風が霧を押し、押された霧は重く動いた。
重なる葉先をゆるりと揺らす。
滅多に無い侵入者の気配に、森は敏感に気付いていた。
目。
浮かび上がる無数の双眸の一つ一つが、白い霧の奥から、乳海を掻き分けるように進む一行へと注がれていた。
「ほとんど見えないけど、この方向で合ってるのー?」
リズリーアが空元気に張った声も、霧はすぐ飲み込んでしまう。
彼女が持つ杖の先端には、白く輝く明かりが灯っていた。リズリーアが法術で灯したものだ。「フルゴル灯す?」と聞いたがリズリーアが自分でやりたがった。
進むごと霧を縫うその光も、乳白色の微細な粒子の中にすぐに拡散していく。
「登山道は一つだ。この道を辿る限りは方向は合ってるだろう」
「本当に? もう、全然周り見えないし、早くこの霧抜けたい!」
「まだ入ったばかりだよ、がまんだよ……」
「本当に霧が濃いですね。喉が乾かないのは助かりますが」
会話を聴きながらラウルは辺りを見回した。
登山道も樹々の枝葉も二間(約6m)ほど先までなら見えるが、その先は白く覆われている。
霧が肌を冷やし、衣類や髪もしっとりと重さを増したようだ。
何より、きりふり山の登山道に入ったと、そう意識しているせいか、森の空気がガラリと変わったように思えた。
太陽は霧の向こう、ほぼ天頂に、ぼんやりと球体の形を浮かべている。
登山道に入り半刻も経つと周囲は霧に覆われ、進むごとに濃さを増していった。
「中腹まで行けば抜けるさ」
宥めつつ、グイドは視線を時折四方へ配っている。
霧の中に入って空気を変えたのはグイドも同じだった。
(歴戦の弓の名手、狩人の空気――)
グイドがその空気をまとったというこたは、今までと状況が異なることを意味しているのだ。
自然ラウルの身も引き締まった。
「セレスティ、前方はどうですか?」
「今のところは問題ないと思います。と言っても視認性が悪すぎますが」
先頭を歩くセレスティの銀の冑には、早くも露が光っている。胴鎧のあちこち凹みがある表面や、手甲などの革製の防具にも。
頬にざらりとした感触が当たる。オルビーィスがラウルの頬を舐めた、舌の感触。
オルビーィスは霧が興味深いのか先程からラウルの肩に降りたり飛んだり、肩にいる時は舌を出して霧を舐め取ろうとしている。
ラウルの頬もこうやって何度も舐めるので、水が欲しいのかと水袋の口を開けてやるが、そうではないようだ。
(何でも興味深いお年ごろなんだな)
ふいにヴィルリーアが張り詰めた声を上げた。
「リズちゃん!」
びくりと飛び上がったのはリズリーアだけではなくラウルもで、ヴィルリーアを振り返る。
「どしたの?!」
リズリーアがヴィルリーアの右手を握る。
「か、影が、向こうを通ったよぅ……」
「影?」
ヴィルリーアが指差した方は、道の左右に広がる樹木の姿も覆ってしまうほどの乳白色の霧が溜まっている。
霧が晴れていればおそらく、今までと変わらない森が広がっているはずだ。
おそらく
ぞく、と、ラウルは背筋の寒さを覚えた。
本当に森が広がっているだろうか、この向こうに。
もしかしたら、樹々は何もなくて、それに模した何か、違うものが満ちているかもしれない。
自分の意識が外へ広がっていくように感じられる。
霧の奥。
少し離れたところ、に。
何か――
何かがいる。
「――ううん。ごめん。何も、いない、かも」
ヴィルリーアの言葉に現実に戻り、ラウルは首を振った。
耳を澄まして聞こえるのは風の音、それから細い鳥の鳴き声。それだけだ。
「もう行っちゃったかな」
リズリーアはそう言ってヴィルリーアの両手を自分の手で包んだ。
ヴィルリーアが見たというなら気のせいなんかではなく確かに見たのだと、空色の目が主張している。
「鳥とか、栗鼠とかだよ」
「――まあ、この中、気配は幾らでもあるしな」
「えっ」
ラウルは驚いてグイドを見た。
「動物は何にもいないのかと」
ラウルには何も感じられない。
そう、先ほどの感覚は気のせいだった。
「この森で何もいない訳がねえ」
