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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第三章『陰と陽』

十六

 緩く湿度のある風が肌に吹き付ける。
 風は足元の落ち葉を巻き上げ、身体にまとわり付くように舞わせると通りを抜けて行く。夜に入ってから、南から強い風が吹き付けた。
(雨が来るな――)
 ちらりと南の空を見上げて夜目にも黒い雲を確認し、足を早める。ブロウズはロットバルトから預かった書状を携え、ヴェルナー侯爵家の館へと道を急いでいた。
 夜の九刻を過ぎて、貴族達の屋敷が立ち並ぶ王城第三層は城下の街と比べて街灯も多くはなく、人通りの無い通りは深夜のように静まり返っている。通りに横たわる夜の闇の更に影を選び、ブロウズはその任務の習性で足音を忍ばせて歩いていた。
 ちょうど月が雲に隠れた時、十間ほど先の、右手の細い路地から人影が現れた。ブロウズは余り意識しないまま、斜め前の街路樹の陰に足を止めた。
 男だ。
 男はブロウズには気付かず、ブロウズが向かっていた方向へと歩いて行く。
 疎らな街灯の灯りに束の間浮かんだ姿を眼にし、ブロウズは息を潜めた。
「トゥレス大将――」
 夜目にではあるが、横顔は先日見たばかりで記憶に新しい。
 ゆっくり遠ざかるトゥレスの背を視線で追いかけ、ブロウズは後を付けるべきか束の間躊躇った。
 ロットバルトからは当面トゥレスには近づかないよう指示を受けたものの、あの王女への言動は、トゥレスに何らかの意図があると考えられた。
 今は何の目的でここにいるのか――貴族の屋敷が立ち並ぶ、ここ第三層に。
 ロットバルトはブロウズを外した後に別の者を付けたはずだが、姿が見えない。
(巻かれたか――)
 迷ったのはほんの数瞬の事で、ブロウズはすぐにトゥレスの後を追って歩き出した。
 トゥレスは一見ゆっくりと、その実周囲を警戒しながら歩いて行く。
 しばらく後を追う内、このまま行けばその先どこに到達するのか想像が付き、ブロウズは次第に青ざめた。
 良く知っている道だ。まさに今、彼が辿ろうとしていた。
 これまで何度と無く通った道は、眼をつぶっていても景色を浮かべる事ができる。
 あの先の角を曲がれば……
(曲がった)
 ただそれだけの事が、心臓が縮むほどの衝撃だった。
 深呼吸をして用心深く気配を抑え、ブロウズはゆっくりとその角へと進んだ。
 この先は、もう一本道になっている。今歩く通りの左側の高い塀は全て、その屋敷の敷地を囲み守る壁だった。
(まさか――)
 息を呑み、角からそっと、トゥレス達が曲がった先を覗き見る。
 かなり先に、トゥレスの後ろ姿が見えた。
 トゥレスが屋敷の通用門を潜る。
 ブロウズは早まる鼓動を極力抑え込んだ。
 まさか――。けれど確かに入った。
 塀の向こうに広がる木立が風を受けて騒めく。
(どうする――ロットバルト様に報せるか……。だが、ただ邸内に入った、では報告のしようもない。どなたかに呼ばれただけという可能性の方が……)
 ブロウズは戻るべきか束の間逡巡し、それから意を決すると角を曲がって通りに踏み込んだ。
 門の前に立つ衛兵は、ブロウズの顔を見て、特に誰可(すいか)もせず、眼だけで挨拶を交わす。トゥレスが向かった先を衛兵に尋ねると、二人の衛兵は何の不審も返さずあっさり口にした。
「またヘルムフリート様に呼ばれたそうだ」
 驚きが浮かびかけた表情を抑え、ブロウズは問い返した。
「また? トゥレス大将は何度もおいでなのか。いつから」
「今まで二、三回、このくらいの時間にお呼びになっていたはずだよ。最近の事だ」
「ヘルムフリート様が――そうか」
「お前は今日は御館様へのご報告か?」
「そうなんだ。ロットバルト様の書状さ、急いで届けなくちゃならん」
 それだけを言って挨拶代わりに手を上げ、ブロウズは通用門を潜って、つい先ほどトゥレスが入った――ヴェルナー侯爵家の屋敷の裏門を潜った。


