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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第五章『落日』

十一

 街を巡る水路には、路地と交わるごとに、ゆるやかな弧を描く石造りの優美な橋が掛かっている。橋にはどれも一つずつ異なる手の込んだ意匠が施され、この街に暮らしていた人々の愛着が伝わってくるように思えた。
 広い表通り、その左右の幾つもの細い路地の石畳は、視線の先で他の路地と交わり、または建物の角の向こうに消える。
 瓦屋根に煙突のある三階建ての住居が、通りの両側を整然と埋めている。並んだ店の硝子窓から見える商品の飾り棚は空だが、表に掲げられた看板の洒落た細工が、かつてここで売られていた品々の記憶を残していた。
 風雨を受け、ところどころ白い漆喰の下地が覗く壁。
 橋を渡る際に視線を落とすと、細い水路を満たす水は透明で陽射しを通し、底や水路の壁には、揺れる緑の水草や張りついた貝が見えた。
(水草じゃなくて、海藻って言うんだっけ)
 アスタロトは硝子に閉じ込めたようなその綺麗な緑をじっと見つめた。小さな橋は騎馬の数歩で通り過ぎる。
(海に繋がってるんだ、水路)
 いや、もうそこが海だ。
 街の中に入ってしまうと海は見えなくなったが、街を包む空気には王都とは違う、独特な薫りがある。
 水都バージェスは、美しい街だった。
 そしてひっそりと、静寂に満ち、生命の気配の感じられ無い街だった。
 大戦終了後、三百年――
 大戦前は交易によって栄え、商隊の荷馬車の列や訪れる人々が引きも切らない華やかな街だったが、今、生者が踏み込むのは五十年毎に行われる、不可侵条約再締結の儀の折だけだ。
 それでも街が寂れて感じないのは不思議だった。例えば海藻が揺れる水路のように、人の手が入らず時を経た様子はあるが、廃れている印象は無かった。
 時が少しだけ、訪れるのを後回しにしたような。
 アスタロトは着いたばかりのこの街を、とても好きだと、そう思った。
(また人が住んで、賑やかになればいいのにな)
 ルシファーはこの街の賑やかさを知っているんだ、とそんな思いが浮かぶ。
 彼女は、どんな眼差しで見ていたのだろう。
 西海との、玄関口でもあったこの街を。
 先導の兵士が予め確認していた地図通り、街を抜けていく。やがて王の一行は、海を見渡す広場に出た。
「うわぁ」
 アスタロトは瞳を丸くし、小さく呟いた。兵士達からも思わず声が漏れる。
 広場の前面は全て、青く輝く海が広がっていた。
 左右を見ても見えるのはまず、海だ。
 バージェスは水都の名に相応しく、街の三分の一が海に張り出して造られていた。
 その美しい輝きは、西海が――すぐそこに広がる海が、爪先を浸す事すら恐れられる場所とは、到底思えない。
 アスタロトは束の間瞳を注ぎ、それから振り返り馬を降りた。セルファンやヴァン・グレッグ、アヴァロン、そして兵士達が続いて馬を降りる。
 アスタロトは王の騎馬へ一礼した。
「少々お待ちください、陛下。まずは屋敷の中を確認いたします。街の確認も、もう終わるかと――特に不穏な気配はありませんが」
 一旦、周囲の街並へ顔を向け、そう告げた。五名毎に二班、街の内部に展開し確認を行っているが、アスタロトに感じる気配は何も無く、すぐ戻るだろう。
 王が滞在する館は、この広場の中央にあった。
 再締結の儀がアレウス国側で行われる時は、この館がその式場となる。
 今回は西海の使者が訪れるまでの僅かな間、この館で待つ事になっていた。
 館の正面、広場岸壁の部分に、天井部の石を弓なりに組んだ、重厚な青銅の扉を備えた門がある。門の左右に壁などはなく、ただ門だけが一つ、海と街を切り分けるように建っている。
 使者を迎える為の門だ。
 ただし、これは実態としては使われる事はなかった。
 西海の使者はこの門ではなく、別の入口から入る。
 アスタロトは深紅の瞳を背後の館に向けた。
「アヴァロン殿、セルファン大将、しばらくこの場を。私が内部を確認してくる」
