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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』

十四

 バージェスの街の下を抜け、西海の三の鉾レイモアの導きで、アスタロトは王と衛士達と共に海中に延びる光の帯を、海皇の待つ皇都イスへと歩いた。
 天地左右、全てを青に染めて覆う光景が目を奪う。光を受けて揺れる海面が頭上にあり、そこを小魚の群れが銀色に瞬きながら抜けていく。
 青や黄、橙の鮮やかな鱗を持つ大小の魚達、海底には大地の花を敷き詰めたような色彩の珊瑚が見渡す限り広がり、地上とはまるで異なる空間だった。ここが西海の領域内である事も、自分達がここへ来た目的も忘れてしまいそうだ。
(本当に綺麗だ――西海が、こんなに綺麗な所だったなんて)
 先ほどから感嘆させられ続けている光景は、アスタロトが想像していた西海とは掛け離れている。
(ファーが見ていた世界、なんだ……)
 これが。
 彼女の眼差しの先に、常にこの光景があったのだろうか。
 かつてこの世界にいた人と共に。
 束の間青い世界に酔い――だが、その美しい光景は不意に一変した。
 アスタロトが前方に目を向け、珊瑚の色が途切れているなと、そう思いながら何気なくその地点に差し掛かった時だ。
「――っ」
 驚愕が胸を突き上げ、息を詰まらせる。
 足元は急激に、深く、深く落ち込んでいた。
 今までアスタロトが見てきたものに例えるなら、舞台にある奈落――
 いや、それよりも遥かに深い。
 底を見極めようと目を凝らす毎に透明な青は、ゆっくりと闇の色に染まっていく。先は見えなかった。
 足の裏から、痺れるような恐怖が這い上がる。それは一人の意思や力では抑えようのない、本能的な畏れだ。
(どれだけ、深いんだ――)
 光る帯の道は奈落の上を渡っているが頼りなく、とても五十名の重量は支えきれないように思えた。
 それまでのひたすらに美しい、楽園のような景色と、それは全く違う。この世界がただ美しいものでは無いのだと、見惚れていた者達に現実を突き付けてくるようだ。
 ここで生きている生物達の思いを。
(――)
 あの闇に入らなければいけないだろうかと、アスタロトは闇の奥を探った。もし皇都イスが、あの闇の中にあったら。
『アレウス国王陛下、我らが皇都でございます――』
 先頭に立っていたレイモアが振り返り、手にした鉾の切っ先で斜め下を指し示して見せた。
 アスタロトはぎくりとして息を詰めた。
 深く暗い闇に染まる世界の、奥に――
 ゆらりと、黒い巨大な固まりが揺れた。






 ゆらり、と。
 海皇がその身を揺すると、空間そのものが動くように思える。
 途方も無い重量の海水に押し込められたくら奥都城おくつきに、千年もの間――
 血を以って成立した盟約は確実に世界を分け、それ故にその身を永い時、古の海、このバルバドスの深海に縛り続けてきた。
 呪いに等しく。


『盟約は終わる』


 もうあと僅か――身を縛る重い楔は消え、再び、あの混沌に戻る。
 陥穽かんせいによりバルバドスに沈み千の歳月を重ねたが、今や解放は目の前だった。
 身の中におりとなって沈み積み重なった渇望が、もはや抑えようもなく吹き出す時を待つのみだ。
 海皇の意思が海と地上をあまねく覆い、世界は再び混沌の坩堝るつぼの中で混ざり合う。


 やわらかな粘土を形造るように創り変える。
 地上の地図と意識――版図はんとを。
 千年前に成し得なかった王国の樹立。
 欲するのは混沌。
 生物達が恐怖に上げる叫び――強者が弱者を食らい、支配する世界だ。
 その頂点に君臨する。
 愉悦が肺腑を満たしていく。


