Novels


王の剣士 七

<第二部>
〜 〜

第一章『暗夜』


 それは禍々しさを内側からじっとりと滲ませていた。
 黒い表皮は波打つ海面から生え出てなお、陽光を拒む薄い水の膜で覆われ、そこに一滴油を垂らしたかのように、虹色の筋を帯びていた。その筋が不規則に蠢く。
 空へと伸びる捩れた太い胴以上に、海面の下に隠された『脚』の部分はより長大だった。脚と言うよりは根――黒い胴は海面下で数十の枝に分かれ、捻れ時に絡まり合いながら海底へと伸びていた。先端はいずれも海底の岩や砂を穿ち、時折根の中を何かが、蛇の喉が獲物を嚥下する光景を見るように、表皮を内から膨らませながら吸い上げられて行く。
 数十の根が海底から吸い上げたそれらが、海面に達し、更に黒い胴を昇った。



 波立ち四方にうねる海上に、複数の詠唱が漂い流れる。
 三基の増幅器をそれぞれ四人の影が囲み、一様に丸めた背と陰鬱とした黒い長衣の下で、途切れる事なく詠唱を綴っている。地上にある法術の術式とは異なり、詠唱は泥の表面で泡が弾けるように響く。
 詠唱に招かれ、ボコリ、と、増幅器の黒い表面が一つ、丸く盛り上がった。水の膜に覆われた幹のあちこちに、次々と同様の瘤が盛り上がり始める。
 盛り上がったそこへ、横一文字に亀裂が生まれた。亀裂はゆっくり上下に開き、赤黒い光を宿した瞳孔がぎょろりと動いた。
 目――黒い幹に開いた無数の目が、周囲の海と前方に犇めく西海軍の兵、そして遥か先のまだ乾いた大地へと向けられる。
 船が波に揉まれ軋むような音が響いた。
 捩れて集まり、ひとかたまりに天へと伸ばされていた幹の先端が、軋む音を立てながら解(ほど)け、その黒い触手を土に根を下ろす大樹のごとく広げていく。
 幹を囲む詠唱が高まり、最高潮に達する。
 大樹は触手の枝をくねらせ、震えた。