「で、ですよねー」
頷き、ヴァースへ視線を落とす。
「どう? ヴァース」
『んー。気配がごちゃついてるな。けどいるぞー。おっさんの言う通り、こんな森だしな』
「そこは三千万年歳下の扱いしてくれないのかよ」
軽口を言いつつグイドは一旦周囲を見回した。
下ろした左手には弓を握った状態だ。
矢筒からは引き抜きやすいように矢が一本、他の矢よりも上に矢羽を出している。
(そう言えばグイドさん、霧の中に入ってからずっと弓を手にしてる)
『影とか気配を一つ一つ気にしてたら進めねーし、まあ大抵はほっときゃいいものばっかだしー』
ほっとしかけたラウルに、ヴァースは変わらない調子で告げた。
『でも幾つか、ついてきてるぜー』
「ついて……?」
きゃあっとヴィルリーアが小さく悲鳴を上げ、元々目深に被っていた真っ白な頭巾を両手で一生懸命引き下げている。
リズリーアはその背中をさすった。
「大丈夫だってば、ね、ヴィリ。ちょっとヴァース、ヴィリを脅かさないでよ」
『事実だしー』
「ヴァース、何が付いてきてるんだ?」
『そこまで分かんねーなー。おっさんはー?』
グイドは首を傾けた。
「俺もそこまで分からん。けど、それなりの数だな」
「それなり……?!」
何それ不穏。
それについてくるとか聞いてない。
(じゃない)
セレスティが剣を引き抜いたのを見て、ラウルは本格的に背筋が冷たくなった。
「こっ」
これは――本当に、本当の、冒険だ。
怪我だってするかもしれない。
「ど、どうしましょう」
「どうって、進むしかない。戻ったって目的果たせねぇんだから」
「そうですがっ」
自分が彼等を連れて来たのだ。
怪我などしてほしくないし、そうならないようにする責務がラウルにはある。
「あの、我々に対処できる範囲ですか?」
「まあ」
グイドは黙った。
ラウルはじっと見つめた。
グイドの目がセレスティ、双子、ヴァース、オルビーィス
「――」
それからラウルへと移る。
「まあな」
もしかし――なくても俺が一番不安要素ですねー?!
と、ラウルは心の中で鎮痛な叫びを上げた。
『気にすんなってー。ご主人がへっぽこなのははじめからだしー』
「心読まないでー!」
「どうする? なんなら一旦引き返すか? この先危険しかねぇが」
グイドの声はラウルの臆病を軽んじている様子もない。
「まあかと言って、この霧が晴れるってことはそうそう無いけどな」
淡々と。
このまま進めば当然起こり得ることへ向かって、進むかどうかを尋ねているだけだ。
ラウルはセレスティや双子の視線を捉え、それから肩のオルビーィスを見た。
オルビーィスを帰すことが目的だ。
ここで引き返しても、グイドの言う通りきりふり山から霧が消えることはなく、霧が消えたとしてもこの森が危険の無い場所になる訳ではない。
オルビーィスはいずれ大きくなる。このままラウルの小屋にいれば、オルビーィスが何もしなかったとしても、いつか軍が討伐に出動する事態にならないとも限らない。
臆病風に吹かれてばかりいられない。
「――すいません、すぐに怖気付いて」
「初めは誰でもそんなもんだ。気にするな」
「も、目的はオルビーィスを帰すことですから」
痛い。
抗議の甘噛みがそれなりに痛い。
思い切り顎を広げてラウルの後頭部をがじがじしているオルビーィスを抱き上げ『頭を噛んではいけないよ』と諭しながら、ラウルは
「進みます」
と声に力を込めた。
「セレスティ。前の警戒をよろしくお願いします。リズとヴィリは、法術はすぐ使える?」
「風切りなら、詠唱にゆっくりふた呼吸欲しいです……」
杖が補助してくれますが、と白い杖を見上げる。
「あたしのはもうちょっと長いかな。でもそもそも戦闘後だから役に立つの」
「それくらいの時間なら俺とセレスティで作れるな」
「お任せください」
最後にセレスティが頷く。
ラウルも頷き返した。
「グイドさん、後方と全体を、お願いします」
「任せとけ。刺激したくねぇし矢も温存したいから基本様子見だがな。ただ射つときゃ射つ。なるべく声をかけてから射つが」
