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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第三章『陰と陽』


 ふわりと柔らかい手が髪を撫ぜ、ファルシオンはひたすら庭園へ注いでいた視線を上げた。春の彩りに満ちた庭園は美しく穏やかだったが、庭園を眺めていた訳ではない。
 見上げた先で優しい藤色の瞳が微笑む。エアリディアルは白い可憐な面を傾けた。
「どうかなさいましたか、ファルシオン殿下。今日はずっと上の空ですね」
「ご、ごめんなさい――姉上」
 ファルシオンは慌てて身体を戻し、椅子の上に座りなおした。せっかくエアリディアルがファルシオンを訪ねて来てくれているのに、他の事を考えてしまった。
 太陽の光がふんだんに降り注ぐ温室は、開け放した硝子戸から爽やかな風が流れ込み心地よい。それでもファルシオンの面は浮かない表情で曇っていた。
「考え事ですか?」
「――」
 ファルシオンが躊躇って下を向く。口にしたいけれどできない、幼い心の中の葛藤が見えた。
 エアリディアルは扉口に立つハンプトンへ眼差しを向け、ハンプトンが丁寧なお辞儀を残して温室の外に出る。藤の小さな卓をはさんで座っていた椅子から立ち上がり、ファルシオンの前に膝を付いた。身に纏う柔らかな布がふわりとその動きを追う。その仕草だけで心が解されるように感じられる。
「どんな事も、ここではわたくししか聞いていません。わたくしは貴方の姉であり、貴方はわたくしの弟――それだけの立場、何を仰ってもいいの。貴方が何故悩んでいるのか、姉様に教えてくれる?」
「姉上……、私」
 ファルシオンは金色の大きな瞳を瞬かせ、温室内を一度見回した後、エアリディアルを見つめた。おずおずと口を開く。
「――父上は、なぜ私に王都のしゅごを、お命じになったんでしょう」
 エアリディアルが長い睫毛を伏せ、そこに一瞬過った深い憂いを隠した。再びファルシオンへ向けられた瞳にあったのは、幼い弟を気遣う色だけだ。
「不安ですか? いえ……そうでしょうね。重要なお役目ですもの」
「とても、大変なことなんだってわかります」
 たった一日の事とは言え、国主の役割を負うのだ。
 ファルシオンが幼い決意を秘めて頷く。
「父上からこのお役をいただいて、私はとても嬉しいです」
 ただそこでしばらく、瞳に光を揺らしたまま黙ってしまった。
「――ファルシオン?」
 エアリディアルの優しい響きに、きゅっと唇を引き結び、それから顔を上げた。
「――私が王都のしゅごをするから、レオアリスは父上のお側につけなくなったんでしょうか」
「まあ……」
 エアリディアルはそっと息をひそめた。「誰かが、殿下にそうお話を?」
「いいえ」
 ファルシオンは首を振った。
 ファルシオン自身が一人で、ずっと考えていた事だ。
 二日前、王城の謁見の間で父王がファルシオンへ王都鎮守を命じ、そしてレオアリスをファルシオンの守護とした時、レオアリスはとても驚き、戸惑っているように見えた。
 レオアリスが本当は父王の側に付きたかったのだという事は、ファルシオンにも判る。
(だって父上の剣士だもの)
 たった一日ファルシオンを守護する為に、レオアリスは自身の一番の望みを諦めなくてはならないのだと、それがファルシオンの心をひっかいていた。
 そして、もう一つの、何かも。
 エアリディアルの藤色の瞳がじっとファルシオンの瞳を捉え、柔らかく微笑んだ。
「大将殿は、ファルシオンの事をとても大切に思っておいでですよ。たった一度お話しただけのわたくしにでさえ、それは伝わってきます」
「うん」
 昨日、父王不在時の対応を確認する為レオアリスがここに来た時も、レオアリスはファルシオンの守護を拝命し光栄だ、と言っていた。ちゃんとファルシオンの瞳を見て、いつもと同じ笑みで。
 それは本心だと判る。
 けれど――やはりそれ以上に、レオアリスは父王の側に付きたかったのだと思う。
 そして、ファルシオンもまた、レオアリスが父王の側に付くべきだ・・・・・と――そうでない事が不安だと――感じていた。
 何故だかは判らない、今のファルシオンでは、上手く表現する事のできない、微かな不安。その感覚こそが、一昨日からずっと、ファルシオンを密かに悩ませているものだ。
 ファルシオンはエアリディアルへ、その事を告げたかった。
「レオアリスは、父上のお傍にいないと、いけないのではないでしょうか」
 本当にそう思った。
 そうでないと――
 多分上手く伝わる言葉ではないだろうと、眉を寄せる。「ええと」
 ファルシオンのもどかしさは充分エアリディアルに伝わって、不安を宿した金色の瞳を見つめ、エアリディアルはその不安を拭うように、弟の癖の無い銀色の髪を撫ぜた。
「大丈夫よ。父君がお考えになった采配なのだから、貴方がお心を悩ませる事はありません」
 藤色の瞳が、ふと宙へ向かう。透明な大気の流れを追うように、微かな。
「きっと……今回は大将殿を守護とする必要の無い、バルバドス皇国との和を深める為のものだからです」
 それはまるで、自らに言い聞かせているかのようだった。エアリディアルはファルシオンへ瞳を戻すと、心を解すように穏やかに微笑んだ。
「何も、ご心配なさる事はありません」
「――うん」
 ファルシオンがこくりと頬を上下させる。その柔らかな頬をエアリディアルの白い手がそっと触れた。



