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第4章 きりふり山の冒険

7 捕食者

   白い霧の中、身体に吸い付くような薄布を纏った、たおやかな女がラウル達を見ていた。
 艶のない黒髪をだらりと長く伸ばし、身体の両脇の腰のあたりまで掛かっている。
(何だ――)
 何かおかしい。
 いや、おかしいのは当然おかしいのだ。
 こんな霧の、山の中、若い女が一人で。
 木の上に。
 けれどおかしさは、そういうことではない。
 長い髪が覆い隠している、身体の両側。
 その形が――?
「レイノルド、ラウルをゆっくり引き上げろ」
 姿は見えないが、グイドの声。
 低く、意識を張り巡らせている。
「セレスティ。剣は」
「抜いています」
「双子」
「え、え、ええと」
「眠り――眠り寄せ……っ」
 リズリーアの、詠唱。歌う独特の響き。
 女が聞き入るように首を傾げる。詠唱に揺れるように、霧が揺れる。
 にたりと笑った。
 レイノルドが腹這いになって腕を伸ばし、ラウルの腕を掴んで斜面を引っ張り上げる。
 その間でさえ、ラウルの目は女から離すことができなかった。
 何かがおかしい、その理由にラウルは気が付いた。
 下半身がない。
(違、う――)
 下半身は確かにあった。
 あったが、それは 一旦・・ 折れ返し・・・・木の幹に・・・・ 巻きついて・・・・・ いた・・
「へ――蛇……」
 上半身が人間の女、下半身が蛇なのだ。胴回りは大人が両腕で抱えるほど太く、蛇体の長さは梢と霧に隠れて窺いようがない。
 上半身を覆う薄布と見えたものは、白銀に輝く鱗。
 女が髪を揺らした。
 グイドの矢の弦が鳴る。
 女の眉間へと真っ直ぐ走った矢を、突き立つ直前で白い腕が掴む。
 違和感の正体をもう一つ、ラウルは知った。
 その腕は片側に四本、合わせて八本あった。
 木の枝から振り子のごとく、女の身体が逆さまに揺れて迫る。
 八本の腕が広がった。
 第二矢。
 女の手が掴み取る。
 その矢に重なるようにもう二本、影から現れ脇腹に突き立った。
 女が甲高い苦鳴を上げる。硝子を引っ掻くのに似たその音が耳に突き刺さる。リズリーアの詠唱が途絶えた。
 セレスティが踏み込む。両手剣を下から掬い上げるように、軽々と、鋭く振った。
 ノウムの刃が薄い陽光を受け、軌跡を目に残す。白い胴へ。
 女の上半身が勢い良く振れる・・・
 狙いが逸れ、けれどノウムの切先は右の腕を一本、肘から切り落とした。血が霧に撒き散らされる。
 憎しみの籠った叫び。獣の咆哮というよりは、人の悲鳴のような。
 左の四本目の腕が伸び、セレスティの頭を掴む。
 金属の冑に指先がめり込む。
 グイドの矢が女の左肩に突き立つ。
 矢より僅かに早く、咄嗟に金具を外し、セレスティは滑るように身を低くした。
 冑が脱げる。手は鉄の冑を紙のごとく握り潰した。
 しゃん。
 鈴が鳴る。
『来れ、来れ、夜のとばりにそのかいなを開くもの――』
 リズリーアが身体の正面に掲げた杖、その先端の輪が淡く光る。
 術式を組み合わせ発動させるための詠唱。
 集中を高め術を強化する呪言。
 ラウルの耳が聞き取ったのはこの呪言だ。
 リズリーアは半ば瞳を伏せ、彼女の周りをゆるく風が取り巻いた。
『眠りよ、のものをその腕に』
 詠唱の、その最後の一片ひとひらか――
「リズちゃん!」
 リズリーアは地面に倒れたその後で、突き飛ばされたことに気がついた。
 女の腕が、ヴィルリーアの肩と腕を掴んでいる。
「――ヴィリ!」
 ヴィルリーアの足が浮く。
 ラウルはヴァースを手に駆け出した。
 オルビーィスが女へと突っ込む。
 セレスティが身を跳ね起こす。
 女の上半身とヴィルリーアの身体は地上高く持ち上がっている。
 遠い。
「止まれ!」
 グイドの声。
 グイドが矢を放つ、寸前――
 蛇体がうねり、土と樹々を嵐のごとく叩いた。
 リズリーアを、セレスティを、グイドを、ラウルとレイノルドを弾く。
 弾かれてラウルは樹の幹に背中から叩きつけられた。意識が一瞬遠くなる。
 女はヴィルリーアを掴んだまま、霧の中へと蛇体をくねらせ消えていく。
 グイドが放った矢は霧に吸い込まれた。





