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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第四章『言祝ことほぎ』


 王城の北面三階から四階までを占める内政官房は普段と変わらず、各執務室の扉が開け放たれた廊下にまで慌ただしい空気が漂っていた。濃紺の長衣に灰色の上掛けを羽織った内務官服に身を包んだ事務官達が、巻物や書籍を抱えて廊下を行き交っている。特に今は三日後の不可侵条約再締結に向けて、王の口上の文案や西海と取り交わす子細な文書の作成の詰めに忙しいだろう。
 内政官房に限らず王城全体が騒ついているのは、祝祭が終わる明後日に行われる「馬競べコン・ルキスタ」と、その夜の王主催の夜会の準備に追われているからだ。
(祝祭の最高潮と終宴――、その翌日の条約再締結か)
「これは、ヴェルナー中将――」
 入り口を潜ったロットバルトの姿を見つけ、若い内務官の一人が小走りに寄る。一旦足を止めた他の内務官達はそれぞれ黙礼し、とりわけ女性の内務官達は名残惜しそうに振り返りつつ、再び書類を抱えて歩き出した。
「本日は、副長官にご面会ですか」
「そうです。在席ですか」
 そう尋ねると、内務官ははっきり頷いた。
「はい。つい先ほど出仕されたところです」
「――先ほど?」
「は、はい」
 内務官は何故ロットバルトが訝しそうな顔をしたのかと、少しうろたえながらも副長官室へと案内して歩き出した。
「昨夜は明け方までおられましたので、今日の出仕は少々遅らせられました」
「明け方か――」 まずい事を口にしたかと心配気な様子の内務官へ笑みを向ける。「内務は相変わらず繁忙ですね。特にこの月末に向けて、あなた方も疲労が溜まっているでしょう」
「いえ!」
 さっと頬を紅潮させ、「月末が過ぎれば落ち着きますので、それまでの」と早口で返した。
 階段を上がった四階の奥に内政官房長官の執務室があり、その手前が副長官の執務室になる。案内に礼を言い内務官が廊下を戻っていくのを確認してから、ロットバルトは副長官室の扉を叩いた。すぐに前室の秘書官が扉を開ける。
 先ほどの内務官が言った通り、昨夜遅くまで、ヴェルナー侯爵はここにいた。
(ならブロウズに会っていない可能性があるか? いや、ブロウズはそこを見誤る男じゃない。館に戻っていなければ待つ事はせず内政官房へ来るだろう)
 ブロウズからヴェルナー侯爵に伝われば、ヴェルナー侯爵もまた、この問題・・・・を後へ回す判断はしないはずだ。
(逆に父の側に理由があるのか――ブロウズと会っていない理由か、正規軍への要請を避ける理由)
 秘書官は奥の扉を静かに叩き、「近衛師団のヴェルナー中将がおいでです」と声をかけた。低い声が応えるのを確認して扉を開け、ロットバルトを通す。
 ヴェルナー侯爵は執務机の向こうで書類に落としていた顔を上げ、「どうした」とまず言った。
(どうした、か。どうやら思わぬところで問題が起きているようだ)
 問題が発生していると、ヴェルナー侯爵は認識してはいない。
 いや、今ロットバルトが訪ねてきた事で、何か問題が生じていると理解し、顔つきが変わった。背後で静かに扉が閉まる。
「突然の訪問で失礼致します。昨夜、ブロウズが貴方の所に戻りましたか」
 単刀直入にそう切り出しても、侯爵は訝しむ様子は無かった。
「昨夜はブロウズには会っておらん。明け方までここにいたが、誰も訪ねては来なかった」
 それはロットバルトの予期していた答えだった。そして最も避けたかった答えでもある。
「来ていない――やはり。ではどこで、何があった……?」
 ロカの件に繋がっているのか、と口元に手を当て自問するように呟いたロットバルトの声を聞き取り、侯爵は不可解そうに眉を上げた。
「何の話だ。何を確認しに来た」
