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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第一章『萌芽』


 ファルシオンはそわそわと何度も何度も懐中時計を見つめ、針が一つ目盛りを進む緩やかさにその都度頬を膨らませた。
「――もう待ちきれない」
「ファルシオン様?」
 すっくと立ち上がると、ファルシオンは室内に控えていた女官の脇を駆け抜けて廊下に出た。
「殿下!? お待ちを」
 慌てた女官が深緑のお仕着せの裾を翻して追いかける。
 緩やかに右へ弧を描いている廊下を元気いっぱい駆けていくファルシオンの目に、ちょうど、前からやってくるハンプトンの姿が見えた。
 その後ろ――
 柔らかい頬と黄金の瞳がぱあっと輝く。
「レオアリス!」
 ハンプトンとレオアリスが驚いて足を止める。
「まあ殿下、このような場所まで」
 言う間にもファルシオンは二人の前に駆け寄り、レオアリスはその場で膝をついた。
「殿下――、先日も申し上げましたが」
 レオアリスは臣下への接し方に注意を促そうとしたものの、ファルシオンの表情に気付いて口を閉じた。膝をついたレオアリスより少し高い位置に目線があるファルシオンの顔には、不安と安堵がごちゃまぜになって浮かんでいた。
「良かった――」
 幼い王子は全身の息を吐くようにしてそう言った。心の中にあった不安が、息と共に溶けたようだった。レオアリスの謹慎を知ってからずっと、まだ謹慎がどんなものか、何を示すのか明確には判らないながらも、良い事ではなくて、もしこのまま帰ってこなかったら――、とファルシオンは幼い胸の中で何度と無く考えていた。
「ちゃんと戻ってきたのだな」
 レオアリスはじっとファルシオンの面を見つめ、そして深々と頭を下げた。
「――ご心配をお掛け致しました。申し訳ありません」
「もうしないな」
「充分気を付けます」
 その答えではファルシオンにはまだ納得がいかなかったようで、頬を膨らませて眉を寄せる。
「それだけじゃダメだ。もうしないって、ちゃんと約束しろ」
 自分の意思で決められる訳ではないのだがと可笑しさを覚えながらも、レオアリスはファルシオンの瞳を見て頷いた。
「お約束します――」
 多分、と言ったら怒るだろうな、と思ったからそれは口にはしなかった。
「うむ」
 ファルシオンがようやく満足そうに頷き、やり取りを見ていたハンプトンは頃合い良く、やんわりと促した。
「殿下、廊下ではなくちゃんと大将殿をお部屋へご案内させてくださいませ」
「そうだ――すまないな、レオアリス」
「いいえ。殿下にこのような場所までご足労をおかけし、恐縮です」
 レオアリスは普段より畏まった口調でそう答え、再び頭を下げた。
 今回は謹慎が明けての報告という面もあり、より臣下としての振る舞いを徹底するべき場面だ。
 ファルシオンは少なからずそれが不満そうだったが、それでも喉の奥に飲み込むと、ハンプトンに導かれて歩き出した。


