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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第四章『言祝ことほぎ』


 ヴィルトールは先日のブロウズと同じように明け方前に王都を発ち、午前中の遅い時刻にイリヤ・ハインツの暮らした果樹園に到着した。
 法術士に術が使われた形跡があるかをまず見るよう依頼し、ヴィルトールは果樹園の中をぐるりと歩き出した。
(しかし閑かだな。ここの家主が行方不明だなんて、言われてなければただ昼寝でもしてるだけに見える)
 いい場所だ。光が一杯に当たり、心を和ませる。もし引退して妻と二人で住むのなら、こんな場所がいい、とそう思いながら、ヴィルトールは先ほどからどことなく感じている違和感の、その原因を追っていた。
 ゆっくり小道を歩いていた足が、ぴたりと止まる。
「おかしいな」
 呟き、もう一度、今度はその点に注意して果樹園を見て回った。果樹園を横切って家へと続く小道に除く土、主に地面に目を向ける。
 ヴィルトールの靴跡、先ほど入ってきた時についた靴跡。
「やっぱり――。正規軍が出入りした様子が無い」
 正規軍は基本一班で動き、一班は十名だ。彼等が入ればそれなりの靴跡が残される。
 レオアリスは正規軍へ、ヴェルナー侯爵から既に捜索依頼が出ているだろうと言った。ヴィルトール達の目的を問われても面倒だから、なるべく正規軍とはかち合わないように避けて動け、と。
(という事は、上将はもう正規軍が動いているとお考えだ)
 もうすぐ、十一刻近い。ヴィルトールは小道に目を落としたまま、考えられる状況を心の内で挙げた。
(一つはまだ動いていない場合だな。ただヴェルナー侯爵はこの一帯を治めていて正規軍にも影響力は大きい。ヴェルナー侯爵からの依頼は他に大きな問題がない限り、最優先で動くはず)
 靴が柔らかな土を踏む。
(もう一つはヴェルナー侯爵が指示を出していない場合――まぁけど、ロットバルトからの正式な依頼で、しかも事はこの件だ。ヴェルナー侯爵が看過する問題には到底思えないなぁ)
 侯爵が昨晩政務から帰っていなかったとしても、館に届けば執事なりが書状を届けるだろう。
(とするとあと一つ、ヴェルナー侯爵家そのものへロットバルトの書状が届いていない場合か)
 現状ではいずれとも判断はし難い。そしておそらく、三つ目の事態が一番まずい状態だと考えられる。
 ヴィルトールは中空に「カイ」と声をかけた。
 空気から湧き出るように漆黒の鳥が姿を現す。烏ほどの大きさの鳥へ、ヴィルトールは右腕を伸ばした。鳥――レオアリスの伝令使はヴィルトールの右手首に舞い降りた。
「カイ、さっそく出番で悪いね。上将へ、正規軍への依頼がヴェルナー侯爵に伝わっているか、確認が必要だとお伝えしてくれ」
 カイは金色の瞳をくるりと瞬かせ、了承の代わりに一声鳴くと姿を消した。
「ヴィルトール中将」
 部下の右軍少将ファーレイが近づき、目線で後方の家を示す。
「法術士によると、法術を使用した痕跡は今のところ見られないとの事です。ただ、家主の持ち物から、所在を追えそうだと」
「ほう」
 ヴィルトールは穏やかな灰色の瞳に光を閃かせた。
「それはいい、早速やってもらおう。多分ここにはあまり得るものは無いだろうからね」
 所在が追えれば近辺まで行って確認し、そこでレオアリスの判断を仰ぐ事に決め、ヴィルトールは閑かに見える小さな家へと足を向けた。



 レオアリスの肩に黒い鳥が舞い降りる。
 レオアリスがカイの喉をなでると、カイは黄色いくちばしを開いた。ヴィルトールからの伝言が伝わり、レオアリスの瞳が驚いて見開かれた。
「正規軍が動いてない?」
 ロットバルトが振り返る。
「正規軍が? まさか……昨夜の内にブロウズが書状を届けたはずです」
「そうだ」