 エアリディアルはファルシオンの館を辞した後はどこにも立ち寄らず、王城をぐるりと廻る回廊を歩き、同じ階の北面に位置する自らの館へと戻った。
 穏やかな光に満ちた居室へ入ると、そのまま静かな足取りで部屋を横切って北面の硝子戸を押し開け、流れ込む風を抜けて張り出した露台へ出る。柔らかな絹を重ねた衣装の裾に風が遊ぶ。
 その風が去る方を束の間追いかけ、エアリディアルは白い欄に近寄り両手を置くと、青く澄んだ空と、その下に広がる王都の街を眺めた。
 見渡す王都は『美しき花弁アル・ディ・シウム』という名のとおり、重なり合う花弁のように幾重にも街並みを広げている。今は色とりどりの布で祝祭の飾り付けを施され、普段よりもずっと華やかだ。
 ただその華やかさに向けられたエアリディアルの面には、今は明瞭な憂いがあった。
 昨日、エアリディアルは父王へ、面会を申し入れていた。
 王がファルシオンを王都鎮守に命じたと聞いたからだ。
 王が不在時に、王太子へ守護を任命するという事そのものは、おそらく珍しくはないのだと思う。自分の不安には根拠など無く、また単なる推測程度のものですらない事もエアリディアルは理解していた。
 面会が叶わないか、王の執務の日程上数日の時間を要するかと考えていたが、意外にも王の侍従長からはその日の内に面会を許可する返答があった。



 自分の心にさえ確信のないまま、王との面会に赴いた。
 居場の執務室で父王の前に控え、両膝をつき面を伏せて王の言葉を待つ間――この静寂に沈んだ執務室の空気を感じながら、エアリディアルはもう心を決めていた。
 告げなければいけないし、それが自分の――こう生まれ付いた自分の責務だと思っていた。
 おそらく、ほとんどの者が垣間見る事の無い王の心の片鱗を、エアリディアルは視る・・事ができた。意味を認識できる言葉になる訳ではないが、その複雑で、けれど明確な色彩が瞳の奥に浮かぶ。
 何事かしたためていた筆を置き、王がエアリディアルへと黄金の瞳を向ける。静謐さを湛えた、それでいて向き合う者を射竦ませる双眸が、ふと穏やかになる。
「そなたがここを訪れるのは珍しい事だ」
 エアリディアルは面を上げ、王の双眸と向き合った。
「陛下、この度の条約再締結の儀式への御行啓を、お取り止めになることは叶いませんか」
 黄金の瞳が僅かに細められ、次いで笑い声が流れた。
「それができると、そなた自身考えている訳ではあるまい」
「一国と一国の決めごと――簡単に覆す訳にはゆかないことは、わたくしも承知しております。けれど敢えて、そう問わせていただきたいのです」
「何か見えたか。……そなたの瞳に」
「――いいえ」
 エアリディアルに知る事ができるのは、あくまでもその意志が帯びる色彩――予知とも違う。
 ただ瞳に浮かぶその色が。
「わたくしの、不安です」
 束の間、王はエアリディアルの瞳を見つめた。
 臆する事なく眼差しを返すエアリディアルへ、王は微かに笑みを刷いた。一国の王としてか、父としてか、その狭間にある笑みだ。


 一言、憂う事はないのだ、と――


『それが、国というものだ』




「嘘です、陛下――」
 雨に濡れた藤の花のような瞳の色が、睫毛に隠される。露台を吹き過ぎる風が長い銀の髪を散らした。
「それがどれほどの悲しみを、貴方の周囲にもたらすとお考えですか」
 目前に王がいるかのようにそう問い掛ける。


『エアリディアル、そなたは聡い眼を持つ。それを国の為に役立てよ』



「エアリディアル様」
 そっと呼び掛ける声に、エアリディアルは伏せていた瞳を上げた。振り返ったその面からは、たった今まで浮かんでいた不安の色はぬぐわれている。
 露台の硝子戸の前に立ち、侍従長が恭しくお辞儀する。
「文書宮長殿と面会のお約束のお時間でございます。お通ししてよろしいですか」
「ええ――今行きます」