 いつもの居間に通され、長椅子に腰掛けたファルシオンと向かい合うと、レオアリスは改めてその前に膝をついた。謹慎明けという一面もあるが、先日のマリ王国海軍とのやり取りの中でファルシオンが見せた姿が、レオアリスの中にこれまでと違う印象を生んでいたのもその理由の一つだ。
 自分を慕ってくれる幼い王子というだけではなく、いずれこの国を継ぐ資質を確かに備えた王太子として、レオアリスは半ば無意識にファルシオンを見ていた。
 一方でファルシオンはそういう様子がやはり不満で唇を尖らせた。
「ほんとうに、父上にいっぱい文句を申し上げたのだ。レオアリスは何も悪くないのに」
「悪くない訳ではありません、殿下。私は確かに、対応すべき事をできていなかったのですし、その責任は形にして取らなくてはいけません」
「でも――」
「だから先ほど私は、今後はこういう事は無いようにすると申し上げましたが、本来はその責任があれば謹んで受けるものです。それが職を預かる上での責務でもあります」
 少し難しかったかと思いながらも、もう少し続けた。
「ですから陛下だけではなくファルシオン殿下、貴方も、私に非があるとお思いになったら、それをお命じになるお立場にあります」
「私は、そんなことしない」
 頬を膨らませる。だが理解はしているようで、すぐにしょんぼりと俯いた。
「でも、父上もおっしゃっていた。相手が誰であっても、同じ『きじゅん』でいなきゃいけないって。好ききらいで決めちゃいけないんだって」
「陛下の仰るとおりです」
 肯定すると黄金の瞳が恨めしそうに上がった。同じ色の瞳は、父王の威厳を思い起こさせながらも、まだずっと幼い。王太子としての理知よりもなお、歳相応の感情を覗かせる事が多い瞳は、今も五歳の少年のそれだった。
「でも、レオアリスの誕生日だったじゃないか」
 ファルシオンの言葉にレオアリスは瞳を瞬かせた。
「……俺の、ですか」
「そうだ。八日だろう。いっしょに祝おうと思ってたのに」
「そうでしたか――それは嬉しいです」
 と言葉通り嬉しそうな笑みで返し、ついでに余計な事を口にした。「昨日、第一大隊でも祝ってもらったんですよ」
「――」
 ファルシオンがぎゅっと唇を噛んで黙り込む。
「……殿下?」
「――私が祝いたかったのに……っ!」
「あ」
 さすがにレオアリスも、ファルシオンの怒りの理由にすぐ気が付いた。考えが足りなかったと、内心だらだらと汗が流れる。何度も同じ事をやっている気がした。
(気じゃねぇ)
「レオアリスは私の事なんか思い出さなかったんだな」
「いえ――」
「忘れてたんだ」
「決して忘れていた訳では」
 自分のそれをファルシオンと祝う、という視点が無かったというのが正しい。
 端から見つめていたハンプトンは、眉に憂いを寄せた。
(大将殿は今一つ、こうした感情の機微を汲み取られるのがお得意では無いようだわ)
 ファルシオンがレオアリスを兄のように慕う気持ちも、どこまで伝わっているのだろうと心配にすらなる。
 臣下の立場を逸脱してまでとは言わないが、できればもう少しファルシオンに寄り添って欲しいと思うのは、自分がファルシオンの侍従としての立場でしか物を考えていないからだろうかと、ハンプトンは密かに溜息を零した。
 仕方がないのは判っている。
 レオアリスはまず、近衛師団大将の立場で周りを見るだろう。愛情が薄い訳では決してないが、そこまで気が回るほど――失礼ながら、と心の中で断る――いわゆる『気が利く』方ではない、とハンプトンはすっぱり断じた。
「殿下、改めて殿下がお祝いなされば、大将殿はお喜びになりますよ。それが何より大切なのではございませんか」
 ファルシオンは束の間唇を尖らせていたが、やがてまだ少し膨らんでいた頬から息を吐いた。
「判った。でも、来年は絶対だからな」
 ファルシオンは右手を差し出し、小指を向けた。
 その幼さの伺える仕草にレオアリスも笑みを浮かべ、約束を交わす。
 それは一年後も何も変わらずここにあると、信じて疑わない約束だった。
 指切りを終えると、椅子の上で居住まいを正し、ファルシオンはまっすぐレオアリスを見た。
「聞きたいことがあったんだ」
 ただ、そう言ったきりファルシオンは口を閉ざしてじっと何か考えるようだ。レオアリスはファルシオンが話を始めるのを待った。
 椅子の背の向こうに広がる窓が陽光をいっぱいに呼び込み、ファルシオンの銀色の髪を煌めかせている。開かれた窓からは、四月の軽やかな風が小鳥のさえずりを運んでくる。その歌声に耳を傾けているような沈黙だった。
 それを破り、ファルシオンはぽつりと呟いた。
「……ルシファーは、どうしていなくなったのかな」
 レオアリスは視線を上げた。
「――」
「たまにだけど、私ともお話をしてくれた」
 ファルシオンが寂しそうに瞳を落とし、レオアリスは改めてルシファーとファルシオンとの繋がりに思いを向けた。
 四大公がファルシオンと同席する機会は当然多かっただろう。アスタロトもいるが、彼等の中でファルシオンに合わせて話をしてくれるのは、やはりルシファーだったに違いない。普段のルシファーの接し方であれば、ファルシオンは懐いていたのは想像できる。
「ルシファーは――」
 ファルシオンはまた口を閉ざし、開いた。「父上のことを、好きではなくなってしまったのかしら」
 不安そうな一言だった。
「殿下……」
「ケンカをしてしまったの? もうこの国が、いやになっちゃったのかな」
 純粋な、子供らしい不安の分、それは胸を突いた。
 思い当たる節はある。
 あの時、レガージュから戻った後の王への謁見の場で、ルシファーは確かに、王の言葉に対して何か、苛立ちを感じていたように思えた。
 ルシファーの半ば糾弾に近い問い掛け対し、王が返した言葉に納得していなかった――ように思う。
(――)


