十九
ルシファーは暫く唇を引き結び、二つの暁の瞳をファルシオンの姿が掻き消えた中空へ向けていた。そうして束の間、胸の奥から苛立ちが込み上げてくるのを、まるで外から眺めるように第三者的に感じていた。
イリヤとファルシオンの邂逅を何らかの力が途中で断ったのだ。
講堂の窓から高い空を見透かす。
「風が途絶えた」
今自分がいる場所が目に見えない何かですっぽりと覆われたような感覚を、ルシファーは感じていた。
自分がボードヴィル一帯に施した結界はまだ生きている。その更に外側――ルシファーの結界を覆う、もう一枚の檻。
(当然、アルジマールでしょうね)
そんな事ができるのは王かアルジマールしかいない。だが王の気配は感じられなかった。一刻ほど前、バルバドスへ入っただろう頃合いから王の気配は絶えている。
イスで何が起こっているか――海皇の思惑どおり動いているのであれば――
その推測が心の奥に揺らした感情を、ルシファーは押しやった。
今の問題は結界だ。ヒースウッド伯爵を王都へ召喚した事からも判るように、王都はルシファーがボードヴィルにいる事に既に気付いている。
今ルシファーが仕掛けたイリヤとファルシオンとの邂逅は王都にとって想定外だったはずだが、アルジマールの結界もこの一瞬で張れるものではないだろう。予め用意していたのだ。
(次は王都が、何かしらの動きを見せる――)
ルシファーの結界を覆ったのなら、その中で。当然、イリヤを取り戻しに動くはずだ。
ルシファーの瞳が広間を埋める千余名の兵士達の上へと落ちる。騒めきが細波となって揺れる中、彼等は夢の中にあるような表情で壇上のイリヤを見つめていた。
困惑と興奮を含んだ騒めきがあちこちに湧き、広い講堂の中が落ち着かない。
ボードヴィル砦城の講堂に集う兵士達の囁きが、冷えた石壁と天井の間を行き来していた。
「どうなってたんだ――お前見たか、今、確かに」
「見た、あれは」
あちこちで立ち昇る抑えた話し声に、ぽつり、ぽつりとファルシオンの名が交じる。
「今のはファルシオン殿下だよな」
「そうだ」
「確かに殿下だった」
「肖像画と同じお姿だった。いや、少し成長されてたが」
ファルシオンは壇上に輝く玉座に座っていた。傍らにいたのは近衛師団の正式軍装を纏った、まだ少年に近いほどの年若い青年だった。
それだけで、誰かは判る。それから、王の相談役でもある王立文書宮長スランザールの姿と。
「ファルシオン殿下だ」
「さっき、殿下は、兄上と仰ったのか」
「俺も聞いた……彼を見て、兄上とお呼びになった」
ファルシオンは驚いたように立ち上がり、それから両手を差し伸べた。顔を喜びに輝かせ、『兄上』と――
騒めきは次第に小さく、静まり返っていく。視線は一点へ、壇上のイリヤへと、集中していく。
「――じゃあやっぱり、ルシファー様の言う通り、彼は」
「あの、シーリィア妃殿下の」
ファルシオン達の姿が消えた空間を茫然と見つめていたイリヤは、母の名に引かれて視線を落とし、そしてぎくりと息を呑んだ。
壇下に居並ぶ兵士達の面が、悉くイリヤへと向けられている。鼓動がどっと鳴った。
「本当に、ファルシオン殿下の兄君なのか」
「確かに、面差しが、似てる」
イリヤは自分へ向けられる兵士達の面を見つめていた。先ほどまで不信の思いに満ちていた彼等の表情が、明らかに変わっている。
驚くほどに。
「生きておいでだったのか……」
「シーリィア妃殿下の御子が」
「妃殿下は、処刑された訳じゃ、無かったのか」
呟きに近いそれらの言葉の中で、一人が投げかけた力強い響きが兵士達の意識を強く捉えた。
「先ほど西方公は、陛下が第二王妃殿下をお救いになったのだと仰った」
ヒースウッドだ。ヒースウッドは姿勢を正し、誇りと威厳を持ってイリヤの前に立ち、兵士達と向き合った。
「この方――ミオスティリヤ殿下こそが、今、我らが守護し奉り、お支えすべきお方だと、私は思う。今、脅威は目の前にある。西海が狙う戦火と混乱だ。それを西海との防衛線である我ら西方第七大隊がまず防ぐ。国土を守り、今現在西海にある陛下の御身の安寧を図るのだ。そしてまた、その為の旗印となられる事を、ミオスティリヤ殿下は覚悟しておられる」