 振動が走った。
 それはこれまで何回か感じたものよりも、更に大きく、空気が肌を打つほどにはっきりと感じられた。
 旋回していた二十騎の飛竜が一瞬手綱の制御を忘れ、不規則に翼を打ち鳴らす。
 撤退か、それとも――。
 ワッツは視界の端にウィンスターのいる広間の窓を捉え、その瞬きの間に生じた激しい鬩ぎ合いを、捩じ伏せた。ボルドーはあれを、増幅器と言ったのだ。
 その役割は明確だ。
「全軍、後退―― !」
 剣を握った腕を馬上で振り上げる。同時に手綱を引き、館前に展開する陣の正面を駆けた。駆けながら更に叫ぶ。
「館後方へ退け!」
 居並ぶ騎馬が脚を踏み鳴らし、対角翼陣の後方から速やかに後退が始まる。
「前方……ッ!」
 物見の塔から監視兵があらん限りの声を張り上げる。
「泥地が、急速に拡大! 残り、およそ三百八十間!」
「三百、八十――」
 あの振動が起こる前までは、泥地までの距離は五百間あった。予想を遥かに上回る速度で泥地化が進んでいる。
(こいつは――)
 ワッツはもう一度二階の露台を見た。その奥の部屋の転位陣。現在唯一の兵力補給の動脈、王都との動脈であるそれを、泥地が館へ至った場合、ウィンスターは破棄する考えだ。
 そうせざるを得ない。
 今はまだ、飛竜は二十騎しか転位しておらず、近衛師団第三大隊からの援軍の転位も始まっていない。
 だが万が一にも、西海に王都への足掛かりを与える訳には行かなかった。
(あの増幅器が破壊できれば)
 ワッツと同じ考えか、黒鱗の飛竜二十騎が、なだれ来る西海軍を逆流するように海へと疾駆していく。
 林を鳴らすような音が湧き上がる。
 西海軍から空を黒く埋めるほどの矢の幕が立ち上がり、飛竜の行く手を阻む。ボルドーの張った光の盾が明滅し矢を防いだものの、二騎が翼の被膜を射抜かれ、中空で態勢を崩した。
 幸い押し寄せる西海軍の群れを離れ、右後方の草原に落ちていく。他の十八騎もまた、余りに厚い矢の幕に、それ以上進む事が出来ずに上空を虚しく旋回した。
「くそ」
「ワッツ中将!」
 兵の声に振り向くと同時に、目前に飛来した矢を咄嗟に剣で払い落した。気付けば既に、西海軍は百里に距離を詰めている。そして西海軍の足元の、ぬめる土の帯――
 広がる泥地と銀色の使隷の波に乗った西海軍は、恐るべき勢いで一里の館へと押し寄せて来る。
 もはや館は、泥地に呑み込まれる。
 目の端に捉えた館の二階の窓は、なお法陣の輝きを発していた。最後まで状況に抗おうと試みるウィンスターの意志のようだ。
 ワッツは肺いっぱい息を吸い込み、号令した。
「――退け! 一里の館を放棄し、沿道住民を保護しつつ、ボードヴィルへ撤収する!」
 一里の館の放棄。
 初めて明確な言葉になったその響きに、兵士達の間に確かに動揺が走る。同時に口に出された沿道住民の保護という任務が、撤退する兵列が崩れる事を辛うじてとどめたともいえる。
 だが。
 ワッツは憤りの呻きと共に、奥歯を噛み鳴らした。
 これは敗走だ。
 西方軍第七大隊に、アレウス国に、この状況への準備が無かった事を差し引いたとしても、この地上での、西海との争乱の緒戦――
 それは、正規西方軍第七大隊の敗走という形で始まった。










 くらい。
 アスタロトの周囲で淵が深い闇を湛えている。
 目の慣れない暗がりの中、アスタロトはその淵に足を浸し、闇の水面みなもを見つめていた。
 視線の先でぬるりとした粘つく水面が震え、ぷつ、と中心が小さく丸く盛り上がる。波紋が広がり、闇に浸されたアスタロトの足首に触れた。
 初めは一つだけだったその水面の膨らみが五つに変わり、闇を纏ったまま更に盛り上がる。それはすぐに五本の指だと分かった。続いて現われた手のひらは、アスタロトの頭を簡単に掴み覆えるほど大きい。
 その存在が何か、わかる。
(海皇――)
 身体の芯から全身へ、恐怖が広がる。自分の鼓動が耳を内側から聾している。
 あれは、海皇の手だ。
 それぞれの指から闇を滴らせ、腕が伸びる。
 五指が生き物のように蠢いて闇の沼を這い、鎌首をもたげる蛇に似た仕草で身を起こす。闇に立つアスタロトへと。
 アスタロトの背後には光があった。黄金に輝く光体。
 手はそれを掴もうとしている。
 湿った指先から滴る闇の雫が足元に落ちる。手はもう目の前だ。
(駄目だ――)
 アスタロトは遮るように両腕を広げた。
 滴る雫が目の前で、粘つく闇色の表面に黄金の光を弾く。冥い水の匂い。
(駄目だ)
 自分のはらわたでも心臓でも、何でも持って行っていい。
 全て持って行っていい。
 だけど、それは駄目だ。
 アスタロトの背後で燦然と輝く光。
 指がアスタロトなど構いもせずに、這い進む。
 光へと。
(駄目だ!)
 その光は駄目なのだ。
 アスタロトの足元を抜けていく。
(駄目だ―― !)
 なのに身体は、もう指先すら動かなかった。



