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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第四章『言祝ことほぎ』

十三

 右手が軍服の上から、首に掛けたアルジマールの「護符」を探る。
 反応は無い。
 無いのに、焦燥感が募る。
「レオアリス、どうしたのだ」
 幼い声にそっと呼び掛けられ、レオアリスは半ば意識を逸らしていた自分に気付いた。
 金の瞳が心配そうにレオアリスを見つめている。
「いえ――申し訳ございません、殿下」
 慌てて詫びて、レオアリスは退室を述べる為に膝を付いた。
 ファルシオンはそれ以上尋ねなかったが大きな瞳を瞬かせ、何か思うところがあるように見える。
 イリヤがロカの果樹園からいなくなった事は、まだファルシオンには知らせていない。説明できるほどの材料も無い中で、単に行方が判らないと告げても心配を掛けるだけだ。先ほどまで同席していた大公ベールは事情を知っているが、やはりファルシオンの前でその話題を出そうとはしなかった。
「レオアリス、明日の夜会は、またこの間みたいに、ずっと私といるのだろう?」
「そうです。明日、五刻にお迎えに上がります」
 例年祝祭の最後の日に、王が夜会を開催する。王都近郊の諸侯のほとんどが参列する他、正規軍や近衛師団の将校も中将位以上が参列し、華やかに執り行われる。レオアリスは以前のファルシオンの祝賀と同様に、明日も王子の傍らに控える予定だった。
 ただどうしても、城下ではまだ祝祭が続いている事自体が、意識から遠退いている。
 明日も、自分が夜会の席にいていいのか――もちろん王太子の警護は近衛師団として最上位にある重要な任務だが、足元から焦燥が立ち昇ってくるような感覚が、そう揺さ振ってくる。
 ヴィルトールからの連絡を持ってくるはずのカイは、まだレオアリスの意識にも触れない。
「楽しみだ。お昼には馬競べコン・ルキスタもあるし。今年はどこが勝つのだろうな」
 弾んだ声からは、彼が心の底から明日を楽しみにしているのが判る。
 夜会が王城側の締めくくりだとすると、馬競べコン・ルキスタは街そのものの、祝祭最後を彩る一大行事だった。王都の東西南北の区域毎に、区域で選ばれた代表騎手が騎馬が、街門から王城の門まで王都を駆け上がる。十日間に渡る祝祭の中でも一番楽しみにされていて、例年騎馬が駆け抜ける様を一目見ようと、騎馬が通る通りから通り沿いの建物の窓や露台から、見物客で埋め尽くされた。
 勝者へは王城の広場で、王から冠と旗の授与される。ファルシオンは今年初めて、王と共に列席する事になった。
 馬競べコン・ルキスタと、夜会。それらが華やかであればあるほど、王都や国内の平穏と繁栄を物語る。
 祝祭は賑わっている。
 だが世界を一つ隔てた感覚だ。
 それでもファルシオンの言葉に、祝祭の賑やかさがレオアリスの脳裏にも少なからず蘇った。
 そう、王都は例年の賑わいを見せている。
 変わらず。
「私も、父上とご一緒に、勝者へ冠を授けるのだ」
 レオアリスは幼い王子を見つめた。ファルシオンの瞳は純粋に期待に輝いていて、胸の内に滲む不安を軽くするように思える。
 そしてまた、この二つの瞳が輝いているままに護らなくてはと、強く思った。
 幾つか言葉を交わした後、レオアリスはファルシオンの前を辞して館を出た。


 居城の門から続く王城五階の廊下に出ると、日没を過ぎて燭蝋を灯した廊下はひんやりと感じられた。
 窓の外に落ちた宵闇へ視線を向け、それからレオアリスはもう一度カイを呼んだ。
