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王の剣士 七

<第二部>
〜 〜

第一章『暗夜』


 「失礼致します」
 入ってきたグランスレイの姿を見て、スランザールがやや肩を開いた。
「一番に来たのがそなたで良かった」
 その言葉にスランザールの懊悩が端的に表れている。グランスレイは一旦扉の前で膝をつき、それから厳しく張り詰めた面を上げた。「現状は、把握しております」
 グランスレイの瞳は思わしげな色を宿し、執務机の奥にある扉へ向けられた。ただ長くは止まらず、すぐに戻される。
「いつでも動く準備は整っております。何なりと御下命ください」
「第一大隊の動きはおそらく当面無いじゃろう。だがそなたには動いてもらう事は多い、頼むぞ」
 再び扉を叩き訪いが告げられる。
 スランザールは口を閉ざし、グランスレイは立ち上がると、広い執務室に置かれた楕円の卓の、一番末席の手前壁際に立った。
 四半刻を待たない内に、財務院長官代理ゴドフリー侯爵、内政官房副長官ヴェルナー侯爵がそれぞれ補佐官を伴い入室すると、その後すぐに正規軍副将軍タウゼン、参謀長ハイマンス、近衛師団副総将ハリス及び参謀長クーゲル、第三大隊副将ハイマートが次々と訪れ、楕円の卓に着座した。
 椅子が立てる音が収まった頃、遅れて地政院副長官ランケ侯爵が入室し、気後れした様子でゴドフリーの右隣に座る。やや間を空けてトゥレスが彼の副将を伴って戻り、トゥレスは一度スランザールの面を確認してから執務机の近くへ寄り、副将キルトがハイマートの傍に座った。
 卓を囲んだ十三名はその大半が、この急な招集に何事が起こったのかと、硬い面に微かな、だが隠し切れない不安を滲ませていた。何よりファルシオンの傍にレオアリスの姿がない。
 張り詰めた空気の中、グランスレイはまだ壁際に立ったまま、ある席を見つめた。
 用意された椅子の内、空席が一つある。王の執務机に最も近いその空席が、そこだけ浮かび上がるかのように存在を誇示していた。
 東方公――地政院長官が未だ顔を出していない。
 あと二つ、時計の長針が刻めば招集の刻限だ。次第に着座している者達の視線はその空席に集中し、傍に座る者と顔を傾け、執務室内の空気はさざめきを孕んだ。地政院副長官 ランケが落ち着かない様子で視線を落とす。
 その空席は、僅かひと月前にあったばかりの、西方公ルシファーの離反による不在を思わせる。
 カチリ、と針が刻を刻む。
 あと一つ。
 財務院長官代理ゴドフリーと数人が、執務机の前に立つベールの顔を見た。ベールはやや瞳を伏せ――その奥に座るファルシオンは、黄金の大きな瞳をじっと執務机の上に落としている。
 ベールが視線を上げた。
 口を開きかけたベールを遮るように、扉が三度、叩かれると内側へ開かれた。
 東方公ベルゼビアは向けられる視線の中、一度そこにいる全員の顔を眺めると、長身をゆったりと運び、ファルシオンの前で上体を折った。
「遅くなりました――王太子殿下」
 伏せた面を上げ、執務机の向こうに座るファルシオンを見つめる。卓に座る者達は、個々の違いはありながらも、不安定な岩場に座るような居心地の悪さを覚えた。
「貴侯で最後だ。着座されよ」
 ベールは自分の傍の席へと着くよう促し、ただそれだけだと示すように卓を囲む者達を見回した。ベルゼビアが席に着く。
「ファルシオン殿下――、よろしいですか」
 ファルシオンが頷くとベールは一度恭しく頭を垂れた。その敬意の篭った様子に執務室内に漂っていた居心地の悪さがやや、薄らぐ。
「今日、この場にこの顔触れが呼ばれた以上、容易ではない事が起こったと、貴侯等も半ば覚悟していよう。単刀直入に言おう」
 五つの大窓を風が揺らす。室内の淡い光りが束の間移ろった。
「西海は不可侵条約を破棄した」
 切り込む言葉が卓を囲む者達を打つ。ベールが口にした言葉は予期していた以上の――いや、予期していた通りのものだったかもしれないが、聞く者の呼吸を奪うのに充分だった。
「西海は皇都イスに伏兵を置き、条約再締結の儀の最中にこれを用いて妨害した。現在は兵をバージェス前面に展開している」
「何と――」
