霧の中にどこかくぐもりながら響いたのは、狼の咆哮――
最初に聞いた時よりもずっと、近い。
そして、咆哮は一頭だけではなかった。
数頭が呼び交わすように吠えながら近付いてくる。
それは野営地の四方を、既に囲んでいた。
「セレスティ、ラウル、双子を中に置け」
グイドの指示が飛ぶ。
既にグイドは矢を一本番え、弦を半ば張った右手の指にもう二本、矢を挟んでいる。
セレスティが斜面の上側、ラウルは斜面の下側に立ち、それぞれ剣を抜いた。
「か、か、風切り、用意します。僕の正面には、入らないでくださいっ」
ヴィルリーアは登山道に並行に立って斜面の下を向き、身体の前に杖を立てた。
「ヴィリ」
気をつけて、と頬をこわばらせるリズリーアへ頷くヴィルリーアの顔は、もっとこわばっている。
「落ち着いていけ」
ヴィルリーアと背中合わせに、斜面上側を向いてグイド。
回復役であるリズリーアを真ん中に置いた陣形だ。
近づく足音は既に四方から聞こえている。ゆっくり、こちらの様子を伺っている。
その音が四つ足の獣の、強靭な四肢を感じさせた。
ラウルはヴァースを構え、霧の向こうを見据えた。手に汗が滲んでいる。小刻みに震えるのをなんとか堪える。
狼。
何頭いるのだろう。
「火、火があるから、襲って来ないんじゃ」
焚き火はセレスティとヴィルリーアの間に今も赤々と燃えている。
「ほんの少し警戒するくらいだ。獲物がいりゃあ構わず来る」
「そ、そうですか――ざんね」
唸り声。長く。
低く。
「来るぞ」
唸り声が切れた、瞬間――
乳白色の闇から一頭、影が飛び出した。
ラウルとグイドの間、斜面上からだ。
大きい。
弦が鳴り、放たれた矢が狼の肩口に突き立つ。
ギャン! と声を上げ、狼の灰色の躯がもんどりうって斜面を滑り落ちていった。
霧の奥に消える。
「っ」
もう一頭、ラウルの正面から間髪入れずに飛びかかってくる。頭から尾まで、半間(約150cm)はあるか。
開いた顎、剥き出しの鋭い牙。
「――ッ」
ラウルは思わず棒立ちになった。
鼓動が体の奥から太鼓の乱打のように響く。
真っ白な雪で埋もれた背景から突然現れた狼。
目に焼きついた、剥き出しの牙。
「――」
あの日の、腕に牙が食い込む痛みが甦る。滴る血と。
誰かが叫んでいる。
(父さん――)
もっと幼い声。
――レイ
「ラウル!」
耳元で思いっきり声がして、ラウルははっと意識を取り戻した。
森の中。
唸り声、金属音、声が交差している。
「ラウル! 大丈夫!?」
耳元で叫んだのはリズリーアだ。
「ご、ご、ごめん!」
「ヴァースに感謝!」
リズリーアはまた叫んだ。
見ればものすごく力が籠って手のひらと手首が痛いくらいだが、ラウルはヴァースをしっかり構えている。
狼を斬ったかどうかは分からない。
『一頭斬ったぞー』
ヴァースの声。
肩にオルビーィスがいない。
(どこに)
「ヴィリ!」
リズリーアの高い声。
「ヴィリ、落ち着いて!」
切迫した響きにラウルは視線を巡らせた。
ヴィルリーアはラウルの左斜め後ろにいて、杖を体の前に立てている。怪我はしていなさそうだ。
「ヴィリ、風切り、できる?」
リズリーアが懸命に声をかけているが、ちらりと見たヴィルリーアは杖を両手で握りしめたまま、夜目にもわかるほど全身で震えていた。
「か、かざ、ええと……っ きゃあっ」
狼の影が霧の向こうを過ぎる。
ヴィルリーアはすっかり怯えてしまっている。
「ヴィリ、落ち着いて、大丈夫だから――」
双子の真正面から、狼が飛び出した。
二頭。
ラウルは振り返り、ヴァースを握った腕を懸命に振った。
一瞬早くグイドの矢が狼の胸元に突き立つ。
セレスティがヴィルリーアの前に踏み込み、襲いかかる狼へ剣を薙いだ。
直後セレスティは身体を返し、道の上から飛び出してきた狼へ、剣を振る。
風を断ち、上がった血飛沫が霧に溶ける。
「リズ、ヴィリを下がらせろ。ラウル、後ろ!」
