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第5章 帰る

4 6と1と1とマイナス1


 


「今日のところは休んでいってください」
 昨日の夕刻にオルビーィスと白竜と別れ――ラウルは小屋を出て一行にそう声をかけながら足もとの小石に躓いた――、一晩また山中で過ごしてから下山した。
 この小屋に辿り着いた時には、もう正午を過ぎていた。
 実に五日ぶりに戻ってきたことになる。
「お風呂沸かして、それから早めの食事にして」
 ラウルは張り出していた木の枝に額をぶつけた。
「あてっ、ゆっくり寝て身体を休めましょう」
「俺はこれで帰る。早いとこ慣れた寝床で寝たい」
 グイドは既に小屋の前の小道を森へ向かおうとしている。
「そんなぁグイドさん、お礼させてください」
 グイドの袖を掴む。
「あ、もちろん正式なお礼は後からきちんとお支払いしますし」
「いらん気を回すな。お前の剣が売れない限りは無理だろうからな」
「うう、保証できない」
 気を取り直し、グイドの前に回る。
 せめて今できるお礼をさせて欲しい。
「なら尚更、賑やかにぱぁっと、お風呂と食事だけでも」
「賑やかに風呂?」
 というレイノルドの突っ込みを背景に、グイドはじっとラウルを見た。とても深い眼差しだ。
 何だろう。
「グイド殿」
 セレスティが目配せしている。
 何だろう。
「おじさん」
 リズリーアが袖を引く。
 何だろう。
「仕方ねぇな」
「有難うございます」
 レイまで。
 何だろう。
 ぱぁっとがダメだったのかな。でもしめやかにもちょっとな。
 何にしろグイドが残ってくれるのは嬉しい。
「リズリーア、ヴィルリーア、君達は大丈夫?」
「当然! まずお風呂!」
「僕も……」
 リズリーアが飛び跳ね、着地するまでの間に小道を低い声が地を這った。
「リィィズゥゥウーーーー」
「びゃっ」
「ヴィーィリィィイーーーー」
「きゃあっ」
 振り返った先、森の入り口に一人の女性が立っている。
 四十歳前後、膝下までの青灰色の外套の裾が今風を受けたように揺れている。
 長い黒髪を後ろに一つ、すっきりとまとめていて、理知的な面差しはそう、リズリーアとヴィルリーアに良く似ている、ような。
 水色の瞳の、まなじりがキリキリ吊り上がっている。
 ついさっきグイドを引き止めた時にはそこにいなかった。
 女性は双子目掛けて小道を歩き、両手を伸ばして二人の後ろ襟をそれぞれ掴んだ。
「あんた達ぃ……っ!!!!」
 あっ。
「母さま!」
「ど、どうしてここに」
「あわわわわ」
「ボードガードさんに聞いて、心臓止まるかと思ったわよ!」
「帰るの月末じゃ」
「学会が……」
「あわわわわ」
「帰りを早めたの! 貴方達が何かやらかしてやしないかと心配だったから! そしたら案の定!」
「案の定だなんて母さまってば」
「あ、あ、あの、お母さん」
「あわわわわ」