 広い敷地は裏門から伸びる道さえも丁寧に整えられている。左右に植え込みが並ぶ通路には、もうトゥレスの姿は無い。風が敷地内に植えられた樹々の枝葉をざざ、と揺らして過ぎる。ブロウズの衣服も強く煽られた。
(ヘルムフリート様がお呼びになった――近衛師団第二大隊の大将をお呼びになられるとは、重要な案件がおありなのだろうか)
 何故第二大隊に、とは思うが、ただ確かに近衛師団への案件があっても、ヘルムフリートはロットバルトのいる第一大隊にだけは、話を持って行かないだろう。
 第二大隊でも不自然ではない。
 ヴェルナー侯爵家の長子からの呼び出しに対し、対応を大将位が行うのも。
(しかしトゥレス大将はその事を第一大隊へは伝えていない。例え直接伝えはしなくても、近衛師団の組織として受ける案件ならば、ロットバルト様には伝わるはず)
 ヘルムフリートがトゥレスを呼んだのは、ごく私的な案件なのかもしれない。
(親交が深いとは思えないが――)
 自分などが首を突っ込む件ではないとも考えながら、ブロウズの足は半ば無意識に、ヘルムフリートの館へと向かっていた。




 風が窓を揺らす音と樹々の騒めきが交じる。
 近衛師団総将アヴァロンはレオアリスの報告を無言で聞いていた。
 消えたその住人が『誰か』、暗黙の了解の内に状況が語られる。
 このような事態は想定されたのだ――当初から。
 彼の存在が利用されれば国に混乱を招く。
 それを避ける為にはただ十八年前のあの日、第二王妃を処刑すれば良く、そしてまたイリヤが王都に現れた時、彼を処断すれば良かった。
 けれどレオアリスは、それを選ばなかった事は正しいと、今この瞬間でさえも強く信じていた。
(正しいとか――単なる俺の感情だ。でも間違っているとは思わない)
「近衛師団として表立って動く事は不可能だと承知しております。それでも今動かなければ、この件がどのような事態を招くか判りません」
 窓の外を塗り潰す夜の、その質量を計るようにレオアリスは瞳を細め、再びその前に立つアヴァロンを見た。
「調査及び追跡の為中将ヴィルトールと隊士数名、それから信頼できる法術士を最低でも一名、非公式に対応させる事をお許しください」
 アヴァロンは灰色の瞳をレオアリスの上に落とし、腕を組んで状況を吟味するようだったが、緊張しながらも揺るぎない意志の光を刷き回答を待つレオアリスに対し、ややあってその腕を解いた。
「確かに、看過は最も避けるべきだろう。もし連れ去ったのがルシファーか西海であったなら、恐らく目的は一つ」
 レオアリスはアヴァロンの言葉にぐっと息を潜め、一度斜め後ろに控えるロットバルトを見た。
 西海を挙げるのは、意識的に避けていた。
 四日後の条約再締結に大きく影を差すからだ。
 そのレオアリスの心中を読み取り、アヴァロンは躊躇なく言い切った。
「事に当たる場合は常に、最悪の事態を想定して動け。我が国にとって何が最悪か――」
「――」
 レオアリスは息を吸い、問い掛けた。
「万が一、条約再締結前に西海の関わりが判明した場合、条約再締結は」
「再締結は行う。そこは変わらぬ。まず最重要はこの国の維持だ。平穏のままにな」
 王の守護者を表わす王布を揺らし、アヴァロンはレオアリスを見据えて明瞭に告げた。
「ただしレオアリス、お前の動きは変わってくるかもしれん」
 室内の意識が一点に収練する。
「この件、調査はお前に一任する。また第一大隊はファルシオン殿下の警護を名目とし、即時対応の態勢を取れ。第二及び第三も条約再締結に備えて最上位の警戒態勢を敷く」
 レオアリスは左腕を胸に当て敬礼し、一礼して立ち上がった。
「承知しました」
 踵を返して退出しかけ、レオアリスはどうしても問い掛けたい事が頭から離れず、足を止めた。ロットバルトが半ば廊下へ出たところで振り返る。
「――」
「どうかしたか」
「閣下」
 レオアリスはもう一度、アヴァロンへ向き直った。
「西海には、本当に条約再締結の意思はあるでしょうか」
「――」
「今この状況で、陛下が西海に赴かれる事は必要ですか」
 しばらくその深い眼差しを向けた後、アヴァロンは先ほどと変わらず明瞭に告げた。