 誰もが、束の間――それはほんの一呼吸の間に過ぎなかったが、永遠とも感じられる間、茫然としていた。
 初めに我に返ったのはリズリーアだ。
 土まみれの身体を起こし、ヴィルリーアが消えた方向を見つめたまま、唇を震わせた。瞳は見開かれたまま、面からは血の気が失われている。
「は、早く……、早くヴィリを助けなきゃ!」
 リズリーアは途端に駆け出した。
 グイドが腕を掴んで止める。
「落ち着け。もうここらに気配がない」
 そのグイドは既に矢筒を肩に掛け直し、頭巾を被り直している。
 グイドの矢筒を見て、ラウルは息を詰めた。
 矢の残りはあと、十本だ。
「無闇に追いかけてもどこに行ったかわからねぇし、道を外れたらただ迷うのがオチだ」
「だ――だったらどうすれば! このまじゃヴィリが、ヴィリが……ッ」
 想像に耐えきれず、リズリーアは顔を歪め大粒の涙を零した。
 手が乱暴にそれを拭うが、拭っても拭っても後から零れ落ちてくる。
「やだやだ、やだっ――グ、グイドさん、お願い、ヴィリを助けて――」
「当然、助ける」
 グイドがリズリーアの頭に、撫でるように一度手を置く。
「俺の責任だ。俺が追う」
 本来ならば、あれがついてきていることに気付いた時点で、引き返す判断をしておくべきだった、と。
「リズ、お前は下山しろ。ラウル、連れて行け」
「やだ! 私のせいだもん、私がヴィリを連れてきたから……! だから私がヴィリを探しに行く! ヴィリの代わりに私が食べられる! その間に」
「落ち着いてください、リズ」
 セレスティがリズリーアの肩をそっと押える。
「グイド殿、さすがに貴殿お一人では、あの蛇怪を追って倒すのは困難でしょう」
「俺はこういう場面で戦い慣れてる」
 ラウルも首を振った。
「でも、援護があった方がいいですし、矢も残りの数が」
 それは承知の上だと、グイドの目が語っている。
 口にはしないがグイドは、矢を向ける範囲に他者がいない方がいいと、そう考えているかもしれないとラウルは思った。
 自分達が彼の矢を妨げているのかもしれないと。
 だが、あの蛇の怪物をこの目で見てしまっては、グイド一人を行かせることに到底頷けなかった。
 それに。
『ご主人にゃ、得意技があるしなー』
 いつも通りのヴァースの声は、一呼吸、置くきっかけになった。
 ヴァースの言う通り。
 ラウルは改めて、声に力を込めた。
「追跡なら、俺がします」
「お前が? どう――」
 ああ、とグイドは頷いた。
 応えるように、ラウルは傍らの樹の幹に手を触れた。
「樹々に尋ねれば、今なら記憶が新しいですから、確実に追えます」
 オルビーィスが密猟者達に攫われた時と状況を重ね、それからラウルははっと辺りを見回した。
「オルビーィス!?」
 いない。
 斜面を登る時でさえラウルの周りを飛んでいたのに、その姿がどこにもなかった。
「オルビーィス!」
 呼ぶ声にも反応は戻らない。
 胃の辺りがさっと冷たくなった。
「オルー……」
「おそらくだが、あの蛇の化け物を追っていった」
 そう言ったレイノルドを振り返り、ラウルはこれ以上吸えないほど息を吸い込んで――、吐き出した。
 握った両手に力が篭る。
 いいや、力を、込める。
「じゃあ――じゃあ大丈夫だ。リズ。オルビーィスがヴィリを守ってくれる」
 絶対に。
「だってオルビーィスは、竜なんだからね」
 不安を打ち消し、敢えて希望の方を掴む。
(ヴィルリーア、オルビーィス。今行くよ)
 ラウルはヴァースを鞘に収め、傍の木の幹に手を置いた。
「――追えます」
 リズリーアを、グイド、セレスティ、レイノルドを見回し、木が示した方向へと歩き出した。




