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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』

二十五

 「イスが――」
 アスタロトの呟きを、セルファンが引き取る。
「浮上しているのか……」
 そこに、信じ難い夢を見ているかのような、半ば呆然とした響きが滲む。
 様々な疑問が同時に脳裏に渦巻く。
 何故浮上したのか。
 どのような力を以って、何を目的に。
 何をきっかけに――。
「……伝令使を呼び戻せ!」
 アスタロトは振り返り、叫んだ。
 返答を待っている余裕はない。この事態を、早急に王都へ報せなくては。
 近くにいた兵が敬礼し、館の側にいる伝令兵へと走る。
「アスタロト公!」
 館へと戻りかけたアスタロトを、セルファンの声が呼び止める。その声はこれまでよりも尚、緊迫に満ち硬かった。
 アスタロトは足を止め、半身を戻した。
「海面を!」
 セルファンが示すものはすぐにそれと判った。
 黒雲の隙間から、幾筋かの陽光が落ちている。
 その下の波立つ黒い海面、浮上したイスとの間に横たわる荒れた波間に、チカチカと僅かに注ぐ陽光を弾くものがある。一つではなく、互いに衝突し砕ける波濤に混じり合い、無数に。
 光を弾いているものは波より高い位置にあった。形はまちまちで、大きさも不揃いだ。
 見開いた瞳がその正体を見て取り、アスタロトはゆっくり、息を吐いた。
「西、海軍……」
 光を弾く一つ一つは、冷たい刃の銀だ。
 剣、戟、槍。
 風になびく幾筋もの旗――。
 言葉を失い、呼吸すら忘れて凝視していたその刃の波が、割れて行く。波が割れる重い音がアスタロト達の元まで届いた。
 イスを囲む高い壁の、街門の前から、何かが塊となり隆起し始めた。それは長い舌を伸ばすように次々と、ややうねりながら、このバージェスへと進んで来る。
 隆起しているのは海面だった。
 イスから、バージェスへ。
 緩やかに、確実に、遮るものもなく、伸びる道。
 イスの門が開く。錆びた蝶番の重く軋る音が、決して聞こえるはずの無い耳に届くような気がした。
 門を潜り、背の高い男が一人、姿を現わした。
 西海軍から地響きの如く声が湧き上がる。
 歓声か、鼓舞か。
 自軍を奮い立たせる、鯨波げいはの唸り。


 王


 耳が捉えた響きが冷たい手となって心臓を掴む。
 西海軍が唸り、身を揺する。


 海皇


 我等が王よ――と。
「まさか」
 アスタロトは眩暈を覚えた。
 男の姿は遠間にあり、顔は見えない。
「まさか、そんなこと……!」
 あれが海皇だと言うのか。
 ただ、あの時イスの薄暗い謁見の間で、アスタロト達は最後まで海皇の顔を見ていなかった。
 西海の兵士達の称える声を風が運ぶ。
 アスタロトの瞳の奥に、謁見の間の光景が甦る。
 王と海皇が向かい合い、アヴァロンが王を護って立つ。
 アスタロトの伸ばした手は届かなかった。
 それでも、王なのだ。あの場に残ったのは。
(そんなことは)
 海皇は、枷を解かれたというのか。
 では、王は。
 瞳に映る全てがぐにゃりと歪んだ。
 よろめく身体を支えようと手摺に両手をついたが、石造りのそれが柔らかく崩れ手を飲み込むように思える。
(そんな、ことは)
 男は悠然と、唸る西海軍の中を、隆起する海面が造り出す道を踏み、歩き始めた。
 どぉん、と遠くで低くくぐもった太鼓が鳴る。