 殊この案件に関して、まだ動いていない訳がない、とレオアリスも呟く。ただヴィルトールがそう言うのであれば、現場では動きが見えないのだろう。
「――父に尋ねましょう。直接行った方がいいな。少し外します」
 そう言ってロットバルトはすぐに扉へ向かった。
「頼む。何か事情があるのかもしれないな」
「ああ、そう言えば」
 扉の前でレオアリスを振り返えり、ロットバルトはそう言った。
「念のため、上将からアスタロト公にもご確認いただけますか。できれば直接お会いになってお聞きするのがいいでしょう」
 ヴェルナー侯爵からの依頼であっても、正規軍がすぐに動けない状況にある事もあり得る。
 もう一つ、最近レオアリスとアスタロトが直接話す機会が無い事も、多少気になってもいた。
 何か、小さな齟齬そごを生んでいるように感じられる。
 その事がどれだけこの先に大きな問題を招くか、現時点で判っていたら対応は違っていただろう。
 グランスレイがレオアリスを見る。
「行ってご不在では無駄足になります。先にご在席かどうか確認しましょう」
「ああ、そうか」
 立ち上がりかけていたレオアリスは、改めて椅子に座り直した。
「突然行くのはまずいよな」
 今までのように唐突に連絡無く訪ねて――と言っても連絡無く訪ねて来るのはアスタロトだけだったが――という訳にも行かなくなって来ているのは、明確にそう告げられた訳ではないもののレオアリスも感じていた。
 それが互いの意思に添うものではないにしろ、組織としての立場を考えれば仕方がないのだろう。
 グランスレイは執務室を出るロットバルトに、行き掛けに事務官のウィンレットへ正規軍への確認を言付けるように告げ、ロットバルトは頷いて回廊へ出た。
 ウィンレットが正規軍総司令部へ行って戻ってきたのは半刻後で、アスタロトが今日は公休で出仕していないと、正規軍からの回答を伝えてきた。
「緊急のご用件であれば、アスタロト様にご連絡するとの事でしたが、どうなさいますか」
「公休なのか……いいや、なら屋敷の方に行ってみる」
「承知しました」
「今いいか?」
 グランスレイにそう尋ねると、グランスレイは微かに笑みを浮かべて頷いた。
「どうぞ。この後は三刻まで時間が取れます」
 今は午前の十一刻を過ぎたところだが、アスタロトと会うならそのくらいの時間は掛かるだろうと見越しての返事だ。
「休みの邪魔はしねぇよ」
「邪魔にはならないでしょう」
 重ねてそう言ったグランスレイとは裏腹にレオアリスがどことなく曖昧な表情をしたのは、最近のアスタロトとの距離を感じていたからかもしれない。
「なるべく早く戻る。戻る前に何かあったら――」
 そう言えばカイはヴィルトールのもとに返したのだったと気付き、束の間考えを巡らせた。
「私が伺います。アスタロト公爵のお屋敷ですね」
 ウィンレットがそう言い、レオアリスは頷いた。
「うん、悪いな。じゃあちょっと行ってくる」
 ハヤテに乗る為に外套を羽織り、レオアリスは執務室を出た。



「誠に申し訳ございません、主は只今留守にしております」
 応接間に現れたのは予想していた本人ではなくアーシアでもなく、アスタロト公爵家の執事長シュセールで、レオアリスの前に立ち深々と頭を下げた。
「気晴らしにと仰って、一刻ほど前にアーシアと出掛けられました。午後にはお戻りになるご予定ですが、ご連絡いたしましょうか? 貴方様がお越しとお聞きになれば、すぐお戻りになられると思いますが」
「――いえ」
 言葉を濁し、レオアリスは足元の彩り豊かな絨毯の模様を辿るように視線を落とし、どうするかと考えをめぐらせた。
 最近のアスタロトは鬱いでいた。気晴らしに行ったのなら、それを邪魔をするのも気が引ける。
 それにアスタロトが公休で遠方に出かけているのに、正規軍がヴェルナー侯爵の依頼を後回しにするほどの問題が起きているとは考え難い。
「……戻ったら連絡をもらいたいと、伝えて頂けますか」
「承知致しました」