「西海の思惑がどうあろうと、我等がすべき選択は変わらぬ。その為にはまず両者が卓に着かねばならん」
「……私には、どうしても」
それ・・を引き継ぐのはファルシオン殿下であり、そなた達だ」
 レオアリスは言葉を飲み込み、アヴァロンの灰色の瞳を見た。
 アヴァロンは何を差して、引き継ぐ、と言ったのだろう。
「――」
 アヴァロンは、スランザールは、――王は、何を見ているのか――
 そう問いたくて問えなかった。
 三者がそれぞれ違う視点でそこに何かしらの問題を捉えていながら、誰からもその問いに対する答えは無いだろうと判っていたからだ。
「失礼致します」
 レオアリスは再び一礼し、アヴァロンの執務室を出た。靴音の響く廊下を玄関へと向かう。
「グランスレイと、ヴィルトールは」
「士官棟にもう着いている頃です。アルジマール院長へは、守秘を前提として追跡に長けた法術士を出していただけるよう依頼しています」
「ヴィルトールには悪いが、法術士が整い次第出てもらう事になるな」
「足取りを掴めたら理由を付けて隊を出します。おそらくその段階で、貴方の対応が必要になるでしょう」
 レオアリスは廊下の先にわだかまる闇を見つめ、頷いた。
「三日の内に決着が付けられればいいが――」
 いつの間にか降り出した雨が、今は総司令部の窓を激しく叩いていた。




 ヴェルナー侯爵家の長子、ヘルムフリートの館が夜の中に浮かび、ブロウズは近付くにつれ全身の神経を張り巡らせた。
 そう遠くない場所、遮る木立の向こうにもう一棟、館の影が見える。ヴェルナー侯爵が住まう本邸だ。当主の館のすぐそばに長子の館が置かれていた。
 庭園に面した館の一角の窓に明かりが灯り、人影を映している。人影は室内を動き、窓の前から消える。
 ブロウズは気配を殺し、そっと窓の下に身を潜めた。
 訓練した耳が微かな声を捉える。
 一人はトゥレスと思しき男の声――、そしてもう一人、ブロウズには良く聞き知った声。
(ヘルムフリート様――)
 確かにヘルムフリートの声だ。
(――何を話しておられるのだ……トゥレス大将と)
 ブロウズは神経を集中させ、室内の声に耳を澄ませた。途切れ途切れに――トゥレスの声、ヘルムフリートの声が交じる。
 現状、四日後の不可侵条約
(……再締結……第二……)
 窓を隔てた声はくぐもって聞き取りにくい。
『貴方の意図に……難しい……保証を』
『言質が……無礼な』
『……確実……、書面でが……』
 ヘルムフリートが笑い、トゥレスも何か早口で返す。一瞬緊迫感が漂い、それから口調が他愛ないものに変わった。
 ヘルムフリートが何かを問う。トゥレスが窓際に寄ったのか、声がやや大きくなる。漏れ聞こえた単語に、ブロウズは息を詰めた。
『それは貴方の件とは全く別ですよ。ロカという街で、少々手を貸した程度です。お互いの利害一致でね』
(ロカ――)
『貴方に無関係という事もないか――貴方の弟君が深く関わっている』
『……など知らん』
『そうですか、なかなか冷めたご兄弟ですね』
 トゥレスの声は窓を隔ててさえも愉悦が滲んでいる。
『ああ、貴方はその件から崩しても良かったかもしれませんよ。証拠を揃えるのはかなり困難ですが、確実な方法だった――』
(トゥレス大将がロカの件に絡んでいたとは――)
 ロットバルトに報告しようと立ち上がりかけた時、トゥレスの次の言葉が聞こえた。
『他人を入れて父親を殺すよりもね』
 ブロウズは浮かせかけた膝を止めた。
「殺す――」
 父親――
(御館様を……まさか)
 鼓動が早まっているのが判る。
 ヘルムフリートがトゥレスを呼んだ目的は
(ま、まさか。聞き間違いだ。そう、別の)
『まあ、もうあの件は西の御人の手に移った。残念でしたね、不自然なく二人を排除する絶好の機会でしたが』
 苛立ちのせいか、ヘルムフリートの声が大きくなる。
『余計な話はいい。お前が兵力を約束するなら、私は必要な資金を援助する。その後の地位もな』
『結構です』
 それから窓の傍を離れたのか、再びトゥレスの声が小さくなる。