「アスタロト将軍、そのような役は私が」
 セルファンは自分が行こうと手を上げたが、アスタロトは首を振った。
「念のためだ」
 万が一屋敷の中に危険があった場合、アスタロトが最も対処しやすい。そしてレオアリスが今ここにいたら、多分レオアリスがそうしただろう。
 何故なら、西海との本当の門は館の中にあるのだ。
「ヴァン・グレッグ、五名連れて来てくれ」
「は」
 ヴァン・グレッグが兵士達から五人を連れ、アスタロトの後に続く。アスタロトは館の玄関扉に手をつき、内側へと押し開けた。
 両腕に重みを伝えながら、微かに蝶番を軋ませ、二枚の扉が左右に開く。
「明るいな――」
 そう呟き、アスタロトは玄関の敷居を跨いだ所で足を止めた。
 玄関広間は十間四方の正方形で、正面に大階段がある一般的な作りだ。二階部分は広間をぐるりと囲む回廊になっている。
 吹き抜けになった天井は、中央部分に飾り硝子を張った大きな丸屋根を持ち、そこから柔らかな色彩を帯びた光が、広間一杯に降り注いでいた。
 その色合いに見とれて光を辿るように天井を仰ぐと、飾り硝子に描かれた絵が目に飛び込んできた。
 外周部に海の青。
 真っ白な帆を張った交易船、砕ける白い波間から覗く不思議な海の生きもの。海に縁取られて中心に描かれた陸地には、草花の鮮やかな緑や赤や黄がちりばめられている。海辺に描かれた街はこのバージェスだ。
 そして中央、丸天井の一番高い所に、一際色彩豊かな美しい都――王都が描かれていた。
 下から見上げるそれは、あたかも上空から街を見下ろしているようにも感じられ、王都の街並みが円形に広がっている様は、花弁を重ねた大輪の花に似て、『美しき花弁アル・ディ・シウム』と呼ばれる由縁を改めて納得させられる。
 いつの時代に作られたものだろう。
 アスタロトはほんの僅かな間、ただうっとりとその飾り硝子を眺めた。
 それからすぐ、視線を下に戻す。
 光の降り注ぐ真下、まるで天井の飾り硝子の世界と対比するように、まるい水盆があった。
 淡い黄色の大理石の床の上に、手のひらを広げたほどの高さの縁石が、ぐるりと水を囲んでいる。
 不思議なほど青く澄んだ水が、飾り硝子からの光を映していた。
(これが――)
 これが西海の使者が行き来する門。
 王が西海へ赴く門だ。
 アスタロトは慎重な足取りでその水盆の前に進んだ。
 水盆は二間ほどもあり、覗き込むと水は微かにも揺るがず鏡のように、深く湛えられている。
 澄み渡った水の底が見えず、ふとその中に落ちていくような、僅かな眩暈を覚え、アスタロトは足を引いた。
「アスタロト様」
 ヴァン・グレッグが傍らに寄る。アスタロトはその面に目を移し、それから広間を見渡した。
「屋敷の中を。まあ何の気配も無いけどね」
 万が一、西海の使者が先に訪れていたらと、それを警戒していたが、問題は無いようだった。
 水盆を離れる間際、再びその水面に瞳を落とす。
 あと半刻もすれば、この水面が隔てる世界から、西海の使者が訪れる。
 胸の内に高揚感と不安が湧き上がる。
(レオアリス――)
 この半分は彼の想いだ。
 では不安が自分の想いかと、そんな事が浮かぶ。
 多分レオアリスは、王の傍に在り王を守護する事において、どんな状況下であっても、こんな振り子のような感情の揺れは無かっただろう。
 未知の西海――
 王の守護を、レオアリスに代わって自分が担う。レオアリスの意志を理解してそれができるのは、自分だけだと自負している。
 その想いと相対するような、全く違う世界に踏み込む不安――
『西海にある間、そなたらの不安は私が預かる』
 王の言葉が不安を軽くする。
 それでも尚残るのは、もうひとつ別の、見えない、正体の掴めない不安だ。
 丸天井の飾り硝子から降り注ぐ色彩豊かな陽射しの中で、閉じた屋敷の空気は動かない。
 アスタロトは瞳を閉じた。
 見えない不安。
 西海の、皇都イス――そこで待つのが、もし。
 美しく、悪戯っぽく微笑む柔らかな面が閉じた瞳の奥をよぎる。
 残像が瞬く。
 もし――

 もしも――?