 そう頷いて、シュセールはもう一言、何か付け加えたそうな顔をした。レオアリスが水を向ける前に卒のない表情を整える。
「改めて主から、ご連絡をさせて頂きます」
 玄関までレオアリスを案内し、シュセールは深々と頭を下げてレオアリスを見送った。
 両開きの静かに扉が閉じてからもシュセールはしばらく思わし気な視線を扉へ注ぎ、やはり少しの間待ってもらってアスタロトへ連絡した方が良かっただろうかと、そう考えていた。




 アスタロトは樹々から立ち昇る清々しい香気を胸の奥に吸い込んだ。
 そうするとここしばらく胸にわだかまっていたものが、すうっと軽くなって行くようだ。
 昨日の雨がまだ葉の上にそこかしこ、丸い粒になって残っていた。陽射しを受けて森は風にそよぐ度にきらきらと光を弾き、硝子の装飾を施されているように見えた。
 目の前に銀色に輝くのは、王都から一里ほど北にあるツェーレ湖という湖で、飛竜であれば四半刻もかからず来る事ができた。湖から流れ出る川は大河シメノスに注がれている。
 この一帯は標高が高く夏は涼しい為、貴族達が良く避暑や狩りに訪れる場所でもあったが、アスタロトは来るのは初めてだった。本当はもっとずっと遠くに行きたかったけれど役目上この距離が王都を空ける限界でもあり、来てみたら充分気持ちが安らいだ。
 他に誰の姿も無いのが、より心を落ち着かせてくれる。アスタロトを連れて来てくれたのはアーシアだが、しばらく一人でいたいと言って帰らせてしまった。王都へなら、少しかじった転位の法術を使えば戻れる。
 小さく息を吐き、高い位置に結い上げていた髪を解くと、湖面から吹き抜ける風が艶やかな黒髪を舞わせた。
 朝の太陽はまだ昇っていく途中だ。瞳を閉じ、瞼の裏に陽光を感じながら空を仰ぎ、久しぶりの解放感をゆっくりと味わう。
「気持ちいいな……」
 自然と言葉が零れた。再び瞳を開ければ抜けるような青い空がいっぱいに広がり、湖はその穏やかな水面に周囲を囲む緑の樹々と空、棚引く雲を映している。
 湖面が弾く光の眩しさに、アスタロトは深紅の瞳を細めた。その瞳の奥に、先日の王城の謁見の広間が甦る。
 王は不可侵条約再締結の場へ、アスタロトに同行を命じた。
 名前を呼ばれるまで全く、王が自分を任命するとは思っていなかった。
 考えてみれば正規軍将軍として同行するのは当然の対応なのだが、ただ、アスタロトはレオアリスが選ばれると思っていた。
 レオアリスが選ばれず、アスタロトが同行する―― 別段不自然な対応でもなく、何より王の決定は絶対だ。けれど、気持ちはどうしてもすっきり受け止められない。
 せっかく少し、前向きになれると思ったのに。
 あの時のレオアリスは、やはり動揺を隠せないでいた。
(どんな顔して会えばいいのか、判んなくなっちゃった)
 多分レオアリスはアスタロトに不満を見せたりはしないと判ってはいたが、気後れしてしまう。
(――会いたいな……)
 呟くだけで胸が締め付けられる。
 もし、自分の気持ちに気付く前に戻れたら――
(戻るのを選ぶかな)
 判らない。
 一瞬強い風が吹き付け、アスタロトの衣服や髪を煽った。
 瞳を伏せて風をやり過ごし、再び前を向いた時、湖面の上に人影を捉えた。湖の真ん中あたりだ。
 アスタロトは湖面を見はるかし、瞳を見開いた。人影は湖の上を、歩いてこちらへ渡ってくる。
 次第に近付くにつれ、アスタロトは鼓動が早くなるのを感じた。
 肩の辺りで柔らかく揺れる黒髪。白い面の、明け方の光を湛えた二つの瞳。
「……ファー……」
 茫然とその名を呟き、岸辺に立ちつくして思いがけない姿を見つめているアスタロトの前まで来ると、ルシファーは柔らかな笑みを広げた。
「アスタロト――久しぶり。元気でいた?」
 懐かしい暖かな声の響きだ。
「ファー!」
 今の状況は理解していたが、嬉しさが勝った。思わず駆け寄ってその細い身体に抱き付く。
 それからはっと気が付いて、アスタロトはルシファーの腕に掛けた両手を所在なく浮かせた。
