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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第二章『風姿』

十二

 レオアリスは二刀を提げ、地面を蹴るとルシファーへと走った。左胸に受けた傷が引き攣るような鋭い痛みを発し、奥歯を噛み締める。
 二刀を出した事で回復を早めていた傷口が、再び開いている。回復しきらない内に動いたからか、ルシファーの風による傷だからか。
 身に纏う赤い衣装は流れた血で更に深い赤に染まっている。頭の片隅で、舞台の衣装だったか、とちらりと思った。まだ動くには少し早い――だが
 前方の、ルシファーを中心に渦巻く風。
(あれはヤバい)
 先ほどアルジマールが復元した館を半分削り取り消し去ったように、簡単にこの一帯を削り取れる。アルジマールが正規軍を転位させ終えるまで、どれだけ抑えられるか、それが鍵だ。
 ルシファーが右手を胸の高さに上げる。白い手のひらが見えた。それだけで、身体を押し返すような圧力を感じる。
 レオアリスは踏み込んだ左足に体重を乗せ、右の剣を斜めに振り下ろした。同時にルシファーの手のひらから爆発的に風が膨れ上がる。
 白刃が風を捕らえ、強い光を発する。右腕にビリビリと骨を揺さぶるような振動が伝わった。
 剣に削られ風は僅かに勢いを弱めながらも、レオアリスの剣を弾いた。
 ルシファーの口元に笑みが閃きかけ、ふいに強張る。
 後方に弾かれた剣に引かれるように、レオアリスは右足を後方へ一歩、ついた。
 一斉に叩きつけ雪崩れ込む風へと、右の剣を弾かれた反動を左の剣に乗せ、斜め下から掬い上げるように薙ぐ。
 左の剣が清烈な光を放ち風を断つ。
 風が拡散し、四方の大気に融ける。
 ルシファーはそれを眺め、驚きと苛立ちに瞳を細めた。
「今の風を――二刀は厄介ね」
 一振りで力を削り、もう一振りで斬り裂く。レオアリスが二刀を用いた事はほとんど無いと聞いていたが、その事はさほど重要ではないようだ。
 ただ、レオアリスも無傷ではなく、最初に風を止めた右の二の腕から手首にかけて、硝子の茨の中に手を突っ込んだように複数の裂傷を負い、左胸の傷口はまだ血を滲ませ続けている。
 双剣を下げて立つその肩が、一度だけ、呼吸によりゆっくり上下する。
 そこに押し隠した疲労を見て取り、ルシファーは口元を綻ばせた。
「少しくらい休まないと傷が癒えないんじゃない? その身体で私の風を抑えるのは辛いでしょう」
「――」
「見ていればいいのに」
 瞬き一つ――次の瞬間には、レオアリスの姿が正面にあった。
「!」
 白刃が閃光のように大気を奔る。
 ルシファーが飛び退き、たった今いた場所を、剣が斬り裂く。
 緑の草地に亀裂が走り、一呼吸後、遥か下の海面へと崩れ落ちていく。
 ルシファーは右手を上げた。レオアリスがルシファーを追って間合いを詰める。渦巻きかけた風を、右の剣が砕く。
 剣の軌跡に十字に交わるように、左の剣が横一閃、青白い光の尾を引く。
 ルシファーの肩から血が吹き出し、辺りの草を濡らした。血が溢れる傷口に手を当て、ルシファーはレオアリスを見据えた。暁の瞳が強い光に満ちる。
 レオアリスの身体が淡い暁の光に包まれたかと思うと、後方へ弾かれた。レオアリスが宙空で体勢を立て直し、数間先に降りる。
「――ずいぶん、急ぐのね」
 そう言いながらルシファーは瞳を細め、レオアリスの後方を素早く見て取った。金色の法陣の光が浮かび、消える。アルジマールは的確に正規軍の兵士達を転位させていく。
 既に半数。
 ルシファーは唇を歪めた。焦りというよりは嘲笑に近い。
「アルジマールとあなただけ王都に戻ればいいのに。正規軍を助ける必要があるのかしら?」
「――」
 唇の歪みがそのまま、はっきりした笑みに変わる。
「そんなに全力を出していたから、ほら、傷が開いて――立っているのが辛いんじゃない?」
「この程度――、?」
 言葉に操られるように、レオアリスの身体が揺れ、草地に片膝をついた。
(――何だ)
 血が流れ過ぎたせいか、身体が重い。視線を落とした先、右腕に、暁の光が揺れる。気が付けば身体を覆うように暁の光がまとわりついていた。
(いつから――)
 身体が重いのはこの光のせいか。
「自分を過信しないことね。今は二刀を出しているからっているようなものよ」