 戻らない事を半ば前提として歩き出したレオアリスの肩に、カイがふわりと降りる。
「――カイ?! お前」
 カイはレオアリスを見上げて首を傾げた。いつもと何も変わらない仕草にほっとして、レオアリスは肺の奥から息を吐いた。
「今までどうしてたんだ? ヴィルトールは?」
 カイが口を開く。ヴィルトールの声が流れる。
 時間が掛かっていただけで問題は無かったのだろうと耳を傾け、すぐにレオアリスはぎくりとカイを見つめた。
 ヴィルトールの言葉は、彼らがロカを発つ前に聞いた事の繰り返しだ。
 触媒を手掛かりに、転位の法術で追えそうだ、と。
「――カイ、それは聞いた。その後だ。転位はどうなった? まだ転位してないのか」
 カイは嘴を閉ざし、考え込むようにまた首を傾げた。
 ぐっと胃が重くなる。
「カイ、お前、ヴィルトールの所に戻らなかったのか――?」
 丸い瞳がぱちりと瞬き、カイは何を問われているのか判らないという表情を返した。
「――もう一度、ヴィルトールの所に戻れ。今の状況を知らせて欲しい」
 カイがふわりと浮き上がる。
 そうしたものの、ぐるりとレオアリスの周りを回り、戸惑ったように何度か同じ動作を繰り返した後、再びレオアリスの肩に降りた。
「――」
 こんな事が前にもあった。イリヤがファルシオンを連れて消えた時――
 辿れないのだ、ヴィルトールの気配を。
 レオアリスは首に掛けていた銀の護符を取り出し細い鎖をちぎると、手のひらに乗せたそれに、アルジマールから教えられた術式を唱えた。
 だが護符はただ鈍い銀色に燭蝋の灯りを映し、静まったままだ。
 再び唱えたもののやはり護符は何も応えず、レオアリスは踵を返し廊下を蹴って大股に歩き出した。
 大階段を下り、一階の広間を抜ける。中庭を巡る回廊を渡り終える頃には、既に駆け足に近かった。
 視線を上げると法術院の影がすぐそこにあった。





「トゥレス大将、面会の申し入れが」
「面会?」
 トゥレスは時計の盤面をちらりと見て六刻を過ぎているのを確認し、副将キルトのやや緊張した面持ちを怪訝な顔で眺め、次に出された名前に驚きと、それ以上の不敵な笑みを浮かべた。
「第一大隊のヴェルナー中将です」
「――へぇ」
「いかがされますか」
「断る理由はないしな、通してくれ」
「はい」
 程なくして扉が開き、ロットバルトが執務室に入ってくると、室内の空気は肌を撫でるような緊張を帯びた。
 丁寧に一礼する姿はいつも通り軍服を纏い、負傷の名残は微塵もない。
 トゥレスは笑みを浮かべた。
(無駄骨か。自分の立場を悪くしただけだったかもな)
 ロットバルトがトゥレスを訪ねて来た理由は大体判る。
(鋭いね、全く)
 どこまで辿り着いたのか。レオアリスから、トゥレスの話は聞いただろう。最低、ヴェルナー侯爵邸への入館記録は見ていると思っていい。
「これは、ヴェルナー中将。災禍に合ったと聞いて心配していたが、どうやら取り越し苦労だったようだな。見たところ負傷もなくて何よりだ」
 トゥレスはロットバルトがこんな言葉を信じない前提で、しれっとそう言った。
 ロットバルトが笑みを刷く。
「お陰様で――何とか事無きを得ました。飛竜を落とされた際に、正規軍の官舎を破損してしまいましたが」
 それまで座っていた執務机を離れ、トゥレスは傍らにある応接用の椅子を示した。自分がまず座り、正面にロットバルトが腰掛けるのを眺める。ロットバルトは腰に帯びていた剣を外し、傍らに置いた。
「災難だったな。うちにもばらばら話は聞こえて来てるが、王都で昼日中から大胆な行動をするもんだぜ。相手の想定は付いてるのか?」
「そうですね、心当たりは大将には挙げていますが、まだ表に出すほどの確証は得ていません」
