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第4章 きりふり山の冒険

23 きりふり山の白竜


 


 空が翳る。
 落ちた足元への影に気付き、ラウル達は空を見上げた。
 今にも襲い掛からんとしていた人面獣の群れさえも。
 風が煽る。
 見上げた空を切り裂いたのは、翼。
 ゲネロースウルムが戻ったのかと思い、陽光を弾くその鱗の色が異なることに気付く。
「――白……」
 白い鱗。雪のような。
 ラウルは知らず手を伸ばし、肩の上のオルビーィスの鱗に触れた。
「白竜、だ」
 頭から尾までは二間(約6m)、空に広げた両の翼は四間(約12m)に近い。
 つい先ほど目にした鉄色の竜からすれば小さいとさえ思えるが、紺碧の空を背に陽光を受けて輝く姿は、触れ難い威厳を従えている。
「あれが、主――」
 きりふり山の、白竜――
 白竜が頭上を旋回する。
 翼が煽る風が全身を叩く。
 ゲネロースウルムを見た時とはまた異なる畏怖。
 二十頭近い人面獣の群れは再び退き、警戒に身を伏せた。
 白竜が首を巡らせる。
 ラウルはその白い鱗と空色の双眸を見つめた。
 確信している。
 オルビーィスの親だ。母竜。
 ラウルはオルビーィスを肩に乗せたまま、一歩踏み出しかけた。
 声が落ちた。
 ――ここにあったか
 ヒヤリとする響きだった。
 直接音を発したわけではない。
 頭の奥に自然と伝わる意識。

 双眸が炯々と光る。
 白竜は空をゆるりと旋回し、露わになった山肌を睥睨した。
 二十頭もの人面の獣を。
 岩肌と、そこに転がる骨。
 無惨に割れた卵を思わせる。
 青い双眸が怒りを灯した。


 ラウルは白竜につられて視線を巡らせ、改めて、陽の光に照らし出された山肌に、戦慄した。
 先ほどまで霧に包まれていたことを感謝すらした。
 目にしていたら絶望で、剣を持つ手は動かなかったかもしれない。
 やはりここは人面獣の群れの巣なのだ。
 散らばる白い骨。
 様々な獣、魔獣。
 人骨も。
(髪の毛――)
 引き裂かれた衣類はまだ新しい。
 親子。
 子供はまだ本当に幼いのがわかる。
 こんなところまでこんな親子は来ないだろう。どこで攫われてきたか。
 自分達の骸もその中に加わるところだったという恐怖より、憐れみと無力さが勝った。
 竜の両翼が煽る風がラウルの髪を煽る。
 ラウルは再び頭上を振り仰いだ。
 肌に触れる空気が冷えた。

 ――全て

 声。
(――これは)
 駄目だ。
 これは駄目だと、確証もなく、そう思った。
 理由は意思として形作らないが。
(いけない)
 白竜はラウル達を見ていない。
 爛爛と燃え立つ双眸に映しているのは、山肌に張り付く人面獣の群れだけだ。
 そこに滲む冷えた怒り。
 内側にどれほどの凍る奔流が流れているのか。

 ――滅ぼしてくれる

 谷底からの突風に似て、激しい怒りが吹き上がる。
 それがラウル達の身を縛り、声を奪う。
 ここに居る全ての生命を恐怖で縛る。
 それでも瞳は、白竜が全身に纏う威厳と美しさに見惚れてしまう。
 白竜は鋭い牙がずらりと並んだあぎとを開き、そこへ空気を呼び込んだ。
 大気がキンと冷える。
 ひと呼吸ごと、気温が下がっていく。
(駄目だ、俺達、ここで死ぬ)
 次に吹き荒れるのは、竜の息吹き。
 オルビーィスの息は人面獣を凍り付かせた。
 母ならば、その息もおそらく氷。
(失敗しちゃったなぁ)
 ただ淡々と、そう思った。
(俺一人で来るんだった――あ)
 肩に視線を下す。
 オルビーィスは白い鱗の連なる首を精一杯伸ばし、さきほどと同様目を丸くして空の白竜を見上げている。
 オルビーィスは、竜の息吹を耐えるだろうか。
 せっかく会えたのに。
「――オ」