強い信念に裏付けられたヒースウッドの声は、兵士達の中に静かに浸透していく。
「それは苦難の道でもあるだろう。我らはこれまで通った事の無い道を、自らの剣で切り開き進むのだ」
ヒースウッドが一歩、前へ出る。続く言葉がおそらく、もっとも兵士達に響いた。
「もう一つ、私個人の勝手な心情を述べさせてもらいたい――」
ヒースウッドは居並ぶ兵士達一人一人と向かい合うように、ゆっくりと彼等を見渡した。背筋を張りイリヤを背に立つ姿は、揺るぎない信念に満ちている。
「ミオスティリヤ殿下はご自身の置かれたお立場を、生まれながらにして理解し、受け止めて来られた。今回の事が無ければ、おそらくはこうしてお立場を明かされる事は、一生無かっただろう。ファルシオン殿下と――実の弟君とお会いになる事も。ご兄弟の会話を交わされる事も。互いに名を呼び合われる事さえも」
千名もの兵士達が居並ぶ広い講堂は、水を打ったようにしんと静まり返っている。誰もがヒースウッドの言葉に耳を傾けていた。
「これは、私の勝手な望みだ。だがいつか、ミオスティリヤ殿下が、弟君であられるファルシオン殿下と、ご兄弟として呼び合う事が叶う日を、一人の人間として願っている。――私はその為にも、この身を堵したい」
ヒースウッドはイリヤへと向き直り、その場に跪くと、恭しく、王子への敬意を示して顔を伏せた。
「ミオスティリヤ殿下、私は――我らは常に、御身と共にあります」
兵士達は僅かな時間ただヒースウッドの姿に見入っていたが、やがて一人が膝をつくと、周囲もそれに倣い、整然とイリヤの前に膝をついた。
「……違うんだ」
イリヤの微かな呟きを捉え、ヴィルトールがイリヤへ視線を上げる。その瞳を兵士達へと戻した。階下で膝をつきイリヤを見上げる彼等の面には、ヒースウッドと同じ純粋さがある。
(ヒースウッド中将の演説が決め手になったか――。単純だがそれだけに、心を掴む)
自分がどう動くべきか、ヴィルトールは跪く兵士達の姿を視界に収めたまま考えを巡らせた。
兵士達がイリヤを王子として受け入れたのは確かだが、イリヤを掲げる事を完全に受け入れたかと言えば、また違うはずだ。そこに機会はある。
(しかしルシファーはすぐに、それを埋めようとするんだろう。何とか、その前に手を打ちたい)
先ほどのファルシオンとイリヤの邂逅の際、おそらくレオアリスもまたイリヤの姿を目にし、そしてヴィルトールに気付いただろう。何かしらの術を見い出せると、そう思える。
思考を巡らせながら、ヴィルトールは強い眩暈を覚え、僅かに片膝を沈めた。
「――」
つい二刻ほど前に目覚めたばかりでそろそろ体力が限界に来ている。額に汗が滲み、それでいて肌が冷え切っているのが感じられた。これでは十分に動く事は叶いそうにない。
もう一度イリヤへと視線を戻そうとしてルシファーの手が自分の背中を支えているのに気付き、微かに眉を顰め、その手から背中を浮かせた。ルシファーの頬に柔らかな笑みを見る。
(……待つしかない――)
イリヤをここから無事連れ出すには、既に檻に何重にも覆われた状況だ。
王都が、レオアリスが必ず動く。今はその時を待つ他は無いと肚を決め、ヴィルトールは極力疲労を面に出さないよう口元を引き結び、兵士達とイリヤとの間にまっすぐに立った。
「何だ、あれは――」
大河シメノスが遥か下に碧い川面を輝かせ流れて行く。
ボードヴィル砦城を戴き切り立つ岸壁に刻まれた道で、ワッツが偵察に派遣した第七大隊左軍の兵士達は狭い道から首を伸ばし、崖に切り取られた空を見上げた。
それまで輝く雲をなびかせ晴れ渡っていた空に、まるで薄い膜を掛けたように、ゆら、ゆら、と淡い光が揺れている。
「何が起きている」
「法術の、ようですが……」