 ロットバルトは入ってきた扉をちらりと見て、執務机へ寄った。低く声を落とす。
「ロカのハインツ夫妻が、果樹園から姿を消しました」
「――」
 蒼い、そこだけ血の繋がりを感じさせる瞳が上がる。ロットバルトが何を問題としてここへ訪ねて来たのか、ほぼ理解した色だ。
「昨夜ブロウズに、貴方への書状を持たせたのです。ヴェルナー侯爵家から正規軍へ、捜索の要請を出して頂きたいと。しかし先ほど、現地へ調査に行ったヴィルトール中将より、正規軍が動いていないと連絡がありました」
「私は正規軍へ要請をしていない」
 ロットバルトが頷く。
「現在も引き続き、その必要があります」
「すぐ要請しよう。それで、ロカでの原因は判っているのか」
「いえ。ただ想定は。貴方が今お考えの事と、変わらないでしょう」
「西――」
 重苦しい空気が流れる。ヴェルナー侯爵は手元の書類をどけ、抽斗から取り出した便箋に数行をしたためて署名すると、封筒へ入れて封蝋を施した。
 その一連の流れを黙って見つめながら、ロットバルトは別の考えを巡らせていた。
 違和感に近い疑問が意識を撫ぜている。
 ヴェルナー侯爵は前室に控えている秘書官を呼び、正規軍へ届けるように告げ封筒を手渡した。扉が閉まる微かな音に押されるように、侯爵はふと、視線を窓へ向けた。
「ブロウズは死んだか」
「……恐らく。若しくは、それに近い状況にあるか。確認させますが……」
 大抵の事ならばブロウズが任務を成し遂げると、それだけの信頼が侯爵にその言葉を取らせたのが判る。
「申し訳ありません。お預かりした人材を」
 侯爵は息を吐き、その会話を終わらせた。
「どの時点でブロウズの動きに気付いたのか……王都に協力者がいるのかもしれんな。元々王都にいた者であれば、それも不思議は無いが」
 ロットバルトは無言で同意を示した。
 想定する一人――ロカの件がルシファーの手によるものだとして、王都の協力者の存在を確信するのは、王城に巡らされている防御陣の存在がある為だ。離反が判明した段階で、ルシファーの持つ「要素」は防御陣に組み込まれている。
 ルシファーはそれを理解していて、王都には近付かないだろう。
「何にせよ、自由に動く手足があるのでしょうね。ロカでも一人、ハインツ夫妻の世話を頼んでいた領事館員が殺害されています。ブロウズを辿る事ができれば、手繰り寄せられるかもしれませんが」
「お前の意図はもう知れているだろう」
「そうでしょう」
 そう言って、ふとロットバルトは口を閉ざした。先ほどヴェルナー侯爵がしたためていた白い便箋に視線を注ぐ。
(意図――。書状を見て正規軍を動かす事を知り、妨げたとしても、我々が正規軍が動いていない事に気付いた時点でこうして変わらず事は動く。いつまでも気付かないと思うほど浅い考えの相手では無いだろう。正規軍の遅れは半日――その半日が重要か?)
 イリヤが消えて四日。四日後の半日を抑制しようとするくらいなら、まだイリヤ達の不在が判明していない三日の間に事を動かした方が、よほど効果がある。
(言い切るのは危険だが)
 しかし意味を見い出せないのは事実だ。
(正規軍の抑制は第一の目的ではないかもしれない。ブロウズが書状を持っていたのは、ブロウズを捕らえた者にとっては副次的なものだった――だが)
 副次的なものであった場合、書状だけ素知らぬ顔をしてヴェルナー侯爵へ届ける方が、自分達に余計な眼が向くのを防ぐ事はできる。
(それをしないのなら、多少は書状の隠匿に価値を感じていたとも言える……。――いや)
 自分の理論が穴だらけなのが良く判る。ただ、それほど論点を外してはいないという事も。
 ロットバルトは溜息を吐いた。
(駄目だな、結論を急ぎすぎている。まだ見えている材料が少ない。ここで考えているより、まずはブロウズの足取りを辿るべきだ)
「お前に護衛を付ける」
