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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

『名のない太陽』


 瞳の奥で紅い影が揺れる。

 炎だと思った。


 声が聞こえた。寄せる波のように大きくなり、小さくなる。
 赤子の泣き声――。
 知っている。かつて聞いた。あれは。


 そうあれは、自分の声だ。
 暗い闇の中に重い身体を横たえ、その泣き声を聴いていた
 泣き声が寄せる。


(何で泣いてるんだ)


 あんなに激しく。


 背中を微かな熱が撫でた。
 横たわったまま、上手く動かない身体で、首を巡らせて下を見た。
 遠くに紅い炎がぽつりと見えた。


 炎が急激に膨れ上がり、空間を覆い尽くして身体を包む。


 炎の中から響く泣き声に、意識が引き込まれて行く。








 自分に覆い被さる柔らかで温かな身体が、次第に温もりを失い、冷たくなっていった。
 それとも、炎に煽られ熱を増していく空気のせいで、そう感じるのだろうか。
 熱い。自分が、世界が熱に呑まれていくようだった。
 苦しい――怖い。
 悲しい。
 怖い。
 冷たくなっていくから。
 自分を抱き締めている身体が。
 遠くから自分へと注がれた温かな力が。
 その意味を理解していたかは判らない。
 ただ、泣いて
 泣いて、泣いて、泣いて
 冷たくなっていくのが、温もりが失われていくのが、怖くて
 悲しくて、怖くて泣いた。




 ふいに辺りを包んでいた熱が消える。
 身体がふわりと持ち上がった。
 見上げた先で、深い色を湛えた黄金の瞳が自分に注がれていた。
 恐ろしさも、たった独り世界に取り残された不安も、拭い去られるように溶けていく。
 代わりに喜びがあった。
 大きな温かな手が頬を撫でる。
 意識が沈む。
 目覚めたばかりのもう一つの意識も、自分を包む温もりと共に、更に奥深くに沈んでいった。








 雪が降り積もっていた。
 瞬く間に新しい雪が昨日の雪を隠して行く。つい先ほど雪に残して来た小さな足跡も。
 黒森を歩くのにくたびれて、雪の上に広がった樹の根の間にレオアリスは小さな手で膝を抱えてしゃがみ、消えていく足跡を見ていた。鬱蒼とした森がそこだけやや開け、空が丸く覗いている。
 あの炎の日からもう四年が過ぎた。
 小さな命を取り巻く穏やかな世界は、あの時見た光景を柔らかな手の下に埋めていき、今は辺りを包む白い雪と広い森の静寂の中の風景が、記憶の大半の背景を占めている。
 吐く息が白く広がり、けれどすぐに辺り一面の純白に同化し、消えていく。
 もう一度確かめるように息を吐き、消えていく先を辿って幼い顔を上げると、丸く空いた灰色の空を覆い隠しながら落ちてくる雪が、瞳の前にいっぱいに広がった。後から後から止めどなく、右に揺れ、左に揺れながら舞い落ちてくる様は、いつも刻を忘れさせた。
 雪が生まれる場所を探して空の奥を見つめる。そうすると際限なく降ってくるその白い欠片が、身体を空へと舞い上げて行くような気持ちになった。
 そのまま、飛んで行けるかもしれない。
 深い森を越えて、川を渡って、広い広い、広い畑や草原を抜けて――。
 絵本に描かれていたその風景を、黒い瞳の奥に思い浮かべる。
 世界はとても広い。
 そして広い世界の中心には大きな、山のように広がる街とお城があるのだ。
 心の中に、温かな金色の光が灯る。
 その光が灯るといつも、本当に灯りがあるように、身体の真ん中がぽかぽかと暖かくなった。
 祖父の膝の上に座った時のように温かく、それでいて遠くに眺める夕焼けのように触れられない。
 けれど、きっとどこかにあるのだ。
 このまま雪に吸い込まれて飛んで行ったら、そこに行く事ができるかもしれない。
 落ちてきた雪のひとひらを両手に受ける。雪は冷えた小さな手のひらの温度でもすうっと溶けた。
 空から絶え間なく雪が落ちてくる。
 吸い込まれて行くような空へと、両手を伸ばす。
 瞳を閉じる。
 ふと、足元の雪の中から、緑の芽が薄い二枚の葉を起こし、レオアリスのつま先に触れた。
 どさりと、枝に積もった雪が地面に落ちる音。
「レオアリス―― !」
 嗄れた声がかかるのとほぼ同時に、ふわりと身体が浮いた。
 空には飛んで行かず、代わりに黒い艶やかな羽毛に包まれた腕とその温もりが全身を包み込んだ。大きな黒い翼が、雪と寒さをできる限り切り離そうというように、二人を覆う。
「こんな所におったのか……姿が見えないからどこへ行ったのかと、みな心配して……」
「じいちゃん!」
 レオアリスは祖父の首に腕を回し、すべすべとした羽毛に頬を当てた。ひやりとした感触の後、温かくて、炭と乾いた薬草の匂いがレオアリスに触れる。
 祖父の言葉は途中で途切れ、代わりに肺から零した息と一緒に抱き締める力が強くなった。それでも腕は震えている。
「まったく……余り森の奥に入ってはいかんと、言っているじゃろう」
 まだお前には怖い所なのだから、と祖父は頭を撫でた。
「手も頬も髪もこんなに冷えて」
 黒い羽毛で覆われた顔は表情を読み取りにくいけれど、レオアリスには祖父がとても心配していたのだとすぐに判った。
「ごめんなさい」
 野うさぎを追いかけて夢中になっているうちに、森の中に入って来てしまったのだ。野うさぎは雪の間に消え、戻ろうとしたけれどどちらから来たのか判らなくなり座っていた。
 でも怖くはなかった。
 祖父が来てくれると、ちゃんと知っている。
 いつだって祖父達は、レオアリスを見つけてくれた。森に教えてもらうのだ。だから森も怖くない。
「さあ、帰ろう。皆を安心させてやらねばならん。メイばあさんが温かい汁物を用意してくれとるからの」
 祖父はレオアリスを左腕に抱え直し、彼等の暮らす村のある方角へと歩き出した。雪の上にぽつりぽつりと、二人を導くように薄い緑の芽が顔を出している。
 雪が柔らかな頬の上に落ち、溶けて滑り落ちる。
 祖父の肩越しに降り続ける雪を見上げると、雪は誘うように、レオアリスを吸い込むように次々と落ちてくる。
 飛んで行けそうだ。
 けれど、寂しがるから行かない、と思った。