 トゥレスの瞳を見据えたまま、ロットバルトは穏やかな口調でそう言った。
「ほぅ――レオアリスは何て?」
「確証が出るまでは何とも言い難いでしょう」
 トゥレスも視線を逸らさず、ゆっくりとした動きで背もたれに寄りかかった。
「どうして近衛師団を狙ったのか――同じ師団として腹立たしい限りだが、それにしたって今一人で動いていいのかよ。日中狙うからには、相手は相当焦ってるんだろう。まだ狙ってるかもしれないとは、思わないか?」
「その点は問題無いと思っています。一日の内に二度の襲撃は、逆に相手の意図を明確にして辿りやすくさせる――今のところ、私個人を狙ったのか、近衛師団の将校を標的にしたのかは判りませんが、私個人であれば、二つほど想定される理由があります。あくまで想定ですが……」
「その二つは?」
「ごく個人的な理由と、今抱えている問題と」
 後ろで聞いているキルトは、額に薄く汗を滲ませていた。
 ロットバルトの言葉は穏やかだが、隠されたものを暴くようだ。
 だが、トゥレスは面白そうな様子でロットバルトを眺めている。
「まあ第二大隊こちらを訪ねる事は言い置いて来ましたので」
「――」
 キルトは剣の柄に近付けていた手を、そろりと外した。
 ロットバルトがどんな表情をしているかは、キルトからは判らない。
(涼しい顔してやがる――)
 トゥレスは口の端を微かに上げた。明らかに揺さぶりを掛けに来ているのだが。
「それで、俺に何の話を? 襲撃について参考になる話が、俺にできるとは思えないんだが」
「個人的な問題の面で、お力添えいただけると考えております」
 トゥレスは眉を上げ、キルトを目線で宥めつつ、更に深く背もたれに身を預けた。
「思い当たらないぜ」
「昨夜、兄と話をされたとか」
「――ああ。レオアリスから聞いたのか」
「それと、館の入館記録も確認しました。他に懸案がありましたのでね」
 見た、ではなく、確認した、と言ったのは意図的だろう。
「ご存知とは思いますが、兄は侯爵が私に爵位を継がせるのではと、少々懸念を抱いているようです」
「確かに、ヴェルナー侯爵がそうお考えのようだとは、あちこち噂しているな」
「非常に困っているんですよ、正直私は、爵位を継ぐつもりは全くありません。近衛師団の方が性にあっているのでね。ともかく、それで一つ、トゥレス大将に依頼したい事があり、こちらに」
「俺に依頼? 俺が何か役に立てるかね」
「貴方なら」
 ロットバルトは区切るようにそう言い、蒼い瞳をすうっと細めた。
「次に兄にお会いになった時に、私にはその意志が無いと、トゥレス大将からもそれとなくお伝え頂きたいのです。不要な懸念で無意味な争いを起こすのは、侯爵家の利にはならない。目的を達成する為に取る手段を間違えれば、下手をすればヴェルナー侯爵家そのものの根幹を揺るがす事にもなり兼ねません」
 言葉には複数のものが含まれている。
「私もその為の配慮をする程度には、ヴェルナーという家に義理も義務もあります」
 本当にこの兄弟は似ていないな、と、トゥレスは正面の男の顔を眺めながらそう思った。
 母親が違えばそれも当然なのかもしれないが、根本的な視点が違う。
 普通であればこの揺さぶりは有効だ。ロットバルトの読みはほぼ当たっている。表に出しているヘルムフリートとの確執の裏の、もう一つ。
 その上で、大胆な牽制――ある種取引ではある。
(だがこの考えを、あの御仁が受け入れられるとは思えねぇ)
 その意味ではロットバルトもまた、ヘルムフリートを理解してはいない。
 二者の間には――ヴェルナー侯爵も入れて三者か、とトゥレスは思い直した――三者の間には決定的な溝があり、埋まる事は無いのだろう。