『では私は、……』
 ブロウズは呆然と今の会話を頭の中で繰り返していたが、すぐに首を振って思考を晴らした。
(ロットバルト様に)
 いや、近衛師団に戻るよりもここはヴェルナー侯爵家の敷地内だ。侯爵が帰宅する時間には早いかもしれないが、まずは侯爵に伝えるのが先決だ。何よりも侯爵に注意を促しておかなければならない。
 灯りの零れる窓を見つめ、ブロウズは沸き上がる苦いものを喉の奥にとどめた。この件を侯爵に伝えれば、それが後継者の選定の決定打になるだろう。
(ヘルムフリート様は……)
 窓を見つめたままその場から後ずさり、ブロウズはそっと庭園の木立の影に身を引いた。
 抑えていた息を細く吐いたその時、ふいに伸びた手が肩が押さえた。
「どこへ行く?」
「!」
 振り返った正面に、トゥレスがいた。両眼を細め、ブロウズを見据えて、笑う。
「ずっと聞いていたな――」
「――貴様ッ」
 怒りと共にブロウズは懐から短剣を引き抜いた。
 トゥレスの手元から奔った剣が、短剣を握ったままの腕を断つ。
「――おぁ」
 手首から先を失った右腕を押さえたブロウズの腹を蹴り上げ、芝の上に転がった身体の左肩へ、地面に縫い止めるように剣を突き立てた。
「っ――」
「おやおや、見た顔だぜ」
 トゥレスの手が伸びて髪を掴み、ブロウズの顔を月明かりに向ける。剣が更に食い込み呻くブロウズの面を、トゥレスは冷笑を浮かべて見下ろした。
「確かそうだ。一昨日だっけかね、会ったのは。王女殿下の護衛か? ちょっとまずいな、そりゃ」
「――」
 ブロウズは痛みを堪えながら、抜け出すすべを探して素早く視線を辺りへ向けた。
 だが広いこの庭園で、周囲に人の気配はなく――頭の片隅で人払いがされていたのだと、ぼんやり理解した――この負傷では逃れようが無い。ブロウズの腕では、負傷が無くてもこの男から逃れるのは困難だ。
 トゥレスはまるで状況にはそぐわない、のんびりとした独り言を続けた。
「いや待てよ、王女殿下の護衛じゃさすがにここまでは来ねぇかな。――まあどっちにしろ生かしちゃ帰せねぇから、出所がどこでも変わらないんだが」
 面倒そうに肩を竦め、剣を突き立てたままのブロウズの身体を引きずって先ほどの部屋の前に戻ると、トゥレスは庭園への硝子戸を開けた。
 ブロウズの身体を床の上に投げ出す。
「鼠がいましたよ」
 ヘルムフリートは足元に転がったブロウズを見て、さっと細い眉を歪めた。
「お前は」
 荒い息を殺し、ブロウズはヘルムフリートの姿を見上げた。
(ヘルムフリート様……)
 心に暗い塊がのしかかる。
 ここにいて欲しくは無かった。
 トゥレスと話していたのはヘルムフリートでは無いのではと――淡い期待だったが。
 紛れもなく、ヴェルナー侯爵家の爵位継承者フォルージ、ヘルムフリート・ルドルフ‐フォルージ・フォン・ヴェルナーがブロウズを見下ろしていた。
 灰色の髪は父侯爵譲りだが、神経質そうな細い面はどちらかと言えば母親の血が濃い。他者を支配し寄せ付けない空気は、これまで置かれてきた立場や環境の中で培われたものだ。
 黒に近い茶色の瞳が強い不快を浮かべブロウズを見下ろした。
「お知り合いで?」
「――父の間諜だ。まさか」
 声には忌々しさと焦りが同居している。
 父侯爵がいつから、どこまで知っているのか――その不安と。
 トゥレスはブロウズ傍らにしゃがみこむと懐を探り、一通の書状を取り出した。血に濡れたそれを開き、唇を歪める。
「ばれてる訳じゃないみたいですねぇ。――貴方の弟君から、御父上に宛てた書状ですよ。ばれたのはロカの件らしい」
 トゥレスは荒い息をつきながらも尚じっと機会を伺っている男の顔を眺めた。
「なるほど、あの参謀殿の犬か。一昨日俺に付けていたとなると――全く油断ならないな。俺は結構、レオアリスにゃ信頼されてる自信があるんだがなぁ。参謀殿が調査してる段階か、もうレオアリスまで伝わってるのか――」
 ざらついた瞳がブロウズを見下ろす。「お前さんに聞いてみるしかないが」
 出血に朦朧としかける頭を努めて保ちながら、ブロウズはトゥレスを睨み上げた。