「―― !」
 短い悲鳴に跳ね起きた。
 荒い呼吸が肩を小刻みに跳ねている事も、全身が汗で濡れそのくせ身体が冷え切っている事も、自分が悲鳴を上げた事にも、気付かなかった。
 耳を捉えたのは床を打つ足音、金属のぶつかり合う音、叫び――それらがごちゃ混ぜになっている。
 背後に光がある。
 アスタロトは呼吸に身体を揺らしたまま、首を巡らせ、見開いた瞳で光を追った。
 闇の中でアスタロトの背後にあった光。
(光――無事で――)
 どくりと、心臓が跳ねる。
(……ああ――)
 違う。
 すうっと呼吸が消え、手足が指先から冷えた。
(違う――)
 瞳の先に揺れているのは、床に敷かれた法陣円が放つ光だ。大理石の上に描かれた微細な文字や記号、複雑な紋章が白く発光している。
 美しいとと思うその奥から、焦燥が、沸き立つ鍋から吹き零れるように溢れた。
「ここは」
「公! 気付かれましたか」
 声とともに長椅子の傍らに男が膝をついた。背の高い、鋭い容貌の将校だ。すぐ名を思い出した。
「ウィンスター……」
 ウィンスターが跪いたまま黙礼する。
 アスタロトは改めて自分のいる場所を見渡した。広い横長の部屋で、アスタロトが座っている長椅子が置かれた側の壁には、開け放たれた両開きの硝子戸が並んでいる。王都から転位した際に出た部屋だ。一里の控えの、館。
 正面の壁の左右の端に、廊下に繋がる扉がある。あの扉の向こうに、玄関広間を囲む二階の回廊が続いているはずだ。
 そして今、その廊下から不安を催す喧騒が、廊下だけではなく窓の外からも、絶え間なく聞こえていた。
 まるであの冥い海の底の謁見の間だ。
 死の放つ喧騒。
「一里の館――私はどうして、ここに」
 ウィンスターはアスタロトの初めの呟きにだけ、頷いた。
「左様です。しかしもう棄てねばなりません」
「棄てる……?」
 不意に全ての出来事が脳裏に吹き上がり、アスタロトは跳ねるように立ち上がった。
「陛下は……、西海は!? どうなった!」
「西海はバージェス沿岸より軍を上陸、大地を泥地化させながら侵攻し、現在はこの館を全て囲んでおります。既に館周囲は泥地と化し、沈みかけています。館がちるのはもはや時間の問題でしょう」
「侵攻――」
「詳しいご報告を差し上げる猶予はございません、公、御身はまずは王都へ」
 眉を寄せ、アスタロトはウィンスターを見た。
「何を言ってるんだ」
 ウィンスターの厳しい面には笑みの欠片も無い。その背後では数名の兵士等が、負傷して意識の無い衛士等を法陣に運び入れ、横たえている。ヴァン・グレッグ、セルファン――。そして正規軍兵士。
「王都って、そんなの――私は戻る訳にはいかない、こんな状況で」
「負傷者達をこの転位で王都へ戻します。ここを守る為に残った兵達も、退く機会はこれで最期でしょう。貴方も彼等と共にお戻り頂きます。その後、この転位陣を破棄致します」
 ウィンスターはアスタロトを長椅子から抱え上げた。
「待て」
「公」ウィンスターは耳元に辛うじて届く声で囁いた。「御身は今、完全な状態では無いとお聞きしました」
「! それは、……っ」
 館が、生き物のように全身で震えた。一度、ウィンスターの片足が浮くほど大きく縦に落ち、それから小刻みな振動が、支えるウィンスターの身体を通じてアスタロトにも伝わる。周囲と、階下の喧騒が一層高まった。
 奥の壁際に置かれていた文机から、その上の硝子の墨壺が転がり、床の上で砕ける。藍色の液体が大理石の床の上に広がり、つうっと一筋、窓の方へと流れた。
 傾いでいるのだ。
