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王の剣士 七

<第二部>
~ ~

第一章『暗夜』


「ウィンスター!」
 光の壁に当てていたはずの手がふいに空を切り、支えを失った身体が前につんのめる。倒れ込みかけたアスタロトの腕を傍らにいた兵士が捕まえた。
「アスタロト様!」
「――」
 視線を持ち上げた先には、薄灰と白の石が敷きつめられ、その先に整えられた緑の庭園が広がっている。庭園を交差して渡る白い回廊、そしてそれらの中庭を囲み、高い尖塔を持つ城が緑の向こうに聳えていた。
 緑の息吹と咲き乱れる花の香を含み、香しい風が渡る。
 もうアスタロトは王都にいた。
 朝、王と五十名の衛士と共に発った中庭だ。ふと降ろした視線の先で、法陣は急速に色を失っていく。
「ま――待て!」
 兵士の手を振り払って膝を落とし、アスタロトは法陣に両手をついた。
「ウィンスターッ!!」
 法陣はあっけなく、石敷きの地面に紛れて見えなくなった。
 たった今までいた一里の館の争乱は、無機質な石の上には欠片ほども見い出す事が出来ない。
 既に遠く隔たった――あの場に満ちていた、死から。
 茫然と、頬に落ちかかる黒髪もそのままに、アスタロトは唇を動かした。声は音にはならずただ形だけで綴られた。
「駄目だ……、こんなのは駄目だ」
 一里の館にウィンスターが残っている。
 ボルドーも。
 兵達も。
「法陣――。法陣を……転位を」
 ワッツはどうなっただろう。一里の控えに就いていた千四百名弱、目にした西海軍の兵数に対してあまりに不利だ。
 転位の直前、西海軍が部屋に雪崩れ込んだ。
 その後から悠然と、男が扉を潜った。
 アスタロトはびくりと肩を震わせ、口を閉じた。
(あれは)
 もう、本当に、一里の館は西海の手にちたのだと、そんな言葉が稲妻のように脳裏に閃光となって焼き付ける。
 両手の指先が白い石畳の溝を掴んだ。手のひらに伝わる感触は温度が無く、ざらついているが、それだけだ。
 あそこはもう――。
「海、皇……」
 転位陣の光の向こうに霞む姿。それでさえ、胃の腑を掴むような圧迫感が容赦無く伝わった。
(ウィンスター……)
 ふと、ウィンスターの声が脳裏を過った。
 あの時、確かに、光の幕を通して聞こえた。
『まさか』
「――」
 法陣の消えた地面に、爪が掛かり呟くほどの音を立てる。
 ウィンスターは何を見て、そう口にしたのか。
「転位を……」
 転位をして自分に何ができるのかと、そんな思いが浮き上がる。自嘲すら無く。
 炎が無ければアスタロトは何の力にもならない。
 あの場と今空間を繋げば、それを伝ってやって来るのは、死だ。
 王都が戦乱の中に落ち、ただ、死ぬ兵士や民が増えるだけ――。
 ふと、背後から肩に手が置かれる。その手に半ば支えられ、アスタロトは地面に手をついていた身体を起こし、振り返った。
「御無礼致します、アスタロト様、お気を確かに」
 目の前に女の顔がある。何度か呼びかけていたのかもしれない。アスタロトの瞳を覗き込み、もう一度名を呼んだ。
「アスタロト様」
 視線が落ちる。
「……トじゃ、ない」
 呟いた言葉はアスタロト自身にも聞き取れなかった。
「アスタロト様――、私をご覧ください」
 やや頬骨の浮いた細面の女は時折見かける顔だった。灰色のかずきと長衣、その下に法術士団独特の軍服を纏っている。
「リンデール」
 正規軍法術士団所属の中将だ。転位の陣を得意とする。
 それを思い出し、アスタロトはリンデールの腕を掴んだ。
「一里の館へ、転位を」
 そう口にしたその場から、先ほどの無力感が湧き上がり、リンデールの腕を掴んだ指は力なく解けた。リンデールはアスタロトの様子に細い眉を寄せ、ただきっぱりと首を振った。
「致しかねます。一里の館の転位陣は、館と共に既に破棄されました」
 一呼吸おいて、アスタロトは顔を上げた。
「――破棄」
 そうだ。そう、ウィンスターが言っていた。
「西海の手に落ちるとそう判断した場合、ボルドーが破棄をする手筈でございました。お足元の転位陣が消えました以上は、ボルドーがその通り動いたのであろうと――」
 そこで言葉を切り、リンデールは膝をついたまま後ろへ首を巡らせた。「救護を」
 アスタロトの視線がリンデールの動きを追って、ぎくりと止まる。リンデールの背後には軽装ながら鎧を纏った兵士等が隊を組んでいる。正規軍ではない。
「近衛師団……」
 彼等はリンデールの横を抜け、アスタロトに近寄った。
「――」
 束の間、自分の心臓の音も聞こえなくなった。
 彼等が守護する王を、自分は。
 彼が・・守護する王を――
 近衛師団隊士達はアスタロトへは黙礼だけを向け、転位陣で戻った正規軍兵士等と共に、横たわっていた兵士や衛士等を素早く運んでいく。セルファン、ヴァン・グレッグ、衛士や西方軍兵士。重傷を負い、アスタロトと共に転位された者達だ。
 リンデールは改めてアスタロトへ面を向けた。
「アスタロト様、ご無事で何よりでございました。現在、謁見の間隣の執務室において、ファルシオン殿下の御名のもと会議が持たれております。御心労は深いと推察致しますが、状況のご報告なども必要でございます、今少し」
「問題無い。――どこも、負傷すらしていないんだ、私は」
 もう何度、この感覚を味わったのだろうと、心の片隅に浮かぶ。微かに、胸の内を引っ掻くようなむず痒さは笑いたいからだろうか。
 自分を。
「――」
 アスタロトは俯き、ぎゅっと唇を引き結んで足元に敷かれた白い石を睨んだ。少しざらついた表面の石は、よく見れば細かな雲母が混じっている。
 遠く離れた西海沿岸での争乱とも、アスタロトの無力さ故の懊悩とも、まるで関わりの無いところにあるその敷石の、輝きを含んだ模様をじっと見つめながら、アスタロトは立ち上がった。








