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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』

十三

「こちらへどうぞ。お呼びするまでこの部屋でお待ちください」
 ヒースウッド伯爵が通されたのは、王城南棟三階の奥まった場所にある一室だった。王城まで付き従って来た十名の侍従達は先ほど別室へと案内され、一人だけだ。
 部屋を見回し、ヒースウッド伯爵は眉を潜めた。
 窓が一つも無い。
 たった今入って来たばかりの扉は重い青銅だ。長椅子と卓、衝立ての向こうに扉の無い間口があり、奥に寝台らしき脚が見えた。
 通されるのは謁見の間の前室だと思っていたが、全く違う。王都までの道中抑えていた鼓動が、一気に膨れ上がった。
「これは、どういう」
 案内の兵士を振り返る。
「緊急のお呼びだったはず、すぐに王太子殿下に謁見いただけるものと」
「ここでしばらくお待ちいただくようにと、私はそれを指示されているだけですので」
 そう言うと、兵士は敬礼を向け、ヒースウッド伯爵が止める間もなく扉を閉ざしてしまった。
 ヒースウッド伯爵は兵士を追いかけ扉に手を掛けた。手の中でがちりと金具の噛む無慈悲な音が鳴る。その音が不安に拍車を掛けた。
「何だこれは――おい、何故鍵を掛ける?!」
 声を張り上げたが扉の向こうから返る言葉は無い。把手の下の鍵穴を見ると、鍵を差し込む所はただの飾りだ。
「開けろ!」
「お静かに」
 兵士は扉の傍に立っているのか、扉のすぐ近くから声がした。不安が怒りを後押しし、扉を力任せに叩く。
「伯爵たる私に対して、このような無礼な扱い、何の故あって――」
 しかし口にしかけた言葉の残りを失って、ヒースウッド伯爵はそこにあった椅子にどさりと身体を落とした。王城が何を疑って自分を呼び出したのか、それこそを、王都への道中ずっと恐れていたのだ。
 改めて室内を見回す。窓もなく、家具は長椅子と卓、壁際に一つある両扉の衣装入れのみ、天井が高く閑散としている。
 これは牢屋と同じだ。
 入れられた場所が牢では無いに過ぎない。
 ヒースウッド伯爵は噛み締めた歯の間から呻くような息を吐き出した。
(まさか、やはり王城は、全て知っているのか)
 そうとしか考えられない。でなければ伯爵という地位の人間を、こんな部屋に閉じ込める事はしないだろう。
 椅子に腰かけたまま、膝に肘をついて頭を抱える。右膝が小刻みに上下を繰り返しているのに気付き、片手でぐっと抑えた。それでも止まらない。
(何という事だ――)
 昨夜まで――今朝まで、まさかこんな事態に陥るとは思っていなかった。
 まだほとんど何の動きも起こしていない状況であり、王都は気付いていないだろうと思っていた。
(いや、まだ、我々の意図を説明すれば回復の余地はあるはずだ)
 ルシファーはそう言っていた。ファルシオンと直接話す事が出来れば、理解を得られる貴重な機会でもあると。
 だから来たのだ。

 意図。

 あの『意図』を、説明?
 既に疑われているというのに。
 闇雲に扉を叩きたくなる気持ちを何とか宥め、そのまましばらく待ったが、半刻過ぎても呼びに来る気配は無い。
 右足はずっと苛立ちと不安を刻み続けている。希望的観測は根拠を弱め、最悪の想定ばかりが大きくなって、ヒースウッド伯爵の意識を苛んでいた。
 ルシファーと結託して『第一王位継承者』を掲げようとしていたと判れば、おそらくヒースウッド伯爵家は爵位を召し上げられ、断絶する。
「断絶――おお……」
 噛みしめた歯の奥から苦悩の呻きが洩れた。
 それはもはや確定しているように思える。
(私は、何を根拠に未来を見ていたのだ)
 改めて考えれば、ほとんど成功の保証など無かった事が判る。
 上手く行くと思えたのは、あの土地が王都から遠く離れていたからか。
 西海に近く、だがその脅威は今は無く、西海と対峙しているという矜持があった。
 そしてルシファーという存在と、第二王妃の遺児、『正統な』第一王位継承者。
 そのどれも、今この無機質な一室の中で身を縮めている男からは、遠い。
 こんな事なら王都に来るのではなかったと、強い後悔が湧き上がった。理由を付けて召喚を何とか逃れていれば、もう条約再締結の儀は始まったのだ。
 始まってしまえば、ヒースウッド達の行為は陽の目を見るはずだった。
(何故ルシファー様は、行けと仰ったのだ)
 その判断は間違っていた。
 この先自分を待っているのは、謀反という罪状の下の、死――
 ヒースウッド伯爵は堪らず顔を上げた。
「ルシファー様」
 これはもう、意図を説明する余地などない。
 ルシファーは呼べば来ると言っていた。取り敢えず、急いで王都を脱出しなくてはいけない。
「ボードヴィルに戻って、すぐに動く準備を整える――ルシファー様」
 事態が動き出してしまえば、ヒースウッド家の立場は大きく変わる。そのはずだ。

