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第4章 きりふり山の冒険

6 這い寄るもの

 


 一日前のことだ。
 霧の中を猿の群れは、昼間手に入れたご馳走をもっと手に入れたくて、人間達の後を遠巻きに追っていた。
 あの時唸り飛んできた矢が恐ろしい。それにあの場にいた幼竜も。気をつけなくてはいけない。
 それでも一度味わった味が忘れられず、隙を見てまた食料を奪おうと、猿達は周囲からの敵にも気を配りながら、樹々の枝から枝を慎重に移動していた。
 それでも――

 猿達は群れから一匹、また一匹といなくなった。
 静かに。
 声も立てず。


 追っていた人間達がまた足を止めたのがわかる。太陽は霧の向こうで、西の地平にゆっくりと降りていくところだった。
 昼間のように、ご馳走を手に入れる機会に違いない――嬉々として近寄ろうとした猿達が慌てて樹上に止まったのは、地上に狼の群れが動いているのを見たからだ。
 人間たちを獲物として襲おうとしている。
 それではもう人間達の持っているご馳走を手に入れるのは難しく、逆に自分達が狼の餌になりかねない。
 群れを率いる雄猿は追うのを諦め、群れに意思を伝えるために声を上げた。
 おかしいと、気付いたのはその時だ。
 応える鳴き声が少ない。
 もう一度呼び掛けた声は、少し先の霧の中から上がる狼の唸り声と人間達の声とに紛れた。下ではもう戦いが始まっている。
 雄猿は再び声を上げた。
 やはり返答が少ない。
 一番離れた場所から返った鳴き声が、半ばで途切れた。
 雄猿は明らかに異常を理解した。
 霧に覆われ目で見ることはできなかったが、三十匹ほどもいた群れは、その時既に二十匹にまで数を減らしていた。

 ――逃ゲナクテハ

 そこに、それ・・は現れた。
 その姿を見た瞬間、恐怖に全身を掴まれ、雄猿は尾の先を動かすことすらできなくなった。

 狼の遠吠えが、霧を貫いて樹上へも響く。
 その響きは異常を告げている。




 それ・・猿は怯え切っていて、捕獲は容易だった。
 鋭い爪が猿の腹を裂く。零れ出たはらわたを啜り、頭蓋を両手で割って脳を啜る。
 その間にもそれは白くたおやかな腕を動かし、それぞれの手に一匹ずつ、合わせて六匹の猿を掴んだ。
 逃げもせず、悲鳴も上がらない。
 それの双眸が――恐怖が、彼等の身体を縛っていた。
 肉が裂ける音。
 骨が折れ、砕ける音。
 咀嚼音。
 布をこすり合わせる時に似た、擦過音。
 しゅる。

 しゅる。

 しゅる。


 そこにいた猿の群れ、二十匹を超えるそれらの脳とはらわたを啜り味わうと、肉体を丸々喰らう。残りは木の枝に引っ掛けた。
 それは太い木の枝に絡むようにぐるりと丸くなった。




 次に目を覚ましたのはまだ陽が昇らないうちだ。
 既に空腹を感じていた。
 そこに引っ掛けておいた餌を一匹掴む。
 けれど冷え切って硬い骸より、霧の中に感じる温かな血の熱がそれの気を惹きつけた。
 昨日、この森に入ってきた生き物――人間を、それはもう何度も喰らったことがあった。
 猿よりずっと柔く美味と言えるし、あれ一体喰らえば二日は腹がくちくなる。
 今、森を歩いているのは合わせて六体。手足を捻って保存しておけば、生きたまま半月は保つ。獲物がか細く呻く様は空腹を刺激し、喰らう時の旨味が増した。
 全部捕らえて小さいものから先に喰うのがいい。今までそうしてきたように。
 それ・・は、人間の捕らえ方を心得ていた。
 餌を一つ手に掴んだまま、ほかの残骸にはもはや目もくれず、それは樹々の上を移動し始めた。
 時折、細い首を左右へと振り分ける。首の動きに合わせて長い黒髪が薄暗い霧に散る。
 霧の中を進み、獲物達が固まって憩んでいる頭上近くにまできた。霧に覆われながらも、それの目は血の熱を僅かに捉えた。
 唇を笑みの形に歪めると、耳元まで黒々と裂ける。
 猿などよりもずっと上等で、美味そうな匂いが鼻腔をくすぐる。
 舌舐めずりをし、近付こうとしたその時、耳障りな甲高い音が彼らの中から湧き起こった。
 一瞬、体を硬直させたその肩へ、乳白色の膜を切り裂いて飛来した矢が突き立つ。
 それは痛みと驚きに身を翻して霧の中に消えた。