道の下、ラウルの右後方から狼。
ラウルは半ばヴァースに引き摺られ、剣を左右斜めに払った。
腕がぐんと、右へ。右から飛び出してきた狼の鼻先を剣が掠める。
霧の中へ引こうとした狼へ、滑空したオルビーィスが両足の爪で掴みかかる。
唸り声、苦鳴。
狼が駈ける足音。
オルビーィスの翼が空を叩く音。
グイドの弓がまた矢を放つ。連続して二射。更に二射。
四方の地面に突き立つ。
更に二射。
何頭めか――グイドの矢がオオカミを貫き、斜面を転がり落ちていく。
ふいに。
周囲を囲んでいた唸り声が止んだ。
一声、咆哮が上がる。
雄々しいと、こんな状況でさえそんなことを思った。
「何――」
「しっ」
グイドが弓を構えたまま、四人へと視線を配る。
しん、と静寂の落ちた霧の中、ラウルたちの耳に、遠のいていく狼の足音が聞こえた。
次第に辺りが静かになる。
足音ももう聞こえない。
(――引いた? 逃げた?)
ラウルはまだ肩から両手まで、ガチガチに力が籠ったまま、剣を構えていた。
呼吸も止めたままだ。
「――行ったみたい」
リズリーアが息を吐き、「ヴィリ、大丈夫? 平気?」とヴィルリーアの肩を抱え背中を撫ぜている。
ヴィルリーアはふにゃふにゃとその場にしゃがみ込んだ。
「こ、こ、怖かったよう、リズちゃ……」
「怪我ない? 大丈夫?」
「ご、ごめんね――ぜ、全然、詠唱が、出てこなくて……っ」
「気にする必要ないよ、初戦だもん。あたしも『眠り寄せ』とかあったけど、忘れてたし。ね。次、一緒にがんばろー!」
「でも、僕がリズちゃんを、まもらなきゃ」
「そーいうんじゃないの。双子なんだから。あたしだってヴィリを守るもん」
涙ぐむヴィルリーアの背を、リズリーアが何度も撫でてやっている。
ラウルは二人のやりとりを見て、狼の襲撃が何とか終わったのだと、ようやく実感した。
(終わった――、み、みんな無事……?)
声を出したつもりだったが音にならなかった。
ガチガチだった腕から力が抜け、それでもヴァースの柄がまだ右手の指から離れないまま、ラウルはとにかく剣を下ろした。
『ご主人、しっかりしろー』
「ぴい!」
自分の少し前に狼が一頭、倒れている。
セレスティがノウムの剣身を布で丁寧に拭い、鞘に収める。血の匂いが微かに、霧に漂った。
「引いたようですね。十数頭、いたようですし、覚悟した分少し拍子抜けですが」
「不利と見たら結構あっさりしたもんだ、狼ってのは。頭がいいからな。それより倒れてる奴に気を付けろ、まだ息がある奴がいるかもしれん」
普段の調子に戻った会話を聞きながら、ラウルは忘れていた呼吸を思い出しようやく息を吸った。
身体に血が巡る感覚。
緩んだ指先からヴァースがするりと地面に落ちる。
『おーい、おれ様を丁寧に扱えよー』
「ごめ――」
ラウルは地面に落ちたヴァースへ手を伸ばした。
『ご主人!』
「ぴい!」
オルビーィスが鋭く鳴く。
足元に倒れていた一頭が、バネを弾くように身を起こした。
開いた顎の剥き出しの牙が、剣を拾おうと上体を傾けていた、ラウルの喉へ。
「ぴー!」
ドン、と、オルビーィスが狼に体当たりするのと、ラウルの正面から霧を裂き走った剣が狼の首を一刀に飛ばすのとが、同時だった。
ラウルは驚きに体勢を崩し、地面に両膝と両手をついた。
瞳を見開く。
「――えっ」
死んだと思った狼が襲いかかってきたことも、危うく喉に食いつかれるところだったことも。
目の前で狼の首が飛んだことも――
全て一瞬で頭から消えた。
剣を払い鞘に収めた青年を見つめる。
セレスティ――ではない。
ええと。
「……レ、レイ?!」
レイノルドだ。
ラウルの従兄弟。
「な――、え? 何? 何で君が。え? ここどこ?」
「借りを返しただけだ」
レイノルドはふい、と顔を逸らして憎々しげに答えたが、それよりもラウルにはここが何処だったっけ、ということが気になった。
夜。
霧の中。
山の中。
きりふり山。
――レイノルド?