緊急時は射つのが先になる、と続ける。
「はい。ヴァース、警戒よろしく」
『おれ様に任せとけー』
気を取り直し、ラウルはいつ何が起きてもいいように身構え――たつもりに本人的にはなり――ながら、霧の中の道を進んだ。
それら――その群れは、森の樹々の枝を、漣の音に似た静かさで渡っていた。
追っていたもの――彼等の獲物は立ち止まり、警戒しているのかしばらくの間動かなかったが、また緩い斜面を登り出した。
乳白色の霧が常に漂うこの森は、棲息する生物も通常より聴覚と嗅覚が鋭敏だ。
滅多に入り込まない『人』の匂いは異質で、すぐに分かった。
何より――彼等の中に微かにある、芳醇な香り。
それはある時急速に、その香りを高めた。
群れの一頭が、樹々を渡る動作を止め、顔をもたげて流れる霧を嗅ぐ。
群れ全体が動きを止める。
周囲はつかの間、ゆるい風が枝葉を揺らす、樹々の騒めきだけになった。
数呼吸後。
唐突に、そして一斉に、群れは枝を鳴らして駆け出した。
「結局何にもないままお昼になったねー!」
お腹空いた! とリズリーアが自分の背嚢から今日の昼食を取り出す。小分けに三日分、用意した干し肉とパン、それにチーズ。
量はそれほど無いが、パンに薄く削いだ干し肉とチーズを挟むと見た目と香りが空腹を刺激する。
「いっただっきまー」
霧の向こうが俄かに騒がしさを増した。
瞬間、リズリーアの手元に、何かが落ちる。
「ぎゃ」
黒い塊――
見下ろしたリズリーアと目が合う。
小さな、二つの目。
白目は無く色素が薄く、黒い点のような瞳孔。
毛に覆われた長い四肢と短めの胴。
固まったリズリーアをよそに、それは素早く動いた。
リズリーアの干し肉を両手に掴んで。
凍り付いていたリズリーアは、それが膝から地面に飛び降りてようやく、叫び声を上げた。
「――っ、ぎゃーーーー!!!! さ」
「猿か」
グイドの矢はすでに番えられ、鋭い矢尻は猿を追っている。
「猿かじゃなーい! あたしのお昼! 取り返してっ」
「リズちゃ……」
駆け寄ろうとしたヴィルリーアの正面に、また黒い塊が落ちる。
同じく猿だ。
ひと呼吸もなく、樹上から次々と、木の葉とともに猿が降って来た。
その数、十――二十、いや、三十弱。
地面に降りるが早いか、騒がしい鳴き声を立てて休憩場所を縦横に駆け回る。
リズリーア、ヴィルリーア、セレスティの身体でさえもお構いなしに飛びつき、駆け上がった。
「きゃあ!」
ヴィルリーアはリズリーアに抱きつき、覆い被さるように倒れた。
「ぎゃー! ぎゃー! ぎゃー!」
倒れた双子達を猿が無情に踏みつけ踏み越える。
「ヴィ、ヴィリ、風切り……っ」
「多すぎて、むり、だよう……」
猿がヴィルリーアの握る杖を掴み、思い切り引っ張る。
「わー!」
「リズ、ヴィリ!」
「二人とも待ってて、今」
「足を止めて、荷物を抱えろ」
グイドの冷静な声が耳を捉えた。
ラウルは考える間もなく自分の荷物を掴んで身体の前に抱えた。
グイドの弓に、矢が三本、番えられている。
「誰も動くな。威嚇する」
直後、グイドの右手から弦が離れ、空気を叩いた。
三本の矢が擦過音を鳴らし、三方向に突き立つ。
地面、左右の木の幹。
猿達の動きがぴたりと止まった。
「まだそのままだ」
グイドは再び、三本の矢を番え空へ向けた。
ひと呼吸で放たれた矢はほぼ垂直に打ち上り、一旦霧の向こうに消える。
矢は放物線の頂点に達すると、向きを変え、落ちた。
三方に広がる。
ラウルの横、双子の前、セレスティの足元の地面に音を立て突き立つ。
凍り付いていた猿達は、矢が突き立つ音に恐怖し、霧の立ち込める樹々の向こうに一目散に逃げ込んだ。
打って変わった静寂が場を包む。
セレスティが息を吐き、抜き放っていた剣を鞘にしまった。
鞘と鍔が重なる音に、ラウルも、リズリーアとヴィルリーアも夢から覚めたように、ようやく身動ぎした。
「何と」
セレスティは足元の矢を回収し、グイドへ手渡した。
