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第4章 きりふり山の冒険

8 再戦

 

 ヴィルリーアが無事であることを信じて、ラウルはただ懸命に、樹々の囁く言葉を辿り続けた。
 山道からはとっくに外れていた。蛇の特性か、樹々の記憶が語るのは、蛇行して進んでいる道筋だ。ラウル達の足取りも自然左右に何度となく振られた。
 時間が取られる上に、蛇行は等間隔ではなく急に右だけへ突き進んだりしているのが厄介だ。
 それでも、辿れている。
「登っていく気配がねぇな」
 グイドの言葉に意識が引き戻される。
「え?」
「かと言って降りていく様子もない。あの蛇は、この霧ん中を棲家にしているようだが、――何で登らねぇのか」
 最後の方は独り言に近い。
 グイドの指摘は明瞭ではないが、不穏さを含んでいる。
「まあそれなら、このまま追えば早い段階で巣に着くだろう。山をぐるっと一回りって訳でもないだろうからな」
 楽観的な方を歓迎したい、とラウルは密かに思った。
「グイド殿は、今まであのような魔獣に出会でくわしたことがありますか。かつての戦いの中で」
 セレスティが尋ねる。
 先ほどの蛇怪との邂逅の際、かぶとを握り潰されたせいでセレスティの表情が見えるのはいいが、同時に防御力上の不安も覚える。
(あんな硬い鉄の冑をあっさり握り潰す奴だ)
 人の頭など、それ以上に脆いだろう。
「討伐隊にいる間、退治した奴は色々いたが蛇型は無かったな。ここらは四つ足が多かった」
「あれは――あれが、この山の主ということはありませんか」
 セレスティが問うと、少し前を歩くレイノルドが同じ考えなのか首を巡らせる。
 セレスティの問いにも頷ける。あれほど悍ましく、恐ろしい存在なら。
 だがグイドは首を振った。
「それは無いだろうな。奴はどうやら霧の中から出ようとしていない」
「と言うと」
「単純な話だ。霧の上にもっとヤバいものがいるのさ」
 ラウルは一度、グイドを振り返った。
 それがオルビーィスの親――竜か。
 リズリーアは張り詰めた面でじっと前を見据え、唇を引き結び歩いている。
 時折瞬きをする以外、表情は硬く、人形のように変わらない。
 けれど懸命に、感情が弾けそうになるのを堪えているのがわかった。
 必ず追いつくから、と気休めをかける代わりに、ラウルは何度も木の幹に手を当て、「こっちです」とその都度声に力を込めた。





 眠るヴィルリーアの頭を掴んだ二つの手、十本の指先に、力が籠る。
 ヴィルリーアは眉根を寄せ、苦しげに呻いた。
 閉じていた瞳が、うっすらと開く。
 自分に伸びた白い腕、その向こうの顔――加わる痛みに、水色の瞳に激しい恐怖が宿った。
「ひ――」
 みしり。
 苦鳴は声にならず、ヴィルリーアの喉の奥で塊になった。
 みし。
 注がれる双眸に満ちる嗜虐的な欲望。
「――ピィ!」
 鋭く、だが幼い鳴き声と共に、霧の中から真っ白な塊が蛇怪の背中へ突進した。
 オルビーィスだ。
 開いた顎が蛇怪のうなじへ喰らいつく。半ば放り出されるように、ヴィルリーアの額を掴んでいた腕が離れる。
 オルビーィスの鋭い牙が頸へ、ぐずりと食い込んだ。
 蛇怪は痛みと恐怖に囚われて全身を激しく揺すった。蛇体がうねり、岩場と樹の枝を叩く。
 その勢いにオルビーィスの小さな身体は弾かれ、岩場に激しくぶつかり硬い岩を砕いて、跳ねた。
「オルビー、ス……!」
 蛇怪の尾が、宙に浮いたオルビーィスの身体を追いかけ更に、弾く。
 オルビーィスは重なる枝葉の奥へ、叩きつけられるように消えた。
 蛇怪は二本の腕で頸を抱え、五本の腕を広げて岩場に伏せて、オルビーィスが消えた先を見据えたまま、しばらくの間警戒に息を潜めていた。
 押さえた首筋から鼓動に合わせ、血が滲み出ていく。
 あれは竜だ。
 霧の上にいるはずの。
 だが、まだ幼く――あれは、蛇怪の脅威とまではならない。
 蛇怪の背後で抑えた、けれど荒い呼吸が耳を捉えた。
 振り向いた先で獲物が目を覚ましていて、全身を強張らせて震えている。
 蛇怪は女の顔で、にたりと笑った。
 まだ幼さをほんの少し残した柔らかそうな面。
 恐怖に怯えて――
 なんと旨そうな。
「リ――リズちゃ……」
 獲物が漏らしかけた声を防ごうと、両手で自分の口を塞ぐ。
 蛇怪が長い髪を揺らし近付けば、その分獲物はしりもちをついたまま腕と足でにじり、下がる。
 すぐに獲物の背中は岩場の斜面に当たり、遮られた。
 伝わる恐怖が食欲を唆る。
 もう一度、獲物を喰らおうと顔を寄せる。
 赤い舌がチロリと獲物の肌を舐め――蛇怪は叩かれたかのように身を引いた。
 嫌な匂いが鼻腔を突いたからだ。
 匂いは獲物の全身に、燻したように纏いついている。
 不快な、刺激臭。
 それでもどうにか喰らおうと、もう一度顔を寄せたが、刺激臭がつんと鼻腔を刺し、一瞬吸い込んだそれが肺に流れ込んだ。
 肺腑が掴まれ絞られるようだ。
 怒りに任せて獲物を掴み、岩壁に投げ付けた。
 獲物は呻き、また動かなくなった。
 長い蛇体がその場でぐるりととぐろ・・・を巻く。
 どうしてやろうかと思案する。
 最も美味く好ましいのは、やはり生きたまま血と脳髄と内臓を啜ることだ。けれどあの臭いは敵わない。
 脳や内臓を喰らうのを諦め、引きちぎって乾くまで晒しておくか。
 それとも待つか。
 蛇怪は長い年月の中で、この人間という獲物の捕らえ方を理解していた。
 一匹攫えば、何をどうしようというのか、群れの内の一人か二人は後を追ってくる者がいた。お互いに助け合おうとする者達ほどそうだ。そうでなければ我先に逃げ出し、それはそれで捕えやすいのだが――
 今回もきっと追ってくる。
 まだ周囲は明るく、人が行動するには十分な時刻だった。
 蛇怪は黒い鱗の覆う蛇体と白い上半身、その二つともを岩場に張り付くようにして伏せた。
 薄い唇から赤く細長い舌がちろちろと蠢く。
 つかの間、霧だけが流れ――蛇怪はその音を捉えた。
 枯葉の落ちた土を踏む音。
 微かな熱と。
 白い上半身をもたげ、岩場の下、霧の奥を見透かす。
 白い面に笑みが浮かび、口の両端は耳まで裂け赤黒い色を覗かせた。
 何と愚かなことか――
 捕え、餌として貯蔵しておこう。
 先ほど襲った際に矢を数本喰らい、右腕の三番目を切り落とされていた。その恨みもある。
 全身の骨を砕き、蛇怪の腹で溶かされるその最後の一息まで苦しませてやらねば。
 自ら餌になりにくる愚かな獲物を捕らえようと、蛇怪は岩場に差しかかる木の枝を伝った。




