。
「いえ、そう言えば一つ、奇妙な報告が。西海沿岸にあった館が、最近消失したと」
「――館――?」
 ルシファーは暁の瞳を上げた。
「はあ」
 ヒースウッドは緊張感のない答えを返した後、ふとルシファーの瞳に何か意味ありげな光が浮かんでいるのに気付き、背筋を伸ばした。「探りますか」
 ルシファーは柔らかく微笑んだ。
「いいえ。放っておけばいいわ」
 ヒースウッドが頷くと、ルシファーは腰掛けていた窓から降りた。薄い陽光の中に、空気に舞い上がる埃がきらきらと光る。
「――この後、王太子殿下をお迎えする為に幾つか手を打つ。条約再締結までにお心を決めていただければ良いが――。とにかく、お前達は殿下をお迎えする準備を進めよ」
「はっ、お任せください!」
「また来る。――ヒースウッド伯によしなに」
 ルシファーの姿が柔らかな風に包まれたと思うと、ふわりと消えた。
 ヒースウッドはしばらく直立した後、そこにいた男達を振り返った。
「モリス、ケーニッヒ、グリッジ」
「は」
 呼ばれた三人はさきほどのヒースウッドと同様、踵を鳴らして直立した。
「それぞれの隊の状況はどうだ」
「信頼できる者から話をしております。月末までに、必要最低限の人数は確保できるかと」
「中々充分には呼び込めませんが」
「いい。事が動けば我々に同意する者も増える。それに兄伯爵からも手を回している所だ」
 ヒースウッドの言葉に三人は希望と共に頷いた。ヒースウッド伯爵はこの一帯に大きな影響力を持っている。
「中将」
 モリスは少し躊躇いがちに口を開いた。隊に帰れば、左軍中将シモンの揮下の少将だ。
「ウィンスター大将には、話をできませんか。あの方がもし我々に賛同すれば、事は一層運びやすくなります」
「――今は無理だろう。今理解を得られるとは思えない。だが合理的な方だ、状況が明確になれば我々に賛同する事もあるだろう」
「今は完全に信頼できるものだけにすべきだと俺も思う」
 そう言ったのはグリッジで、彼はヒースウッドの中軍の少将の一人だった。
「では、今度シモン中将の後に来るワッツ中将は」
 モリスが食い下がったのは、やはりこれだけの事を進めるには少なからぬ不安があるからだ。責務に燃えはしても、事を思えば不安は尽きない。
 だが今度はケーニッヒが首を振った。
「それも無理だと思う。彼はウィンスター殿に近い。第一、近衛師団の剣士とも親しいはずだ」
「監視を付けますか」
 グリッジはヒースウッドを見た。
「いや――気付かれたら却って怪しませるだけだ。どうせたった数日の事――逆に左軍は指揮官交替時の混乱で少し動きやすくなるだろう」
 ヒースウッドは改めて三人を見渡した。
「いいか、くれぐれも、同志以外には決して気取られるな。加えて西海の動きも、良く良く見極めなくてはいかん」
 この月が変わる時――、状況がどう動いていくのか。
 彼等の懸念し、意図する通り、事が運ぶのか――。
「王太子殿下を我らのもとにお迎えするまで、全てを怠りなく進めるのだ」


 ほどなく扉が開き、ヒースウッドは路地に出た。来た時と同じように素早く辺りを見回し、誰も見ていないのを見計らって歩き出した。





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