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第5章 帰る

1 小竜、でんせつを目指す


 


 ほんのひと呼吸前まで空を埋めていた魔獣達の姿は、拭い去ったように消えている。
 空は青く、その色も落ちていく西陽に地平からほんのりと染まり始め、どことなく、懐かしさを覚えさせた。
(ああ、帰らなきゃなぁ)
 あの小屋に。もう三日も空けてしまった。
 剣達も待っている。なかなか帰らないから心配しているだろうか。
(リトスリトスが拗ねてそうだなぁ)
 空の中に、真っ白な竜が浮かんでいる。
 白竜は一度翼を動かし、翼に風を囲いながらゆるい斜面に降りた。ラウル達から三間と離れていない。
 間近で見れば、二間もの体躯はそれだけで気圧される。
 ただそれよりも、その姿や鱗の美しさにラウルは心を打たれた。
 白竜は長い首を弓なりに傾け、自分の肩にいる小さな存在を、その存在を確かめるように覗き込んでいる。
「オルーの、お母さんなんだね」
 そばに寄ったリズリーアが潤んだ声でそう言った。首を向ければ目元に滲んだ涙を指の背で拭っている。
「良かった――、お母さんにまた、会えて……」
「リズちゃん」
「ヴィリ――ごめんね」
 ヴィルリーアが両腕を伸ばしリズリーアを抱き締める。
「母様と父様に、会いたいね」
 と、そう言った。
「すぐに会えますよ。貴方達がまっすぐ、家に帰るのなら」
 セレスティが微笑んで、背を反らして身体をうんと伸ばす。
「どうだかな。まだ体力がありそうだぞ、こいつらは」
 グイドも肉の薄い頬にほんの少し、笑みを見せている。
(何だか、いいな――)
 ラウルは胸の内に暖かいものが灯るのを感じ、傍らに立って白竜を見つめているレイノルドへ視線を向けた。
「レイ――」
 レイノルドの肩を叩こうとした手が、すかっと空振った。
「……」
 めげずにもう一度、肩に手を伸ばしてすかっと空振る。
「……」
「ぴい!」
 オルビーィスの声に視線を戻す。
 オルビーィスは白竜の肩の周りをくるくると周り、長い首をよじ登り、翼を広げて飛んで、白竜の双眸の前に浮かんだ。
 その様子に改めて心に浮かぶのは、驚きと、喜びと、それから、胸の奥がツンとくるような温もり。
 ようやく。
(オルー。お母さんと会えて、良かったね)
 白竜が鼻先を寄せ、小さな鼻先に触れる。
『私の子――』
 それは音ではなく、直接心に響くようだった。
 双眸は西陽に照らされた空を背にし、濃く青く見える。
『そなたが無事でいてくれて、どれほど嬉しいか』
 深く、それでいて柔らかさのある響きだ。
『あの時、岩屋から落ちてしまったのだね。そなたを見失ってしまった母を許しておくれ』
 白竜は長い首を巡らせ、オルビーィスをその内側に包んだ。
『どうあっても探しに行けば良かった。怪我はなかったのか。空腹ではなかったか。身を休める場所はあったのか』
「あの」
 おい、とレイノルドが肩を掴んだが、ラウルは一歩踏み出して白竜を見上げた。
 首がゆるりと巡る。
 注がれた瞳を受ける。
 先ほどの戦いの時よりもずっと柔らかな光だ。
「私は、麓ののくらがり森に暮らす、鍛治師で、ラウル・オーランドと言います」
 セレスティがレイノルドをまあまあ、大丈夫ですよと宥め、レイノルドはやや口を尖らせながらもおとなしく一歩下がった。
「オルー、いえ、その子を私が見つけた時、まだ卵の殻の中にいました。殻は少し欠けていましたけど、やはり竜の卵だけあって、相当硬かったというか。けど殻を割って出た後はすぐ、元気にごはんを食べてくれました」
 白竜が身体を揺らす。
『そなたがこの子の命を助けてくれたのか。感謝する』
「あ、いえ、私は、何も。ちょっと凍えかけてましたが、怪我も何もなかったですし、きりよせ川――あ、麓を流れてる川ですが、そこに卵のまま浮かんでたんです」
 閉じていた翼がほんの僅か浮く。
『――何と言った』
「えっ」
 ラウルは狼狽えた。
 マズイことを言いましたかっ
 凍ってたこととかっ
 川に浮かんでたこととかっ
『きりよせ川と?』
 川っ、川ですかっ
 川がマズイですかっ!?
「はっ、はいその、川に――卵が、浮かんでおりましてっ」
『きりふり山の斜面を、きりよせ川――麓まで、転がり落ちていたと――?』
「ぴぃ!」
 オルビーィスが元気な声を上げる。
 肯定らしい。
『まさか――、そなた、それで無傷だったとは』
 間があった。
 言葉を探したようだ。
 ややあって、白竜はしみじみと呟いた。
『どれほど頑丈なのだ』
「え、そ、そうなんですか? 竜なら普通なのかと」
『さすがに一里(約3,000m)以上を転がり落ちて無傷な者はそうそう無い』
