白い霧の中、身体に吸い付くような薄布を纏った、たおやかな女がラウル達を見ていた。
艶のない黒髪をだらりと長く伸ばし、身体の両脇の腰のあたりまで掛かっている。
(何だ――)
何かおかしい。
いや、おかしいのは当然おかしいのだ。
こんな霧の、山の中、若い女が一人で。
木の上に。
けれどおかしさは、そういうことではない。
長い髪が覆い隠している、身体の両側。
その形が――?
「レイノルド、ラウルをゆっくり引き上げろ」
姿は見えないが、グイドの声。
低く、意識を張り巡らせている。
「セレスティ。剣は」
「抜いています」
「双子」
「え、え、ええと」
「眠り――眠り寄せ……っ」
リズリーアの、詠唱。歌う独特の響き。
女が聞き入るように首を傾げる。詠唱に揺れるように、霧が揺れる。
にたりと笑った。
レイノルドが腹這いになって腕を伸ばし、ラウルの腕を掴んで斜面を引っ張り上げる。
その間でさえ、ラウルの目は女から離すことができなかった。
何かがおかしい、その理由にラウルは気が付いた。
下半身がない。
(違、う――)
下半身は確かにあった。
あったが、それは
一旦
折れ返し、
木の幹に
巻きついて
いた。
「へ――蛇……」
上半身が人間の女、下半身が蛇なのだ。胴回りは大人が両腕で抱えるほど太く、蛇体の長さは梢と霧に隠れて窺いようがない。
上半身を覆う薄布と見えたものは、白銀に輝く鱗。
女が髪を揺らした。
グイドの矢の弦が鳴る。
女の眉間へと真っ直ぐ走った矢を、突き立つ直前で白い腕が掴む。
違和感の正体をもう一つ、ラウルは知った。
その腕は片側に四本、合わせて八本あった。
木の枝から振り子のごとく、女の身体が逆さまに揺れて迫る。
八本の腕が広がった。
第二矢。
女の手が掴み取る。
その矢に重なるようにもう二本、影から現れ脇腹に突き立った。
女が甲高い苦鳴を上げる。硝子を引っ掻くのに似たその音が耳に突き刺さる。リズリーアの詠唱が途絶えた。
セレスティが踏み込む。両手剣を下から掬い上げるように、軽々と、鋭く振った。
ノウムの刃が薄い陽光を受け、軌跡を目に残す。白い胴へ。
女の上半身が勢い良く振れる。
狙いが逸れ、けれどノウムの切先は右の腕を一本、肘から切り落とした。血が霧に撒き散らされる。
憎しみの籠った叫び。獣の咆哮というよりは、人の悲鳴のような。
左の四本目の腕が伸び、セレスティの頭を掴む。
金属の冑に指先がめり込む。
グイドの矢が女の左肩に突き立つ。
矢より僅かに早く、咄嗟に金具を外し、セレスティは滑るように身を低くした。
冑が脱げる。手は鉄の冑を紙のごとく握り潰した。
しゃん。
鈴が鳴る。
『来れ、来れ、夜の帳にその腕を開くもの――』
リズリーアが身体の正面に掲げた杖、その先端の輪が淡く光る。
術式を組み合わせ発動させるための詠唱。
集中を高め術を強化する呪言。
ラウルの耳が聞き取ったのはこの呪言だ。
リズリーアは半ば瞳を伏せ、彼女の周りをゆるく風が取り巻いた。
『眠りよ、彼のものをその腕に』
詠唱の、その最後の一片か――
「リズちゃん!」
リズリーアは地面に倒れたその後で、突き飛ばされたことに気がついた。
女の腕が、ヴィルリーアの肩と腕を掴んでいる。
「――ヴィリ!」
ヴィルリーアの足が浮く。
ラウルはヴァースを手に駆け出した。
オルビーィスが女へと突っ込む。
セレスティが身を跳ね起こす。
女の上半身とヴィルリーアの身体は地上高く持ち上がっている。
遠い。
「止まれ!」
グイドの声。
グイドが矢を放つ、寸前――
蛇体がうねり、土と樹々を嵐のごとく叩いた。
リズリーアを、セレスティを、グイドを、ラウルとレイノルドを弾く。
弾かれてラウルは樹の幹に背中から叩きつけられた。意識が一瞬遠くなる。
女はヴィルリーアを掴んだまま、霧の中へと蛇体をくねらせ消えていく。
グイドが放った矢は霧に吸い込まれた。
誰もが、束の間――それはほんの一呼吸の間に過ぎなかったが、永遠とも感じられる間、茫然としていた。
初めに我に返ったのはリズリーアだ。
土まみれの身体を起こし、ヴィルリーアが消えた方向を見つめたまま、唇を震わせた。瞳は見開かれたまま、面からは血の気が失われている。
「は、早く……、早くヴィリを助けなきゃ!」
リズリーアは途端に駆け出した。
グイドが腕を掴んで止める。
「落ち着け。もうここらに気配がない」
そのグイドは既に矢筒を肩に掛け直し、頭巾を被り直している。
グイドの矢筒を見て、ラウルは息を詰めた。
矢の残りはあと、十本だ。
「無闇に追いかけてもどこに行ったかわからねぇし、道を外れたらただ迷うのがオチだ」
「だ――だったらどうすれば! このまじゃヴィリが、ヴィリが……ッ」
想像に耐えきれず、リズリーアは顔を歪め大粒の涙を零した。
手が乱暴にそれを拭うが、拭っても拭っても後から零れ落ちてくる。
「やだやだ、やだっ――グ、グイドさん、お願い、ヴィリを助けて――」
「当然、助ける」
グイドがリズリーアの頭に、撫でるように一度手を置く。
「俺の責任だ。俺が追う」
本来ならば、あれがついてきていることに気付いた時点で、引き返す判断をしておくべきだった、と。