 いいや。

 自分はそこで誰に会うのか、判っているんじゃないか

(私は――)

「アスタロト様、邸内に異常はございません」
 ヴァン・グレッグがアスタロトの前に戻り、右腕を胸に当てる。
 アスタロトは瞳を開いた。
 穏やかな色彩と、静まり返った水盆が、変わらず彼女の前にある。
「よし、陛下にお入り頂こう」
 ヴァン・グレッグは頷き、玄関の横にいた兵士に指示を送る。
 兵士が扉を開き、アスタロトは王を迎える為にその場に膝をついた。






「ワッツ殿」
 エメルは呼吸を整え、足を止めて振り返ったワッツへと、右手を上げて近寄った。
「どうかしましたか」
 ワッツがそう訊いたのは、エメルの隊の配置が館の中庭と外周だからだろう。今二人がいるのは一里の控えの館の一階廊下だった。
 王がバージェスへ発った後、館は王が来る前よりも静けさを増したように思えた。時折、風が草原を吹き抜ける音が館の中にも聞こえる。
 エメルはワッツの傍らに立ち、廊下の左右を見渡した。幸いこの廊下には兵士の姿は無い。
「重要な話をしたい。人払いした場所が良いのだが」
 人払いと聞いて、ワッツはエメルをじっと見つめた。エメルは自分の喉が動くのを感じ、咄嗟にやや俯いた。頬に緊張が出ているかもしれない。
 ワッツの視線が逸れる。
「では、二階の指令部に行きますか。人払いっても兵達に所在が不明でも困る」
 ワッツはエメルより先に廊下を歩き出し、三間ほど先の角を曲がると、陽射しに満ちた階段を登っていく。
 ボードヴィルが裏切っている事を告げる――
 危うい橋だ。
 エメルは緊張に鼓動が早まるのを抑えながら、黙ってワッツの後に続いて歩いた。
 第七大隊が指令部にしている書斎の扉の前に立つと、ワッツは三度叩き、それから取っ手を掴んで開け、室内に入った。
 作り付けの書棚に囲まれた部屋の中央には、戦術・戦略を練るために台があり、この一里の控え周辺の地図が置かれている。正面の窓際に長椅子と低い卓が一揃い、右手には衝立ての向こうに、隣室への入口がもう一つあった。扉は無い。今回はそこをウィンスターが控える為の部屋にしている。
「人払いなら、扉は開けとこう。窓はまあ二階だし、問題ないだろう」
 そう言いながらワッツは二つある窓に寄り、覆っていた日除け布を全て開いてから、その前の長椅子に座った。扉を開けたままにして、エメルも卓を挟んで座る。
 明るい窓を背にしたワッツの姿が、一層大きく迫るように思え、エメルは唾を飲み込んだ。緑の眼の中にある鋭い光が、エメルの偽りを暴こうというようだ。
「で、用件とは」
 ここが正念場だと、エメルは自分に言い聞かせた。ワッツにどういう印象を与えるか――それが上手く運びさえすれば、後は何とかなる。
 エメルは強ばった表情のまま、ぐっと膝を詰めた。声は低く、しかしワッツの耳に明瞭に届ける。
「単刀直入に話したい。まずは落ち着いて、私の話を聞いて頂きたい」
 ワッツは無言のまま、了承の意味で右手を軽く挙げ、それをそのまま延べて先を促した。
 声が揺れるのを抑え、エメルは意識してゆっくりと、言葉を継いだ。
「隊内に裏切りがある」
 ワッツが太い眉を上げる。ワッツの座る革張りの長椅子がぎしりと鳴り、それがエメル自身の心臓を捻ったように感じる。
「裏切り?」
 ワッツが疑問を膨らます前に素早く告げる。
「ワッツ中将、貴方は気付いておられたのではないか」
 ワッツが探りに来ただろう事について、自分は知っているのだと――同じもの・・・・を追っているのだと、印象付ける事ができるのは何か、考えた抜いた言葉だ。
「――」
 エメルはそのまましばらく口を閉ざした。ワッツの岩のごとき面の中の、鋭い視線がエメルを射抜く。
 まるでそこにいる敵を一刀のもとに斬り倒そうというような、ぐっとたわめられた発条(ばね)が弾ける前の感覚があった。