 ドォ……ン


 それは西海軍の剣戟の合間から響いた。


 ドォン


 ドォン


 ドォン       ドォン    ドォン

 ドォン


 遠間に霞む男が、その一歩ごとに、横たわる距離を詰めて来るのが、目に見えない手が肌に触れるかのように感じられた。
 言い知れない恐怖が、太鼓の振動と共に足元から這い上がる。
 音に急かされ、鼓動が次第に高まり、内側から身体を揺らす。
 ふいに太鼓の律動が変わった。
 剣と槍の銀の波がざわりと揺らめいたと思うと、何かが一斉に風を叩く音が耳を打つ。
「館へ!」
 セルファンがアスタロトの肩を掴み、館の方へと押しやる。そこにいた近衛師団兵がアスタロトの手を引いた。よろめき駈け出しながら振り返ったアスタロトの瞳が、黒く厚い雲を背景に白い筋となって飛来する無数の点を捉えた。鋭く大気を切り裂く、高い音色。
 矢だ。
「館へ、走ってください!」
「待て、まだ兵が……!」
「間に合いませんッ! 貴方は館へ! 皆退け――、退けッ!」
 セルファンは駆けながらアスタロトをもう一度押しやり、剣を引き抜きまだ茫然と立っている衛士達へと呼ばわると、足元に横たわっていた正規軍の兵士の腕を掴んだ。肩に担ごうとした兵士の胸に、矢が突き立つ。
「セルファン!」
 セルファンが剣を払う。だがそれもイスでの戦いで半ばから折れている。
 驟雨の如き音を立て、矢が降り注ぐ。
 横たわる数名の兵士達の上に、容赦無く矢が飛来する。
 アスタロトは思わず顔を背けた。
「――っ」
 くぐもった苦鳴が上がり、静まった。
「セルファン大将!」
 近衛師団隊士の叫びが耳を打ち、はっとして顔を上げ、アスタロトは一瞬視線を彷徨わせた。直後に定まった視線の先で、肩や腹、腕に複数の矢を受けたセルファンが、辛うじて蹲っている。周囲に払い除けた矢が散り、だがこれ以上剣を振る力は残されていない事が、近寄らずとも見て取れた。
「セルファン!」
「大将っ」
 セルファンは顔を上げ、隊士を見た。
「アスタロト公を、お護りして、退け」
「馬鹿を言うな!」
 駆け寄ろうとしたアスタロトの腕を、傍らの近衛師団隊士が掴まえる。
「アスタロト様」
「離……」
 海が鳴った。
 顔を向け、瞳が捉えたものが始めは理解できず、アスタロトはまじまじとそれを見つめた。
 西海に張り出した広場の縁から、水が這い上がっている。海に流れ落ちる水を逆様に見ているかのようだった。
 奇妙にも、水は広場の縁でぶよぶよとした寒天質の塊となり、数度四方へ全体を揺らすと、持ち上がり――、人の形を取った。
 かつて、西海の三の戟ビュルゲルが用いたものと同じ使隷だ。広場をぐるりと囲み、百体近い使隷が風にそよぐ花のように揺れる。半透明の身体の、胸の高い位置で緑の光が瞬く。
「何だ、あれは」
 使隷は全ての顔をアスタロト達へと向け、喉の無い口を開き、吼えた。
 その唸りと共に四つん這いになると、湿った音を立て前進を始めた。動きは決して早くはないいものの確実に輪を縮め、その背後からも尚次々と、水が這い上がり、塊となり、身を起こす。
「セルファン大将っ」
 近衛師団隊士はアスタロトを横にいた正規軍兵士に託し、剣を抜き放って駆け出した。その剣も隊士自身も先ほどのイスの戦闘で傷付いたままだ。しかし数名が同様に駆けて行く。
 アスタロトは両手を見つめた。
 炎は無い。
 どこにも。
 まるで、これまで炎を生み出していた事が嘘だったかのように。
 一度としてアスタロトのものだった事など無かったかのように。
「どうして」
 何をやっているのだろう。
「アスタロト様! こちらへ!」
 正規兵が瞳を見開き張り詰めた表情で路地を示す。彼の為に退いた方がいいだろうかと、頭の片隅で思った。
「どうか! まずは一里の控えへ」
 もはや使隷は数百体に近く、広場を埋め尽くそうと進んでくる。
 半透明の身体を引き摺り歩く湿った音と重なり、耳の奥に轟く音が聞こえる。石畳から足元に、微かな振動が伝わった。
「……ッ」
 アスタロトは正規兵の手を解き、広場へと踵を返した。
「アスタロト様!」
 細い剣を引き抜く。それも折れていた。
 折れた剣で何ができるのか。