 自分は彼女を捕らえなければならない立場なのだ。
 ルシファーへ真っ直ぐ瞳を向けられず、足元へ視線が落ちる。
「ファー……。何で来たの。私は、ファーを捕らえなくちゃいけない」
「いいのよ、そうして。あなたが楽な方でいいわ」
「そんなの――!」
 アスタロトは俯いたまま声を絞りだした。
「ファーを捕まえたくなんて、無いよ」
「――」
 ルシファーの沈黙につられるように顔を上げると、じっと注がれる暁の瞳と目が合った。その柔らかな光が懐かしくて、胸が締め付けられる。
 ルシファーは手を伸ばし、アスタロトの髪を撫ぜた。
「ごめんなさい……。あなたには苦労を掛けるわね」
 何も変わらない、今までのルシファーだ。
(もし、戻れるなら……)
 先ほどの自問が甦る。
 戻れたらいいのに。何の憂いもなかった頃に。
 それまでも悩んだり、色々な事で辛いと感じた事もあったが、今考えれば取るに足りないものにすら思えた。
 アスタロトはしばらく髪を撫ぜるルシファーの手を感じていたが、一つ呼吸をし、そっとその手を押さえた。ルシファーが首を傾げる。
「アスタロト?」
「……ファー、どうして――どうして離反なんてしたの」
 伏しがちなアスタロトの視界で、ルシファーが困ったように微笑む。
「……それは言えないわ。私の中だけの問題だから」
「でも――! 理由があるなら、ちゃんと話せば……まだ、戻る方法があるかもしれない」
 熱心な瞳を見つめ、ルシファーはふわりと笑った。そのまま大気に溶けてしまいそうだ。
「ファー」
「仕方が無いのよ。――あなたは今苦しんでいるけれど、それはまだ選んでいないから。私は、選んだの。もう充分苦しんだから……耐えられなくなったのかもね」
「苦しんでるって、何に?」
 アスタロトはの瞳をじっと見つめ、ルシファーはゆるゆると首を振った。
「――あなたをこれ以上巻き込みたくないわ。だから私の事は忘れて。私との交流は無かった事にした方がいい。それを言いに来たの」
 瞳を伏せ、アスタロトから顔を反らす。その仕草はアスタロトの中で抑えていた感情を揺さ振った。
「どうして――忘れるなんて、できる訳ないよ!」
「アスタロト」
「何が理由なのか教えて」
「――」
 ルシファーは黙って視線を落とした。
「ファー!」
「駄目よ……忘れなさい。あなたは自分の気持ちを偽らないように、それだけを考えればいいの」
「ファー、お願いだよ。私」
 アスタロトはぐっと唇を噛みしめ、押し留めるものを振り切って叫んだ。
「気持ちを偽らないっていうなら、私はファーを捕まえたくなんてない! 争いたくなんてないよ!」
「――」
 束の間アスタロトを見つめた後、ルシファーは湖の向こうへと視線を投げた。けれど見つめているのはもっと遠いところだ。
 やがて視線を戻し、静かにアスタロトに据える。
「――あの絵は、見た?」
 あの絵、というのが先日アルジマールが持ち帰った絵の事だと、すぐに判る。
 彼女の過去を覗き見てしまったようで幾分の決まりの悪さを覚えつつ、アスタロトが無言で頷くと、ルシファーはそっと笑った。瞳を伏せる。そうすると睫毛の影が目元に落ちる。
「もうずっと――ずうっと昔の事よ。私ね、西海の皇子を好きになったわ」
 声には追憶の色があり、何かを堪える響きがあった。
「初めは否定してたの……気持ちを。相手が西海の皇太子だと判っていたしね。――あなたと同じね」
 アスタロトは足元の草を見つめた。ルシファーの想いが判る気がした。
 きっと壊したくなかったから―― そして、叶わないものだと知りたくなかったから。
「でも、好きになっちゃった。そういう気持ちって、自分じゃどうしようもないものでしょう?」
 聞き分けの無い子供を見るような、困った笑い顔でそう言う。
「もしかしたら、問題なんて無いかもしれない。皆祝福してくれるかもしれない。そう思ったけど」
 ゆっくり、心に溜まっていたものを吐き出すように、息を落とす。