「驚きました。グイド殿の弓の腕、聞きしに勝る」
感心しきりにそう言い、猿達が散って行った森を見回す。
「ただの群れのようでしたが」
「人にそう害は無いが、数が厄介だな。それぞれ盗られたものがないか確認しとけ」
リズリーアがハッと背を伸ばす。
「あたしのお昼!」
広げていた布は乱れて地面に落ちて土にまみれ、干し肉、パン、チーズ、全て持ち去られている。
「最低ー! チーズと干し肉挟んだの好きなのにぃ!」
「リズちゃん、僕のあげるから……」
「大丈夫。それはヴィリのだもん。ヴィリが食べるの」
「いいの、二人で……」
振り返ったヴィルリーアの背嚢は、一部が裂けて中身が転がり出ていた。破られた布の破片が霧に揺られふわふわと地面を動いている。
慌てて探ったヴィルリーアは、目に見えてがくりと肩を落とした。
「な、無いよう……」
「えっ」
「……食糧?」
ヴィルリーアが頭巾の下で頷く。
「食糧だけ、全部……です……」
確認した被害はリズリーアの昼食、それからヴィルリーアの背嚢と三日分の食糧。
それだけだったのが幸いだ。
破けた背嚢はとりあえず毛布で覆って縛り、ラウルのものと交換した。
今日の分の昼食を分け合って食べた後、騒ぎから半刻で一行は出発した。
リズリーアは自分とヴィルリーアの食糧を盗られたことに腹を立て足取りが荒い。
「あいつら、絶対、今度見つけたら眠りの術かけて全員木から落としてやるから」
きっとグイドを振り返る。
「今鼻で笑ったでしょ!」
「笑ってねぇよ。前向け」
「笑ったっんぎゃつ」
足元の木の根に爪先を引っかけつんのめったリズリーアを、ヴィルリーアが手を伸ばして抱き止める。
「気をつけて、リズちゃん」
「ありがとうヴィリ」
「それにしても、怪我をする事態にならなくて良かった」
セレスティの言葉にラウルも頷いた。
「食糧狙いだろうからまた来るかもしれないですね。もっと気をつけないと」
どうやらあの程度だと、ヴァースの警戒の範囲ではないようだ。
(それと、オルビーィスだ)
十数匹の猿が駆け回り、双子だけではなく一番背の高いセレスティさえよじ登っていたのに、ラウルは一度もたかられなかった。
数匹、ラウルの足元に来た猿はオルビーィスに気付きくるりと向きを変えた。
オルビーィスはラウルの肩から飛び出そうとしていたが、グイドが矢を番えたことで翼を畳んだ。
(あの矢が無かったら、オルビーィスは狩りをしたかもしれない)
オルビーィスの翼が、爪と牙が猿達に掴みかかる様を想像する。猿達は恐れ、混乱して逃げ回る。
それはまだ見たことすらない成竜と、逃げ惑う人々の姿に変わる。
想像の中のその竜は、ラウルが住んでいたロッソの館よりも大きかった。
(まさか。そんな大きさ、四竜ってやつじゃないか)
西の風竜、東の地竜、北の黒竜、南の赤竜。
竜族の頂点とも言える強大な竜に、人がその名を冠したものだ。
それはおとぎ話ではなく、三百年前に風竜が、そしてほんの数年前には黒竜、更に戦乱の中に骸となって甦った風竜が、その姿を現している。
(まさか、この子がそんなふうになったらって、俺は思ったのか?)
ラウルはくすりと笑った。
それは飛躍しすぎだろう。きりふり山の主が四竜とも聞いたことがない。
オルビーィスを見ればラウルの肩に止まり、自分の翼を舌で舐めているところだ。
ラウルの視線を感じて顔を上げ、青い澄んだ瞳を瞬かせる。
愛くるしさしかない。
(でも、そこまでいかなくても、もしかして)
もし、オルビーィスが成長して人を襲ってしまう可能性があるとして。
もしかして、自分が育てて、人を襲ってはいけないとしっかり伝えていけば――というかその方が、結果的に良かったりしないだろうか。
(俺がもっと、森の奥に住んで)
手放したくないからこその勝手な考えだと、ラウルはわかっていたが、それも一つの方策のような気がした。
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