 ようやくぬかるんで来た雪を靴底で跳ね上げ、レオアリスは扉をがらりと開けると家に駆け込んだ。
 今日の、九歳の誕生日に、届いているものがあるはずだ。その為に訪れている人も。
「じいちゃん、来た?!」
 駆けてきた事と期待とに弾んだ声が、入り口すぐの土間に立っていた人物の背中にぶつかって遮られ、レオアリス自身も顔からぶつかった。まだ背が低いせいで、相手の腰の辺りだ。その拍子に左手が硬い、金属の棒のようなものに触れる。
「って……すみませ」
 顔を抑えつつ、視線を上げてぶつかった相手を確かめる前に、横から手が伸びてレオアリスの肩を引き寄せた。
「レオアリス、外におれ。今は来客中じゃ」
 セトが口調よりも更に有無を言わせない力で肩を押す。くるりと向きを変えさせられ、目の端を掠めた大柄な男の姿を、初めは影みたいだと思った。
 その男が全身黒づくめの出で立ちをしていたからだ。これまで来た使者と、その姿は違っていた。
 肩越しに視線を投げた男の、鋭い視線が自分を刺すような気がした。
「誰?」
 セトがレオアリスを押し出し、一緒に表に出ると後ろ手に扉を閉める。祖父の尖った声が扉に隔てられる直前に耳に届いた。「帰ってくれ」
 約束が違う――、と。
「――」
 閉ざされた扉を見つめ、セトを見つめる。
「じいちゃんは何で怒ってるんだ。約束って? 誰だよあれ」
「お前は気にする必要はない。さ、邪魔をしてはいかん、わしと向こうへ行っておこう」
「必要ないって」
「いいから。ほれ、この前お前が学びたがっていた風の法術を教えてやろう」
 なおも問いかけようとして、だが普段とは違うセトの様子にレオアリスは口を閉ざした。
「――じゃあ、風切り教えてよ」
 たっと雪を蹴ってセトの傍らに並ぶ。
「そんなもんまだまだ先だ。そうさな、三年後くらいか」
「三年? いくら何でも先過ぎるだろ」
 今日はレオアリスの、九回目の誕生日だ。それはつまり、王都から本が届けられる日という事でもある。特段レオアリスへの贈り物という訳ではないのだが、毎年遅れる事なくこの日に届けられた。
 だから今家の中にいた彼等は、その為の使者――のはずだ。これまでは使者が訪れた時はレオアリスも短いながら挨拶をしていた。
 セトと雪の覆う小道を歩きながら、レオアリスはちらりと振り返り、閉ざされたままの扉を見た。
(――)
 あの服を、見た事がある。直接目で見た訳ではなくて、書物でだが。
 王都の、近衛師団の軍服だ。
 左手で触れた金属は、腰に帯びていた剣の鞘だった。
(近衛師団)
 セトの横顔を眺め、何故、と色々尋ねようと口を開きかけ――止めた。