 そうだろうか?

 自分が画策していたあれは、国家の為と言いながら、ただの。
 ヒースウッド伯爵は乾いた喉を鳴らした。
 ただの、叛旗の画策だ。
 ルシファーも、あの美しい面で微笑みながら、それをさも輝かしいことのように見せていた。

 ヒースウッド伯爵は焦りを募らせ部屋中を見回した。
「ルシファー様!」
 期待した返事は返らない。眩暈がした。
 あるのは破裂しそうな自身の鼓動の音だけ、そのしんと静まり返った部屋の中に、がちりと金属が噛む音がした。
 扉が開く。
「ルシファー様」
 膨れ上がった期待に押されて振り返り、ヒースウッド伯爵は凍り付いた。
「誰を呼んでいるのかね?」
 白く長い髭をたくわえた小柄な老人が入口に立っている。スランザールだ。その後ろに正規軍副将軍タウゼンと、ヒースウッド伯爵は顔を知らなかったがグランスレイがいた。
「ス、スランザール公」
 ヒースウッド伯爵は足元に急激に下がる血を追うように、よろめき膝をついた。
「――」
 咄嗟に言葉が出ず、ぱくぱくと口を動かす。
「わ、私は」
「ヒースウッド伯。此度何故呼ばれたか、おそらく理解はできていよう」
「いえ、」
「離反したルシファー、そなたのもとにいるのだろう」
 肩を跳ねさせ、半笑いの顔を上げる。
「ル――め、滅相も無い―― ! 私には何を仰られているのか、皆目」
「無駄な問答をするつもりは、もう無いのじゃ」
 スランザールはしわ枯れた声で、容赦なく――そして憐れみを含んで告げた。
「そなたの到着する少し前に、一里の控えに出たウィンスターより報告があった。中将エメルがルシファーとボードヴィルの企みを密告したという事じゃ」
「――エメル」
 これ以上青ざめようが無いと思われるほど血の気の引いていたヒースウッド伯爵の面が、更に紙のように白くなった。
「既に一里の控えから二班二十名、ボードヴィルへ偵察に向けるよう指示した。貴侯にはしばらく王都に留まってもらう。領地は暫時、直轄地となろうな」



「ルシファーの企みは、これで未然に防げたと考えてよろしいでしょうか」
 タウゼンは今出てきた扉を振り返り、スランザールへそう問い掛けた。扉の脇には二名、槍を手にした正規兵が見張りに立っている。ウィンスターからの報告次第で、ヒースウッド伯爵の身柄は今日中にも、国の重犯罪者を投獄する赤の塔に移す事になる。
「そうなろう。おそらくはルシファーも急拵えの企てだったはず、遅からず、ふとした処からほつれる状態だったのだ」
 太陽が高く上がり差し込む陽射しの薄れてきた廊下を、スランザールは足早に歩いていく。
「とは言えまずは、ハインツ夫妻を無事取り戻さねば事は終わらぬ。企ては崩れてもルシファー自身が厄介じゃ、アルジマールに結界の完成を急がせねばな」