「王は、お許しにならなかった」
 アスタロトははっと顔を上げた。
 いつだっただろう――ルシファーがそう聞いた。
『王が許さないって、そう言ったの?』
 あの時の一瞬、ルシファーは いつもと、空気が違った。
「ファー……」
 その言葉に、ルシファーは過去を蘇らせたのだろうか。
「仕方が無いと思ったわ。私の立場じゃね――。でもその内に王も、私達を許してくださると思ってた。結局、そうなる前にあの人は死んでしまったけれど」
 悲しいのは自分ではなくルシファーなのに、心を掴まれたような苦しい気持ちになる。
「立場や国に捉われて左右される想いなんて悲しい――。私ね、いつかは――私達は認められなかったけど、王もいつかは考えを変えてくださると思ってきたわ。国や立場なんて関係無い、もう誰かが同じ想いをしなくてもよくなるって」
 自分の考えを笑うように、小さく笑みを落とす。
「でも変わらなかった。今もそう。王はいつだって国の事しか考えていない。……あなたの事を、王は許そうとしないでしょう」
 アスタロトは息を飲み、唇をきつく結んだ。
「いっそあなたが、アスタロトの地位を棄てればいいのかもしれない。家も、名も、人との関わりも何もかも……」
 それができるだろうか、とルシファーの瞳が問いかけている気がする。言葉が浮かぶ前にルシファーはふっと笑った。
「でもあなたに炎の力がある限り、どうしても王はレオアリスとの関係を国の妨げになると考えるでしょうね」
 湖面に魚が跳ねる。アスタロトは瞳をルシファーの後ろの湖に落とし、広がった波紋をじっと見つめた。
 それが微かに湖面に吸収され、消えるまで。ルシファーがぽつりと呟く。
「離反か――初めはそんなつもり全然なかったけどね。何かそんな事ばかり見てきたら、ただ、疲れちゃったのかもしれないわ」
 五百年の間、ずっといだいてきた想い。
 まだ入口に立って戸惑っている自分からは、想像もつかない想いを沈めてきた瞳を見つめる。
 その色に、ふと、意識せず言葉が口から零れた。
「ファー、――泣いてるの?」
「え?」
 ルシファーは瞳を丸くし、アスタロトの言葉の意味を理解しようとするように見つめている。ルシファーの瞳に涙が浮かんでいる訳では無かったが、アスタロトにはそう見えたのだ。
 ややあってルシファーは瞬きをし、驚きを含んだ笑みを刷いた。
「――まさか。ずいぶん前の事よ――。本当はね、あの時悲しかったんだろうなって、そう想像するだけ。今はもうね」
「ファー」
「もう行かなくちゃ。次に会う時は、こうして声なんてかけられないかもね」
 ゆるく吹き付ける風にルシファーの身体がふわりと浮き上がる。
「だから、私のようになっちゃダメよ。それだけを言いに来たの」
「ファー! 待って!」
 アスタロトは濡れるのも構わず湖面に分け入り、ルシファーへ手を伸ばした。
「ファー、私――! 私も」
 伸ばした手の先にはもうルシファーの姿はなく、太陽だけが強い陽射しを投げていた。
「――」
 眩しさに瞳を細め、手をぎこちなく下ろす。
 自分が何を言おうとしたのか――唇を噛み締めて首を振る。
 足首を湖の冷たい水が洗った。




「ふふ」
 ルシファーは湖の波打ち際に立つアスタロトの姿を一度見下ろし、小さく笑みを零した。
「本当に、素直で可愛いわ」
 瞬きの後にはもう先ほどの湖ではなく、遠くボードヴィルの砦を見渡すヒースウッド伯爵邸の塔の上にいた。サランセラムの丘に、正規軍の一団が長方形の布陣を重ね広がっている。
 ボードヴィルでは必要な兵数はだいたい揃った。後はイリヤとファルシオンを会わせれば始まる。
「その中でアスタロトはどう動いてくれるかしらね」

『泣いてるの』

 ふっと声が甦る。
 視線を空の向こうへ投げる。
 ややあって一度瞳を伏せ、ルシファーは再び前を向いた。






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