 歩くほどに斜面は険しくなり始めた。
 時折足が地面に取られ転びそうになる。
 霧はまだ濃く、視界を妨げて漂っている。
 朝出発してから、一度短い休憩をとり、三刻ほど歩いただろうか。
「あとどのくらいで、霧を抜けられるでしょうか」
 セレスティは前方を見据えていた視線をグイドへ向けた。そこには早く霧を抜けてしまいたいという思いが含まれているようだ。
 朝、樹上にいたモノが何か、そして今、彼らを追ってきているのかどうか――
 ラウルは肩を震わせた。
 平気か、と問うようにオルビーィスが飛びながら頬に鼻先を寄せる。
 ラウルはオルビーィスの鼻先を指の腹で撫でた。
「大丈夫だよ。空気が冷たくなってきたね。オルビーィスは寒くない?」
 標高が上がっているせいで肌寒さが増している。
 ぴい、と元気よく答えが返る。
 あとどのくらいで、というセレスティの問いに、グイドが顔を巡らせる。
「そうだな……思った以上に時間がかかってる。登山道が緩いし、まっすぐ登っていかないからな」
 これで?とラウルは思ったが、口にはしない。この山をまっすぐ登ったらどれほどきついか。斜面をぐるりと回っているような今の道は有り難かった。
 グイドが続ける。「だが今日にはこの霧を抜けられるだろう。野営は見通しのいい場所でできるさ」
「ええ?、まだあるの?」
 リズリーアは頬を膨らませた。そんな様子も愛らしさが勝る。
 朝、野営地を発ってからは近付く獣もなく、リズリーアもヴィルリーアも強張っていた顔が穏やかになっている。
(朝の、アレももう、どこかに行ったかな)
 最初の休憩時にまたグイドが丸薬を焼き、煙を浴び直したのもある。お陰でオルビーィスが肩に降りてくれないのが寂しいが、ふよふよと周りを飛んでついてくる姿は何度もラウルの頬を弛ませた。
 他愛無い会話を挟みながら、もう半刻ほど歩いていると、何となくだが霧が薄くなり始めたように思える。
 樹々もまばらになり、足元も土より石が多くなってきた。
 風が吹く。その風も森に入った頃より強くなっている。
 ラウルは前後を見て、声をかけた。
「そろそろ一度、休憩にしましょう。お昼に」
「賛成!」
 リズリーアが手を挙げる。
「ぼ、ぼくも、賛成です……」
 ヴィルリーアも続き、グイドが頷く。
「そうだな。オルビーィスがラウルに近くなってきたから、ここらでもう一度煙を浴びておこう」
 うう。また遠くなってしまう。残念だ。
「水はこの先入手できる場所が無い。配分を考えて飲めよ」
「はーい」
「今のうちに防寒具を着ておけ。特に双子」
「ええー。暑いし。ずっと歩いて登ってるもん。汗かいちゃって」
「風が出てきた。体温を奪われる」
「リズちゃん、汗少し引いたら着よう」
 ヴィルリーアの言葉には素直に頷く。
 グイドは二人の荷物からそれぞれ中に着込む上着を取り出し、双子に手渡した。二人が一度法衣を脱いで下に防寒着を着込むのを見ながら、グイドはもう松明に火を灯し、例の丸薬を放り込んだ。双子をその前に座らせている。
「これ臭ーい」
「鼻が、つんとします……」
 抗議も「我慢しろ」の一言で完封だ。
 ラウルは荷物を下ろしその側によっこらせ、と腰を下ろした。
 地面についたお尻の辺りからどっと疲れが立ち昇り、思わず深々と息を吐く。
「ふい?……」
「だらしがないな」
 そう言いつつレイノルドが斜め前にどさりと座る。
 オマエ、嫌味を言いに来たなら帰れ。
「ラウル、体力は大丈夫ですか」
 セレスティは手頃な岩を見つけて腰掛け、かぶとを脱いでくつろぎながらそう尋ねた。
 端正な面に浮かべた笑みがこんな時でも爽やかだ。
「いやあ、正直、結構膝にきてます。普段動かないから。セレスティこそ、鎧を着ているし辛くないですか」
「着たままひたすら歩くのは慣れていますし」
 と、伯爵家の四男らしからぬ返事が返る。
「レイノルド殿も、少しお疲れのようですね」
「お心遣い有難うございます。まだそれほど疲れてはおりません。俺はこいつよりも鍛えてますから」
 セレスティが伯爵家の四男と聞いた後は、レイノルドは礼儀正しく接している。
 四男で爵位は関係なく、もう既に家を離れている、とセレスティは説明していたが、その辺がきっちりとしている、或いは砕けられないのがレイノルドだ。
 それにしても態度が違うな。
「レイノルド殿の剣はかのフェムルト殿の作だとか。あの方のお名前は私の育った街でも耳にしておりました。失礼ながら、拝見してもよろしいでしょうか」
「お望みなら」
 レイノルドは剣帯から剣の鞘ごと外し、セレスティへと手渡した。
 おずおずと頬を赤らめる。
「か、代わりにと言ってはなんですが、そのノウムという剣、少し見せていただいても――」
「当然です。そもそもこちらはラウルからお借りしているものですから」
 二人は剣を交換し、じっくりたっぷりと眺め始めた。
 ほお、とかふむ、とか唸りながら刃先がどうの、鉄の肌がどうの、柄の握り具合がどうの、振った時の遠心力のかかり具合がどうのと熱心に言葉を交わしている。
 しばらくの間は鍛剣に役立つかと真面目に聞いていたが、
「――うん」
 ラウルはひとつ頷き、グイドを振り返った。
「グイドさん、朝いたものの気配はまだありますか」
 リズリーアとヴィルリーアが、もぐもぐと昼食を食べていた口元を止める。
(栗鼠かな?)
 微笑ましさを覚えたが、グイドの言葉にそれも押しやられた。
「気配は感じない。だが、付いて来てると考えて行動したほうがいいだろうな」
「そ――そうですね……っ、当然ですっ」
 胸を一度叩いたつもりが、拳がぶれて三度くらい自分に打撃を打ち込んだ。
 うう。こわい。
「登って行く以上、自分達から逃げ道を狭くしてってるようなもんだ」
「う」
「いずれは戦う場面が出てくる」
 と、グイドはこともなげに言った。
「あ、あたし、ちゃんとみんなを回復できるように準備してるからね!」
「ぼ、ぼ、僕は、今度は、風切りを唱えますから……っ」
 二人は手にしていたパンを膝に下ろし、お互いの目を力強く見交わしている。
「がんばろうねっ」
「まあ、頼りにしてるぜ」
「あーっ、おじさん信じてないでしょっ」
「信じてるさ。この先法術の重要性は格段に増すだろうからな。お前さん達が必須だ」
 返したグイドの声は冗談めかしていながら、二人の法術を必要とする場面が必ず出てくると、そういう予想を含んでいるように思えた。
(気を張っておかなきゃな)
 ラウルは肩に一度力を込めて、それを抜いた。血が巡る。
「ほれ、さっさと昼飯を済ませちまえ」
「おじさんこそ」
「俺はもう食った」
 えっ、とかいつの間に?! とかリズリーアがそれでまた騒いでいる間にも、グイドは視線を周囲へと巡らせている。
 ラウルは立ち上がった。
「グイドさん、矢はあと何本ありますか」
「十六だな。狼の時回収できなかった」
 用意した二十本中、十六本。
 グイドならばそれでも充分だろうか。
 それでも、グイドの矢にだけ頼っているわけにもいかない。
「朝のヤツが追ってきた時の為に、俺たち何か――」
 がさ、と、下草を鳴らす音がした。
 ラウルの視線の先、グイド達の後方。
 茂みが揺れている。
「グイドさ――」
 茂みを割って現れた黒い影。
 双子が同時に立ち上がる。さっとリズリーアがヴィルリーアの前に出た。
 グイドは既に弓に矢を番えて影へ向け、ラウルのすぐ後ろでセレスティとレイノルドも剣を抜き立ち上がった。
 黒い影が地を這うように突進してくる。
 低い位置、四つ脚、長い尾、灰色の鱗――
「と、蜥蜴――?!」
 全長は一間(約3m)近い。
 セレスティが地面を蹴り瞬きの間に前へ出た。双子の前だ。
 突進する蜥蜴に振り下ろそうとした剣が、グイドの声に寸前で止まる。
「待て! そいつは逃げてる!」
 セレスティがノウムの柄を引く。
 蜥蜴はセレスティの足元をすり抜け、短い脚で驚くべき速さで走り抜けた。
 ここにいる人間は彼等の獲物にはならないのか――見向きもしない。
 下草を揺らす音はまだ続いている。
 それに気付いてラウルが視線を戻した先、次々に――、霧の中から大蜥蜴が飛び出し、休憩していた場を駆け抜ける。
 霧から現れ、霧の中へ消えていく。重い足音、長い尾が地面でこすれ枯葉や土を撒き散らす。
 その数、十頭を超えている。
「な、何が――」
『ご主人――』
 ヴァースの声と、衝撃が一緒だった。脚に蜥蜴がぶつかった。
 次に浮遊感。
「ラウル!」
 伸ばした手は差し伸べられた手を掴めず、足が空を掻く。
 霧の中に、落ちる。
 次の瞬間、背中から地面に落ち、そのままラウルは斜面を二、三間、滑り落ちた。



