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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第四章『言祝ことほぎ』

十二

「おかしい……」
 レオアリスは口の中でそう呟いた。
「いかがされましたか、大将殿」
 傍らにいて尋ねたのはファルシオンの侍従長ハンプトンだ。ファルシオンの館へ上がる為、レオアリスは侍従達に案内され、王宮の白の廊下を歩いている所だった。
 レオアリスの声に焦燥の響きがあるように思え、ハンプトンは心配そうに瞳を向けた。
「いえ」
 ハンプトンに対しては何でもないのだと首を振ったものの、レオアリスの内心には不安が滲んでいた。
 すぐにヴィルトールから転位の結果について報告があると思っていたが、レオアリスが士官棟を出る時にも、カイは戻らなかった。
(ヴィルトール達は転位で移動したはずだ。もう着いていてもおかしくはない。術が成功しなかったのか)
 カイを呼んでも反応すら返らない。こんな事は今までに無かった。
 ちょうどデュカーの術式の中にいるか――
 それとも、何かあったのだとしたら。
「――」
 もうファルシオンとの面会の時間が迫っている。今回はいつもの私的な面会ではなく、明後日、王都を預かる事になる王太子としての立場での様々な確認事の為で、内政官房長官ベールも同席を予定していた。
(ヴィルトールとファーレイだ、あの二人なら多少の困難は切り抜ける。問題は無い――)
 それに、ヴィルトールにはアルジマールの「護符」を持たせている。ヴィルトールが術式を口にすれば発動するが、レオアリスが今軍服の内に収めているその対となる転位の触媒は、何も反応していない。
 そう考えても、身体の奥に横たわる危機感が、じわりと大きくなっていくのが自分でも判った。
 先ほどのロットバルトとの会話が、尾を引いているせいもあるかもしれない。
 トゥレスという思いもよらなかった名前が浮上して、今立っている場所の視点だけでは捉えきれないものの影だけが足元を掠めるような、漠然とした懸念がある。
(カイ――)
 もう一度心の中でカイを呼んだが、応えはなかった。







「飛びます、こちらへ」
 デュカーは腰に括っていた皮袋から砂を掴み出し、足元に光る法陣の周りに、一回り大きな円を描いた。新たな円は内包した探索の法陣円と共に、強い輝きを放つ。
 先ほどと同じように、ヴィルトールやファーレイ達は光る線を踏まないように法陣に入った。
 腰に帯びた剣の柄に手を掛ける。
 靴底の地面の感覚が消え、再びの浮遊感を覚えた。
 軽い眩暈――次の瞬間には、足元の草地は色とりどりの模様を織り込んだ絨毯に替わっていた。
 つい先ほどまで触媒の鏡の中に見ていた、あの部屋だ。
 成功だとヴィルトールは詰めていた息を吐きかけ、ふいに身を削ぐような気配を感じて視線を走らせた。
(――)
 明確な理由の無いまま、選択を誤った、という考えが一瞬過る。ヴィルトールは右手を軍服の胸に当てた。
「中将」
 ファーレイが声を抑え左を指差す。「彼女です」
 広い寝台があり、娘が一人横たわっている。ヴィルトール達は法陣円から出て寝台に歩み寄った。
「ハインツさん」
 呼び掛けにラナエが瞳を開ける気配はない。ヴィルトールは手を伸ばしラナエの頬に触れた。
 頬は温かく、呼吸も規則正しい。
 ファーレイが懐から絵姿の紙を取出し、眠っている娘の顔を確認する。
「間違いないでしょう、ラナエ・ハインツです」
 ラナエから視線を上げ、ヴィルトールは改めて室内を見回した。
 立派な部屋だ、と一目でそう感じる。調度品も、壁紙や床に敷かれた絨毯、灯りを点した燭蝋、全て贅を凝らしたもので、品が感じられた。
 窓から見える眺めは、先ほど西日の落ちて行ったサランセラムの丘陵だ。今は宵闇に薄く浮かび上がっている。
「ここはヒースウッド伯爵邸か――」
 ヴィルトールの低い呟きにファーレイは頬を張り詰めた。
「まさか――」とは口にしながらも、ファーレイも館の様子からそれを理解している顔だった。
「ヒースウッド伯爵が、今回の件の首謀者だという事でしょうか。ルシファーか、西海と繋がって」
「伯爵が彼女を保護しただけだと願うばかりだね」
 ヴィルトールは扉へ歩み寄り、把手に手を掛けた。がちりと鍵が抵抗の音を立てる。内鍵ではなく、外から施錠されている。眉をしかめ、把手から手を離した。
「すぐに彼女を連れて退こう。デュカー殿」
 振り返る間際に、ふっと何かが頬を撫でた。何の気なしに頬に当てた指先に、生暖かく濡れた感触を覚え、視線を落とす。
「何――」
 血だ。認識すると同時に、じわりと頬に痛みが浮かんだ。
「ヴィルトール中将!」
 上ずったような隊士の声がヴィルトールを呼ぶ。
「デュカー殿が……!」
「何……だ」
 ヴィルトールは目にした光景に息を呑み、そして先ほどこの部屋に転位した時覚えた戦慄を思い出した。
 選択を誤った――