 言われると確かに。
 そうそう無いって言うか、まあ無いよな。
 て言うかどんなふうに転がり落ちてきたのだろう。想像がつかない。
 ともかく、きりふり山の主である母竜が驚く頑丈さとは――
 さすがオルビーィス。へへ。
『そもそも自らの翼で飛ぶことを覚えるまで、通常は一月はかかるものだが』
「その日のうちに飛んでました」
 さすがオルビーィス。へへへ。
『自分で狩りができるようになるまで、ふた月であろうか』
「三日後くらいには俺より上手に兎を獲ってました」
 さすがオルビーィス。へへへへ。
『先ほど息吹を吐いたが――本来なら吐き方を学ぶまでに半年、命を奪えるほどのものとなると、数年は必要だ』
「あ、それはちょぴっとですね、ちょぴっと吹けてましたよね。すぐ氷砕けちゃいましたけど凍りましたし。すっごい頑張ったんですね、へへ」
『――』
 ラウルの相槌を聞き、白竜は束の間黙りこくった。
「それに、本当に良く食べて良く食べて良く食べて――ついさっき脱皮したところですが、この調子だときっとすごく大きくなると思います。まあ食糧庫在庫切れ俺の懐も在庫切れっていいますか」
「おいラウル」
 何だねレイ。
 また俺の剣なら在庫山積みとかいいたいのかね。
「少し黙れ」
 睨んでくるレイノルドの傍らで、セレスティが白竜を手で示す。
 ん? セレスティまで。
 何だろう。
 白竜が固まっている?
 見上げた白竜は少し長いと思える間じっとオルビーィスを見つめていたが、しみじみと声を落とした。
『なんとも、驚かせられる――』
 ゆるく首を振る仕草は、人と似て親しみを覚える。
『そんなにも頑丈で色々と成長が早いのなら、お前は伝説の竜になれるかもしれないねぇ』
「伝説――?」
 オルビーィスは空色の瞳をぱちりと瞬かせ、白竜の肩周りをくるりと回った。
 ――でんせつ……!
 白竜は長い首を曲げ、オルビーィスに鼻先を寄せた。
 瞳を細める。
『そうさ。そこに辿り着くには、遥かに遠い道のりだが。特に生まれたばかりのそなたには』
 ――でんせつ
 空中で飛び跳ねる・・・・・
『今は二竜』
 ――なる! 伝説、なる!
 翼を広げ、空へと一直線に舞い上がる。青い空の中を真っ白な躰が陽光を受けてくるくる回る。
「オルー! 目が回っちゃうよ!」
 あまりに回るのではらはらと見上げたラウルの身体を、空気が叩いた。
「うわ」
 空気、と思えたそれは、笑い声だ。
 白竜が首を逸らし、笑っている。
『そうか――、お前は彼の竜達の一角になるか』
「びっくりしたー」
 リズリーアが胸を押さえ、ほっと息を吐いている。
「またなんか問題起きたかと思っちゃった」
「私も、新手の魔獣かと」
 とセレスティも剣から手を離し頷いている。
「嬉しそうだね、オルーのお母さん」
 ヴィルリーアが言い、リズリーアはヴィルリーアに抱きついた。
「良かったよね!」
 全身を震わせる白竜の笑い声を聞きながら、ラウルは、ここ数日の険しい旅を思い浮かべた。
 危険なことが多かったが、進んで来ることができた。
 ここに辿り着けて、本当に、良かったと思う。
(――これで)
『鍛治師よ』
 声が落ち、ラウルはさっと背筋を伸ばした。
「は――はいっ」
 白竜の顔がラウルの前に降りる。
 青い双眸は空を写したようで、深く澄んで美しかった。
『改めて礼を言おう。この子を助けてくれて、感謝する。心から。そなたが居なければ、私はこの子と再び会うことはなかっただろう』
「――そんな。俺は、」
 改まって言われると、ラウル自身は大したことをしていないのに照れ臭い。
「ここにいるみんなが、ここまで来るために力を尽くしてくれました。それにオルー、は、強いので、俺がいなくてもきっと、貴方のもとに帰っていたと思います」
 白竜が双眸を細める。
『オルー』
「あっ。オルーというのは、オルビーィスと――」
 深々と頭を下げる。
「か、勝手に名前つけちゃってすみません!」
 伏せた頭を上げ――かけて、背中にどすんと重みを感じた。
「ぐえっ」
 オルビーィスが背中に降りている。
 よじ登り、肩に乗ったのだが、その重みにラウルはちょっとよろめいた。
 脱皮により、やはり一回りは大きく重くなったようだ。
『オルビーィス――宝玉になぞらえた名だ。良い名で呼んでくれた。その名の通り、この子は我が宝玉だ』
 白竜は小さなオルビーィスの額に、その鼻先で触れた。
『それでは、そなたの名は、オルビィスウルムとしよう』










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2023.10.8
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