 土、木の葉。その上を身体が滑り落ちる。
 木の根があちこちぶつかる。
 ものすごく痛い。
(死ぬ――)
 けれど、身体はすぐに止まった。
 最後のおまけとばかり、木の幹に左の肩をしたたか打ちつける。
「――いっ……っ、」
『ごしゅじーん、大丈夫かー、ごしゅじーん』
 ヴァースの声がやけにのんびりして聞こえる。もっと心配してくれ。いやいや、深刻な心配など必要ない、そのくらいの状況ってことだね分かる。
「ラウル!」
 誰か呼んでいる。遠いけれどこの声はレイノルドだ。
 ええと、うん。
 声が聞こえる方が斜面の上だ、多分。
 ラウルは地面に手をついて何とか身体を起こした。
「だ、大丈夫――」
 掠れた声では上までは届かないだろう。
 ラウルはもう一度声を張った。
「無事だ!」
 それに何と言っているのか、くぐもった声が戻る。
 至る所痛いが、どこも折れたりしていない、ようだ。多分。
 緩い斜面だったせいで、擦り傷ができたくらいだった。多分。
 幸い休憩で荷物は下ろしていたし、ヴァースはしっかり剣帯に括られている。
 身体は木の葉まみれの土まみれだが、ひとまず良かった。
「ぴい!」
 必死さを含んだ響きと翼の音と共に、オルビーィスがラウルのそばに浮かび、その姿に胸の奥から安堵が湧きあがる。
 こんなに心配してくれて――
 かわいいかわいいかわいい。
「ぴい?」
 いや、浮かれている場合ではない。
「大丈夫だよ」
 そう言ってオルビーィスの首を撫で、ラウルは上を振り仰いだ。
 霧の中に霞んでいるものの、斜面が急なのはわかる。
 どれほど滑り落ちたのかは分からないが、感覚的におそらく三、四間(9?12m)と言ったところか。
 他よりも樹があまり生えていないようなのは、もしかしたらこの斜面が過去に崩れてできたからなのかもしれない。
 だからこそ骨折や切り傷などを負わずに済んだのかもしれない、が。
「登るもの大変だな……」
 捕まれる物も足掛かりになる物も少なすぎる。
『ご主人、どうすんだー?』
「とにかく戻らなきゃ。ええと」
 周りを見回しても道らしきものは見当たらなかった。
 下手に横移動したら迷いそうだ。
「やっぱりここを登る、んだろうな」