 ヒースウッド伯爵とその領地への対応について、スランザールがファルシオンへ報告する内容を聞きながら、レオアリスは視線を遠くの窓に投げた。細長く切り取られた白い空が見える。
 スランザールの言うとおり、後はアルジマールの結界が完成し、レオアリスがイリヤ達をルシファーの手から救い出せば、この問題は押えられる。
 今回、動き出せば国内に相当の混乱を生じさせただろう問題を、未然に防ぐ事ができた。
 下ろした右手を握り締める。
(まだだ)
 イリヤ達の救出はこれからだ。
 そして、渾然とした正体のない感覚が胸の奥にわだかまり、消えてはいない。
 ルシファーの行動は読み難い。そもそもあの力そのものが脅威である事に変わりはなく、イリヤを助け出すまで安心はできない。
(できればルシファーも、この手で捕える)
 もう時間は十一刻に近い。西の水都バージェスでは、王とアスタロト達が西海へ入る頃だ。
 十二刻に行われる不可侵条約再締結の儀式まで、あと一刻。
 アルジマールが法術を完成させるのは、その時刻をやや過ぎるだろう。
(法術が少しでも早く完成してくれれば)
 とにかく早く、動きたかった。






 衛士達が長い儀杖を立てる。
 一度石突きで床を突き、斜めに掲げて互いの儀杖の先を交差させた。木の打ち合う余韻を引きながら、左右二十三名づつ交差した儀杖が、水盆から大階段へと、真っ直ぐに道を作る。
 大階段から降りて来た王が最後の段を踏むと、儀杖は引き波の音を立てて戻され、衛士達の足元を再び突いた。それと共に衛士達が踵を打ち鳴らす。
 幾重にも重なった音が玄関広間を圧する。
 王は衛士達が作った道を挟んで渦巻く水盆と正面から向かい合い、立っていた。
 緊張に張り詰めた空気の中、水盆の中央がゆっくりと立ち上がり始める。天井の硝子画の色彩を砕き、水の固まりは様々に光を移ろわせた。
 気付くと――目を逸らしたつもりなど無いにも関わらず、気付くと、不確かだった固まりは人の形を成していた。アスタロト達と変わらぬ背丈、出で立ち。足元まで覆い隠す長衣は、しかしまるで渦の影響を受ける様子が無い。
 ややぎこちなく、しかし整えられた所作で一礼する。
『お迎えに上がりました、アレウス国王陛下。ご尊顔を拝す栄誉を賜り、恐悦に存じます。私は西海が三の戟の第二序列、レイモアと申します』
 三の戟第二序列――
 衛士達やセルファン、ヴァン・グレッグも、一層の緊張に包まれた。
 アスタロトは水盆の中央に立つぬらりと白い面を見つめた。濡れた青白い肌とやや突き出した丸い両眼。その面が確かに、異界の住人なのだと物語っている。
 三の戟レイモア。
(初めて聞く――ヴェパールってヤツの後任か)
 迎えでそれほどの高位が来るとはと思う反面、第二序列で良かったという考えも脳裏にちらりと浮かぶ。最近できた穴を埋めた者と長い間第二序列にいた者とでは、やはり能力に差があるだろう。
(ナジャルじゃなくて良かった)
 レオアリスがラクサ丘でルシファーと対峙した時、海中に感じたという強く異様な気配。レオアリスはそれをナジャルだろうと言っていた。
(迎えがナジャルだったって今回、目的は条約再締結なんだから問題があるわけじゃないけど――)
 あのレオアリスがナジャルを警戒していたのだから、やはり王に近付けるのは避けたい。
 三の戟レイモアの丸い眼がアスタロトの上にぎょろりと据えられ、すぐに王へと戻された。
『時は満ちております。潮の流れは皇都イスへと御身を容易く導くでしょう。我が先導をお受けくださいますよう』
「有り難く受けよう」
 王がいらえると、レイモアは再び一礼し、現れた時を逆に辿るように、渦巻き始めた水盆へ沈んで行く。
「私が」
 アスタロトが踏み出そうとするのを止め、セルファンが先に前に進み出た。
「まずは私が参ります。公、貴方は陛下のお近くに」
 一瞬の逡巡をアスタロトは打ち消した。「頼む」
 セルファンが水盆の縁に足を掛ける。躊躇はほんの僅かでしかなく、セルファンはそのまま渦巻く水面みなもに足を乗せた。隊士が三名、後に続く。
 渦巻く水は少しも足を取る事無く、セルファン達は床の上を歩くのと変わらず水盆を歩き、中央へ向かった。
 そこに上半身だけ出してレイモアが待っていたが、セルファン達へにたりと笑い、再び沈み始めた。