 ゴドフリーの口から洩れた呟きも、明確な形にならずに曖昧に消える。この執務室内が外界から切り離され、漂う小舟になったかのような印象があった。ヴェルナーが蒼い双眸を細める。
「それは確かなのですか、大公」
「情報はイスよりバージェスへ戻ったアスタロト、一里の控えに入った正規西方軍第七大隊ウィンスター、その両名より上げられた」
 タウゼンは傍の参謀総長ハイマンスと顔を見合わせた。
「アスタロト公――で、では公方は御無事と……」
「イス脱出の際、衛士十数名に重傷者が出ている。ヴァン・グレッグ、セルファンもだ」
「――」
 ほぼ全員が言葉を呑み、信じ難い表情をベールに向けている。
「一里の控えはバージェスに戻ったアスタロトからの要請を受け、バージェスへ出兵し、救出、再び一里の館まで撤退した。地上での戦闘は我々に地の利があると考えられるが、西海は大地を泥地化し、自らに有利な状況を作り上げているようだ」
「――恐れながら、お尋ね致します、大公」
 口を開いたのは近衛師団副総将ハリスだ。ハリスは面を強張らせ、ベールと、その向こうのファルシオンを素早く見た。
「陛下の御身は、御無事なのですか」
 ベールの沈黙が永遠とも思える。だが実際には一呼吸の間程度しかなかった。
「まだ確認が取れていない。アスタロトの情報によれば、陛下は衛士等のみを、バージェスへ戻された」
 驚きの声も失われ、ただ驚愕に見開かれた瞳だけが交わされる。
 その驚愕の中、一人ベルゼビアは傍らからベールへと昏い瞳を向けた。
「本当に知らぬのか」
 偽りがあればそれを炙り出そうとするような響きだった。周囲の者へすら圧力を感じさせるその問いに対し、ベールは表情を崩さず、詰問者の目を見た。
「把握していない。ウィンスターもしくはアスタロトのいずれかからの、新たな情報を待っているところだ」
「なるほど――まずは信じよう」
 ベールは微かに口元に笑みを刷いた。束の間、探るような空気が室内を占める。
「大公――」
 ベールの左隣に座っていたゴドフリーがその場の空気を揺らすのを怖れるように、低い位置に手を挙げる。
「今後、いえ、現時点の対応がどのようになっているか、お伺いしてもよろしいですか」
「一里の控えへは近衛師団第三大隊から半個中隊を送る。加えて飛竜三十騎と、正規軍法術士団より五名。これは既に転位に入った。また、レガージュの転位陣も利用し、更に飛竜を送る手筈を整えている」
「素早い対応だ」
 場を冷やす声が再び投げられる。言葉とは裏腹に、その対応ぶりを賛辞したのではない事は、声の響きが表していた。室内にそれまでと違った、剥き出しの刃を握ろうとするような緊張が忍び入る。
「ところで、近衛師団第一大隊大将と法術院長はどうしたのだ? この有事には何より対応に当たるべき者達だろう。姿が見えないが、既に現場に当たっていると考えて良いのかな」
 その問いはこの場に招集された者のほとんどが抱いていた疑問だっただろう。幾つかの視線が執務室内を改めて見回す。
 自らの上にも問い掛ける視線を感じ、グランスレイは表情を抑え、ベールがどのように答えるのかを待った。
「近衛師団第一大隊大将は、この問題が発生するより前に、急遽西方第七大隊の軍都ボードヴィルへの対応へ出向いている。だがこの状況になり、ボードヴィル手前で足止めを食らっているだろう。すぐに帰還させるつもりだが、法術士の手が足りていない。法術院長はこの件で幾つか大掛かりな術を使わざるを得なかった。今は休養している」
「ボードヴィル? 王太子殿下の御身の守護を任とする剣士が、御傍を離れ、ボードヴィルに何の用あっての事だ」
 ファルシオンは斜め前に立つベールの横顔を見つめた。胸の奥で鼓動が早くなる。
「ボードヴィルは現在、ルシファーの拠点と考えられている。これは西方第七大隊右軍中将エメルからの情報であり、ヒースウッド伯爵を召喚して確認した」
 ざわ、と室内の空気が確かに揺れた。その騒めきを押しのけるように、喉の奥に含まれた笑いが耳を捉える。
「良くも次々と、耳新しい情報が出てくるものだ……私が問わねば口を開く必要は無かったか?」
 ベルゼビアの視線がタウゼンへと向けられる。
「タウゼン副将軍。西方第七大隊がまさか裏切っていたと、抜け抜けとここでそんな報告をするのではあるまいな」