 石畳を鳴らす音が轟く。その音が後方から聞こえている事に気付き、薄膜を隔てたところで湧き起こる戦慄と共に、もはやこの場が全て西方軍に囲まれているのだと思った。
 前面の使隷の群れはまさにセルファンや衛士達を飲み込もうとしている。
 衛士等の剣が数体を切り裂き、だが使隷は倒れる事無く再び起き上がった。
 衛士等の足元が使隷で埋まる。
 這い上がる。
(間に合わない――)
 脚が泥の中を行くようにもどかしく感じた。
 すぐに自分も、あれに呑み込まれる事も。
 背後から轟く音が一際大きくなる。振動が迫る。
 終わりだ。
 全て終わりなのだと、そう思ったのに脚は止まらない。
 会いたいと、思った。
 足がもつれ、石畳に腕を伸ばす。すぐそこに半透明の人型がずるりと這い寄るのが見えた。顔を上げたがセルファン達の姿は見つけられなかった。
 誰も救えない。
 自分は、アスタロトであり続けるべきだった。
 眼を閉じるのは嫌で、アスタロトは迫る人型を見つめた。
 それでも、目の前の使隷が不意に弾けて消えた理由が、すぐには判らなかった。消えた後に槍が一条、石畳に突き刺さり、まだ細かい振動を長い柄に伝えている。
 身体がぐいと持ち上がった。
 視界が周り、館の屋根と空が斜めによぎる。それを背景に、見知った顔があった。
「公! ご無事で!」
「――ワッツ!」
 ワッツは丸太のような腕で易々とアスタロトを抱え上げ、自分の騎馬の前に乗せた。石畳を踏み鳴らす音と共に、二人の横を正規軍の騎馬が次々と駆け抜ける。
 一里の控えの正規軍が到着したのだ。
 ワッツの肩越しに、幾つもの路地から広場に雪崩出てくる騎馬の姿が見える。数十の蹄が使隷の群れを蹴散らして行く。
「こいつらは西海の水人形だ! ただ斬っても拉致があかねぇ、核を狙え! 喉の下あたりに緑の球が見えるだろう!」
 ワッツは大声で指示を下しながら、自らも手綱を繰り使隷の群れの中に踏み入った。「公、暫しご不便を」とアスタロトへ断り、引き抜いた剣を縦横に振るう。剣の切っ先が狂いなく使隷の核を捉え、その都度使隷が身を震わせて霧散する。
「師団の情報通りだな」
 関心したように呟き、ワッツは更に数体を斬った。自らの周囲の使隷を一掃し、ぐるりと太い首を巡らせる。広場の使隷は正規兵の手によってあらかた霧散したものの、海からは未だ途切れなく水の塊が這い上がってくる。
「こりゃあ切りがねぇな。おまけに奥には本隊がいやがる」
 今は使隷が上がってきているだけだが、少し先には西海軍の本隊が広がっている。目視では捉えきれないが、一里の控えから出た西方第七大隊の兵数を軽く上回る数である事は間違いない。
「あれはさすがに簡単にはいかなさそうだぜ」
 ワッツは右手の剣を高く突き上げた。
「負傷者を回収して退け! バージェスを出て本隊と合流する!」
 号令を受け正規兵達は更に使隷の核を砕き、あるいは馬上にセルファン等負傷している者を抱え、素早く撤退を開始した。数名の兵士が館からヴァン・グレッグ等を運び出し、騎馬の上に乗せている。
「ヴァン・グレッグ将軍、及び館に残っていた者も全て救出しました!」
「良し、退け!」
 兵士達の騎馬が向きを変え、先ほど出て来た路地へと戻って行く。広場に残るのはワッツの騎馬と警戒に当たっている数騎のみになった。
「我々も退きましょう」
「ああ……」
 アスタロトは安堵の息を吐きかけ、だがすぐにそれを飲み込んだ。
「ワッツ……」
 ぐ、と自分の腕を掴んだアスタロトの手の力に、ワッツは兵士達から意識を戻してアスタロトを見下ろした。
「あれが来る」
 押し出された声に脅えを感じ取り、ワッツは眉を顰めて指差す先を見た。
 イスから盛り上がった道は、あと僅かでバージェスへ達しようとしていた。
 そこを男が悠然と歩いてくる。もう半分の距離まで近付いていた。
「――何、です、ありゃあ」
 ワッツの声もまた上擦っていた。
 アスタロトは近づいて来る男に瞳を凝らした。
 大気を震わせる太鼓の音。
 西海の兵士達の歓呼。
 瞳に次第に明確な像を結び始めた、男の纏う長衣の、裾。
 イスの謁見の間で、足元から照らしていた淡い光に浮かび上がっていた、長衣の裾――。
