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第4章 きりふり山の冒険

21 猛き風 


 


 リズリーアの声に慌てて振り返ったラウルは、横たえていたオルビーィスを視界に捉え、その瞳を見開いた。
 真っ白だったオルビーィスの躯は中身を失った紙風船のように、くしゃりと地面に、リズリーアの膝の前に落ちている。
「オ――ルビーィス……」
 何が起きたか一瞬、掴めず、だが頭の芯が理解していた。
 半透明な――抜け殻・・・
「ラウル、前を向け! 障壁が切れるぞ――!」
 顔を戻した目の前、障壁に張り付いた人面と、向かい合った。
 頬を裂くように吊り上がった嘲笑。
「っ」
 リズリーアの張った障壁が、蝋燭の最後の揺らぎに似て、一瞬光を膨らませた。
 弾ける。
 剣が鳴る。共鳴。
『ご主人――!』
 ラウルはヴァースを構えたまま踏み込み、人面獣の額へ突き出した。
 ラウルと三角形を描くように、セレスティ、レイノルドが剣を振り抜く。
 ヴァースの切先は捉えた額を貫き、ノウムは余波で地面ごと人面獣の躯を断ち、フルゴルが輝き裂いた魔獣の向こうにいた数頭へ光を突き刺す。
 同時に――
 空から吹き下ろした風――風というには質量を有した塊が、ラウル達の周辺を渦巻き巡った。
 凍る感覚が遅れて肌に届く。
 十頭近くいた人面の魔獣は、瞬きの間に氷の彫像と化した。ラウル達以外、ここに動くものがいたことが嘘だったかのように。
 ラウルは息をのみ、だが、驚いてはいなかった。
 驚きではなく、心の奥底からゆっくりと湧き起こる感情がある。
 風が髪を煽り頬を撫でる。
 翼の音。
 ふわりと――
 ラウルの肩に降りたのは――、白い竜だ。
「オルー!」
 喜びに声を上げ、それからラウルは思わずよろめいた。
「ちょっ……っ、重っ」
 足を滑らせ尻餅をつく。
 小石がなかなかに痛かったが、それも意識に残らず、ラウルは腕を伸ばしてオルビーィスを抱きしめた。
「オルー! オルー、オルー、オルー、オルー!」
 冷えた艶やかな鱗の、確かな手応え。
 長い首を巻きつける、いつもの仕草。
 一回り、大きくなっただろうか。
「ピイ」
 甘えて鳴いた声がやや低く、それが少し可笑しかった。
「はは……」
 喉が震える。
 良かった。
「生きてたんだね、君――」
 良かった。
 本当に。
「――良かった……」
 頬を涙が伝い、溢れる。オルビーィスの舌がぺろぺろと舐めるのがくすぐったい。
「オルーってば」
『ご主人』
「喜んでいるところ悪いが、まだ安心できない状況だ」
 はっとして、ラウルは顔を上げた。
 喜びにすっかり気が逸れていたが、まだ危機を脱していないのだ。
「増えてる」
 震える声はリズリーアのもの。
 ラウルはオルビーィスを肩へ移らせ、ヴァースを構えなおした。
 まるで意識を安堵と喜びから不安と絶望へ、長い瓶の中に入れて乱暴に振られているかのようだ。
 周囲を囲む霧の中から、更に。
 人面獣が集まってくる。
 先ほどよりもずっと多く、おそらく二十頭近い。
「まだ――」
「嘘でしょ」
 ぎし、と何かが擦れる音がして目を向けた。
 オルビーィスの吐いた息吹きで凍りついた人面獣の足元に、光る何かが幾つも散らばり落ちている。
 氷の欠片。
 ぎし、と再び氷の彫像が軋む。
 光るかけらが落ちる。
「レイ、あれ、氷、割れかけてる……?」
「いちいち確認するな」
『割れかけてるなー。それにヤバいぜー、気配がまだある』
 ヴァースが有り難くないことを言う。
「も、もう何度も覚悟決め過ぎて、覚悟在庫切れなんだけど」
「お前の剣だったら有り余ってるんだけどな」
 一言多いんだよ君は。
 グイドが心底うんざりしたように息を吐く。
「どれだけいやがるんだ。そもそもきりふり山には、こいつらの存在は」
「巣だからねぇ」
 答えたのは楽器的な麗しい響きだ。
「おま」
「姉様!」
 いつ現れたのか、それまでどこにいたのか、ゲネロースウルムがラウル達の間に立っていた。
 グイドが視線を魔獣達に向けたまま短剣の切先を、ゲネロースウルムへと据える。
「お前は、何の為に――」
「私はこの巣を、探していたんだよ。常に霧の中に隠し惑わすから」
 柔らかく微笑み、グイドの向けた短剣へ近付くと、その横を抜けた。
 ラウルは人面獣の様子が変わったことに気が付いた。
 強い警戒。
 囲んだ輪を縮めるどころか、僅かに退いている。
 彼等が警戒しているのは間違いなくゲネロースウルムの存在だ。
 ゲネロースウルムはリズリーアの前へ立つと、まだ瞳を閉じているヴィルリーアを覗き込んだ。
「ヴィルリーア」
 ヴィルリーアはふっと目を覚ました。
「――ここ――、僕は……」
「ゲネ姉様!」
 リズリーアの抗議含みの声に微笑む。
「大丈夫だよ」
 思わず納得してしまうほどの優しく誠実な響き。
「ねえ、ヴィルリーア。お前はリズリーアを助けたいだろう?」
 ヴィルリーアは視線だけを持ち上げ、さらりと流れ落ちる絹糸の如き銀髪と、美しく微笑む面を見た。
 戸惑いながらも、ヴィルリーアがはっきりと頷く。
「助けたいです。何をすればいいですか」
「ヴィリっ」
「さっき渡した巻物を。今がちょうど使い所だ」
 ヴィルリーアを助け起こすと、背後を支えるように立ち両肩に手を置く。
「えっ、で、でも、無理です、あんな大きな」
「できるさ」
 ゲネロースウルムは微笑み、耳に唇を寄せ囁いた。
「できなければみんな死んでしまうよ」
「――っ」
「私の後に続いて唱えるといい」
 おずおずと巻物を取り出すヴィルリーアの右腕に、背中から伸ばした腕を添わせる。
 手のひらで杖を握る右拳を包んだ。
 銀の鈴が滲むように光を含む。