 蒼白に強張った面をこの場に座る一人一人に向け、タウゼンは誓いを立てるように告げた。
「第七大隊は――現在一里の控えにおいてウィンスターが率いる左軍、右軍半数には、裏切りは無いと申し上げます」
「それで答えになっていると?」
 はらはらと卓を見つめていたファルシオンは身を乗り出しかけたが、スランザールの手がそっとその肩を抑えた。見上げた先でスランザールが瞳で制止を告げる。
 タウゼンは席を立ち、その後ろに膝をついた。
「ウィンスターを通じたエメルの情報では、関わっているのはヒースウッド伯、および中軍中将ヒースウッドであり、兵については中軍の内半数程度であろうと――詳細は現在調査中でございます」
「いつそのような事になっていたのか」
「現時点の報告では、ルシファー離反の前から関わりがあったと聞いています」
「西の地はルシファーに元々が関わりがあるとはいえ、管理不行き届きは否めない話ではないか。貴殿も――アスタロトも」
 タウゼンは唇を引き結び、顔を伏せた。
「申し開きもございません」
「少し抑えられよ、東方公。叱責と責任の追及が今すべき事ではない」
 ベールの薄い金の瞳が傍の男の瞳を見つめる。ベルゼビアは傲岸に腕を組み、だがベールの言葉を一応は受け入れた事示し、椅子の背に身を預けた。
「タウゼン副将軍、自席に戻られよ」
 タウゼンは一度深く顔を伏せ、再び席に着いた。
 場は荒れている。それは誰の目から見ても明らかだった。
 ただ、東方公ベルゼビアはこれまでも、こうした場で辛辣な意見を述べる事は少なくなかった。その仲裁の役割を、常にベールが果たしている。
 問題は、今回の矛先が実際にはベールへと向けられている事だ。そこに肌を逆なでるような不穏さがあった。
 今まで揺るぎなかった足元が、ごくゆっくり、辛うじてそれと判るほどに、揺り動くような。
「話した通り、歓迎すべからざる事態は矢継ぎ早に起こり、刻一刻と変化している。我々は一瞬たりとも停滞する事は許されない状況だ」
 太陽が束の間薄い雲に隠れ、再び現れる。室内の明るさもその都度移ろう。歯車が噛む音と共に、壁際に置かれた時計が一つ、その体内で弦を鳴らした。
 西海との不可侵条約再締結の儀が始まってから、既に一刻と半――
「まずは貴侯等の意思を問いたい。この有事においては、陛下が敷かれた現体制を維持しつつ、迅速かつ適切な対応を取る事が求められる」
 ベールの声以外、室内にあるのは時計の歯車が相噛む音だけだ。
「ファルシオン殿下を国王代理としてお支えし、国家として一丸となり西海を含めた危機に対処していかねばならない」
 その言葉に驚いた表情を見せる者はいなかった。王太子ファルシオンはまだ五歳と幼いが、これまで通り、スランザールや大公ベールが補佐する事は変わらない。そもそも王は、自らの不在の代理として王太子ファルシオンを指名した。
 それはこうした不測の事態の為でもある。
 よもや王が、ここまでの事態を想定していたと、そう考える者はほとんどいなかったが。
 まず立ち上がったのは内政官房副長官ヴェルナーだ。その傍の補佐官も立ち上がる。ヴェルナーは厳然と、敬意を込め、執務机の奥へ座るファルシオンへとこうべを垂れた。
「異存ございません。王太子ファルシオン殿下を、陛下と変わらぬ忠誠を以てお支えします」
 続いて財務院長官代理であるゴドフリーと補佐官が立ち上がる。地政院副長官ランゲがおそるおそる腰を上げ、タウゼン、ハイマンス、近衛師団副総将ハリス、参謀長クーゲル、グランスレイ、キルト、ハイマートもまた賛同を示して席を立った。
 その中でただ一人、席を立たない姿はあからさまに目を引いた。
 ヴェルナーがその姿を見つめた。
「どうかなさいましたか、東方公」
 敢えて逸らされていた数名の視線も、その上に向けられる。執務机脇にいたトゥレスも、ファルシオンへ向けていた視線を外し、ベルゼビアを見た。
 ベルゼビアは鷹揚に凭せ掛けていた身を起こし、口元に薄い笑みを浮かべた。
「何、見た通り、私には異存があると言うだけだ」






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