「ラウル!」
 追いかけて斜面を滑り降りようとしたレイノルドの腕を、セレスティが掴んで引き止める。
 レイノルドはつんのめった。
「何を」
「待ってくださいレイノルド。貴殿は降りるより、ここで」
「だが」
 セレスティはレイノルドに、背嚢から外した縄の端を手渡した。
「分かった、これで降り――」
「ここで」
 ともう一度、セレスティは繰り返した。
「縄を垂らしましょう。引っ張り上げるなら支え手が上にいた方がいい」
 にこりと微笑んだ笑顔の圧が高い。
「わ、分かりました」
「俺のも使え」
 グイドから渡された縄と合わせれば、長さは六間(約18m)になる。
 セレスティが縄を手早く結んで繋ぎ、片側を手頃な木の幹に括りつける。
 レイノルドは二本の縄がしっかり結びついているのを確認し、斜面に投げ下ろした。
「ラウル! これを掴んで登ってこい!」
 縄は蛇が身をくねらせるように伸びていき、霧の中に落ちる。
「ラウル!」
 霧の中から手応えが返る。
「リズ、ヴィリ。側に来ておけ」
 グイドはそう言って、静かになった周囲を見回した。
 幸い大蜥蜴達の姿は消えている。
 森にある音は遠くの鳥の声と、風が枝葉を揺らす音だけだ。
「何かに、驚いたんだろうが――」
 ヴァースはラウルと一緒に下だったな、と、そう呟いた。