 一瞬エメルは、ワッツが既に自分の嘘を全て見通しているのではないかと、そう思った。喉が鳴りかけ、今度は抑えた。
 沈黙を破ったのはワッツだった。
「まずは裏切りってのが何を差してるのか、そいつを聞きたい」
 エメルは自分を落ち着かせるため、一呼吸空けた。
「ボードヴィルだ。いや、正確にはヒースウッド伯爵が、西方公ルシファーと関わっている」
 ワッツの顔に驚きが浮かんだが、次の呟きにエメルは肝を冷やした。
「ヒースウッド伯爵……ヒースウッドか。レオアリスがボードヴィルの構成を聞いて来たって事は、ある程度は目処を付けてたのかもな……」
(近衛師団がもう動いていた――)
 どっと冷や汗が吹き出し、エメルの背中を伝う。身の振り方を選べる間一髪のところだったのかもしれない。やはり今、この道を選んでおいて正解だった、と、エメルは眩暈にも似た安堵を覚えた。
 ワッツは厳しい顔で背もたれに身体を預け、腕を組んだ。
「あんたの言うとおり、俺は――王都は、ボードヴィルに疑いをある程度持っていた。初めは単に、ルシファーの館の復元情報がどこから漏れたか、そいつを探ってたんだが――ヒースウッド伯爵が関わっているとなると、王都は本格的に動くだろう。あんたの情報はでかい、まずはウィンスター大将に報告しないとな。すぐに王都にも上げる」
 巌のような面が、エメルと向き合う。
「だが、エメル中将、あんたはどこでそれを知った?」
 鋭い眼光が、エメルを捉えている。
「何故今なんだ?」
 膨れ上がった鼓動がワッツの声をかき消すようだ。
(落ち着くんだ、ここで間違えるな)
 当然問われる疑問なのだ。エメルはあらかじめ用意していた答えを口にした。
「……ここなら、ルシファーの力は及ばないだろうと思ったのだ。伝令使も書状も不安だった。ワッツ中将、貴侯が赴任した時伝える事を考えはしたが、ボードヴィルでなど到底口にはできない。言い訳と思われるかもしれないが――ルシファーは、恐ろしい」
(一番もっともらしいはずだ――)
 半分は本心でもある。
 ワッツをじっと見る。エメルの思惑どおり、その答えはワッツを納得させたようだった。
 手のひらが汗ばんでいるが、エメルは一先ず息を吐いた。
「俺がその事を知ったのは、ヒースウッドからだった。ルシファーが密かに協力を欲している。この国の為だ、同志として協力して欲しいと言われていた。一月とちょっと前だったはずだ」
 そこは嘘ではない。ヒースウッドがそうエメルを誘ったのは、ルシファーがまだ西方公の地位にいた頃だ。
「初め、ヒースウッドは具体的な事は言わなかった。俺の見たところ、多分奴も詳しい事を聞いていなかったと思う」
「ルシファーが離反した時に動こうと思わなかったのか?」
「ルシファーは初めから、離反という手段を選ぶかもしれないと言っていたんだ」
「手段――? そいつを信じたのか」
「ヒースウッドはな」
 素早く言い、乾いた唇を舌で湿らせる。
「奴は頭の先から爪先までルシファーを信じ切ってる。しかし俺は、初めから疑っていた。ただ王都へ訴え出ようにも証拠はない。だからまず、ルシファーの真の狙いを探る事にした」
「ルシファーの目的ってのは何なんだ? まさか西海と組んで兵を起こそうってんじゃないだろうな」
「いいや、逆だ」
「逆? 何だ、逆ってのは」
「ルシファーは、王太子殿下を我々ボードヴィルでお迎えし、条約再締結に」
「――ちょ」
 ワッツは長椅子から腰を浮かした。「ちょっ、ちょっと待て――王太子殿下だと?!」
「そうだ」
「そうだぁ? いや、……」
 束の間言葉を失って、ワッツは何度か太い首筋をさすった。
「――有り得ん。エメル、あんたはまさかそれを信じたのか?」
「信じてない」
「――」
 ワッツはじっとエメルを見た後、厳しい表情のまま片手を上げて掌を見せた。