『私は』


 風が囁く。


『もう一度、選ぶ』



 あの時別の言葉を王が返していたら、ルシファーは離反を選ばなかっただろうか。
(判らない)
 どんな言葉を欲しがっていたのか。
 ただ、ルシファーがあの時『選ぶ』と言ったものが、単純に今回の離反を指しての事ではないのだと、そう思った。
 レオアリスは軽く首を振ってその考えを押しやり、視線をファルシオンへ向けた。
「殿下、この件についてはあまりご不安になられず……。西方公がこの国を離れたのが何を思っての事かは、尋ねてみないと―――判りませんが」
 尋ねる事ができたとして、それがどんな状況下でなのか、考えるのは気が重い。
「ただ、お父上やこの国を嫌いになったというのとは少し、違うように思います」
 別のものを選んだのだ、とそれだけははっきりと思った。
 それが、西海だろうか。
「うん――」
 おそらくこんな言葉ではファルシオンも納得はできないだろう。ただ、明確に言える言葉が無い。
 ふと、あの時ルシファーは、アスタロトに何を選ばせようとしていたのかと――そんな疑問が脳裏に過ぎった。
 アスタロトの館で、いざなうように、その手を取って。
「――」
 何を。
「それとね……、姉上も、不安そうなんだ」
 ファルシオンはそう言って俯いた。
「――王女殿下が……?」
「このあいだ、ルシファーがいなくなったって聞いて、とても、悲しそうな顔をなさったんだ。でも私じゃあ、姉上がどうしてご不安なのか、判らないの」
 ちらりと、あの祝賀の夜の面影が浮かぶ。王の身を案じているかのように、憂いを含んでいた。
 レオアリスが想像できるのはそのくらいだ。それが関係しているのかどうか――
 あの時の感覚すら定かではない。
 ファルシオンは壁の時計を見上げた。針は午後の三刻を指している。もう退出する時間だ。
「ねえレオアリス、この後、姉上がいらっしゃるんだ。レオアリスもいっしょにいて、お話をきいてくれない? 姉上のご不安が何か、ちゃんとお聞きしたいんだ」
「――」
 ファルシオンの真摯な願いといつかエアリディアルが口にした言葉と、その二つがレオアリスに訴えかけていたが、王女に面会するというのは今ファルシオンとこうして面会しているのとも全く別の話だ。
 例えファルシオンの願いであっても、王の許可なく会える相手ではなかった。
 答えあぐねたレオアリスを見て、ハンプトンがさっと助け船を出した。
「殿下、エアリディアル様に面会されるには、やはり陛下にご確認されてからでないと、エアリディアル様も大将殿もお困りになります。別の時に、まずは陛下のご意向をお尋ねになってからになさいませ」
 ファルシオンはハンプトンの顔をじっと見つめ、考えた後に頷いた。
「――判った。姉上には自分でお聞きする。でも、後でそうだんにのってね」
「承知致しました」
 頷いて一礼し、レオアリスは立ち上がった。