 肩に当たって落ちた縄を掴み、ラウルは息を吐いた。
 三、四巻きほど手繰ったところでぴんと張る。
「ラウル、掴ん――自力――登れますか」
 セレスティの声が落ちてくる。冷静な響きに安心する。
(けど、ここを登れるかなぁ。うう)
 ぐい、と引っ張ればしっかりと縄が張り、硬い手応えが返った。
 斜面に足をかけ、土に靴の爪先を押し込むようにして一度身体を浮かす。
 いけ、そうだ。
「大丈夫です! 登れます!」
 想像よりは比較的容易に、ラウルは斜面を登り始めた。


『あと少し! あと少し!』
『あ』と『と』の間に小さな『っ』が入っている。
 ラウルは懸命に縄を掴み、斜面に置いた両足を踏ん張りながら登った。
「ぐぅう」
『あっと少し! あっと少し!』
「ヴ、ヴァースが、俺の腕を、動かして、くれない、かな……っ」
『あっと少し! あっと少し!』
 あ、無理なんですね。はい。
 両腕にこれまでかけたことのない負荷をかけこれまでの人生にないほどのありったけの根性を絞り上げて注ぎ込み、懸命に登る。
 やがて、どうにか、ようやく、斜面の上に立つ足が見えてきた。
 縄を引っ張り手繰り寄せようとしているレイノルドの姿が見える。
(レイ――)
 視線が合うと、左手に縄をふた巻きほどして、右手を差し伸べる。
「手を伸ばせ!」
 全体重両手にかけて必死に縄を掴んでいる人間が、片手を離すのって意外と難しいんだぞ。
 と、ひとこと言いたいところだが、口を開くと泡を吹きそうだし登りきるのが先決だ。
 最後の一踏ん張りと縄を掴む手を上へ、伸ばそうとした時――
 ラウルの腰でヴァースが高い音を立てた。
 思わず縄から手を離しそうになり、必死に捕まる。縄ごと身体がぐらぐらと揺れた。
「な、な――なん、ヴァ……」
 鋭い、警報音。
 朝と同じ。
 グイドが何か言っている。
 辺りが緊張に満ちている。
 空気が、確かに――変わった。
「――急げ」
 レイノルドがラウルに手を伸ばす。
「ラウル、早くしろ!」
「わ、分かっ――」
 レイノルドの手を掴もうと上を振り仰いだラウルは、その首の角度のまま目を見開いた。
 風が強く吹き、霧を押し流した。
 その、奥――
 レイノルドの斜め後ろの奥だ。
 上――樹々の、枝の間。
 女の顔がぽかりと、浮かんでいた。









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2023.6.4
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