 侯爵の声が耳に入り、視線を落としていた便箋から上げると、自分へ向けられている蒼い双眸と瞳が合った。ロットバルトは束の間侯爵の言葉の意味を考え、それから微かな驚きと共に笑った。
「必要ありませんよ。もし今回イリヤ・ハインツを攫った相手が我々の動きを牽制しようというのであれば、まずここを訪れる時点で阻止しようとしたでしょう。でなければ敢えて書状を隠滅した意味がまるで無い」
 口にする事で、やはりそう論点は外れていないと感じられる。「それに私に付ける人員があるなら、ブロウズの件に回した方が有益です」
 やはり追うべきは、ブロウズの足跡だ。
 ヴェルナー侯爵は眉をしかめたが、重ねては言わなかった。
「それよりイリヤ・ハインツの件です。既にアヴァロン閣下より陛下のお耳には入っているとは思いますが、貴方からも大公へご確認いただけますか。できれば、何らかの行動の許可を」
「確認して知らせよう」
「有難うございます」
 ロットバルトは一礼して執務机の前を離れた。扉の把手に手をかけたところで、侯爵の声が呼び止める。
「この後は。近衛師団に戻るのか」
「そのつもりですが――」
 それだけの確認だったと見て、ロットバルトはもう一度目礼し、廊下へと出た。




 飛竜の翼が風を掴み、一つの羽ばたきで十間近い距離を滑空する。
 風が心地良い。
(気晴らしか――)
 レオアリスは口の中で呟いた。アスタロトがいなかったのは残念だ。
 ハヤテの背の上で喉を反らし、全身をすっぽりと取り囲むような青い天蓋を見上げる。空の青は抜けるように明るい。瞳を閉じると瞼を通して太陽の光を感じた。
 こうして飛竜で風を切るだけでも、充分気持ちが晴れる。
 ただ、アスタロトはもっと何か、思うところがあるのだろう。
(探してみるかな――)
 グランスレイは三刻頃まで時間が取れると言っていた。まだ四刻近くある。
(どこに行ったか、場所聞いときゃ良かった)
 戻って聞くのは躊躇われた。
 そもそも、レオアリスに会って気が晴れるなら、とっくに士官棟に来ているだろう。
(――)
 自分の考えに少々むっとしつつ、レオアリスは息を吐いて瞳を開けた。
「レオアリス」
 ふいに遠くから名前を呼ばれ、レオアリスはハヤテの手綱を引き、声の方へ顔を巡らせた。
 浮揚したハヤテへと、王城側から一騎の飛竜が近付く。ハヤテと同じ銀翼――大将騎だ。レオアリスは手をかざして陽光を遮り、瞳を細めた。
「トゥレス」
 銀翼の飛竜は浮揚するハヤテの横に付け、その背にいたトゥレスが挨拶代わりに右手を上げた。
「よお。いい所で会った。見かけて追いかけて来たんだ」
「何だ、急ぎの用件か?」
「それほど急ぎって訳でもないんだが、近いうちお前の所に行こうと思ってたところでね……」
 トゥレスは眼下を見渡すしてすぐ下の緑地を見つけると、レオアリスを手招き、先に自分の銀翼を降ろした。レオアリスがハヤテを降ろすと、まだ背にいる内に歩み寄る。
「どうしたんだ」
 ハヤテの背から飛び降り、レオアリスはトゥレスの前に立った。
「いや……」ほんの僅か言い澱み、トゥレスは空を見上げた。「今日は参謀殿はいないのか」
「内政官房に行ってる。ロットバルトに用か? 珍しいな」
「用ってほどじゃない。……いや、まあ用かな。でもお前の方がいいと思うが」
「? 何だ、はっきりしないな」
 レオアリスが少し呆れて眉を寄せた時、トゥレスは言いにくい事があるように口元を手で覆い、レオアリスを見た。
「昨晩、呼ばれてヴェルナー侯爵家に行って来た」
 思いがけない言葉に、レオアリスはトゥレスを見返した。
「え、ヴェルナー? 呼ばれてって、ロットバルトに?」
「いいや。俺を呼んだのはご長男のヘルムフリート殿だ」
 漆黒の瞳が意外さと、話の見えない困惑の二つに見開かれる。
 トゥレスはそれを見つめた。