『まずは解放の祝いに、我が半身の身を喰らい、血肉としよう』


 もう既に弛み始め時を待つだけの身を縛る鎖を、海皇は恍惚とした表情で愛でていた。






 初めは闇のような青のかたまりだった。
 とても大きい――まるで山が一つ、近付いてくるような圧迫感があった。
 そう、近付いて来る。
 アスタロト達は既に足を止めていたが、その塊は次第に視界を一杯に埋めて行く。
 競り上がって来る。
 幸いな事に、イスはあの暗闇に留まる事無く、アスタロト達の立つ澄んだ青い世界へと上がって来ていた。
(あれが、西海の皇都、イス――。あそこに、海皇が)
 やがてイスは、その身を覆っていた冥い海水の幕を薄れさせ、巨大な全景をアスタロト達の前に現わし始めた。
 畏怖と感歎に近い感情と共にじっと見つめていたアスタロトは、ふと違和感を覚え、瞬きをした。
(違和感……違う)
 見た事があるのだ。
(――そうじゃない……)
 次の瞬間、アスタロトは思わず、微かな声を洩らした。
「……そんな……、まさか――」
 自分の見ているものが中々信じられずに、その巨大な都を茫然と見つめる。
 ぐるりと都を囲む高い街壁、正面の門から緩やかに登っていく大通り。都の街並は中央ヘ向って小山のように競り上がり連なっている。重なる建物の甍、煉瓦や石造りの壁、窓。
 その山頂に戴くのは、幾つもの尖塔を巡らせた優美な城だ。
 この街は。
「これは――これは、王都じゃないか……」
 誰かが呟いた言葉を、アスタロトは自分が発したのではと思った。
 それこそ写し取ったように同じだった。
 街の造り、王城の形。規模。
 だが、姿形が同じでありながら彼等の王都、アル・ディ・シウムとは、全く違っていた。
 その原因はすぐに分かった。この都には、まるで生命の気配がないのだ。
 当然、条約再締結の儀を執り行う間――王が地上に戻り一里の控えを出るまで――互いに一里以内には衛士五十名以外は立ち入らない。西海の場合はイスから一里。
 月初めに訪れた西海の使者は、条約再締結の場がイスになると告げた時、イスから衛士五十名以外を遠ざけると明言した。住民の気配が無いのはおかしくはない。
 しかしそうではなく、都そのものに生命の気配が全く感じられなかった。その事はアスタロト達の心に、ざらついた不安を掻き立てた。
 ゆらり、と、目の前に迫るイスの街が揺れる。
 アスタロトは引きそうになる足を咄嗟に留めた。
(何――?)
 アスタロトを後退りさせようとしたのは、イスの街から一瞬感じた、言い様のない感覚だ。
 圧力に近い、身体の芯に伝わるような、不安――畏怖。
(あの奥に、何か……)
 何かがいる。
 この場にいてさえ胃の腑を掴むような、何かが。
 レイモアはゆっくりと近付いてくる高い門を背に、改めて王と一行へ向かい合った。
『ようこそお越しくださいました。我等が皇都、イスへ――海皇が陛下をお待ちでございます』
 一礼して身を起し、レイモアは半身を門へ向けた。
 セルファンが王の意思を確認しようと振り返った時、アスタロトは一歩、前に出た。
「その門を潜る前に一つ、答えてもらおう」
「アスタロト公?」
 厳しい声の響きにセルファンやヴァン・グレッグが、何事かとアスタロトを見つめる。彼等の目には見て取れなかったが、アスタロトの額には薄らとした汗が浮かんでいた。
 レイモアは悠然とした笑みを返した。
『何なりと、地上の炎帝公よ』
 アスタロトの真紅の瞳がレイモアを睨み付ける。
「我々は約定に従い、バージェスより一里の外に兵を置いてきた。しかしイスはアレウスの岸より既に一里近く隔たっている。これでは約定が守られているとは言えず、このまま我等が王にお入り頂く訳にはいかない」
『その事でございますか』
 レイモアはアスタロトの疑念を拭い去ろうというように、手にしていた鉾を消した。そして両手を広げて見せる。
『ご安心ください。イスはアレウス国沿岸にまだ近付きます。条約再締結の儀が始まる頃には、あと半里、バージェスに近付きましょう』
 街は王を招くように閉ざされていた街門を開いて行く。その中から昏い水が流れ出たかに思えた。
 そこに――、この奥に何がいるのか。アスタロトは本当はそれを問いたかった。
 だが、返る答えは判っている。
 そこで彼等を、王を、待つ者。
「陛下」
 アヴァロンが王の双眸を見つめ、それからアスタロトへと視線を向けた。
 アスタロトは息を吐き、顎を上げた。
『こちらへ――』
 レイモアの身体が門の向こうに揺れる。
 レオアリスの顔がアスタロトの脳裏を過る。この先に王を導く事をレオアリスがいたらどう判断するだろうかと、そんな考えが浮かぶ。
 しかし今、ここから引き返す選択は無い。
 足元を漂う昏い海水を踏み、一行は皇都イスの門を潜った。