 エアリディアルの姿を見て、スランザールは椅子から立ち上がり、文書宮のゆったりとした官衣を揺らし深々と一礼した。天井を高く取った居間は、北一面の窓から柔らかな午後の陽射しが広い室内を静かに満たしている。
「拝謁をお許しいただき、恐悦に存じます、エアリディアル王女殿下」
「ようこそお越しくださいました、スランザール様。わたくしこそ、貴方にこうして訪ねていただけて、嬉しく思っております」
 エアリディアルはスランザールに椅子を勧め、自分もまた正面の椅子へ腰掛けた。スランザールも改めて腰を降ろす。
「祝祭は賑わっているようですね」
「はい。今年は例年よりもまた人出が多うございます。みな屋台や出し物を楽しんでいるものと」
 侍従長が二人の間の丸い卓に陶器の杯を置き、恭しい仕草で薫りの良い紅茶を注ぎ終えると、お辞儀して前室へ下がった。
 白い両開きの扉が静かに閉ざされる。壁の白とあいまり、広い居間は一つの静謐な世界のようになった。
 エアリディアルは左手を延べスランザールへ紅茶を勧めた。スランザールが目礼を返す。
「貴方はもう祝祭へは行かれましたか」
「なるべく空いている時間帯を見計らって、街の様子を見て回る程度でございます。あの人波を楽しむには少々、歳を取りすぎておりますからな」
「そう――本当に賑わっているのですね」
 エアリディアルは微笑みを浮かべた。
「ファルシオン殿下が、近衛師団の演目をご覧になったのだとお伺いしました。先ほどお目にかかった時、とても楽しかったと、そう仰っておいでで」
「ファルシオン殿下はご活発で、好奇心も旺盛であらせられる」
 微笑ましさにスランザールは皺顔を緩めた。
「祝祭をご覧になりたいとお考えになるのは当然でございましょう。街中はなかなか難しゅうございますが、近衛師団の、それも第一大隊の演目であれば何も心配はございません」
「わたくしも――行ってみたい」
 半ば無意識に近い響きだった。スランザールは白い眉の下で、小さな眼を瞬かせた。
 エアリディアルはファルシオンとも違い、公的な用件以外では街へ出た事が無い。おそらく――生まれてから一度も。
「――祝祭を御覧になるのも、大切な務めでもございましょう。もしお望みであれば私から陛下へ進言致しましょう。僭越ながら私がご同行させていただきます」
「――わたくしが、祝祭に?」エアリディアルは藤色の瞳を見開いた。「本当ですか」
 澄んだ瞳に押さえきれない憧れの光を見い出し、スランザールは今の今までその事に考えが至らなかった自分を恥じた。
「陛下もお許しくださるでしょう。上層の、王城区域付近に限るという事になりましょうが」
「かまいません。ええ、本当に――。ほんの少し、見るだけで良いのです」
「また、ご不自由ではございますが護衛も同行させていただきます。近衛師団の――第三大隊は条約再締結への準備がございますから、第一大隊か第二大隊――」
「それは――迷惑ではありませんか?」
「王家をお護りするのが近衛師団の任務でございます。それに戦地に行かれる訳でもございません」
 スランザールは白いひげに手を当てた。護衛であればレオアリスが適していると考え、しかしレオアリスではファルシオンも行くと言い出し兼ねないと思い直す。それに何より、レオアリスは既にファルシオンの守護という任務を得ている。
 第三大隊が条約再締結での王の護衛、第一大隊が王太子の守護の任を与えられていながら、第二大隊に何も主要な任務が無いのは、第二大隊の隊士の不満も募るだろう。
「おそらく第二大隊のトゥレス大将が、御身の護衛に付くことになりましょう」
「そ、う……。では、陛下のお許しが頂ければ」
 ふと考えるような瞳をした後、ただすぐ、エアリディアルは僅かに顔を傾けて微笑んだ。
「楽しみにしております」
 椅子にかけたまますっと背筋を伸ばし、手を膝の上に組む。
 それまで柔らかく春の陽射しそのままに満ちていた空気が、朝方の澄んだ静謐を思わせるそれに変わる。
 藤色の瞳が、じっとスランザールへ向けられた。
「スランザール様、今日、こちらへいらしたのは」
 スランザールもまた、椅子の上で姿勢を正した。
 呼吸がひとつ、聞こえた。
「エアリディアル王女、貴方の瞳はこの国の未来を映すはず――」
 室内は、微風が壁際の花瓶に活けられた花を揺らす音が聞こえるほど静かだった。遠くで鳴く雲雀の声。
 スランザールの皺枯れた声が落ちる。
「どうか陛下を、説得してはいただけませぬか」






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