 トゥレスは苦笑と共に、背もたれから身を起した。
(貴族ってのもなぁ。あんまり持ち過ぎてんのも面倒くせぇ)
 だが自分は、ヘルムフリートの方の心情を理解できる、とトゥレスは嗤った。
(同情するぜ――いや、同病ってやつか)
「さすがに――次にいつお呼びが掛かるかも判らない俺なんかに、あんたの言う通りにはやりようもないが――」
 侯爵家を継ぎ動かすのに相応しいのは、ヘルムフリートではない。
 侯爵の考えには情が無いが、それを選ぶのはまあ、正しい。
 相応しい能力を有した者が、権利と責任を負うのが。
「機会があったら伝えよう。期待に添えない答えだったかね」
「いえ、充分です」
 トゥレスは立ち上がり、挨拶代わりに右手を差し出した。ロットバルトも傍らに置いていた剣の鞘を掴んで立ち上がりながら、差し出された手を握る。
 トゥレスはロットバルトの左手の剣に視線を落とした――手を伸ばせば簡単に、柄を引き抜き様、斬る事ができる。
 哀れなあの男の為に、今ここで自分が手ぐらい汚してやってもいいのかもしれない。
 トゥレスは口の端の笑みを吊り上げた。





「アルジマール院長!」
 扉を開きながらアルジマールを呼ぶ。幸いアルジマールは正面の机に向かい、開いた書物に頭を突っ込むようにして熱心に読んでいるところだった。驚いた様子で頭を上げ、レオアリスを見つめた。
「どうかした?」
 レオアリスは机の前に立ち、右手に掴んだままだった護符を、書物が山積みになった卓上に置いて差し出した。鎖が机の表面を小さな音を立てて滑る。
「もういいの?」
「術が働かないんです。今すぐ飛びたい、発動させてもらえますか」
「ええ、そう? おかしいなぁ」
 君は術式間違えないよねぇ、と言いつつアルジマールは銀色の小さな板を取り上げ、口の中で二言、三言、呟いた。
 ふっと銀板が光を纏う。レオアリスは期待に身を乗り出したが、アルジマールはしばらく見つめて、灰色のかずきの下で瞳を細めた。
「無理だ。壊れてるよ、これ」
「――壊れてるって、」
 レオアリスは喉の奥に引っ掛かる塊のような感覚を、飲み込んだ。「何で……何があったんだ」
「対になるもう一つが無くなってる」
「――」
 アルジマールの言葉に頬をはたかれたように、レオアリスは一瞬その場に立ち尽くした。
 両手の拳を握り締める。
「まさか」
「何かあったのは間違いない。仮にもこの僕の創った触媒を壊すなんて――デュカーもいるのに」
 鼓動が早い。
 アルジマールの法術を壊す相手――
「――ルシファーが」
「そうかもしれない。彼女は一度これを見てる」
 レオアリスは机に両手をついて身を乗り出した。ついた手に早い脈動を感じる。
「今すぐ、追えませんか。俺の伝令使も気配を掴めない――でも貴方の法術なら」
 伝令使もか、とアルジマールが苦い声を出し、レオアリスは口を閉ざした。
「――」
「そうしたいけど難しい。繋いでた糸が切れて、途中が失われたような状態だからね。手繰る先が無いんだ」
「大体の場所だけでも」
「君の気持ちは判るよ、僕も心配だし、可能な限り探ってみる。でも君、今王都を離れられるのかい?」
 レオアリスは答えに詰まって視線を落とした。
 ファルシオンの守護は条約再締結当日だけの話ではなく、その為の調整が既に始まっている。
「――対応を考えます。ですがもしルシファーが関わっていたら、俺が出なくちゃ話にならないかもしれない」
 アルジマールはレオアリスをじっと見て頷き、判ったらすぐに知らせる、と言った。






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