「嘘だ……」
「公? あの男は一体」
「――海、皇……」
 自分では、声は音にならなかったと思ったが、ワッツはアスタロトの言葉を繰り返した。
「海皇――?」
 アスタロトがびくりと肩を揺らす。 ワッツの手が触れた肩先が冷たかった。
「王が、イスに残ったのに」
「王? 陛下が、どうされたと」
 ワッツは館を振り返った。今更だが、王の護衛に着いたという報告が入っていない。ワッツの視線は何度となく近付いてくる男へ吸い寄せられ、その都度アスタロトへと意識して戻された。
「公、陛下は」
 アスタロトの耳の奥に、ワッツの声が頭に金属の覆いを被せているかのように、くぐもって響いた。
 アスタロトは肩で大きく呼吸を繰り返した。それでも息が吸えていない気がする。
「陛下はどこにおられるんですか」
 アスタロトは振り払うように叫んだ。
「イスに残ったんだ! 私達だけ、地上に戻して……!」
「イスに? 何故」
 口にしかけた言葉をワッツは飲み込んだ。アスタロトは震えながら身を縮め、両手で頭を抱えている。
「海皇を、抑える為に――なのに、何で……!」
 振るえは次第に大きくなり、ワッツの腕にも伝わる。
「何で海皇があそこにいるんだ! 何で!」
「公っ」
「私のせいだ―― ! 私が何もできなかったから! 私が――!」
「公、落ち着いてください!」
「戻る――戻る戻る、戻る……ッ」
 アスタロトの喉がひゅうッと笛のような音を立て息を吸い込む。過呼吸を起こしかけているのに気づき、ワッツは一瞬の躊躇を押し、アスタロトの首筋に手刀を落とした。
「……っ」
 力を失ってずり落ちかけた身体を抑え、ワッツは顔を上げ近付いて来る男を見据えた。
 ワッツの視線に気付いたかのように、男が足を止めた。まだバージェスに至るにはおよそ百間の距離がある。
 唐突に、ワッツの騎馬が興奮して前脚を振り上げる。ワッツは咄嗟にアスタロトを支え、手綱を引いた。騎馬が二人を乗せたまま足踏みし、馬体で半円を描く。
 海から声が走った。
『良く聞くがいい、アレウスの地よ――!』
 再び騎馬が怯え、跳ねるように斜めに下がった。ワッツが長い首に手を当てる。
「落ち着け――、あと少しだけだ」
 ワッツ自身、これ以上ここに留まるべきではない事も、留まったところで自分にできる事は無い事も、理解していた。
(あれが来たら、今いる兵数じゃ足止めにもならねぇ)
 増強したとしても、だ。
『貴様らの王は今日、死んだ!』
 ワッツは打たれたように顔を上げ、それから息を飲み、アスタロトを見た。
「――王……」
 哄笑が高波のごとく寄せる。
『新たな物語の始まりだ――共に盛大に祝おうではないか!』
 ドォン、と太鼓が鳴る。
 男の傍から、一筋の槍と、同時に何かが放たれた。ワッツ目掛けて弧を描き、飛来する。
 ワッツは空気を分けて迫るそれへ、右手の剣を薙いだ。
 柄を叩き折られた槍が石畳に落ち、同時にワッツの騎馬の足元に光を弾く何かが突き立つ。
 ワッツは石畳を割ったそれを睨み、喉の奥で驚きと、怒りを混ぜ合わせた。
 黄金の刀身の、剣――
 刀身は半ばで折れ失われている。
 ワッツにも見覚えがあった。
 王の御前演武で。
「……アヴァロン閣下」
 ワッツは右手を伸ばして柄を掴み、石畳から折れた剣を引き抜いた。
 奥歯を軋らせ、正面の男を睨む。
(海皇――あれが)
 足元から立ち昇る正体の知れない恐怖が、ワッツの心胆を冷たい手で掴む。
 だが、それを上回る怒りがあった。
 男が両手を広げる。
『さぁ、我が兵よ、虐げられた民達よ、侵攻せよ―― ! 焦がれ続けた大地を喰らい、貪るのだ! かつて失った地を、思う存分その腹に収めるがいい!』
 ざわりと海面が蠢いた。
 ワッツが手綱を引く。騎馬は高らかにいなないて向きを変え、石畳を蹴ると、海を背にして路地へと駆け入った。






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renewal:2015.05.10
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