「ん?」

 三人の目がラウルへ向いた。
 ラウルは右へ左へ、ずっと行ったり来たりしている。
「あわわわわ」





 双子の母――グイドが名前を挙げていた法術士、クリスタリア・トルムへ、ラウルは深々と頭を下げ、二人を今回の旅へ連れて行ったことを詫びた。
「いいえ、あなた方には余計なご負担をお掛けしました」
 クリスタリアは微笑み――つつ、まだ双子の首根っこを掴んでいる。
 リズリーアもヴィルリーアも、特にリズリーアは親に回収されていく子猫のようだ。
「この子達には帰ってから、私と夫から、みっちりとお説教しておきます。さ、帰るわよ」
 ふふふ。と。
 微笑んでいるが怖い。
 とてもお怒りになっている。
「あ、あの、本当に、責任は俺にありまして」
 ラウルがまた頭を下げる前にリズが首根っこを掴まれたまま首をうんと伸ばした。
「違うよ! あたし達が勝手に押しかけて、無理やり着いて行ったんだもん!」
 リズリーアは母の顔を見上げ、両手をお願いの形に組んだ。
「母さま、お願い。帰ったらきちんと反省して、術書の複写十巻でも二十巻でもするから。もっとって言うならもっとするから。だからあと一晩、ここにいていいでしょう?」
 熱心に詰め寄る様が予想外だったのか、クリスタリアが一瞬怯んだのが面白い。
 すぐに持ち直し、リズリーアの頬を両手で挟んだ。
「いい訳ないでしょーが! 貴方達ねぇっ、帰ってみたらいなくて、どれだけ心配したと思ってるの。お父さんだって、急遽王都からこっちへ向かってるわ」
「お、お母さん」
 ヴィルリーアが袖を摘む。
「貴方も」
 と言いかけて、クリスタリアは口を閉ざした。
 ヴィルリーアはまっすぐ顔を上げている。
「ええと、お母さん。これから、お別れ会なんだ」
 母の顔をじっと見上げる。
 ヴィルリーアが苦手な言葉を懸命に紡いでいるのがわかる。
「皆さんに、すごく助けてもらって、僕達、それに、たくさん頑張ったし、それに、オルビーィスが帰っちゃって、ラウルさん寂しいから――」
 じわぁ、と、ラウルは目頭が熱くなるのを感じた。
 そんな、ヴィリ、俺なら全然大丈夫だよ。
 でもその気持ちが本当に嬉しいな。
「だから、みんなで、一緒に過ごしたい、んだ」
「ヴィリ――」
 クリスタリアは水色の瞳を、その間ずっと我が子に向けていた。
 ほんの少し、ヴィルリーアが話していた時間よりも長く我が子を見つめ、それからにこりと微笑んだ。
「何だか、貴方もずっと成長したのね、ヴィリ――」




 全員順繰りに風呂を済ませて旅で被りまくった砂埃やらを落とした。
 居間はクリスタリアも加えた七人で、狭いほどに賑わっている。
 ラウルが手伝いセレスティが拵えた、干し肉の香草煮込みと焼き野菜を中心に、麺麭パンと薄く切った乾酪チーズ、酢漬けや果実煮の瓶、葡萄酒が並ぶ。
 ラウルは焼き野菜の大皿を運びながら、周りを見回した。
「――」
「ラウル?」
 セレスティが両手に香草煮込みを注いだ深皿を持ち、立ち止まって左右を見ているラウルの顔を覗き込む。
「あ、いえ、何でもないですよ、何でも。すごくいい匂いです。温かいうちに食べましょう!」
 さっと足を踏み出し――た爪先が床の敷物に引っかかり、ラウルは手から大皿を滑らせてしまった。
「ぅわ」
 宙を舞いかけた大皿をいつの間にか立ち上がったグイドの右手が受け止め、伸ばした左手で傾いたラウルの胸を押さえる。
「す、す、すみません、グイドさん!」
「おじさんやっぱすごーい」
 歓声を上げたリズリーアの頬を、クリスタリアがぷにっと摘んだ。
「リズ。グイドさんと呼びなさい。とても実力と功績のある人よ」
「それね、ほんとにスゴイんだよ母さま。ほんとに矢を三本同時に打って狙い通り当てちゃうの!」
「それは見たかったわね。でもリズ」
「はい!」
 グイドさんと呼びます、とリズリーアが背筋を伸ばす。
「おっさんのままで構わん、無理してもどうせすぐ戻る」
「いいって」
「リズ」
「ラウルさん、大丈夫でしょうか……」
 レイノルドはヴィルリーアを見て、
「気にしなくていいさ」
 皿を取りに戻った台所の入り口へ視線を移した。