「何の用だと思うだろう。俺もさ。そもそもヴェルナー侯爵家に俺が呼ばれる筋が無い。呼ぶのであればまずは第一大隊のお前だろう」
「いや、多分俺は」
 呼ばれないだろう、とレオアリスは口の中で呟いた。詳しくは聞いていないが、ロットバルトと長男ヘルムフリートとの間が友好でないのは何となく知っている。
「その話、俺が聞く必要のある事か?」
 ロットバルト自身の口からでないのなら、余り聞く気にはなれなくてそう尋ねた。トゥレスは気まずそうに掌で首をぐいとさすった。
「いやまあ、それほど深い話じゃない。ただ最近の動きを聞かれただけだ。ルシファーの動向や、条約再締結の件とかな。第二大隊うちが役目を外れた事に対して、お互い不遇だなと。――あ、いや」
 レオアリスはじっとトゥレスを見た。
「今のは忘れてくれ、不遜な言い方だった。まあ、大した事じゃないが呼ばれた事をお前に話さないのもどうかと思ってな。お前と――」
「ロットバルトに?」
「ああ」
 レオアリスは軽く息を吐き、トゥレスから視線を外して今ロットバルトがいるだろう王城へと投げた。
「――まあ、俺もよく判らないが……聞いても気にしないって言いそうだけどな」
「それならいいんだ。悪いなレオアリス、こんな事で呼び止めて。用事があったんだろ」
「いや、もう終わったんだ。アスタロトを訪ねたんだけど、不在でさ」
 レオアリスは礼を告げた。「有難う」
「残念だったな、会えなくて」
 にやりと笑い、トゥレスはレオアリスの肩を叩いてその場を離れ、自分の銀翼に跨った。
「じゃあな」
 銀翼の飛竜はまだ蹲っているハヤテへと、長い首を伸ばして鼻先を寄せる挨拶を交わし、ふわりと浮かび上がった。翼が巻き起こす風に髪を煽られながら、レオアリスは片手を軽く上げ、トゥレスを見送った。
 すぐにトゥレスの銀翼は空高く上がると、王都を回り込むようにして北面へと向かった。
「ロットバルトの兄君か」
 ハヤテの首に手を伸ばし、綺麗に並んだ艶やかな鱗を撫でる。レオアリスは彼の顔も良く知らず、口を挟む事でもないとは思うが、一応伝えておくべきだろうと、そう思った。
 それから撫でる手をふと止める。
「昨日か……トゥレス」
 再び見上げた空には、もうトゥレスの飛竜の影は無い。
 もしかして、昨晩ならブロウズを見かけなかったかと、そう尋ねようと思ったのだが。
「――さすがに知ってる訳ねぇか。あそこの家もひたすら広いからな」
 そもそもトゥレスはブロウズの顔も知らない。レオアリスは早く飛ぼうとせかすハヤテの首を、軽く叩いた。



「レオアリスは別段、俺を警戒してる様子は無かったな」
 いつもと変わらない瞳の色だった。
 トゥレスは銀翼の背から眼科を見下ろし、それから笑った。という事はまだ、トゥレスにあのブロウズという男を付けたのはロットバルトの独断の段階だったのだろう。
「しかしアスタロト公を訪ねたって事は、正規軍が動いて無いのは伝わったな。あの書状が届いていないのも気付いたか」
 それを確認する為に、ロットバルトは内政官房へ行ったのだろう。ヴェルナー侯爵に確認して、その眼をどこへ向けるか――
「俺が昨日ご長男に呼ばれたのは館でちょっと調べりゃすぐ判る。あの間者を俺に付けてた位だ、疑うだろうなぁ」
 ただ、ヘルムフリートの画策にまでは至らないだろう。
 まず疑いが向くのは、ロカの件との絡み。
「まあそれはいい――」
 あと三日。
 三日は、トゥレスを追及しようと思えば充分な時間かもしれない。
 面倒だな、とトゥレスは呟いた。
 それから再びその眼をもう既に過ぎ去った眼下へ落とし、先ほどの緑地を透かし見た。
 普段と変わらないあの瞳――。その色が三日後にどう変わるのか、それを楽しみだと思っている自分に気付いて、微かに口元を歪めた。






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