 囲炉裏の炭が穏やかに熱を発し、ふと崩れて微かな音を立てた。
 レオアリスは両膝を抱え、じっと灰の中の炭の、表面に走る赤い熱の筋を見つめていた。
 室内は誰もいないように言葉もなく、聞こえるのは炭の発する音と、祖父が紙の上に走らせる筆の音だけだ。
 まだ黒い炭の奥に内包された鮮やかな熱。緩やかに赤い色を移ろわせるその細い線を見つめる。
 ぼんやりと視界に広がる黒い表面が、昼間の黒い軍服へと姿を変える。
 近衛師団。
 あの軍服は、この国の王を守護する、王直属の組織のものだ。
(王――)
 ぐうっと、胸の奥が熱を持つ。それはちょうど、目の前の炭がその奥に熱を抱えるのと似ていた。
 王というその響きと、その存在。
 レオアリスが夕方前に家に戻った時にはもう使者の姿は無く、その事にがっかりと息を吐いた。昼にとても立派な飛竜が三頭、村の広場に翼を休めていたのを見たが、それで王都へ戻ったのだろう。
 ふと、その飛竜に自分も乗せてもらえば――と考えて、レオアリスは慌てて首を振った。
 それは駄目だ。そんな事が認められる訳がない。
 けれど、もし、あの飛竜に乗れたら、王都に行けるだろう。
(王都に……)
 囲炉裏を挟んで座る祖父をちらりと盗み見て、祖父の顔が自分に向けられていた事に気付いて鼓動が跳ねた。
 いつからだろう。今考えていた事を、祖父に知られたくない。
「どうかしたか、妙な顔をして」
「べ、別に――、そうだ、昼の、あの人が、軍服みたいの着てたから……」
 つい口に出してしまってから、まずかったかと思った。祖父の表情が厳しくなったからだ。
 昼に聞いた祖父の尖った声が耳に蘇る。あんな口調はこれまで聞いた事が無かった。
「――じいちゃん、何で怒って」
「お前は気にしなくていいことじゃ」
 有無を言わさない響きがそこにはあった。セトと同じ――セトよりももっと、口を挟む余地が無い。
「――いつもの使者が、今日は他の用件で来れなかったのだ」
 すぐに祖父はやや気まずそうに、重い口調でそう言った。
「――」
「もう寝なさい。どうせこの先しばらくは、頂いた本を読むので夜更かしするのじゃろう」
 祖父の声は優しかったが、レオアリスからは目を逸らしたままだ。
「……うん」
 立ち上がり、レオアリスは囲炉裏の白い灰に置かれた炭へ視線を落とした。
 今日届いた本を読むのはもちろん楽しみだ。きっと何日も、朝まで読み耽ってしまうだろう。
 でも例えば、あの近衛師団の軍服を着ていた使者に、王都の話を聞けたらもっと良かった。
 近衛師団の話。
 彼等が守護する、王の話。
 それを言いたかったが、何となく口から出せなかった。
 表面が白く変わった炭の奥で、変わらない赤い光が輝く。
 飛竜なら、一日もかからないで王都まで行けるのだという。
 灰の上へと炭が崩れる。
 はっとしてレオアリスは瞳を瞬かせた。
 下に埋もれていた炭が束の間赤い光を増し、また穏やかな筋になる。
(王都なんて――、何言ってるんだ)
 もし、という想いを、レオアリスは心の奥に無理やり押し込み、蓋をした。
 考え込んでいるのが顔に出たら、心配されてしまう。
 第一レオアリスが王都になど行ったら、大切に育ててくれている祖父達を悲しませる事になるし、レオアリスも祖父達の側を離れたいとは思わない。祖父達の側はこの囲炉裏の横にいるように温かい。
 それにようやく、あれこれと手伝いができるようになってきたのだ。
「そうだ」
 レオアリスは祖父の側に寄ってひょいと横に座った。「俺今日、セトじいちゃんに風の術式教えてもらったんだ」
 間に積まれている書物の横に手をついて身を乗り出す。
「ほう」
「まだ小さな風を起こすヤツだけしか教えてもらってないけど、そのうち風切りとかさ、そういうのやりたいな」
 祖父の目が細められる。
「風は起こせたのかの」
「……それはまだ」
「なら風切りなど四、五年は先じゃ。特に風や炎などは他の系統よりも術の効果が明らかに出やすい。基礎をしっかり身に付けねば怪我をする」
「わかってる、セトじいちゃんにちゃんと教えてもらうから。基礎も、風切りも、それより大きなヤツも。結構時間かかると思うけど」
 だから、ずっとこの村にいるんだと――伝わっただろうか。
 祖父はレオアリスの顔を束の間見つめ、相好を崩した。
「嬉しそうじゃな、風は楽しいか」
「だってなんかカッコイイじゃないか」
 手が伸びて乗り出した頭を撫でていく。
 そういうところはまだ子供じゃの、という言葉が、今日は特に柔らかく耳に届いた。