「リズ、お前は下山しろ。ラウル、連れて行け」
「やだ! 私のせいだもん、私がヴィリを連れてきたから……! だから私がヴィリを探しに行く! ヴィリの代わりに私が食べられる! その間に」
「落ち着いてください、リズ」
セレスティがリズリーアの肩をそっと押える。
「グイド殿、さすがに貴殿お一人では、あの蛇怪を追って倒すのは困難でしょう」
「俺はこういう場面で戦い慣れてる」
ラウルも首を振った。
「でも、援護があった方がいいですし、矢も残りの数が」
それは承知の上だと、グイドの目が語っている。
口にはしないがグイドは、矢を向ける範囲に他者がいない方がいいと、そう考えているかもしれないとラウルは思った。
自分達が彼の矢を妨げているのかもしれないと。
だが、あの蛇の怪物をこの目で見てしまっては、グイド一人を行かせることに到底頷けなかった。
それに。
『ご主人にゃ、得意技があるしなー』
いつも通りのヴァースの声は、一呼吸、置くきっかけになった。
ヴァースの言う通り。
ラウルは改めて、声に力を込めた。
「追跡なら、俺がします」
「お前が? どう――」
ああ、とグイドは頷いた。
応えるように、ラウルは傍らの樹の幹に手を触れた。
「樹々に尋ねれば、今なら記憶が新しいですから、確実に追えます」
オルビーィスが密猟者達に攫われた時と状況を重ね、それからラウルははっと辺りを見回した。
「オルビーィス!?」
いない。
斜面を登る時でさえラウルの周りを飛んでいたのに、その姿がどこにもなかった。
「オルビーィス!」
呼ぶ声にも反応は戻らない。
胃の辺りがさっと冷たくなった。
「オルー……」
「おそらくだが、あの蛇の化け物を追っていった」
そう言ったレイノルドを振り返り、ラウルはこれ以上吸えないほど息を吸い込んで――、吐き出した。
握った両手に力が篭る。
いいや、力を、込める。
「じゃあ――じゃあ大丈夫だ。リズ。オルビーィスがヴィリを守ってくれる」
絶対に。
「だってオルビーィスは、竜なんだからね」
不安を打ち消し、敢えて希望の方を掴む。
(ヴィルリーア、オルビーィス。今行くよ)
ラウルはヴァースを鞘に収め、傍の木の幹に手を置いた。
「――追えます」
リズリーアを、グイド、セレスティ、レイノルドを見回し、木が示した方向へと歩き出した。
蛇怪は二つの腕でぐったりとしているヴィルリーアの身体を掴み、樹の間を幹と幹を渡るように移動した。
鋼に似た黒銀に白い斑紋の混じる蛇の尾が、霧を縫って動く。
ただ蛇怪は、斜面を上へ進もうとはしなかった。もう七十間(約210m)も登れば霧を出てしまう。
身を隠すことができなくなることと――
それから、あれ等がいることと。
安全な霧の中からは出るべきではない。
手にした獲物を掴む力が増す。獲物は気を失い固く目を閉じていたが、締め付ける力に微かに呻いた。
上々の獲物だ。
時折この山を登ってくる人間達。
ここまで登ってきた人間のほとんどは、この蛇怪が捉え、喰らった。
手足を捻ってしまえば逃げ出すこともできず、けれどしばらくは生きている。
一匹喰らい、腹が減ったらまたもう一匹を。
先ほどの人間達は、まだ後五匹いた。そのうち、今ここに捕らえたものと同じ、柔らかそうな若いものも。
するりと大樹を巻いて這い上がる。頭から尾まで四間(約12m)にも及ぶ蛇怪の体重を支えるほどの枝が広がり、そのうちの一本が斜面に張り出した、高さ六間(約18m)ほどの所にある岩場に差し掛かっている。
蛇怪は枝を伝い岩場の平たい岩の上へ、ヴィルリーアを下ろした。
そこが蛇怪の巣だった。捕らえてきた獲物をここで保存し、喰らうのだ。
岩場には裂いた獲物から流れ出した血の痕がこびりつき、だがそれ以外は石塊程度しか落ちていない。最後には丸呑みで喰らうため、岩場には骨の欠片も残らなかった。
今岩場に下ろした獲物の、仰向いて覗いた白い額と喉に空腹を刺激され、赤く長い舌がちろりと揺れる。
とても旨そうだ。今、せめて脳と内臓を喰らっておこうか。獲物を呑みさえしなければ、残りの獲物達を捕える妨げにはならない。
七本の手がそれぞれ、ヴィルリーアの両手足、喉、頭を掴む。
上がった呻き声がますます食欲をそそる。
頭を掴んだ二つの手、十本の指先に、頭蓋を割ろうと力を込めた。
軋んだ音を立て、木の扉が開く。
白と淡い紫の繊細な薄布を重ねた裾を揺らし、女は小屋へ入った。
そこはラウルの鍛治小屋だ。
絹糸に似た艶やかな銀髪を緩やかに結い上げた、たおやかな細身の女だった。窓から差す陽光に、銀髪はやや青みを帯びて見える。
足音をほとんど立てず、女は正面の壁へと室内を横切り、その前に立った。
視線の先にあるのは、ラウルの打った剣が五振り。
剣がそれぞれひとりでに、ガタガタと身をゆすり出す。けれど女の視線を受け、剣はいずれも静まった。
白い面に気品のある微笑みを刷く。
その内の一振りへ、女はほっそりとした手を伸ばした。
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