「エアリディアル様。どうかなさいましたか」
 ファルシオンの館へ向かう途中、居城にぐるりと廻らされた回廊に接する空に、銀翼の飛竜が西へ飛ぶ姿が見えた。陽が僅かに傾き、少し青が薄れた空に溶け込むようだ。
「エアリディアル様?」
 立ち止まり横に広がる空へと首を巡らせているエアリディアルに、初老の侍従長が再びそっと問い掛ける。そうして立つ姿には、柔らかい月光の下に咲く花のような佇まいがあった。
「――いいえ」
 エアリディアルは首を振り、藤色の瞳を戻した。
 透明な微笑みの中にどこか憂いがあると感じられるのは、エアリディアルが幼い頃から傍に付いていたこの侍従長だからこそだ。
 エアリディアルは彼女が必要と判断する時だけしか、そうした憂いを口にする事はなかった。王女として、周囲に不安を与えない為の配慮だっただろう。
 侍従長は時間どおりファルシオンのもとを訪れる為にエアリディアルを促し、回廊を歩き出した。

 歩きながら、藤色の瞳はもう一度空へ投げ掛けられた。
 定間隔に並ぶ円柱の狭間に切り取られた空には、もう飛竜の姿はない。
 銀鱗の飛竜――騎手までは見えなかったが、誰かはすぐに判った。今日ファルシオンのもとを訪ねると聞いていたし、何より気配で伝わる。
 彼を慕う幼い弟とどんな話をしたのだろうと思うと、笑みが唇を綻ばせた。ただその笑みもはっきりと形になる前に、後から追いかけてきた憂いに消える。
 先月のファルシオンの祝賀の夜、彼に告げた言葉を、エアリディアルは胸の内に繰り返した。
『その剣を以って――陛下をお護りくださいますよう』
 あの時返った表情は、エアリディアルの真意を問い掛けるようだった。
 彼がそれにどこまで重視しているかは判らないが、エアリディアルの言葉に何かを汲み取った事は確かだ。
 曖昧に言葉の内に託したのは、エアリディアル本人にさえ、その時口にするべき事が判っていなかったからに他ならない。エアリディアルがそうするまでもなく、彼は王を守護するのだろうと判っていたが、それでもあの時口にしたのは、明確には言葉にしにくい不安があったからだ。
 王を主と定める彼の剣に、ただ託した。
 けれど本当は、もっとはっきりと告げるべきだったのかもしれない。
 あの時少しでも、伝えられる限りの事をエアリディアルが口にしていれば、ルシファーが離反する事態にはならなかっただろうか。
 西方公ルシファーが離反したと聞いた時、エアリディアルはまずこの先の事を考えた。
 深く話をする機会は多くはなかったが、ルシファーと会う度、エアリディアルは理由の判らないままに胸の奧が騒つくのを感じていた。
 エアリディアルは向かい合って話をすると、その相手が思う事を感じる事ができた。
 はっきりと、その相手が何を考えているのか判る訳ではない。伝わってくるのは色彩のようなものだ。
 ルシファーは明るく、朗らかで、分け隔てなく向けられる優しさを持っていた。
 それでいて――、彼女の心には、エアリディアルが未だ知らない様々な色が渦巻いていた。
 あの時にはまだ、それはどちらにも揺れ、色を変えていくものだった。
 その色の一つが、彼女を動かしたのだろうか。
 それはとても――とても儚く、消えかけた色だったはずだ。
 たくさんの色の中から何故、彼女はそれを選んだのだろう。
 ふいに引きずり出し、激情に変えて、その色に心を染めた。
 きっかけは何だったのだろう。
(フィオリ・アル・レガージュ……)
 ファルシオンが訪れた海を見て?
「ファルシオン殿下、エアリディアル様がお着きになられましたよ」
 いつの間にか傍にいたハンプトンが、目の前の扉に声を掛けた。
 エアリディアルは開く扉の前に立ち、その向こうにいる元気いっぱいの幼い弟の姿を思い描き、今度ははっきりと唇を綻ばせた。





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