ヴィルリーアの――ゲネロースウルムの詠唱が呼び起こした激しい風が大岩すら持ち上げ、吹き飛ばす。
人面獣が一頭、岩に頭を砕かれ、斜面を転がり落ちていく。
吹き荒れる風の激しさに、回避の動作すら叶わない。
ラウル達はそれぞれ地面に剣を突き立て、必死で伏せていた。身体を掠め石や岩が飛んでいく度寿命が縮まる。
目を強く閉じ、三十か、四十を数えただろうか。
実際にはもっと短かったかもしれない。
辺りは無音になった。
耳が痛いほどだ。
ラウルはそっと目を開け、ぼやけた視界に地面を捉え、それからおそるおそる顔を上げた。
真っ白だった。
輝くばかりの白。
ただ一つ、ぼんやりとした影――
目が痛いほどの白の中に、一人、ゲネロースウルムだけが悠然と立っている。
「――痛」
力を込め過ぎて強張った身を起こし、ラウルは、真っ白に見えたのは強い陽光が降り注いでいるからだと気がついた。
霧がない。
あの強い風に全て吹き飛ばされてしまった。
それから。
「――きりふり山」
日頃、麓のくらがり森から見上げていたきりふり山の山頂が、左斜め奥にある。
「え?」
首を巡らせれば今いる斜面の山頂は少し低く、きりふり山の山頂を背後に背負っている。
ならば自分達が今いる、ここは。
「きりふり山じゃない?!」
「嘘ぉ!」
「何と」
リズリーアやセレスティの声が重なる中、思考がまとまる前に、ラウルは独り立つゲネロースウルムを見た。
グイドが身体を起こし、驚いた顔で――そしてどこか確信的に、ゲネロースウルムへと視線を向けていた。
きりふり山を登っていたはずなのに、いつの間にか、おそらく、隣の山へと移動していた。
今朝、霧を抜けた時は確かに、きりふり山の斜面だった。
案内したのは。
「――何のつもりだ」
低く、問い糺したのはやはりグイドだ。
先ほどの風など心地よい微風だったとでもいうように、ゲネロースウルムは涼しげに微笑み返す。
「すぐに分かるよ。だが今はそれどころではないだろう?」
微かに光る眼差しを向けた先――、地面に伏せていた人面獣達が、身を起こしている。
ざっと見た数は二十頭近い。
烈風に巻かれ本能的に怯えていた魔獣達も、まだ獲物が自分達の輪の中にいることに気がついたようだ。
低い唸り声が湧き起こる。
「ヴァ、ヴァース」
『うおー、派手な風だったけど状況何も改善してねぇなー』
呑気だね!? と言いたくなる声が返るが、ラウルの腕はヴァースを握りすっと持ち上がった。
ヴァースの言うように、あの風が魔獣達を全て吹き飛ばしてくれていれば良かったのに。
「チッ」
グイドの舌打ちが代弁している。
「何の為の風だ。腹が立つ」
グイドのぼやきを笑い、ゲネロースウルムは一歩、前へ進み出た。
輪を縮めようとしていた群れは、圧されその輪を再び広げた。
魔獣達は目に見えて、ゲネロースウルムを恐れている。
当人はどこか――空を、見上げていた。
青く澄み渡った空を。
「ゲ、ゲネロースウルムさん、力を貸してください」
お食事の時間では?
「ゲネ姉様」
お姉様。
「私の目的は果たした。これ以上は具合が悪くてねぇ。これで私は消えるよ」
「えっ」
「姉様?」
お姉様?!
ゲネロースウルムの身体が揺らぐ。
唇が淡く笑みを刷く。
身にまとう瀟洒な絹が揺れる。
「待て!」
グイドが矢を掴み、鋭く投擲する。
地面に突き立った時には、ゲネロースウルムは空へ舞い上がっていた。
青い空の中、その姿が変わる。
砂の城が崩れるように溶け、砂が広がるように広がる。
長い尾。
長い首。
二対の翼。
鋼玉のような、灰黒色の艶やかな鱗。
「竜――!?」
見上げる空を翼が埋め尽くす。
「何て、大きさだ」
十間(約30m)は優に超えるだろう、巨大な竜だ。
人面獣達が一斉に伏せる。
竜は翼にぐうっと風を掴み、音を立てて旋回した。
「ぴー!!!」
ラウルの肩で、オルビーィスが高い声を上げる。ラウルの心の中にオルビーィスの驚きと興奮が伝わってくる。
――あれはなに?!
まんまるに見開いた水色の瞳へ、鉄色の竜の銀色の双眸が束の間注がれた。
翼は止まることなく――
鉄色の竜は山脈の連なる東の方角へと飛び去って行く。
「ピィ! ピィピィピィ!!」
オルビーィスが興奮し、ラウルの肩の上で飛び跳ねている。尻尾が背中にバシバシ当たってちょっと痛い。
「お、落ち着いて」
――あれはなに、あれはなに、あれはなに!?
「りゅ、竜だよ」
――竜!
「君と同じ」
――おなじ!
自分と? と繰り返し竜が消えた空とラウルを見る。
驚き興奮している愛らしさにラウルは状況を忘れて微笑ましくなった。
「うんうん。そうそう。でも、でもね」
今は、詳しく教えてあげている暇がない。
「まず、目の前の人面獣を何とかしないとね……っ」
『うおー、派手なご登場だったけど、ご主人達にとっちゃ状況何も改善してねぇなー』
うん。
その通りだよヴァース君。的確な指摘ありがとう。
竜の出現に恐怖し身を固めていた人面獣は、今はもう身を起こして改めてラウル達を取り囲んでいる。
彼等に竜は脅威だったが、ラウル達は依然として餌だ。
ゲネロースウルムがいなくなった今、もう形勢をひっくり返す術が思いつかない。
「と、とりあえず、仕切り直しで、みんな、この場をなんとか切り抜け――」
空が翳った。
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