 ルシファーはしばらく、その暁の瞳を閉じ、緩やかに吹き抜ける風に身を任せていた。
 こうして風を感じる事は、海を揺蕩たゆたうよりもずっと心地よい。それはルシファーにとって彼と共にいたあの時も変わらなかった。海皇や西海の民が地上を欲するのも良く判る。
(戻りたいでしょうね)
 伏せていた瞳を開き、ふわりと白い裾をなびかせ、ルシファーは空の中に立った。
 遥か足元にボードヴィルの砦城が見える。その横を蛇行し、谷底を行く大河シメノス。重なり合うサランセラムの丘陵が、南東へと続いて行く。
 王都がある東の地平へ、暁の瞳を注ぐ。
「ヒースウッド伯爵には、悪いことをしたわね」
 王都で自分の置かれた状況を知り、何度かルシファーに約束した救いを求め、それが果たされない事に愕然としただろう。
「仕方ないのよ、私はもう王城に入れないし」
 王の防御陣をルシファーはもう潜れない。「言って無かったけど」
 スランザールやベールは、捕えたヒースウッド伯爵から少なからず、重要な情報を得る事ができるだろう。
「必要な役割は十分果たしてくれた、感謝するわ」
 ルシファーは瞳を巡らせ、次に西に広がる海原を見つめた。
 王とアスタロト達は、もうイスに到着する頃だ。
 古き海をさ迷う西海の皇都、イス。長い歴史の中で、アレウス国沿岸に近付いたのはこれが初めてだ。
「あの都を見て、あの子もさぞ驚いたことでしょうね」
 海皇の未練――飽くなき執着、その具現だ。
 地上への。
 自らが手にし得なかった繁栄への。
「どうせ海皇の統治では、全て喰らってしまうのだから同じものになりはしないのに」
 あの海を地上に再現するだけでしかない。
「それともそれが望みかしら」
 強者が弱者を喰らい、恐怖によって押し潰す。


『この国も、もっと変われるはずなんだ。それを望む者は大勢いる。常に怯えて暮らさなくてはいけない世界を、僕は変えて行きたい』


 彼が諍いに巻き込まれて死んだ事で、二つの国は大戦に突き進んだ。
「殺させたのは父親だったけれど」
 自分と異なる思想を持つ後継者は不要だったのだ。
 いや、海皇には後継者そのものが不要だっただろう。
 海皇は大戦のきっかけを欲していた。
 ルシファーは王に、アレウス国は皇太子を殺害したのが海皇である事を明らかにし、この大戦に於ける西海の作為を糾弾した上で、西海を併合するよう進言した。
 それは彼の理想を具現化する事でもあった。


 だが、王はルシファーの進言を容れなかった。
 その後のルシファーの動きも咎めなかった。



「でももう貴方も見過ごしようが無い」
 盟約がその役割を終えれば、海皇は望みを達成しようとする。
 千年もの間身の内に溜め込んだ怨嗟の解放、そうなれば先の大戦を遥かに凌ぐ混沌が地上に流れ込む。
「動かざるを得ない」
 だからファルシオンを王都に遺し、その身辺と地位を整え諸侯に示した。この先の混乱を最小限に抑える為だ。
「それでも貴方は私のする事を意に介さないのね」
 ルシファーはイリヤという駒を使って、王が整えた体制を崩すつもりだった。その意図は王には見えているだろう。
 それは些細な事か。
 後悔しないと思うのなら、傲慢ではないか。
 それが耐えがたく、もはや充分だった。
 ルシファーはバージェスに背を向け、吹き渡る風に謳うように告げた。
「さあ、そろそろ始めましょう」






 ヒースウッドはイリヤの部屋の扉を開け、跪いた。
 顔を上げ、部屋の中央に立つイリヤの姿を認め、打ち震える。
「おお……!」
 女官達によって身支度を済ませたイリヤは、それまでの不安を感じさせる印象を拭い、威厳さえ纏っている。
 銀の髪と、右の金の瞳。
 ボードヴィル城内の大広間に掲げられた王の絵姿に、確かに似ていた。そしてその傍らに近衛師団の将校が立つ様は、あたかもここを王城の一室に見せていた。
「ミオスティリヤ殿下――」
 自然とその名が口を突く。ヒースウッドは胸の内に湧きあがる光景に感極まっていた。
 もし、あの悲劇が無ければこの王子は、この姿を宮廷に置いていたのだ。
 その様子がヒースウッドには容易く想像できる。
 自分がこの王子に仕え、支えて行くのだと、胸を突く熱い想いが込み上げる。幼い頃、第二王妃の悲劇に触れて義憤に駆られた、その想いが甦った。
 ヒースウッドは声を震わせ、面を伏せた。
「参りましょう、ミオスティリヤ殿下――貴方の兵士達がお待ちしております!」