 いや

 デュカーは法陣の上にうつ伏せに倒れている。
 輝きが薄れ始めている法陣の線を更に塗り潰そうというように、血溜まりがゆっくり円の外へ広がって行く。
 喉を深く切り裂かれ、デュカーが既に事切れているのが一目で判った。
(いつだ)
 まるで気配を感じなかった。
 指に付いた頬の血が粘つく。
 この傷と同じだ。
 選択を誤ったという結論は、正確ではない。


 誘き出された。
 それが正しい。
 そして


「――窓から出る。ファーレイ、彼女を」
 ヴィルトールの指示に凍り付いていた隊士が我に帰り、窓に寄って腰に帯びていた剣を鞘ごと引き抜くと、力任せに窓硝子へと振り下ろした。
 音は一切響かず、剣が弾き返される。
「な……何だ?!」
「どけ!」
 他の二人の隊士がそれぞれ剣を振り上げる。剣はまるで甲斐は無く、再び弾き返された。
「どうなってる――」
「中将、これは」
 ヴィルトールは窓を睨み付けたまま、状況に思考を巡らせた。扉は開かず、窓はどんな術か、叩き割る事もできない。
 そうして出口を塞いだ上で、唯一ここを出るすべを持っていたデュカーの命を、真っ先に断った。
(初めから、狙っていたのか――)
 退路は閉ざされた。
 最初から近衛師団なりがイリヤとラナエを追ってくる事を見越し、ここに辿り着くように仕向けられていた。
 ラナエを容易く見つけた事も、カイが戻らなかった事も、相手の筋書きの中だ。
(違う――、私の判断違いだ)
 細心の注意を払う必要があったのだ、この件は。相手の姿はほぼ見えていたのだから。
 ヴィルトールは自分に対する腹立たしさに奥歯を噛み締めた。
 四人の部下とラナエを、せめて外へ出す方法はないのか――
 視界の端でふわりと、窓に掛かる日除けの布が揺れる。
「――窓から離れろ!」
 ヴィルトールの警告に、隊士達の苦鳴が重なる。
 赤く渦巻く風が三人を覆いっているように見えた。
「ロルフ、エトムント! ウーヴェ!」
 ラナエを抱えたファーレイが振り返り、崩れ落ちた隊士に駆け寄ろうとして、足を止める。
「っ――」
 ファーレイの背に、白刃の先が突き出していた。
 左胸を貫いた刃の柄は、彼が抱えているラナエの手に握られている。
「ファーレイ!」
「中、将……」
 ファーレイはラナエを抱えたまま、寝台に背中を預けるようにして床に座り込んだ。ラナエは初めから意識など戻っていない事を示し、床の上に力無く腕を投げ出している。
 ヴィルトールは剣を抜き放ち、軍服の懐から小さな銀の板を掴み出した。
 アルジマールが創った転位術の触媒――その対になるものをレオアリスが持っている。
 教えられた術式を唱えながら、ヴィルトールの中に一瞬、迷いが生じた。
 この袋小路にレオアリスを引き入れるのか、と。
 短い術式はあとほんの一節、それで術は完成する。
「――」
「それを使われたら面倒だわ」
 涼やかな声が耳元を過ぎ、ヴィルトールははっと顔を上げた。
 触媒を掴んだ左手に、風の渦が纏い付く。
 渦は手首から先を千枚の剃刀のように切り裂いた。