「話は一旦ここまでだ。早急にウィンスター大将へ報告する。今の話は俺が話してあんたが補足する――まずは対応を決めねぇとな」
「続けろ」
 衝立ての奥から声が掛り、エメルは椅子の上で跳ねた。
 慌てて衝立てへ目を向けると、その奥の部屋から男が一人、衝立てを回ってその前に立った。
 ウィンスターだ。
「既においででしたか」
 エメルの心臓は激しく鼓動を鳴らしていたが、ワッツは驚いた様子がない。
「入って来た時に人払いと口にしただろう――先ほどお前が相談と言ったのはこの件か?」
「いえ、別件でしたが」
 ワッツはエメルを見た。「有り難くはねぇが繋がったようです。私はヴァン・グレッグ閣下から、今回の赴任に合わせ、ルシファーの館の復元情報が漏れた先を調べる任を与えられておりました」
 ウィンスターは笑った。
「私も調査の範囲に入っていたようだな」
「貴方はあり得ねぇ。でなければ命は預けません」
「いいのだ。感情で例外を設けるべきではない。――エメル」
 エメルは反射的に立ち上がり、敬礼を向けた。全身にどっと汗が流れ、身体が冷えている。
「続きを話せ。ルシファーの思惑を」
「は!」
 ウィンスターは敬礼するエメルの横を通り、部屋の中央に置かれた軍議台に寄ると、広げられた地図に視線を落とした。エメルはまだ心臓の強い鼓動を感じながら、少々もつれがちに言葉を続けた。
「ル……、ルシファーは、条約再締結に乗じて西海が企む有事に、ボードヴィルが、その、王太子殿下をお迎えし対応すると、そう考えておりました」
「条約再締結に乗じて? おい、まさか西海にそんな動きがあるのか」
 ワッツの険しい視線がエメルに刺さる。室内の空気がぐっと張り詰め、エメルは更に早口になった。
「ルシファーの言い分です。ウィンスター大将もご存知でしょう、最近、ここ数年、西海沿岸にそんな気配はありません。有事への対応が目的など聞こえはいいが、王太子殿下がボードヴィルにお越しになるなど、有り得ん話です。第一、殿下は現在国王代理を拝命されておられる」
「――」
「そもそも、ルシファーは西海の企てが国王陛下の御身を危うくすると言ったが、それも疑わしい」
 ワッツがずいと踏み込み、エメルは思わず身構えた。
「何でそれを早く言わねぇ!」
「……へ――陛下か? しかしまさか、そこまで」
 ワッツの面はたった今までよりも更に、エメルを怖じけさせるほど険しかった。
「あんたの情報のそれが一番最悪だ――ウィンスター殿」
「陛下をお止めすべきかもしれんな。最悪は条約再締結の儀の中断もあり得るか――」
 言葉にすればそれがどれほど難しい事か、ひしひしと感じられる。
 不可侵条約再締結の中断。
 西海の責を明確に問えない限り、いい口実を与えるだけだ。
「一里の控えの内側は、既に立ち入る事は認められていないが……伝令使なら或いは、制限の内には数えられないかもしれん。とにかくまずは王都に報告し、伺いを立てよう」
 ウィンスターは直ぐに台の上に置かれた墨壺と筆記具を引き寄せ、白い便箋に数行をしたためていく。筆を置くと、その書状をワッツへ差し出した。
「王都の判断を仰ぐ間、ボードヴィルへ斥候を出す準備を整えろ。一小隊、指揮官の選任は任せる。ボードヴィルの動きを監視しろ」
「承知しました」
 ワッツは書状を受け取り、踵を打ち当てて敬礼を向けた。
「エメル」
 ウィンスターの目が向けられ、エメルはワッツと同様踵を打ち鳴らし、背筋を張った。
「関わった兵全員を広間に集めろ。貴様の口からルシファーの目論見が潰えた事を伝えるのだ」
「は――はッ!」
 自らへの処罰が下るかどうか、エメルはその問いを呑み込み、自分の選択がアレウス国にとって相当な益になったはずだと、そう念じながら部屋を出た。






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