「トゥレス大将、参られました」
 謁見の間の扉が開き、警備の近衛師団隊士が来訪者の名を告げる。レオアリスは四角く切り取られた光の中に立つトゥレスの姿を見た。
 トゥレスの視線が真っ直ぐ正面の玉座に座るファルシオンに向けられる。トゥレスは入口で一礼を捧げてから、深緑の絨毯をきざはしへと歩き出した。
(トゥレス――)
 この選択は正しいか。
 レオアリスがボードヴィルに対応し王都を不在にする間、ファルシオンの警護をするとしたらやはり、大将であるトゥレス以外に無い。
 しかしロットバルトが提示した推測は、まだどちらとも判断しきれないままだ。ヘルムフリートに何らかの思惑があるとして、その意図がどのようなものか、もしトゥレスがヘルムフリートと関わっているとしたら問題がどこまで及ぶのか、それも判断できる情報は無い。
 今の推測だけの段階で、取り沙汰せるような話ではなかった。
(違う――俺が迷ってるからだ)
 トゥレスが歩く深緑の絨毯から一歩引いた位置にロットバルトが立っている。ロットバルトは既に、レオアリスに疑義と推測――可能性を提示していた。その後の判断は大将であるレオアリスの責任だ。
 ロットバルトの前をトゥレスが通り過ぎる。
(――)
 トゥレスと目が合うと、トゥレスは軽く口の端を上げて寄越した。
 そこに普段と何も変わった様子は感じられない。レオアリスの中にある葛藤など、想像すらしなさそうだ。
 トゥレスは玉座のきざはしの手前に至り、背中に纏った長布を揺らし、膝をついた。
「第二大隊トゥレス、御召命によりただ今参上致しました」
「よく来てくれた。そなたに任務がある」
 まずファルシオンが労うと、傍らのスランザールがトゥレスを見下ろした。
「現状の説明はわしからしよう」
 前置きは無く、スランザールはただ一言、ルシファーがボードヴィルにいると、そう告げた。
「ルシファーが、ボードヴィルに――」
 トゥレスが驚いた顔を上げる。「西方第七大隊の、あのボードヴィルですか。まさか、正規軍が関わっていると?」
「その情報がある」
 トゥレスは膝をついたまま双眸を細めた。
「ボードヴィルの西方第七大隊を掌握し、兵を起すのがルシファーの狙いじゃろう」
 レオアリスは視線だけをスランザールへ向けた。
「陛下がご不在の今、ルシファーにとっては好機のはず。事を起すとすれば、条約再締結の儀が行われている間が最も可能性が高い」
「情報は信頼できるのですか」
「一里の控えのウィンスターが上げてきた。信頼に足る」
「という事は内部告発だと」
「そうじゃ。――ボードヴィルへはレオアリスを送り、ルシファーを捕縛する。アルジマールがその為の手筈を整えているところじゃ。再締結の儀に間に合うかは五分――いや、少々我々の手が遅れような」
 今は十一刻の半ばを過ぎたところ――アルジマールの法術は、早くてもあと半刻弱を要する計算だった。
「トゥレス、レオアリスが王都を空ける間、ファルシオン殿下の守護はそなたの任務となる」
「承知しました」
 トゥレスが頭を下げる。スランザールは玉座の後方にいたレオアリスへ顔を巡らせた。
「レオアリス。そなたからトゥレスに伝えておく事はあるか」
 レオアリスは白い眉の奥に覗く二つの瞳を見た。そこにはレオアリスの意思を探るような色があるようにも思える。
 レオアリス自身が今、心に抱えているものがあるからこそ、そう感じるのかも知れないが――
 スランザールはイリヤについて、触れていない。
 イリヤの存在があくまで秘すべきものだからか、それとも先ほどスランザールがトゥレスにファルシオンの警護を任せると告げた時に見せたレオアリスの躊躇いに、スランザールが何らかの疑問を持ったからか。
(判らない。でも今できる事はごく僅かだ)
 レオアリスはその場で姿勢を改めた。
「ファルシオン殿下、老公、トゥレス大将と、少し話をさせて頂いてよろしいですか」
「構わない」
 ファルシオンが頷く。スランザールはレオアリスの瞳を見つめてから、トゥレスへ頷いて見せた。
「殿下、暫く失礼を致します」
 ファルシオンへ礼を捧げ、レオアリスは玉座の置かれている高座の裏手にある階段を降りた。トゥレスに歩み寄る前に、一度ロットバルトへ視線を向ける。返った蒼い眼差しには、レオアリスの意図を察した上で、やや懸念があるようにも思える。
 レオアリスはトゥレスの前まで歩き、謁見の間の、柱の奥を示した。
「トゥレス、来てくれ」
「ここでは済まない話か」
「殿下にお聞かせする事じゃない。ただ、お前には話しておきたいんだ。すぐ終わる」
「――何だろうな」
 トゥレスは口の端で笑い、それからレオアリスと共に歩き出した。






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