「――」
 レオアリスは奥歯を噛み締め、ゆっくり息を吐いた。ルシファーの言葉を否定しきれない。
 先ほどから呼吸が浅く、息苦しい。傷口が生む痛みよりも、流れ続ける血が厄介だ。くらりと視界が回る。
 だがアルジマールは確実に、正規軍を転位させている。
(――あと少し)
「もうお仕舞い」
 風は唐突に、レオアリスの背後に湧き上がった。
「!」
 咄嗟に剣を振ろうとして、身体が付いていかなかった。重い。
 風がアルジマールへと奔る。アルジマールの張っていた防御陣が立ち上がり、ぶつかり合い、布が強風にはためくような激しい音を立てる。
 安堵の息を吐く間にも、防御陣はその限界を示すように歪み、明滅した。
「く」
 レオアリスは奥歯をぎり、と噛み締めると、アルジマールを取り巻く風の檻へと地面を蹴った。上空から落下の勢いに合わせ、右の剣を叩き付けるように振り下ろす。
 剣の衝撃が地面を深く抉る。風の檻が砕け、土煙が舞い起こり、視界を閉ざした。
 その向こうに気配を感じ取るのと、土煙から白い手が突き出すのとが同時だった。
 細い指先がレオアリスの喉を掴む。剣を振ろうとしたものの、腕に鉛でも括り付けたかのように重く、上がらない。
「――」
 笑みを含んだ声がかかった。
だから・・・無理に動くなと言ったでしょ。アルジマールを狙えば、そうすると思ったけど」
 ルシファーの声が膜を隔てたように聞こえる。
 ふいにレオアリスは原因に気が付いた。
「……呼吸、か」
「苦しい?」
 ルシファーの瞳が喉を細い指で掴んだまま、レオアリスを覗き込む。
 あの海の中で――身を覆っていた空気の膜――あれと同じ事だ。あの時は地上と変わり無く呼吸する事ができたが、今は。
「色々できるのよ、私もね」
 呼吸が上手くできず、肺が酸素を求めて忙しなく動く。
 空気が薄い。
「――は……ッ」
 視界がくらりと回った。
 ルシファーが暁の瞳に、表現のし難い色を吐く。
「ねぇ、絵を渡すように、アルジマールに言ってくれない?」
「絵……」
 ともすれば霞みそうな思考に、アルジマールが抱えていた絵が浮かぶ。
「あなた達には全く必要が無いものよ」
「……渡せ、ない。あれがもしかしたら、貴方が離反した、原因なんだろう。それが何か――判れば、解決の道が、あるかもしれない」
「解決――?」
 暁の瞳が激しい怒りに加え、侮蔑を浮かべる。そしてそれと相まり、決して交じり合わない、全く別種の感情。
 霞みかける意識の中に唯一明瞭に差すその色を、レオアリスはじっと見つめた。そこにある何かを、見いだそうと意識を凝らす。
「勘違いもいいところね――過去はもう変えられないというのに、一体何が解決するの?」
 ルシファーは冷えた嘲笑を零した。
「そうやって自分に都合のいい論理だけで済ませようとする――王も、そう」
「――」
「吐き気がするわ」
 ルシファーの手のひらの中に、風の刃が湧き起こる。
(ヤバい――)
 剣を握る指先に、ようやく力が入った。
 風がレオアリスの喉を切り裂く寸前で、空から走った雷光がルシファーを撃った。
「!!」
 小さく悲鳴を上げてルシファーの手が離れる。その一瞬後、白い閃光がルシファーの腕のあった空間を切り裂いた。
 白刃――ユージュだ。
「ユージュ……」
 ユージュがルシファーへと剣先を向けながら、レオアリスを振り返る。
「大丈夫?!」
「――助かった」
 よろめいた身体を何とかこらえ、レオアリスは赤い血の筋の浮いた喉を押えて息を吐き、――吸った。
(――空気が)
 戻っている。
 目の前のユージュの姿はまだ少し霞んでいたが、それでも意識がはっきりし始めた。ルシファーは両腕で自分の肩を抱え、草の上に蹲っている。ルシファーを撃ったあの雷撃はアルジマールのものだろう。
 ユージュは注意深く剣先を向けたまま、肩で息をするレオアリスの背中に左腕を回し、支えた。その瞳が左胸の傷に落ち、心配そうに揺れる。
「ひどい傷――」
「これは大丈夫だ。動けなかったおかげで却って塞がった」
 確かに傷は塞がりかけていて、ユージュが安堵の代わりにこくりと頷く。
「もうすぐ終わるって。あと、あの人達だけ」
 ユージュが示した先に、ヒースウッド達の姿がある。彼等だけ――あと一回法陣に捉えれれば、転位が終わる。アルジマールの法陣が再び光を発した。