「俺、あの時不思議と何とかなるって、思ってたんだよね」
 ラウルは拳を振り上げた。
 お腹もいっぱいになり、程よく葡萄酒が回っている。
「あの時っていつ?」
「ほら、人面獣に囲まれて」
「何度も囲まれたがどの時ことだ?」
「リズが『障壁』を張ってくれた時です。あれが切れそうになった辺りで、俺たち絶体絶命だったじゃないですか。でも俺、あの時不思議と、何とかなるっていうか、妙に安心してたっていうか」
 レイノルドが眉根に皺を刻む。
「お前のあれは、単に開き直ったって言うんだからな」
「え」
「みんな覚悟決めてたぞ」
「そうなの?」
「そうなの? だ……?」
 レイノルドが右手を伸ばし、ラウルの頬を摘んで吊り上げる。
「いて、いて、いて、レイ」
「反省しろ。死ぬほど反省しろ。地の底まで反省しろ」
「レイノルド殿、反省する必要があるのはその前のラウルの行動ですよ。一人で突っ込んで行ってしまったところです」
「あ、あれはもう、あの場で反省したっていうか、みんな許してくれたっていうか」
「めり込んで反省しろ」
 レイノルドがほっぺたをぐいぐい引っ張るから形が変わってしまいそうだ。
「分かった、分かったからレイ! 俺っ、反省踊りするから!」
「反省お、はぁ? 何を意味わからんっておい、立つな! 踊るな! 狭いっ!」
「レイ、ほら一緒に踊ろう。昔村祭りに行って踊ったよねー」
「やめろ、巻き込むな!」
 レイノルドと肩を組み、ラウルは身体をふらふら揺らしつつ脚を交互に振り上げた。
『ご主人ー。俺も俺もー』
「いーぞヴァースー、レイ、ほら、一緒にヴァースの柄持ってー」
「あれは酔っ払ってんのか?」
 グイドは葡萄酒を口元に運びつつ、呆れを隠さない目を向けた。
「そのようです」
 とセレスティが微笑ましく見つめる。
「お前止めろ転けるっ」
 ラウルが笑い声を上げ、可哀想なレイノルドを巻き込んで腹から倒れる。
 二人して並列に床にびたんと倒れた格好だ。
「お――っ、前……っ」
 怒りに震えつつ起き上がったレイノルドの横で、ラウルは腹這いになったままぴたりと動きを止めた。
 室内に沈黙が落ちる。
 視線は倒れているラウルへ集中した。
「……う」
「ラウル? おい、ラ」
 レイノルドの手が肩に触れる前に、ラウルはぶるぶると肩を震わせ始めた。
「ううう」
 呻き声も。
「ラ」
「うぅわぁぁぁぁあ!」
 全てに濁点が付いた嗚咽を発し、ラウルはその場に更にめり込みそうに突っ伏した。
「オルゥゥゥ!」
 ゥおぅるぅぅう、と聞こえた。
 レイノルドが眉根に深い縦皺を刻む。
 グイドやセレスティが酒を飲む手を止め、クリスタリアはさりげなく双子の側に寄り、壁に立て掛けている杖を確認した。
『あー、問題ないぞー。ご主人、言動はアレだが人畜無害だからー』
「あら良かった。飛ばす先をどこにしようかちょっと迷ったの」
「転位かよ」
「オルビィィスゥぅぅぅぅう」
 オルビーィスの名を呼び、ラウルは床に突っ伏したままさめざめと泣き始めた。
「おい。ラウル、少し」
 レイノルドが手をどこに持って行ったらいいのか、おろおろとラウルと手を見比べる。
「ぉオルゥゥぅぅヴぇぇぇえ”」
「ラウ」
「あ、あたしも寂しくなっちゃったっ」
 リズリーアがじわりと目に涙を滲ませる。
 確かに五日前、ここに居た存在がもう居ない。
 元気でいると分かっていても。
「リズちゃん」
「っ……、ぅぁぁぁぁん」
 リズリーアがラウルへ膝でにじり寄り、その両手を握る。
「オルビーィス……っ」
 ラウルはその手を握り返した。ヴィルリーアがリズリーアの背をさする。
「リズちゃん、元気出して」
「オルビーィスぅ……」
「リズちゃん」
「元気でやれよぉぉぉオルーゥゥゥぅう」
「ラウルさん、オルビーィスはきっと元気で大きくなって、伝説の竜になりますよ」
「オルビーィスゥゥぅぅぅう」
「ラウル」
 リズリーアが握る手に力を込める。
「オルーは、オルーは離れてもラウルのこと、いつも考えてるよ。だってオルー、ラウルのこと大好きだったもん」
「オルビーィスゥゥぅぅぅヴぇ、ヴぇぇっ」
 ありがとう、ありがとう、とラウルはぼろぼろ泣きながら二人と固く抱き合った。
「やっぱ帰りゃ良かったな」
 グイドが苦笑混じりの笑みを口元に浮かべ、微笑むセレスティへ葡萄酒の瓶を傾けた。













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2023.10.8
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