 蛇怪は二つの腕でぐったりとしているヴィルリーアの身体を掴み、樹の間を幹と幹を渡るように移動した。
 鋼に似た黒銀に白い斑紋の混じる蛇の尾が、霧を縫って動く。
 ただ蛇怪は、斜面を上へ進もうとはしなかった。もう七十間(約210m)も登れば霧を出てしまう。
 身を隠すことができなくなることと――
 それから、あれ等・・・がいることと。
 安全な霧の中からは出るべきではない。
 手にした獲物を掴む力が増す。獲物は気を失い固く目を閉じていたが、締め付ける力に微かに呻いた。
 上々の獲物だ。
 時折この山を登ってくる人間達。
 ここまで登ってきた人間のほとんどは、この蛇怪が捉え、喰らった。
 手足を捻ってしまえば逃げ出すこともできず、けれどしばらくは生きている。
 一匹喰らい、腹が減ったらまたもう一匹を。
 先ほどの人間達は、まだ後五匹いた。そのうち、今ここに捕らえたものと同じ、柔らかそうな若いものも。
 するりと大樹を巻いて這い上がる。頭から尾まで四間(約12m)にも及ぶ蛇怪の体重を支えるほどの枝が広がり、そのうちの一本が斜面に張り出した、高さ六間(約18m)ほどの所にある岩場に差し掛かっている。
 蛇怪は枝を伝い岩場の平たい岩の上へ、ヴィルリーアを下ろした。
 そこが蛇怪の巣だった。捕らえてきた獲物をここで保存し、喰らうのだ。
 岩場には裂いた獲物から流れ出した血の痕がこびりつき、だがそれ以外は石塊いしくれ程度しか落ちていない。最後には丸呑みで喰らうため、岩場には骨の欠片も残らなかった。
 今岩場に下ろした獲物の、仰向いて覗いた白い額と喉に空腹を刺激され、赤く長い舌がちろりと揺れる。
 とても旨そうだ。今、せめて脳と内臓を喰らっておこうか。獲物を呑みさえしなければ、残りの獲物達を捕える妨げにはならない。
 七本の手がそれぞれ、ヴィルリーアの両手足、喉、頭を掴む。
 上がった呻き声がますます食欲をそそる。
 頭を掴んだ二つの手、十本の指先に、頭蓋を割ろうと力を込めた。





 軋んだ音を立て、木の扉が開く。
 白と淡い紫の繊細な薄布を重ねた裾を揺らし、女は小屋へ入った。
 そこはラウルの鍛治小屋だ。
 絹糸に似た艶やかな銀髪を緩やかに結い上げた、たおやかな細身の女だった。窓から差す陽光に、銀髪はやや青みを帯びて見える。
 足音をほとんど立てず、女は正面の壁へと室内を横切り、その前に立った。
 視線の先にあるのは、ラウルの打った剣が五振り。
 剣がそれぞれひとりでに、ガタガタと身をゆすり出す。けれど女の視線を受け、剣はいずれも静まった。
 白い面に気品のある微笑みを刷く。
 その内の一振りへ、女はほっそりとした手を伸ばした。











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2023.6.4
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