 蹲っていたルシファーが、ゆっくり身体を起こした。強力な雷撃だったはずだが、外傷は一つも見当たらない。
「アルジマール、――無駄な邪魔をする」
 ルシファーは凍るような怒りを瞳に浮かべてアルジマールを睨み、それからユージュと、レオアリスを見た。
「本当に――面倒」
 右手をすい、と差し伸べる。
 何の前触れもなく、身体がずしりと重くなった。
「何だ――」
 すぐにレオアリスは、自分自身ではなく取り巻く大気が重さを増したのだと気が付いた。
 まるで巨大な手が、全身を押さえ付けてくるようだ。
 有無を言わさず草地に押し付けられ、ユージュが悲鳴を上げる。
「潰れちゃうよ――!」
「ユージュ!」
 レオアリスは腕を伸ばし、ユージュを身体の下に抱え込んだ。その間にも圧し掛かる重量は増し続け、身体を動かすのも困難になってくる。
「こんな事まで――できるのか」
 大気さえあれば、何でも。
(これが、四大公の力か)
 いや――これほど自在に大気を支配するルシファーの能力は、四大公の中でも飛び抜けているように思える。炎帝公と呼ばれるアスタロトが最も高い戦闘能力を有していると思っていたが、もしかしたらそれよりも――。
 レオアリスは左膝をつき、全身の力を使って上体を起こした。両手に顕現したままの剣が青白い光を強める。
 アルジマールが草の上に両手をついているのが見えた。法陣が消えている。そのずっと向こうでヒースウッド達もまた、地面に伏していた。どこまでが範囲に入るのか、緑の草が広がる以外、障害物の無い岸壁の上では見当がつかない。
「アルジマール院長! 抜け出す方法は!」
「――無理」
 アルジマールがようやく発した細い声が返った。「ちょっとこの状況じゃ、法陣が、組めない」
 アルジマールの両手は地面に付いたまま、押し潰されそうな身体を支えるだけで精一杯のようだ。
「君こそ、斬れないのか――」
「――カイ、アルジマールの補佐を」
 再び呼び出したカイは、アルジマールのすぐ隣に降りたにも関わらず、小さな鳴き声を上げて消えた。
「カイ! ――くそ」
 ユージュの呻き声が途切れ途切れに聞こえる。
「早く断ち切らねぇと」
 ただ上体を起こせたまではいいが、それを維持するだけで全身の力を注がなければならず、剣を振るどころではない。筋肉や骨が悲鳴を上げている。再び左胸の傷が血を滲ませた。
「――っ」
 ルシファーは上空に浮かび、冷えた瞳で地面に這いつくばる者達を見下ろしている。
 風の王――
 その名を体現するかのようだ。
 レオアリスは両手の剣に意識を集中した。青白い陽炎がレオアリスの全身を包み、立ち上がる。
 ふいに――、どこかで、音がした。
 例えるなら、何か巨大な、恐ろしく重量のあるものが、ずれたような――
「何だ」
 ひやりとした感覚を覚え、レオアリスが音の方へ意識を向けようとした時、足元が揺れた。
「――」
 草地の下から、振動が伝わる。二度。三度。
 ゆっくり――視界がごくゆっくりと、傾いていく。
「ま……ずい」
 レオアリスは右手に視線を向け、それを捉えた。
 なだらかに起伏する緑の草地に走る、亀裂だ。
 崖ごと――崩れて落ちる。
 大気の圧力に、先ほどから損傷を重ねていた岸壁が耐え切れず崩落しようとしていた。
 それともルシファーが、そう意図しているからか。
 ただこのまま海に落ちれば、レオアリスはともかくアルジマールやユージュ、ヒースウッド達は命を落としかねない。
 何より、落ちる先は西海、バルバドスの領海だ。
 その海面の先を、レオアリスは知らない。
「――アルジマール院長――時間を作る」
「……任せる。君も任せてくれ」
 ゆっくり傾いていく地面の上で、レオアリスは一度瞳を閉じ肺の息を吐き切ると、瞳を上げた。
 押し潰そうとする大気にあらがい、二振りの剣を重ね合わせるように身体の前に掲げる。
 意識してやった事はない――
(できるか)
 互いの姿を写したような二つの剣、それが完全に重なる姿を思い描く。
 二つの力が。
 それほど困難な事ではなかった。
 二振りの剣は数度明滅し――



 重なった。


 一つになった剣が強い光を発し、辺りを染める。
 これほどあっさり行くとは思わず、少なからず拍子抜けながらもレオアリスは剣の柄を握った。
「――!」
 右手から全身に力が流れ込み、そして剣へと全身の力が注がれるように感じられる。
 剣は驚くほど軽く、重い。