「何だ……何が起こってる! ウィンスター、降ろせ! 何が」
 ウィンスターは答えず、厳しい面に唇を引き結んだまま、法陣へと数歩の距離を向かった。
 扉が勢いよく開かれ、駆け込んできた数名の兵士がウィンスターを見つけて張り詰めた面を向ける。誰も一様に傷を負い、血を流し、顔を強張らせている。
「ウィンスター大将! 最早階下には泥が流れ込み、全て占領されています! 大階段もほどなく……ッ、これ以上は―― !」
 ウィンスターは頷き、アスタロトを抱えたまま転位陣に踏み入った。
「ウィンスター! 離せ!」
 ウィンスターは兵士等を呼ぶとアスタロトを降ろし、彼等へ預けた。
「貴様等はその手を離さず、必ず公を王都へお連れしろ。公が無理に残られるのなら、貴様等も残り、共に死ね。それが任務だ」
「ウィン……ッ」
 アスタロトは青ざめ、ウィンスターを睨んだ。
「御無礼を!」
 二人の兵士がアスタロトの肩を押さえるのを確認し、ウィンスターは法陣を出た。法陣の端に立っていた法術士、ボルドーへ片手を上げる。
「ボルドー中将、将軍閣下の転位完了後、陣を破棄しろ。回復できぬように完全に消せ」
 ボルドーは無言で目礼し、微かに口元を動かした。そのボルドーもまた法陣円の外にいる。
「離せ――詠唱を止めろ! 命令だ!」
 強い力で肩を捉えている兵士を何とか押し退けようとしたが、足が床に張り付いたように動かない。「なん……っ」
 視線の先、自分の両足首に光の輪がはまっている。アスタロトは髪を揺らしボルドーを振り返った。ボルドーは瞳を半ば閉じ、絶え間なく詠唱を綴っている。
 転位陣の光はますます白く輝いた。
「ウィンスター!」
「公」
 アスタロトの叫びを、その静かな声が圧した。ウィンスターはアスタロトに背を向け扉と相対して立ち、腰に帯びていた剣を抜いた。
あの男・・・、何者なのです」
 低く耳を打つ言葉に、アスタロトは息を呑んだ。
 あの男、とウィンスターは言った。アスタロトの脳裏に、淡い光に照らされる長衣の裾が揺らぐ。喉が震えた。
「――今……どこに」
 ウィンスターへと伸ばした手が立ち上がる白い光の壁に阻まれ、その思いがけない硬い感触にアスタロトは我に返った。
 光の向こう、室内に西海の兵が雪崩れ込む。西海兵に押し込まれるように、僅かに残った兵士等が部屋に駆け込む。彼等は一人法陣の前に立つウィンスターを守ろうと、負傷した腕に剣を構え、薄い盾を作った。
「ウィンスター! ウィンスターッ!」
 ボルドーの詠唱が揺るぐ事なく続いている。「ボルドー! 法術を解け!」
 光の壁を叩く音だけが虚しくアスタロトの耳に返る。
「ウィンスター!」
 扉から、男が一人、入ってくる。西海の兵達が、一斉に、男を避けるように道を開けた。
 光の壁を隔ててさえ、全身の毛が逆立った。
「海……」
 アスタロト達を取り囲む光が厚さを増し、眩しさにアスタロトは手を翳した。
 ウィンスターの背中が手の向こうに滲む。
 抜き放った剣を手に、近付いてくる男と向き合い――
「まさか」、と、声が耳を捉えた。
 その、驚愕と、畏怖に満ちた響き――。
「ウィンスターッ!」
 視界が歪み、アスタロトを中心に渦となって取り巻き、一里の館の広間がその中に飲み込まれて消える。
 束の間の浮遊感、次いで身体が落ちる感覚があった。






前のページへ 次のページへ

Novels



renewal:2015.09.23
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