『風よ』

 ヴィルリーアはゲネロースウルムが囁く微かな声を拾い、繰り返した。
『か――風よ』
 ゲネロースウルムの声に一拍遅れ、ヴィルリーアの詠唱が重なる。

『麦を鳴らし、花を芽吹かせ、樹々を揺らし、水面みなもを波うたせるもの』

『地を巡り、空を回し、全てを払い、拭い、清めるもの』

 ヴィルリーアの身体を取り巻き、風が吹き上がる。白い法衣をはためかせる。
 ラウル達は――リズリーアも――ただ息を呑んでそれを見つめていた。
 ゲネロースウルムの視線は正面に、取り囲む人面獣達に向けられている。笑みを浮かべ。
 人面獣の群れには瞬きの動きすらない。
 詠唱は続く。

『命を運び、終焉を運び、途切れぬ連環をなすもの
 その猛きたっとき息吹きよ』

 ヴィルリーアは何かが足元から膨れ上がるのを感じた。
 それは力だ。
 ヴィルリーアには制御しきれない、何か。
 人のわざには収まらない何か。
 恐ろしい、それ――
 こんな力は無理だ、という意思に反し、ヴィルリーアの口から零れ落ちたのは、ゲネロースウルムの綴る言葉。
 詠唱、呪言のどれとも異なる、初めて聞く響き。
 まるで自分ではない。


永遠を巡らせるものアイエーティウルム


 全身を千々に吹き散らされると、そう思った。
 恐ろしかった。

『息吹きよ、ここに秘したるものを吹き現わせ』


 突風ですら表現しきれない――
 全てを薙ぎ倒し運び去ると思えるほどの、激しい風が吹き荒れた。
 荒涼とした山肌を削り、巻き取るように。
『ご主人、おれを地面に突き立てろ!』
 意味を考える間もなく、ヴァースの声に叩かれるように、ラウルは夢中で剣を突き立てた。
「みんなも、剣を――!」
 レイノルドがフルゴルを突き立て、片手でグイドの腕を掴み地に伏せる。
 セレスティは双子を抱え、ノウムを深々と斜面に突き立てた。
 地表を剥がすが如き風が山肌を吹き荒れる。
 小石が吹雪の如く舞い、一抱えもある岩が浮き上がった。







 遥か――
 きりふり山から二千里離れた、王都で。
 若き王は黄金の瞳を上げた。
 北東の方角へ。
 王の僅かな気配の変化に気付いたのは、控えていた近衛師団総将だ。
「陛下――?」
 王の瞳はじっと、ただ執務室の東の壁、一面を埋め尽くす書物に向けられているようにも見える。
「如何なさいましたか」
 すぐに柔らかな銀髪を揺らす。銀糸の髪は室内に差す淡い陽光を纏っている。
「ああ。いや――。大事ない」
 風が膨れたが、もう消えた、と。
「風――」
 呟きのその響きに、若き王は注がれる双眸を見つめ返した。
 安心させるように笑う。
 十二歳を迎えてふた月、まだ柔らかさを残しながらも日々備わっていく風格は、着実に前王へと近付いている。全てを見通すと言われた双眸も。
「北東の山の、いずれかだ」
「調査致しますか」
「ふむ。それ自体に・・・・・意志は・・・感じられなかった。彼の風・・・を見たそなたの目で、この瞬間、確かめていたら判断はつきやすかったのであろうが」
 王は首を傾げ、彼の剣士へ微笑み、頷いた。
「まあ私の見たところ、そなたが憂えるものではないだろう」







 そしてまた、もう一つ。
 きりふり山の山頂で、伏せられていた青い双眸が開いた。
 憂いに満ちていた岩屋に、キンと凍る風が吹き込む。
 白竜は長い首をもたげ身を起こし、真新しい雪原の如き翼を震わせる。
 ずっと寄り添っていた、割れてしまった二つの卵の殻を見下ろし、白竜は飛び立つために岩谷の出口へと進んだ。









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2023.9.3
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