道の傾斜がきつくなってしばらく経った。
猿の襲撃で気分が半ば高揚し、初めこそは会話も多かったものの、今は時折ぽつりぽつりと言葉を交わすだけであとは黙々と足を運んでいた。
昼食を取ってから、もう二刻も歩いただろうか。
霧がまだ濃く漂っているが、周囲の樹々は少しずつ疎らになってきている、ように思える。
斜面をまっすぐに上がるのではなく、山をぐるりと回り込むようにして道は続いていた。
そのせいで、太陽の位置は把握しているものの、今自分がどの方角にいるのかが分かりにくい。
その太陽もやがて西に傾き、霧に覆われた周囲がほんの淡い橙色に染まっていることで、日没が近いのだと知ることができた。
「夜が来ますね」
セレスティが足を止めず、首だけを巡らせる。
お昼以来目立った出来事はなく、とにかく狭い道を踏み締めて斜面を登り続けていた。
初めの緊張は薄らぎ、今は登り続けている疲労が大きい。
今、自分たちがどの程度の高さまで登ってきたのか、霧で覆われて把握できないのも少々きつかった。
オルビーィスはラウルの傍らを飛びながら進み、時々追い抜いたり追い抜かれたりしている。
「やすみたーい」
リズリーアが一言、肺の息を吐き出すようにそう言った。
意外と、と言っては申し訳ないが意外と辛抱強く、リズリーアが休みたいと口にしたのはこれが初めてだ。
先頭でセレスティが、太陽の光が残っている方角を見つめる。
「確かに。そろそろ野営できそうな場所を探しましょう。あまり暗くなり過ぎると道を外れかねません」
「そうですね」
足を止めて身体を休めたい。
足の裏が痛くて。
休む、と聞いたせいか、オルビーィスはラウルの肩に降りてきた。
(おっと)
かなり重量を感じて、ラウルの右肩は一度下がった。
(もしかして、負担かけないようにしてくれてたのかな)
かわいい。
「本当は視界の開けたところが良いのですが、さすがにここでは叶いません。道が広がっているところがあれば、そこで」
セレスティの言葉に被せるように、細く長い咆哮が聞こえた。
遠くからだ。
「なに?」
リズリーアが杖を体の前に引き寄せ、ヴィルリーアがリズリーアの側に身を寄せる。
応えるように、もう一つ、遠吠え。今度は低く。
「お、狼……狼だよっ」
「そりゃ普通にいるな。まあまだ遠い。もっと上の方だ」
グイドは目を細め、その姿から方向の位置と周囲の様子を探っているのがわかる。
「まだ遠いって……ち、近づいて来たりしないの」
「近付いても来るだろうなぁ。そろそろ狩りの時間だろう」
「ええ、ヤダ」
「それ込みでこの森に入ってんだよ、俺達は」
続くリズリーアの抗議を背中に流しつつ、グイドはセレスティとラウルに近付いた。
「ここらは高木がまだある。ここで野営を張ろう。もっと登ればその分樹高が低くなってくるからな。退避できる木のあるところで一晩過ごした方がいい」
グイドの言うとおりで、この場所でも登り始めより樹々の背が低くなっている。
「はい、そうしましょう」
この場を野営地と決め、ラウルとセレスティは早速、手頃な枝ぶりの木の間に縄と防水布を渡し始めた。
雨が降るかは分からないが、念のための屋根代わりだ。
『上から猿が降ってくるのも避けられるしなー』とヴァースがのんびり言っている。
「もうあれ、ホントやだ!」
昼食の恨みを思い出したリズリーアが杖をぶんぶんと振っている。
屋根を張った後は焚き火用に下草を刈り、落ちている木の枝を拾い集めた。
その間も時折、狼の遠吠えが聞こえた。
少し近付いたようにも思う。
「早めに食糧を胃袋に入れてしまいましょう」
途中で捕えていた兎を捌き、香草と塩を加えて煮込む。
セレスティが手早く夕食を準備する間、ラウルとグイドはそれぞれ道の前後を見回ることにした。
ラウルは今通って来た方だ。
足元が薄暗くなってきたのでフルゴルを抜いて、その光で周囲と足元を照らしながら歩いた。
「――」
ゆっくり、野営地から二十間ほど降る。
あまり離れるなとグイドから忠告されているので、役割としては本当に念の為の警戒だ。
「猿はもうついてきてない、よな? ヴァース」
『今はいないなー』
「狼もいない?」
『この辺りにゃいないなー』
遠吠えはラウルの耳にもまだ遠い場所に思える。ヴァースの言うとおりだろう。
「他には?」
『まあ――いろいろ』
「いろいろ……危険なものは?」
『まあ――いろいろ』
「いろいろ」
ごくんと唾を飲み込む。
『ま、今は問題ねー。どっちみちその内出くわすかもだしー』
「そ、そう」
オルビーィスがラウルの肩を右から左へ移動する。白い尾が視界で揺れる。
この幼い竜は霧の中だろうがきりふり山の山中だろうが、特にこれといった危険などは感じていないようだ。
「オルビーィス。君の親の気配はする?」
尋ねたがオルビーィスはラウルの目を見て首を傾げるばかり。
「まだ無理かなぁ」
きりふり山の主が竜だったとして、それがオルビーィスの親だったとして、近づけばオルビーィスの存在に気付くだろうか。
それはそれで気を付けなきゃな、と辺りを見回す。
霧の中からいきなり竜が現れたりしたらちょっと、いやかなり恐い。
しかし、とにかく全てが霧に包まれていて、視界は二間あるかないかだ。足元の登山道がなければすぐ迷ってしまいそうだが、とはいえこの霧の中に一人離れていても、ラウルは今の状況では心細さを感じていなかった。
「何かさ、俺一人だけど実質四名っていうか、全く一人な感じがしなくて助かるね」
右手にフルゴル、腰にヴァース、肩にオルビーィス。
完璧だ。
ラウル以外。
「もしかしたら、俺たちだけでくればよかったのかな」
狼の声を聞いてから、そんな想いが浮かんでいた。
狼なんて猿の比じゃない。
子供の頃に襲われた記憶が蘇り、思わず背中がぶるりと震えた。
オルビーィスが首の周りをグルンと一周する。
大丈夫か、と聞かれているようでラウルは微笑んだ。
「俺一人じゃどうしようもないけど、君たちがいたら、何とかなりそうだもんね」
『無理だなー』
あっさり否定された。
『さっきも言っただろ、危険なもんがいねーワケじゃねーんだし、第一俺を使えなきゃ話になんねーんだからよー』
それもそうだ。
ヴァースがいくら優秀でも、ラウルの筋力と体力と技術がついていかないのだから。
「じゃあせめて俺は、みんなの盾になれるくらい役割を」
ぱきん。
と。
枝の折れる音がした。道が降っていく先だ。
はっとして息を潜め、霧の向こうを見つめる。
音はその一度だけで、しばらく息を凝らして待ってみたが続く音はなかった。
「――戻ろうか」
何度目か鳥の鳴き声を聞き、澄んだその音色にどことなくホッとしながら、ラウルは皆がいる野営の場所まで戻った。
その内出くわすんだし、と言ったヴァースの言葉通り。
野営地が襲撃を受けたのは、すっかり日が暮れて辺りが乳白色の闇に染まった頃だった。
霧の向こうから、遠吠えが響いた。
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