『オルー!』

 ヴァースが叫ぶ。

『母ちゃんだぞ!』

 瞬きほどの空白の後、ラウルの肩からオルビーィスが飛び出した。
「ピイ!」
 今まさに死の息を放たんとしている白竜の視線の前に飛び込む。
 ラウルは届かない手を伸ばした。
「オルビーィス!」

「ピイ!」
 オルビーィスは小さな――白竜に比べれば葉っぱのひとひらほどに小さな翼を、懸命に広げた。


 ――おかあさん!


 ラウルはあの日のこと思い出した。
 くらがり森の中、きりよせ川の川辺で、卵を拾った日を。
 割れた卵から転がり出てきた小さな竜。
 懸命に、叫んだ呼び声。

 ”おかあさん“

 母を求める声。
 だからラウルは、ここへ来たのだ。
 オルビーィスを、母親に会わせるために――


 白竜の青い双眸が小さな小さな竜を捉える。
 その存在を確かに認めた。

 ――おまえは

 喉元まで膨れ上がっていた光が、一段、光度を落とした。
 太陽を背に一点で羽ばたきながら、鼻先をオルビーィスへと寄せる。
 真っ白な鱗は同じ。

 ――私の子

 ――生きていてくれたのか

 ラウルの耳に、そう届いた。
 安堵と、驚きと。
 深い、湧き起こるような喜び。
 帰ったのだ。ようやく。
 空に溶けるような二つの白い影を、ラウルはただ見上げていた。

 ――失ったと――、そう思っていた……

 不意に起こった風に押され、ラウルは思わずよろめいた。
 二十頭もの人面獣が一斉に、地上から飛び立った風に押されたのだ。
 空の中で人面獣は円を描き白竜を取り囲んだ。
 二者が対立しているのだと、改めて分かる。
 白竜がこの場所に現れた理由は。
「ええと」
 それから、おそらくだが――ゲネロースウルムがここへラウル達を呼び込んだ理由。
「霧を払ってあいつを呼び寄せたのか」
 グイドが独り言に近く呟く。
「――そうです、たぶん」
 オルビーィスの母親を、ここへ呼ぶためだ。
 何でそんなまどろっこしいことをするのか、分からないが。
 二者の煽る風が見上げて立つラウル達を左右に押すようだ。
 白竜の全長は二間(約6m)あるが、人面獣もそれぞれが一間近い。それが二十頭も周囲を囲めば、白竜でさえ形成不利に思えた。
「あっ」
 オルビーィスが白竜の前に飛び出した、と思った瞬間、かっとその顎を開いた。
 白い塊と思える息が流れ出し、正面にいた人面獣を一頭、薄い氷が包む。
 氷の息吹を受けた一頭はラウル達の斜め前へと落下した。
 同時に氷も砕け、身を起こす。
 飛び立とうとしたその翼を、セレスティの剣の一閃が断った。更に剣を返し、首に突き立てる。
 主戦場は依然として空だ。
 人面獣の囲みが再び縮まる。
 だが白竜は人面獣を見ず、驚いた眼差しをオルビーィスへ向けていた。

 ――まさか、もう息吹きを吐けるとは

 そう言うと、白竜は頭を高く持ち上げ、ゆるりと揺らした。
 ラウルにそれは、微笑んでいるように思えた。
 幼い子どもの他愛のない仕草に微笑むように。

 ――見てごらん

 告げて、白竜は再び、喉の奥に風を呼び込んだ。
 光が喉に透けるように集まる。
 肌を凍らせる威圧。

 ――我等の息は、こう吐くのだ


 光条に似て、白く輝く氷風が迸る。
 取り囲む魔獣の群れへ、白竜の息吹はぐるりと巡った。
 地上のラウル達へさえ、冷気が質量を持って肌を叩く。
 白竜の息吹を受けた人面獣の群れは、真っ白な大理石を彫り上げたかの如く凍りつき、次の瞬間、粉々に砕けた。












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2023.10.8
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