 楕円の卓を囲んでいた者達が次々と席を立ち、王太子ファルシオンを支える事へ賛同の意を示す中、一人、東方公ベルゼビアのみが椅子に座したまま、その口元を薄い笑みで彩った。
「どうかなさいましたか、東方公」
 内政官房副長官ヴェルナーのただす声には、慎重さの中に牽制の響きが含まれている。北方公ベールの淡い金の瞳が四公爵の一角に向けられる。
「何――見た通り、私には異存があるというだけだ」
 闇色をした双眸が、まるで予期していなかった言葉に驚き向けられた幾つもの視線を、傲然と受け止める。地政院副長官ランゲ侯爵は動揺を隠し切れず、賛同に立ち上がっていた腰を半ば落としかけ、止めた。
 執務室内は差し込む陽射しすら温度を失い、驚愕と、おそれ――この状況が何をこの場に――国に、齎すのか、それを窺い、息を詰めている。
 質量を持った視線を浴びながら、未だ席を立たず、ベルゼビアは悠然と口を開いた。
「貴殿等は考えが硬直している面がある、とも言おうか」
 ベールが長衣の裾を揺らし、向かい合う。薄い金の瞳と昏い闇色の瞳が互いを射る。
「では貴殿の考えを聞こう」
 一度ファルシオンへ身体を向け、緩やかに上体を折って一礼する。「ファルシオン殿下、しばしお時間を」
 スランザールがファルシオンの肩に手を置き、ファルシオンは血の気の無い白い頬のまま、頷いた。
 ベルゼビアの口元が更に歪む。スランザールは眉を顰め、その面を見つめた。
「何を笑うのか、東方公」
「笑った――? 老公、私は笑ったように見えましたか」
 低く返す声が不穏さを一層煽る。
「いや、そう、私は笑ったのかもしれませんな。だが真実――」
 ベルゼビアは初めて立ち上がり、ファルシオンへ向き直り最上級の礼を向けた。
「誓って私は、王太子殿下を軽んじる心はございません。その上で私の言をまずお聞きください」
「――わ、かっている」
 ファルシオンが喉から声を押し出す。ベルゼビアは上体を起こした。
「僭越ながら申し上げれば――、このベール、そして老公スランザール、両名の振る舞いはやや、滑稽かと」
 言葉が空気を弾いたようだった。今、国家としての大事を話す場に余りに相応しくないと、誰もがそう思う言葉だ。
「滑稽――東方公、その御発言は」
 苦く咎めるヴェルナーを、ベールが止める。ヴェルナーは上官へ一度視線を置き、再びベルゼビアへと戻したが次は口を開かなかった。
「言葉は悪かろう。だが滑稽と評する理由は二つある」
 今は誰もが、東方公ベルゼビアの真意がどこにあるのか、それを懼れながら黙って展開を見つめている。ただベルゼビアの補佐官でもあるランゲは青ざめた額に脂汗を滲ませ、その心音を表すかのように肩を揺らしていた。
「一つ目の理由――、確かに陛下は今回の御不在時の代理をファルシオン殿下へ託された。そこに異存がある訳ではない」
 やや緊張が薄れかけた所へ、再び言葉が刃となって切り込む。
「だが、果たして陛下はどこまで、このような事態を想定されていたのか――?」
 ベルゼビアの二つの瞳が、昏い色を揺らし卓の前に立つ顔触れを見回す。
「このような国を揺るがす事態を」
 スランザールがファルシオンの隣で身動ぎ、皺に覆われた喉を動かした。微かに口元が震え、けれど言葉を発さないままに引き結ばれる。
「まさか誰も、今回のこのような事態は想定していまい。となれば当然陛下のお考えは、不可侵条約再締結の為に西海に赴く間、そのごく短期間の事を前提としておられたと考えるのが妥当」
 肩に置かれたスランザールの手が束の間強い力を伝え、ファルシオンは瞳を上げてスランザールを見つめた。スランザールの面はいつにも増して白い。
「国を左右するこの非常事態に於いては、体制には再考の余地があろう。北方公、貴殿のみがファルシオン殿下に資するとは限らん」
 敢えてベールを北方公と呼んだ意図をが、この場を覆う陰を更に黒くする。王家を支える四つの公爵家と四人の公爵。大公ベールといえどあくまでその一角であると。