「――ロットバルト様からは、何を考えているか探れと、そう言われただけだ。あんたに付いたのは、一昨日が初めてで、すぐロカへ飛んだ――まだ、報告の段階ですらない……ついさっきまではな。今だったら報告すべき事が山とある」
「はは」トゥレスの口元が歪む。
「主想いだな。まだ何も伝わっていないから安心しろって事か。そういう奴は好きだぜ。――まあ俺が信じるなんて思ってないだろ?」
「――」
 低い、苛立ちを含んだ声が横からかかる。トゥレスはその響きに片方の眉を上げた。
「父上があれに貸したのか。お前は父上の信頼を得ていたが――それを」
「……ヘルムフリート様」
 ブロウズは血の流れ続ける身体を辛うじて起こし、ヘルムフリートの前に左手をついた。
「あ、貴方は、何をお考えです。御父上を――それも第三者の手を借りてしいそうなどと、そのような事を、本心から仰っておいでですか!」
 血が流れ過ぎて身体が思うように動かない。この状況から生きて抜け出す事は最早不可能だ。
 今ブロウズにできる事は。
「どうぞ、お考え直しください――! ヴェルナー侯爵家の名を自ら貶めるようななさりようを、」
「黙れ!」
 ヘルムフリートは額に滲んだ不快さを隠そうともせず、ブロウズの肩に突き立ったままの剣を掴み、引き抜いた。
「!」
 血が飛び散り、ブロウズが歯を食い縛ってよろめく。
 だが左手を床に付いたまま、倒れそうになる身体をぐっと押し留めた。
「ヘルム」
「薄汚い二つ首が! 貴様のような下賎げせんの輩が口にできる事ではない!」
 手を突いたブロウズの背中へ、振りかぶった剣を突き立てる。
 剣は左胸を貫いて刃の半ばまで埋まり、ブロウズは開いた喉から最後に息を押し出すと、声もなく崩れ落ちた。
 トゥレスは腕を組んだまま、止める素振りも無く、一連のヘルムフリートの様子を眺めていた。ブロウズが息絶えたのを認め、肩を竦める。
「あーあぁ。殺す前に聞く事があったでしょうに」
「……不要だ。屑が、役になどたたん」
 言い捨てたヘルムフリートの横顔へ、トゥレスは憐憫を隠した視線を向けた。
(嫉妬か……哀れだな。まあ判らないでもないが・・・・・・・・・
「この始末はどうします? さすがに俺も死体抱えて出たら怪しまれるどころじゃありませんよ」
「この程度の者の後始末などどうとでもなる」
「――よしなに」
 ヘルムフリートを斜めに見、想定も詰めも甘い、と密かに呟いた。
 手にした駒を活かす事も無く、配下を物のようにしか使う事を知らない。
 おそらくは周囲の者達の態度が、結果的にそう仕立てて来た。
(可哀相だが、俺がヴェルナー侯爵でも同じ事を考えるね)
 まあ事態が動くまで後四日しかない。その間くらいは耐えるだろう。
 立ち去ろうとして、思い付いた事がありトゥレスは足を止めた。
「ああ、しかし貴方の弟君は厄介だ、この際先に消した方がいいかもしれませんね。物のついでです、何ならそれも請け負いますよ」
 ヘルムフリートの面にこれまでとは違う激しい感情が昇る。
「後だ! あいつには結末を見せてやる。自分が無能だったと理解できるようにだ」
 トゥレスはあっさり口を閉ざした。
「承知しました。それでは四日後――西の狼煙を合図に」
 そう告げて丁寧に一礼し、ヘルムフリートを残して廊下へと出た。


 何食わぬ顔で裏門を抜けると、トゥレスは第二層の北地区にある自分の官舎へと足を向け、悠然と歩き始めた。ヴェルナー侯爵家の敷地は王都西に面している。この先の大通りを真っ直ぐ下れば、近衛師団第一大隊が管轄する区域でもあった。将校の官舎がある第二層、士官棟や兵舎がある第一層――
「まあ、御長男がなんと言おうと、俺は邪魔されたくないしなぁ。殺れたら殺っちまうか」
 折から降り出した雨が、瞬く間に雨脚を増し、トゥレスの髪や軍服を叩き濡らして行く。雨は先ほど庭園で流れた血を洗い流して行くだろう、と、暗い空を見上げて笑った。






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