光は虹のように幾色にも移り変わりながら、空全体を覆っていた。ただ見上げるだけであれば美しい光景だ。しかし彼等にそれは、今いるこのボードヴィルを中心に何事かが起こっている証に見えた。
「スクード少将、あれを」
一人が声を潜めて囁き、上を指差す。指の示す先、ボードヴィルの城壁の上で見張りに立っていた兵士等に何事か声が掛り、幾つかの短い問答ののち姿が見えなくなった。
視線を転じれば、塔屋の兵士も動き出し、石段を下りていく硬い足音が微かに耳に届く。
「見張りが全ていなくなったようです」
「何故だ。砦内に何か問題があったのか――」
侵入するには、今が絶好の機会かもしれない。
スクードは一度振り返り、シメノスへと下る狭い道を見下ろした。先ほど偵察隊本体へ戻した二人の部下は、さすがにもう河岸の森へと消えている。伝令使が使えない以上、今は彼等とも連絡を付ける術はない。
しばらく迷いを滲ませ考えを巡らせていたが、スクードはぐいと顎を引いた。伝令に出した兵がワッツの指示を持って帰るのは、本隊の伝令使が使えたとして、早くても一刻は掛かるだろう。
「砦に潜入しよう。中で何が起きているのか、確かめるんだ」
兵士達が一度お互いの顔を見回し、瞳に浮かんだ意思を確認して動き出した時だ。
ふいに、何かが火の中で爆ぜるような、乾いた音が大気を揺らした。
丸屋根の飾り硝子から音も無く降り注ぐ、鮮やかな色彩を施された陽光と、その光を受けて鏡の如く凪ぎ横たわる水盆。
僅か二刻前に、アスタロト達が初めてこの館に入って目にした時と変わらず美しく、平穏そのものの光景だった。
その中で、ただ王とアヴァロンの姿だけが無い。
明確な意志が形を結ぶ前に、アスタロトは駆け出した。
すぐそこにある、丸い水盆へ。
「王!」
革の軍靴が水を踏み分け、飛沫を上げる。幾つもの雫が陽光を弾き、数千の球面がアスタロトの姿を映す。
「公、何を」
「イスに戻るんだ! 今すぐ! 陛下が、まだ、イスに」
いまだ喪心状態から抜けきれないセルファンや衛士達へと首を巡らせながら、アスタロトは水盆の中央へと浅い水を分け進んだ。
イスに戻って――あの海をどう行けばいいか見当もつかないが、それでもイスへ戻り、王を、護らなくては。
(王を、王都に)
水盆の中央へは簡単に辿り着き、アスタロトは辺りを見回した。
「アスタロト様!」
セルファンが意識の無いヴァン・グレッグの身体を床に横たえ、アスタロトを追って水盆へ踏み入る。その足音に我に返り、動ける衛士達は皆、水盆へと入り二人に駆け寄った。細波が水盆の表面をかき乱す。
彼等を振り返ったアスタロトは、唐突にある事実を突き付けられ、愕然として周囲の様子を見回した。高い位置で括られた黒髪が左右に跳ねる。
心臓から冷たい血が送り出され、身体が凍り付いていく気がする。
「アスタロト様」
一番に近付いたセルファンはアスタロトの様子を見て何かを感じ取ったのか、足を止めた。
「公……、どうなさいました――」
アスタロトの視線を追い、セルファンは自らも顔を足元に向けた。
アスタロト達は水盆に立っている。足首まで水に浸かり、波打つ水面は割れた硝子を散らしたようだ。
飾り硝子が落とす色彩を千に散りばめ、こんな状況にあっても尚美しい。
だが、アスタロト達はただ、水盆の上に立っていた。
水盆の底をいくら見つめても、そこには何の変哲もない大理石の床が覗くのみだ。
つい一刻前、初めてこの水盆を覗き込んだ時、果てなく広がっているように思えた深く輝く青い水は、そこには無かった。
「これは――」
セルファンが絶句する。
戻れないのだ、と、その言葉がアスタロトの脳裏に浮かぶ。
あの場に戻る術が、アスタロト達には無い。この水盆を開く術もアスタロトは持っていない。
「――」
アスタロトは無言で身を返した。水盆から転び出ると雫を床に残しながら玄関広間を横切り、扉を引き開けた。強い陽射しが瞳を刺したが、眉を顰めて追いやり陽射しの中に駈け出す。
自分達が今置かれている状況を明確に理解している訳ではなく、ただ、アスタロトはイスへ、あの謁見の間へ戻る事だけを考えていた。