「止めろッ!」
 イリヤは座っているルシファーの服の胸元を掴んだ。
 イリヤの横に浮かんだ楕円形の鏡面の中で、ヴィルトールの左手首が切り裂かれ、握る力の失せた指の間から小さな銀の板が零れる。ヴィルトールは左腕を抑え込み苦痛の呻きを堪え、床に膝を落とした。
「いい加減にしろ! 何が楽しくて――彼等を……ラナエにあんな事を……!」
「安心して、刺したのはラナエの意志じゃあないわ。彼女には何の罪もない事よ」
「ふ……ざけるな!」
「でも、今目が覚めたらどう思うかしらね。自分の手と、周りを見て――」
「――」
 ルシファーはイリヤに喉元を掴まれたまま、凍り付き青ざめる彼を見上げて微笑んだ。
「貴方の選択次第よ、全て。何度繰り返すのも――私は構わないわ」
 金色と緑柱石の、二つの色をした瞳が、激しい怒りと苦悩に揺れる。イリヤは唇を噛み、よろめくように数歩後退った。
 震える手で顔を覆う。
 自分さえいなければ、とふと思う。
(――そうだ、俺が――)
 ルシファーは音も無く笑って、楕円に手を伸ばした。ルシファーの指先が触れた箇所が、水面のように丸い波紋を広げる。
 波紋に沈んだ手首から先が楕円の向こうの部屋に現われ、白い指先が、膝を付き苦痛に俯いているヴィルトールの前に落ちていた小さな銀の板を拾い上げた。
 ヴィルトールがゆるく顔を持ち上げる。
 白い手が空中の波紋に消える寸前、ヴィルトールは剣の柄を口に咥え、右手を伸ばしその手を掴んだ。
 イリヤが見つめる楕円の中からヴィルトールの姿が消える。
 気付いた時には、イリヤとルシファーの間に、ヴィルトールが立っていた。
 間近に姿を目にして改めて、イリヤは以前彼を見た事があると、思い出した。
 一度だけだが、王都の、ゴドフリー侯爵の園遊会で。
 レオアリスの部下だ。
 本来イリヤの為などに、ここにいるべきではない。
 ラナエを救い出そうとした彼等も。
「西方公――」
 左腕にかかる苦痛に肩で大きく呼吸を繰り返しながら、ヴィルトールはルシファーを見据えた。
「やはり貴方が」
「久しぶり、ヴィルトール中将。貴方がここに来たのは、残念だわ。王都に大切な家族がいるのに」
「――貴方が、全て手を引いているのか。殿下の略取と、ヒースウッド伯爵の、裏切りも」
「当たりよ。ボードヴィルもね。私はそちらにおられるミオスティリヤ殿下を次代の王とするつもり。殿下もそれを望んでいらっしゃるわ」
 ルシファーはヴィルトールの後ろにいるイリヤを示した。
「――」
「違う!」
 イリヤは喉を震わせて叫んだ。振り返ったヴィルトールの灰色の瞳を真っ直ぐ見据える。
「中将、剣を――貴方の剣をくれ。俺が、俺さえいなければいいんだから」
「あら、殿下、自害されては困るわ。ラナエも悲しみのあまり、死んでしまうかもしれない」
 ルシファーが喉の奥で嗤う。ヴィルトールは驚いた色を浮かべたものの、イリヤの蒼白な面を見つめ、そして目礼するように一度瞳を伏せた。
「殿下――。私は幼い頃、あなたの母君、シーリィア第二王妃殿下を拝見した事があります。ご婚礼の儀の際でしたが」
「剣を。でなければ、俺を斬ってくれ」
「貴方は本来であれば、我々近衛師団がお護りすべき立場にあられた」
「ヴィルトール中将!」