 術式の先を忘れて声が途切れる。むくむくと地面が膨れ上がった。
「あ、やべ」
 慌てて跳び退った身体を追って柔らかい夏の土が破裂し、頭の上から全身に突然の雨のように降り注いだ。
 土に塗れた頭を振って払い、あーあ、と溜息をつく。
 五歳の頃から法術の勉強を始めてもう七年も経つのだが、どうも術式を発動させるのが上手くいかず、特に土系統の術式は苦手分野だった。
「才能無いのかな……」
「無いのは集中力じゃ、未熟もん」
 呆れた声と共にぺちんと頭が叩かれる。祖父が後ろに立ち、渋い顔をしていた。と言っても実際にそんな表情をしているのかどうか、判るのはレオアリスと村人達くらいだったが。
「術式に集中せんか。式を忘れて半ばで途切れさせるなど以ての外じゃ。術式は唱え始めた時より法陣に力を貯め続けておる。今回はこの程度で済んだものの、術によっては下手をすれば大怪我をするぞ」
「判ってるって。その話は何度も聞いたし……」
 祖父の眼が厳しさを増し、レオアリスは口を閉ざした。判っていないから何度もやらかすのだ、とその眼は語っている。
 集中しているつもりだ。集中する事は苦手ではないと思う。例えば本などは、いつまででも刻を忘れて読んでいられた。
 それとはやはり違うのだろう、術に集中すればするほど、何かが意識を掠めるような感覚が奥深くで揺れる。それは法術を行う事が、自らと深く向き合う事と似ているからなのかもしれなかった。
 その感覚をどう言えばいいのか――ただ、それが何か、自分は知っている――気がする。知っているというよりも、いつか、どこかで見たような。
 瞳を逸らせると、祖父の声が追いかけてきた。
「何を考えておったのじゃ」
「うーん」
 上手い言葉が思い付かなくて首を傾げる。今度は祖父は呆れた顔をした。
 レオアリスは破裂させてしまった地面にしゃがみこむと、散らばった土を手で集めて埋め直し、その手を膝ではたいて立ち上がった。
「取り敢えず、土洗って来る」
 全身中々の化粧具合だ。口の中も少しざらりとした。祖父が地面の上から触媒を拾って布に包み、懐にしまう。
「今日はしまいじゃ」
「え、でもまだ昼だし、まだ一回も成功してないぜ」
「このままやっても怪我をする。大体成功するまでやろうとしたら、お前は当分家に帰れなくなるじゃろ」
 当然のように言われて不満にやや口元を尖らせたが、自分でもまず今日中に家に帰れる自信はないので、素直に返事をした。
「今日は少し風が冷たい、水を浴びたら身体を良く拭いて、寄り道をせずに帰るようにの」




「身体拭けとか寄り道するなとか、もうそんなガキじゃないんだから」
 黒森を流れる川の小さな淵で気持ち良く土を洗い流しながら、先ほどの祖父の言い付けに一人反論する。祖父達はいつまで経っても自分を子供扱いしていると思い、それが不満だが、けれど術式があの程度ではそれも仕方が無い事も分かっている。
「術式がもう少し何とかなればな……」
 もっと生活の助けにもなるのにと、やや長い溜息をついた。
 あと三ヶ月も経てばもう冬が来る。村が雪に閉ざされる長い冬に備えて、祖父達は夏の間から様々な生活の必需品を買い求めている。レオアリスが法術を身に付ければそれを売って助けになれるのだが、まだ祖父の許しは下りなかった。
「まあまだ十二のガキじゃ、術を頼む方からも信用してもらえないか」
 早く大人になりたい、といつも思う。できる事の少ない自分の立場がもどかしい。
 首を振って水滴を払い、空を見上げると淵の上に張り出した山肌が目に入った。夏の空の青さを切り取り、その向こうに覗く緑の枝葉も鮮やかだ。ほぼ真上から差す陽光に手をかざし、瞳を細める。
 水から上がり、言われた通りにしっかり滴をふき取ると、きちんと畳んでおいた服を身につけ、レオアリスはもう一度山肌を見上げてから鞄を手に取った。