「えっ。借り? 借りって、決闘の」
「決闘は違うだろう! あれは俺がお前に貸したようなもんじゃないか!」
ムッとしてレイノルドはラウルを睨んだ。
ややあってぼそりと口を開く。
「前に……」
「? 前?」
ラウルはまだ地面に両手両膝をついたまま、考え込んだ。
肩にオルビーィスが降りる。
レイノルドの声に更に険が篭った。
「ずっと前、狼に襲われただろうっ。あの時俺を、庇ったから、お……お前が怪我を」
眉を寄せ瞬きし、あっと目を見開く。
「えっ。もしかしてあの、十四、五年前の?」
「決まってる」
駄目だ。
頭がかなり混乱している。
文脈はわかるが状況がわからない。
オルビーィスがラウルの背中の上で、自分の尻尾を追いかけてくるくる回っている。かわいい。
仁王立ちのレイノルドとしゃがんだままのラウルという奇妙な構図の二人へ、グイドが歩み寄った。
「おい。何だコイツは。誰か後ろについてきてると思ったら、ラウルの知り合――」
目を細める。「ああ? 誰かと思えば領主の」
「え、グイドさん知ってたんですか?」
ラウルは驚いてグイドを見上げた。
ついてきてたの知ってた?
『俺も知ってたー』
ヴァースがのんびり声を上げる。
彼を拾おうとしていたのだと思い出し、ラウルはヴァースを拾い上げて土を払った。
「知ってたなら何で言わないの?」
『どうすんだろうなって思ったからー』
思ったからー、じゃない。
驚いたしこの霧の中で一人でいたら危険が生じていたかもしれないし、知っていたならもっと早く合流を
(えーと)
ラウルはレイノルドへ、しゃがんだまままっすぐ身体を向けた。
改めて。
何故いるのだろう。
「気付かれていたのか」
レイノルドは決まり悪そうにグイドと、セレスティと双子を代わる代わる見る。
「いえ。私は気付いておりませんでした」
「あたしもー。こんな霧の中で気付くのおじさんくらいでしょ。でもそっか、貴方がレイノルドなんだ」
ずい、とリズリーアがラウルの横を抜けてレイノルドに近寄る。
レイノルドが一歩引く。
リズリーアはもう一歩近寄った。
リズリーアの繊細な面に揶揄うような笑みが広がった。
「借りって、何だ、もしかしてー、レイが剣を学んだのってラウルを助けたかったから?」
「なっ、何で知ってるんだ!?」
ぎょっとしてレイノルドはリズリーアから身を引いた。
「やっぱり?」
慌てふためいて首を振る。
「いやっ、違う、そういう意味じゃなくって、その時のことを……大体レイってなんだ」
「ラウルが話してくれたよ。子供の頃仲良しだったんでしょ。今もラウルは仲良くしたいみたいだし、話の中でレイ、レイって言ってたし」
「仲良く……レイって……」
レイノルドの顔が一回ゆるみ、無理やり引き締まる。
「き、気安く呼ぶな、ラウル! もう子供の頃と同じじゃないんだからな」
リズリーアはヴィルリーアへ頭を傾けた。
「……分かりやすくない?」
「うん……」
えへへ、とヴィルリーアが微笑む。「ラウルさんのこと、好きなんだねぇ」
「違う!」
「ちゃんとラウルとレイ、話した方がいいよ」
「だからレイって呼ぶな! 話すって――」
「行き違いがあったみたいだし?」
ラウルはレイノルドと顔を見合わせた。
「ところでラウル、そろそろ立ったら? その姿勢苦しくない?」
言われてラウルは未だに両膝をついて前かがみになっていたことに気付き、ようやく立ち上がった。