 その陰すら一層の闇で塗り潰そうとするかのように、ベルゼビアは皮肉を隠さない声で続けた。
「そしてまた、貴殿等が王太子殿下を恭しく奉り、意を伺えば伺うほど、私はそれを滑稽と感じるのだ」
「東方公―― !」
 近衛師団副総将ハリスがさっと顔色を変えて卓に両手をつき、その拍子に足が椅子にぶつかり音を立てる。
「この状況だからこそ敢えて言うのだ。ファルシオン殿下は御歳僅か四歳であらせられる。その幼き御方に、斯様な重き御判断を負わせる事こそ、国を支える重職にある者として相応しい行いなのか」
 室内は氷室の中にいるように冷え、ベルゼビアの放つ声はその冷気に触れて凍る。一つ一つが氷の刃となり意識に差し込む。
「恭しく担ぎ上げ、ファルシオン殿下の御判断といいその実は、貴殿等が王太子殿下の威を借りて、権勢をほしいままにしないと、どうして言える」
「御言葉が過ぎましょう、ベルゼビア公爵――」
 ゴドフリーが動揺を帯びた、だが断固とした声で遮る。
「ほう」
 返るベルゼビアの瞳に嘲笑がよぎった。
「私の言葉がどのように過ぎると?」
「お二方の意を、あたかも私欲を以て国政を曲げんとしているかのような仰りようは、御言葉が過ぎると申し上げております。加えて、いかに幼き御身とは言え、王太子殿下の御意志が無きような――それは余りに不敬ではございませんか」
「不敬? 国の大事に、形式に囚われてどうする。それこそが滑稽だと、私は言っているのだ。よもやこのまま、麗しい形式と礼節を重んじて国ごと西海に沈めと」
「東方公!」
 その時、室内に満ちる緊迫した空気を割るように、扉を叩く硬い音が響いた。
「失礼致します!」
 廊下に控えていた近衛師団隊士が扉を開ける。
「只今、近衛師団第一大隊大将が帰還されました」
 ファルシオンが瞳を見開き、腰かけていた椅子を揺らし立ち上がる。スランザールとグランスレイの視線が一瞬、ファルシオンの向こう、執務机の奥にある扉へ走り、戻される。
 室内にいる者達の視線は皆、ベルゼビアも含め、扉へ向けられた。
 開いた扉の向こうにレオアリスが立っていた。
 扉で一礼し、諸侯の揃う楕円の卓の横を抜けてファルシオンの前に進むと、執務机のやや手前で膝をついた。レオアリスに付き執務室に入ったロットバルトは、全体の様子を見渡すように楕円の卓の前で足を止めた。
 ファルシオンの黄金の瞳が見開かれたまま、レオアリスの動作を追った。血で染まっていた正式軍装は通常の軍服に替えられ、あの時の名残は伺わせない。
「只今、帰還致しました・・・・・・・
 左膝を立て、反対の右拳を毛足の長い絨毯の上につき、レオアリスは緩やかな動作で顔を伏せた。
「状況は伺っております。急の任務とは言え、御前を不在にし、大変失礼致しました」
 言葉もややゆっくりと、一言一言を押し出すように綴る。
「――良い」
 ファルシオンは喜びと、不安の混じった面を、何度も振った。レオアリスが目を覚ましたのだという安堵――その反面で湧き上がる不安。
 グランスレイ、ベール、スランザールの視線がロットバルトへ、ほぼ同じ問いを含んで集まる。ロットバルトは一度瞳を伏せた。
 ファルシオンは自分がどんな言葉を拾えばいいのかそれを躊躇い、ややあって口を開いた。
「でも、そなたは……疲れているのではないか。休まねば」
 レオアリスの面は血の気が失せて白い。事実を知っている者からすれば、恐ろしいほどに。抑えたように静かに上下する肩も。
「問題ございません。現状に於いて、御身の守護と争乱への対応が、最も優先すべき事と考えます」
 レオアリスは顔を上げ、ファルシオンを見つめて安心させるように口元に笑みを刷いた。
 けれどそれは、笑ったようには見えなかった。
 その表情がつくられただけだ。
「――」
 トゥレスがファルシオンの執務机の前を離れ、入れ替わるようにレオアリスが立つ。
 先ほどベルゼビアが作り出した不穏な空気は、それとともに薄れた。






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