 人の手の入らない急な山道を辿って登り、しばらくするとふいに、髪を散らす風と共に目の前が開ける。先ほど淵から見上げた高台だ。
 鮮やかに青く輝く空に向かって張り出したその場所からは、端に寄って下を覗き込むと淵が碧々とした水を湛えていて、山のすぐ真下はかなり水深が深くなっているのが色合いの変化から判る。
 正面には黒森の樹々が織り上げる緑の屋根が、視界の端が霞むほど遠くまで広がっていた。今はやや北を向いて立っているから、レオアリス達が暮らす村は右手にある。村は黒森の外れにあり、ここから見ても村の方角は少し森の色が薄くなっていた。
 レオアリスは靴先を宙空に差し掛けるほどのぎりぎりに立ち、村のある辺りを見つめた。それほど離れてはいないが、この高さからでも、家々の低い屋根は森の枝に隠されて見えなかった。
 レオアリスが暮らすのは三十人にも満たない、本当に小さな村だ。街道に続く道は冬には雪に閉ざされ、一番雪の降る年明けからの二ヶ月ほどは、外部との接触もほぼ完全に絶たれる。
 祖父達は余り寒さに強い種族ではない。けれど、レオアリスがもっと暖かい南へ移ればいいのではないかと何度尋ねても、祖父達はそうしたいとは決して言わなかった。
 この地の雪がもたらす無音の世界は、何故だか祖父達の心の内を表しているように思えた。
 どうしてだろうと考える度、レオアリスはここよりも更に黒森の深くにひっそりと埋もれた、ある場所を思い浮かべた。以前、もっと幼い時に一度だけ、連れて行かれた事のある場所だ。
 黒森の鬱蒼と重なる樹々がそこだけ広く開けていて、雪に覆われているが所々に石造りの建物の一部が見えた。
 一部というよりも、残骸――、廃墟という言葉は、その時よりもずっと後に本で学んだ。
(燃えた跡があった)
 白い雪の合間から見えた石と煤。
 祖父達は言葉も無く、ただ何かに祈っていたのを覚えている。
 覚えているのは、それだけだ。
 連れて行かれたのは、その一度だけ。
 そこがどういう場所なのか判らなかったけれど、祖父達に尋ねる事はしなかった。
 祖父達がとても、苦しそうに見えたからだ。自分の手を握る祖父の手は、少し痛いほど強く、だが震えているように感じられた。
 祖父達が厳しい環境に耐えながらもここで暮らし続けるのは、あの場所があるからではないかと思う。
(もっと暖かい所へ行こう)
 それは彼らに何かを捨てさせる事なのだろうか。
 自分が。


 視線がその方向へ引き寄せられる。
 東南の方角へ、意識だけが、見たことも無い草原や林、長く長く伸びる街道を駆け抜ける。


 遥か遠くに、世界の中心のごとく悠然と聳える――王都。
 柔らかな金色の光を帯びている。


 その場所から視線を引き離す。
 瞳を閉じ、空へと顔を持ち上げる。
 そのまま何かに背中を預けるように、身体を倒した。
 一瞬ふわりと風が身体を受け止め、それから落ちる。
 耳の横で風が鳴る。その音に耳を傾ける間も無く、淵が湛える水が全身を包み込んだ。
 瞳を開ける。纏いつく白い泡を追い越し沈んで行く。
 青い水の向こうで水面に揺らめく淡い太陽が見える。
 沈んで行く。
 淡い太陽には名前が無い。
 揺らめく微かな金色。
 緩やかに右腕を持ち上げ、遠く触れ得ないそれへ手を伸ばす。


 瞳を閉じた。














 届かない――。


 深い水に落ちたように、身体は思うように動かず、手を伸ばしても届かない。


 届かない。


 あの光に。




 ――――嫌だ








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