背中で尻尾を追いかけ回っていたオルビーィスがつつっと滑り、服の裾にぶら下がる。
半ば無意識にオルビーィスを抱き上げ、肩に乗せる。
「ええと」
レイノルドだ。
確かにちゃんと、話すべきかもしれないが……
(どうしよう――)
「何だこりゃ」
グイドの驚きと呆れが入り混じった声が耳を捉え、声の方を振り返った。
いつの間にかグイドとセレスティは少し離れたところにいて、二人とも道の先を眺めている。
「セレスティの剣の跡(・)か。おい、ラウル、こりゃすごいぞ」
呼ばれたのをいいことに、ラウルは「ええと、ちょっと待ってね」と、いったんこの場から退却した。
「私も驚きました。このノウム、とても切れ味が良い剣です」
セレスティが感慨深そうに頷き、ノウムを身体の前に持ち上げている。
「ノウムが、何か」
二人の視線を辿り、ラウルは驚いて目を見開いた。
「えっ……」
狼の死骸が、一体。
左前脚から背にかけて、一刀のもと、すぱりと断たれていた。その様はセレスティの腕の確かさを物語っているようだ。
ただ驚いたのはそのことだけではない。
「剣を振る際非常に軽く感じられますし、何より鋭い。鋭すぎる面もありますが――」
道に筋が走り、更に木の枝がいくつも、道の上にばらばらと落ちていた。
切り口は鋭利で刃物で断たれたものだとわかる。
「え、これ、ノウムで断ったんですか?」
「はい」
セレスティは頷いた。
「ラウルは自分に剣を打つ才能がないと言っていましたが、とんでもない。これは素晴らしい剣だと思います」
「ラウルが――ラウルが打った剣」
いつの間にかすぐ横に立っていたレイノルドが、セレスティの腰の剣とラウルを見比べている。
「この跡が?」
「そうです。驚異的だと思いませんか。これほどの剣は世にそうそうありません」
「え、あ、ああ」
セレスティがごく自然にレイノルドに話かけ、レイノルドは少し狼狽えている。
ええと。
『おれ様が名剣宝剣国宝剣だからなー! ノウムもおれ様には及ばないが、いい線いってるんだぜー』
「――え?」
レイノルドの目が限界まで見開かれ、ラウルが手にしているヴァースに落ちた。
「ねぇねぇ、剣もいいんだけど、誰も怪我した人いない? ようやくあたしの出番だと思うんだけど」
リズリーアがひょいと顔を出す。
『幸い誰もいねーみてーだなー。こりゃなかなかどうして頼もしい顔触れじゃねーかー』
「えーっ。あたしまだ一回も使ってないっつまんないっ」
『杖に灯りぴかーって灯してただろー』
「あれじゃ使ったうちに入んないっ」
『いいじゃねーか、明日にとっとけよー』
「一日の詠唱回数、限られてるの。今日唱えなくても明日唱える体力が増えるわけじゃないの」
『そういうもんなのかー?』
「そういうもんなの。術式は精神力すごく使うから何回も唱えたらすごく疲れるの。ちゃんと寝て回復するのが大事なの」
レイノルドはじっと黙ったままリズリーアとヴァースのやり取りを見ていたが、ゆっくり、ラウルへと首を巡らせた。
目が瞬きしていない。
「――おい。ラウル。剣が喋ってるぞ……。何だ、これは」
ああ、うん。
そこからだよね、うん。
慣れきっている自分と状況把握が必要なことと、加えてレイノルドへ一からあれこれ説明する労力を思い、ラウルは淡い笑みを零した。
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