「諦めなさい、ミオスティリヤ殿下。ヴィルトールはそんな事ができる人間じゃないし、何より王が貴方を二度生かし、そしてレオアリスは王の意思を知っている。貴方の望みが正しかったとしても、斬れる訳がないわ。ねぇ」
 ルシファーの言葉は半ばヴィルトールに向けられたものだ。イリヤは首を振り、剣を提げているヴィルトールの右腕を掴んだ。
「仕方ないんだ! 俺がここにいたら、沢山の人に迷惑が掛かる。もう充分だ――父上は、俺を生かすべきじゃなかった」
 ヴィルトールはしばらく黙っていたが、やがてイリヤの手を解き、その手をイリヤへと戻した。穏やかな笑みがヴィルトールの口元に浮かぶ。
「――イリヤ・・・。私はね、子供を斬りたくは無いし、斬るつもりも無いんだよ。だって君が今どんな立場にいようと、これから幾らだって変えていけるんだから」
 イリヤが首を振る。
「貴方達の命に、代えていいはずがない」
「奥さんもいるし、子供も生まれるんだろう。それじゃあ、君はどうにかして生きて、二人の処に戻らなきゃいけないな。可愛いからね、特に娘は」
 ゆっくりとした動作で振り返り、ヴィルトールは剣の切っ先をルシファーの首筋に突き付けた。
「まあ、君に負わせる事になるんだから、私自身褒められたものじゃないが」
「ヴィルトール中将! 駄目だ!」
「――」
 ルシファーは膝の上で手を組んで優雅に椅子に腰掛けたまま、ヴィルトールを見上げている。
 ヴィルトールが微かに言葉を発する。
 途切れていた法術の、最後のひとひら――
 ルシファーが手のひらに載せていた銀の板が、光を放つ。
 ルシファーの微笑みが深まり、次の瞬間、ヴィルトールの左肩から胸にかけて、血を吹き上げた。
 ヴィルトールの身体がぐらりと揺れ、イリヤの足元に倒れかかる。イリヤは咄嗟に膝をついて手を伸ばし、倒れたヴィルトールの身体を抱え、椅子に座ったままのルシファーを見た。
 瞬きも忘れ見開かれたイリヤの二つの瞳から、零れ落ちた涙が頬を伝う。
 強い光を放つ銀の板を、ルシファーは壊れ物を包むように手の中に収めた。光が指の隙間から零れ――薄れて消えていく。
 その光が何だったのか、イリヤには判らない。けれどルシファーが希望を断ったのだと、それだけは判った。
 ルシファーはそっと手を開き、唇から息を吹き掛けた。
 まだ辛うじて光を帯びた銀の粉が、雪を散らすように室内に舞う。
 束の間、きらきらと光るそれを追っていた暁の瞳が、イリヤの上に戻された。
「貴方は、何を選ぶの? ミオスティリヤ殿下」
「――最低だ、あんたは」
 微笑みだけが答えを返す。
 イリヤはヴィルトールの身体を抱えながら、自分の頬を伝う涙にも未だ気付かないまま、ルシファーを睨み付けた。
 目の前の女が、全身が震えるほど憎い。
 けれど何より、彼等を救う為の行動を、何一つできなかった自分自身が許せなかった。
 ルシファーが手を差し伸べる。美しく、心をほぐす笑みだ。
 噛み締めた唇が切れ、血が滲む。鉄の味が脳裏に差し込むのを感じながら、イリヤは鉛のように重い腕をのろのろと上げた。






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