 血脈のように脈打つ。
 それは覚醒を思い出させた。
(――考えてる暇は無い)
 レオアリスは右手に掴んだ一振りの剣を、そのまま弧を描くように振り抜いた。
 笛を鳴らすような甲高い音が走る。
 次の瞬間、のしかかっていた圧倒的な重量が消えた。
 剣が振動を伝えたと思うと、元の二つに分かれ、空気に溶ける。
「!」
 レオアリスは動揺をぐっと飲み込んだ。戻っただけだ。「――アルジマール!」
 視界の端を金色の光が過る。法陣が立ち上がる。
 前方にいたヒースウッド達の姿が同じ金色の光に包まれ、消えた。
 激しい振動と共に、足元の岸壁が崩壊する。割れた地面がそそり立ち、細かい石くれと共に、身体が滑った。皮肉にもアルジマールとの距離が、一気に縮まる。
 レオアリスは身体を叩く土砂と一緒に滑り落ちながら、右腕でユージュを抱え、アルジマールへと左手を伸ばすと法衣の腕を掴んだ。
 眼下には雪崩れを打って海面へと落ちた巨大な岩盤と、それを呑み込み泡立つ海面が見える。
 落ちる。
「アルジマール、転位を」
 アルジマールが額縁を抱え直す。
「今――」
 アルジマールの左手が紡ぎ出した法陣が、二つに割れた。
「! ルシファー!」
 正面にルシファーの姿があった。
 ルシファーがアルジマールへ、白い手を伸ばす。
 アルジマールとルシファーとの間の空気が、ぐにゃりと歪んだ。




 アスタロトは紡がれていく法陣をじっと見つめていた。天幕の床にふた抱えほどの大きさの法陣が、構成する線や文字が紡ぎ出されるごとに、微かな光を発している。未完成の複雑な法陣は蝋燭の灯りのように不安定に揺れ、簡単に消えてしまいそうだ。
『私が行く』と、そう勢い込んで告げたアスタロトに対して、ロットバルトはアスタロトの期待通りの言葉を返さなかった。
『それはできません』
 先ほどのやり取りが耳に甦る。
 状況が判らない現場にアスタロトを送る訳には行かない、とロットバルトはそう諭した。
『判らないから、私が行くのが一番いいんじゃないか』
『アスタロト公爵』
 隊士達が注目している中、四大公爵家、正規軍将軍としてのアスタロトを呼んだのだと、アスタロト自身にも判った。
『ご心配は判ります。すぐにでも現場に行きたいというお気持ちも当然です。ここにいる隊士達も、公のお心を有り難く思っているでしょう――ただ、それではと貴方を送る訳には行きません。それが我々の立場です。どうぞお汲み取りを』
『じゃあ私一人の責任にすれば――止められたのに聞かなかったって、私が言うよ。それなら?』
 ロットバルトの声は諭すというより訝し気ですらあった。
『どうされたんです。貴方はご自分の立場を良くお判りだったはずでしょう』
(立場――)
 アスタロトは唇を結び、瞳を閉じた。
 こうしていると感じるのは自分自身だけ――それ以外には無い。
 けれど一旦外から眺めると、途端に様々なもので覆われる。
 立場というものは、今身につけている衣服のようなものだと、そう思った。ただ、衣服なら気に入らなければ着替えれば済む。けれど。
(――)
 ふいに天幕が内側から煽られ、音を立て揺れた。顔を上げたアスタロトのすぐ目の前を、強い風に飛ばされた誰かの衣装が過る。小道具が舞い散った。
「何だ!?」
 クライフが天幕内を見回した。立て掛けていた舞台用の剣や槍が風に倒され、派手な音を立てる。
「法陣よ」
 フレイザーが袖を引き、床を示す。
 床に敷かれた法陣が強い光を発し、そこから風が吹き出していた。
「え、発動? 転位ってこんなんだったっけ? 俺入ればいいの?」
 クライフが近寄ろうとするのを、法術士が手を上げて止めた。
「待て、違う――」
「違うって、じゃあこれは」
 法術士は驚愕に両眼を見開き、額に汗を滲ませて声を震わせた。
向こう側から・・・・・・、圧力が掛かっているのだ――来る」
「向こう? 来るって――ちょ」
 クライフはぎょっとして、一歩後退った。フレイザーとヴィルトールが剣を握る。
 この
 誰が、来るというのか――
(――ファー……)
 なら、レオアリスは。
 アスタロトは頬を強ばらせ、蒼白になって法陣を見つめた。
 法陣から光が吹き上がる。
 光は天幕内を一瞬真っ白く染め――、すぐに消えた。





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