 ラウルは何度――何十回目か、足を止めた。
 次の樹を辿ろうとして、辺りを見回す。
 最初のあの場所から、半刻は歩いただろうか。決して歩きやすくはないが、それなりの距離を進んだと思う。
 左は切り立った岩壁が遮り、森は右手へ広がっている。
「ラウル、次は――」
 レイノルドの問いを、片手を上げて半ばで押さえる。
 声を立てず口の形だけで返した。
 W近いW
 これまで蛇怪の去った方向を指し示してくれた声が、次を示さない。
 そのことが示すもの。
「この辺りが――」
 言いかけて、ヴァースが微かに、ひと揺すり程度、振動したことに気付きラウルは息を潜めた。
 ごく、静かな警告。
「え」
 喉が鳴る。
「どうしました」
「ここが」
 ヴァースはここだと、そう言っている。
 近寄ろうとしたセレスティとレイノルドの足を、押さえた声が止める。
「動くな」
 グイドが何を告げているのか、三人は瞬間的に理解した。
 同時にグイドの矢が放たれる。ラウルの頭上へ。
「退がれ。リズを囲む」
 布を擦り合わせるのに似た音。
 ラウルのすぐ後ろの楡の木が梢を揺らす。
 その意味に気付いて背筋が凍った。
 ぽた。
 頬にひと雫、血が滴り落ちる。
(血)
 赤い。
 身体がすっと冷えた。
 誰の血だ。
(まさか)
『ゆっくり退がれ、ご主人――』
 足を極力ゆっくりと引きながら、ラウルは顎を持ち上げ、樹上を見た。
 見るんじゃなかったと後悔する。
 女の顔が枝の間に逆さまに浮かんでいる。初めに見た時も樹の上だったが、今、距離は一間ほどしかない。
 その姿が、細部まで見えた。
 のっぺりとした顔。青白い肌は死人を思わせる。
 人の女の上半身と蛇体の下半身、それぞれ異なる色の鱗に覆われ、その鱗一枚一枚がゆっくりと動き、躯を揺らしている。
 ぬめった手で喉元を掴まれるような、何とも言い難い悍ましさ。
 裂けた唇から、赤く細長い舌がちろりと覗く。
 落ちた沈黙は、一瞬だった。
 急激に、蛇怪が上半身を伸ばし、直下にいたラウルへと七本の腕を広げた。
 矢がその首に真横から突き立った。矢尻がぶつんと首の反対側に抜ける。
 腕がラウルを捕えず掠め、再び樹上へと消える。
 木の枝から枝を這う音。
 移動している。
 それよりも。
「く、首を、貫かれて死なないとか――っ」
「ラウル!」
 レイノルドが戻れと叫ぶ。
 ラウルはヴァースを構え、転びそうになるのを踏みとどめながら数歩下がった。
「毒でも仕込めりゃ良かったが――まあ毒も効くんだか」
 リズリーアを囲み、セレスティを正面中央、ラウルとレイノルドを左右に、グイドは後方に陣取る。
 ノウムとレイノルドの剣、そしてヴァース、それぞれ抜き放たれ、移動し続ける音へと切先を常に動かした。
 一本の木が大きく揺れる。
 ――降りてくる。
 ラウル達の視線の先で、それは木の幹を巻くように伝い降り、白くやや虹色の光沢を帯びた上半身を地面に降ろした。
 ぺたりと腹から胸がつく。濡れたような長い黒髪が背と地面に散らばる。
 顔をもたげる。
 面こそ人の女だが、そこに浮かぶ笑みは到底、人が浮かべるものではない。
「来るぞ」
 グイドの声にセレスティが前に出した右足にほんの僅か体重を傾ける。
「私が、最初の突進を止めます」
 セレスティの囁く声。


 静寂は――わずかひと呼吸。


 七本ある、それぞれの腕が船の櫂のように土を掴み、蛇怪は土の上を這い進んだ。














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2023.7.2
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