 中央へ辿り着いたセルファンと三名の隊士達の身体が、間を置かず同じように沈んで行く。束の間衛士達の間に微かな動揺が沸いた。それを断ち切り、続けてヴァン・グレッグと兵士等が水盆を進む。
 衛士達は既に落ち着きを取り戻し、次々に水盆へと上がり、整然と西海への門を抜けて行く。
「アスタロト、そなたが殿しんがりを務めよ」
 王はそう告げると、水盆へ身を上げた。アヴァロンを従え、ゆったりとした足取りで中央へと向かう。
 アスタロトは最後の衛士が続いたのを確認し、自らも水盆を歩いた。
「――」
 足元に渦の感覚がある。激しく渦巻き地が響くような振動を伝えるそれは、紛れもなく水――大量の海水だ。平地と変わらず歩けているのが不思議だった。
 視線を上げた先で王とアヴァロンが渦の中央に沈む。アスタロトは足を速めた。
 やがて自分の身体も、深い青い渦の中に沈み始める。想像していたような不自由さは無く、ただ視界だけが順々に変化した。
 色鮮やかな陽光の降り注ぐ玄関広間の壁、大理石の床から、泡立つ白い波。
 そして――
 一切が青い、どこまでも見透せるような、澄んだ世界へ。
「すご、い……」
 思わず感歎が洩れる。
 そこに広がっていたのは、余りに美しい世界だった。
 上から幾筋もの光が差し込んでいる。見上げればそれは今までいた屋敷の、天井画から落ちるあの光だ。丸く開いた水盆の形が太陽そのもののように、硝子絵の色彩を帯びた陽光を降り注いでいる。
 そして前方を染める別の白い陽光――それらが混じり合い、ゆら、ゆら、と青い世界を揺らめかせていた。
 光の加減か場所によって色を濃くし、自分から遠く離れるほど、深い、深い青になる。
 溜息を落し、それによって自分が海中に立っている事を、今更ながらに自覚する。呼吸もまるで苦にならず、水中とはこんなにも容易に存在できるものなのだと、疑いもなく錯覚しそうだ。
 おそらくここには、両国を行き来する為の仕掛けがあるのだろう。
(ずっと保たれてたのか)
 保っていたのだ。誰かが。
 海皇か、それとも王か。
 アスタロトの前に王が立ち、その後ろ姿が見える。その横のアヴァロンと目が合い、アスタロトは自分の役割を思い出した。
「隊列を整えろ」
(声、出せる)
 一つ一つが驚きを生む。
 アスタロトの指示に、同様に海中に見入っていた衛士達は、王の周囲に整然と並んだ。
 前方にやや離れて立っていたレイモアは、王へと一礼した。その動作は先ほど水盆の上に身を出した時よりも滑らかだ。
 そして少し、身体が大きくなったように見えた。
(警戒を解くな)
 美しい世界に見惚れては、思わぬ危険が潜んでいないとも限らない。
『ご案内致します。海中ゆえ騎馬などご用意致しかねますが、何、そう歩かせは致しません』
 レイモアの足元に小さな光る円が現われ、そこから三股の戟が伸びてくる。アスタロトは咄嗟に神経を研ぎ澄ませたが、レイモアは平然と戟の柄を掴み、ぐるりと一回転させて石突きで足元を突いた。
 レイモアが突いた場所から、海中の色がやや薄く輝き、真っ直ぐ、前方に差し込む光の方へと帯を転がすように伸びていく。
(道――)
 アスタロト達が歩く為の道だ。先は青い水の奥に霞んでいる。
 レイモアは三叉鉾の切っ先を、すい、と霞む前方へ向けた。
『我らが皇都、イスはすぐそこまで来ております』
 王を取り巻く五十名の衛士達が、イスの名を聞いて緊張を張り廻らせる。アスタロトは光の帯の伸びた先を見据えた。
『こちらへ――』
 レイモアは身を返し、水の抵抗を一切感じさせない動きで、滑るように進んで行く。
「――参りましょう」
 アスタロトの言葉をきっかけに、先頭にいたセルファンが光の帯の道を踏み出す。それと共に隊列が動き始めた。
 青く揺らめく世界を、一行は粛然と進む。前方にレイモアの持つ三叉鉾の先が、微かな緑色の光を帯び、レイモアが歩を進めるごとにその頭の向こうに見え隠れする。
 それまでの静謐な青い世界から、ふいに目に痛いほど鮮やかな輝く青が周囲に広がり、アスタロトは『空』を振り仰いだ。
 眩しさに瞳を細める。
 陽光を受けて揺れる『空』――水面が、頭上いっぱいに広がっていた。
 バージェスの街を出たのだと判った。






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