道を求めて闇雲に動く足が、次第に緩慢に、重くなる。自分では気付かないままに、アスタロトは足を止めていた。
アスタロトは駆け出してきた館を背に、海へと半円状に張り出した広場の中央に立った。正面には広場の縁に設けられた西海と街とを分ける、古い門がある。
その向こうで、青く輝く海原が絶望的に果て無く広がっていた。
遠くくっきりと引かれた水平線の藍色。
追い付いてきたセルファンがアスタロトと同じものを見て立ち尽くす。疲労と、浮かび上がり始めた絶望が、絞り出したセルファンの声を擦れたものにしていた。
「――閣下が……、アヴァロン閣下がお側におられます」
その声は自分自身ですら納得していない事を、自分に無理矢理言い聞かせるようだった。アスタロトの心の奥にも、同じ思いがある。
アスタロトは両手を身体の脇でぐっと握り締めた。
「……何が、あったんだ」
セルファンが答えを返せず、唇を真一文字に引き結ぶ。
「陛下は……何で私達は――何で、今、ここにいるんだ……」
あの時アスタロトは、王へと右手を伸ばした。
それに応えるように王がその手を延べ――、それと共にアスタロト達を包んだ、まばゆい黄金の光。
次に目を開けた時には、このバージェスの館にいた。
あの冥く血に塗れたイスの名残は、どこにも無い。
「西海が、裏切り、不可侵条約再を、……破棄、したのだと」
毒を噛むようなセルファンの言葉は、それでもあの場の全てを表してはいない。セルファン自身もそれは判っている。判っていて、口にするのを恐れている。
アスタロトにも判っている。
あの場所で何が起こったのか。不可侵条約の再締結という今回の目的は、初めから海皇にとっては単に、王をバルバドスへ――あの閉ざされた冥い都へ呼び寄せる口実でしかなかった。
海皇の目的は、再び大戦と同じ戦乱を地上に齎す事だ。
(大戦と同じ? ……違う)
盟約の終焉と、海皇は言った。
(不可侵条約じゃない……その前にあったもの?)
アスタロトは盟約を知らなかった。盟約と呼ばれるものが二国間にあった事さえ、あの場で初めて聞いたのだ。それはセルファンの様子を見ても同じようだった。
だが、王は知っていた。
海皇が何を目的としていたかも、初めから王は知っていたように見えた。
「盟約って、何なの」
アスタロトの呟きに答える者は無く、困惑を含んだ沈黙が返る。
『双方の血により結ばれた盟約は、双方の血により泡沫に帰す』
千年の終焉、と。
あの場で、海皇を縛る目に見えない枷が、一つ一つ外れていくのが判った。
それは純粋な恐怖をアスタロトに覚えさせた。
全ての枷が外れれば、海皇は地上に再び血と怨嗟の混乱と暗黒を齎す。その渇望と歓喜が明白に、アスタロトにも伝わったからだ。
その最後の切っ掛けが。
(王は)
『我等二人を縛っていた盟約は今、終わりを迎える』
『我等も終焉を受け容れるのが当然だろう』
(あの時、王は――)
『だから私はここに来たのだ』
王は。
「知ってたんだ」
どくり、と心臓が鳴る。まるで今まで心臓は止まっていたと言わんばかりに、その脈動は大きく響いた。どんどんと早くなり、身体の中が全て脈動で埋まるようだ。
「アスタロト様?」
「――王都に、知らせなきゃ」
王都に事態を伝えて、法術士を、できればアルジマールを出してもらい、もう一度イスへ――、王のもとへ行くのだ。海皇の思い通りにさせる訳にはいかない。
(でもそれが王の意図だったら)
海皇の狙いを判った上で、王は
(違う、そういう問題じゃない)
目まぐるしい思考の中にレオアリスに、という考えが過り、それと共に氷の破片のような罪の意識が一瞬、アスタロトを捉えた。
王の側にいるはずだったのに。
「公、館に戻って、伝令使を。一里の控えにも伝達します」
アスタロトが頷き館へと踵を返したちょうどその時、大気が激しく振動した。
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